第2話 分岐点
「艦長、入電です。」
伝令の少年兵が無線室から持ってきた二通の電文に思考を遮られた大屋だが、その内容は彼の顔をほころばせるものだった。
一通目は付近を航行中の重巡洋艦高雄と麻耶の二艦が支援に向かっており、到着は二時間後の予定であるというもの。
もう一通は近隣の水上機基地並びに飛行場から上空援護と索敵支援の航空部隊を向かわせるという電文であった。
各地に作られた特設水上機基地を始め、厚木に展開している部隊や中部地方近辺の基地空も行動圏内にある。
敵からしてみれば警戒厳重な敵本土の至近で存在が知られている状況はとかく危険なものであり、そこに十機以上の航空機が上空支援に駆けつければ、再攻撃はかなり難しくなる。
敵の潜水艦長がよほど豪胆でなければ再攻撃を諦めるはずであった。
『艦を救える。』その思いが現実味を帯びた瞬間大屋は大声で叫んだ。
「よし、艦内各員に連絡、何としても消火と傾斜復旧に努めよ。あきらめるな。二時間後には高雄と麻耶が来る。そうすれば艦を救える。何としてもあきらめるな。」
味方の救援が分かったことで艦内の士気は大いに上がった。
同時にそれまで火炎を拡大する一方であった左舷軽質油タンクの火災の火勢が衰え始めた。
出港の前週まで横須賀の海軍工廠で入渠し機関の調整と改装を行っていた『この艦』はその際に化学消火設備を増設しており、それが有効に機能しつつあったのだ。
特に軽質油タンクなど引火性の高いタンクの周辺は今回の整備で新たに設備を追加したばかりであり、その機能は完璧に稼働していた。
むしろ軽質油の爆発によって消火設備の安全装置が自動的に外れ、消火設備が自動起動したのは行幸ですらあった。
化学消火剤が軽質油を覆い、空気を遮断した結果火勢は徐々に衰え、また左舷の破口からの浸水も応急班による必死の作業と反対舷への注水で流入量が減少した結果艦そのものの傾斜も徐々にではあるが復元しつつあった。
喫水は下げざるを得なかったものの応急注排水装置は有効に機能しており、わずかな時間で艦の立て直しは急速に進んでいた。
機関の復旧は未定であったが、高雄と麻耶が駆けつけてこればどちらかに曳航してもらい横須賀へ引き返すか、呉或いは阪神工業地帯の造船所へ向かうことも可能になる。
仮にそれが不可能であっても瀬戸内海や各湾、各泊地には緊急用の浮きドックが常駐している。
これは今回のように緊急に修理が必要になった艦や、軽度の被害の艦を修復するために展開されており、必要に応じて外地のトラック環礁やパルミラなどへも展開されることが想定されていた。
そこにたどり着けば、少なくとも沈没の可能性はなくなる。何より戦艦級の入渠も可能な浮きドックは『この艦』を容易に収容することが可能であった。
これまでの日本海軍では意識されてこなかったダメージコントロールに基づくシステムの整備、乗組員の命がけの奮闘、それらが徐々に『この艦』を立ち直らせていった。
それからおよそ一時間後軽質油タンクからの火災の完全鎮火が副長より報告された。
また飛来した各航空部隊がそれまで警戒をしていた零式水観と協力し上空直援並びに対潜警戒を開始した結果敵潜の再攻撃を阻止することに成功していた。
さらにその後一時間で右舷側の主機は復旧し、三ノット程度という低速ながらも自力航行が可能なまでに復旧した。
左舷の機械室の浸水による水没と発電機の損傷に関しては修復の見込みは立たなかったものの、左舷への傾斜も三度にまで復元し、『この艦』は不死鳥のごとく甦りつつあった。
またその間に海軍省並びに各基地との間で複数の電文がやりとりされ、現在伊勢湾に浮かぶ第九浮きドックへ麻耶が曳航することが決定した。
自力航行可能までに復旧した事を確認した大屋は艦内放送で乗組員たちに呼びかけた。
「総員、よくやった。間もなく高雄、麻耶と合流、麻耶との間に曳航索を連結し本艦は伊勢湾に展開中の第九浮ドックへ向かう。あと少しだ、何としても本艦を沈めずに持ち帰るぞ。」
「おぅ。」
顔を煤で真っ黒にし、防暑服のあちこちに焼け焦げをつくった乗組員たちが各部署で歓声を上げる。
火傷の患者が溢れる医務室や廊下でも苦痛に顔を歪めながらも歓声は上がり、同様の光景は機関区でも後甲板でも見られた。
どの乗組員も『この艦』を守りきったことに涙を流し、延焼で焼け焦げた艦内でいくつもの嗚咽がこだました。
しばらくのち高雄、麻耶の二艦と無事に邂逅した『この艦』は麻耶に曳航され、伊勢湾に浮かぶ第九浮きドックへ入渠することになる。
だがその曳航される姿を水中から見つめる目があった。
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