二十九章



 とはいえ、若藻にじっくりと字を教える暇もなく事態は急転した。肌寒いと感じるようになった時分、突然現れたいかめしい軍兵たちが英霜城になだれ込んで来たのだ。


 気配を察し、筆をっていた少女を背に庇い身構えていれば、荒々しい音とともに隔扇とびらが開き、現れた人物に瑜順は驚く。



「……中樊チュウハン?」

「瑜順!無事だったか!」



 場を揺らすような歓声を上げて男は檻に駆け寄った。

「なぜあなたが?」

「瑜順、よく聞いてくれ。――白鶻しろたかがきた」

 頭の血が一瞬にして下がる。「なんだって……」

 落ち着け、と中樊は柵の間から手を伸ばし両肩に置く。

「事態はなにやら混乱している。何梅カバイさまの指図で征西軍に同行していた八馗はっきは半数が族領へと帰還した。そちらは郝秀カクシュウに任せた」

「残りは」

「お前らを置いて引き揚げられるかい。征西軍も英霜に来ている。剛州州境でとんでもないことになり、征西軍は彬州軍と一時手を組む」

 驚きの連続だが、被せて逞しい腕を掴んだ。

「東は!韃拓ダッタクたちは⁉」

 これにはつれなく首を振られた。「あちらの様子は全く分からん。水虎を使っていないようだ。しかし、こちらに白鶻が飛んできたということはあちらにもおそらく。そのうち領地からしらせが来ると思うぞ」

「では、無事なんだな?」

「絶対、とは言いきれんが。中途まで征南軍が連絡を取り合っていたようだ。ここふた月ほど状況は掴めていない。東から流れてきた民の間では、なにやら妙な噂も聞くが」

「何がどうなっている。説明してくれ」

「もちろんだ。しかし、その前に」


 中樊は身を引き背後の人々に場を譲る。渋い顔をした強面こわもてと穏やかだがどこか疲れたような表情の男二人が連れ立って入ってきた。


「……ちょ将軍、べん将軍……!」

 やあ、と手を挙げたのは壱魴いつほう

「元気そうだね、ええと……瑜順」

「なぜ、御二方がここに」

「まったく、肝心の戦力が欲しい時に使い物にならんな、八馗は。いきなり逃げ帰りおった」

 文統ぶんとうが吐きつけるように言って、まあまあ、と壱魴がなだめる。

「しょうがないでしょう、この状況じゃあ」

「失礼ながら何があったのか、一から説明して頂きたい。なぜ御二方が彬州に?惣州軍との交戦は?南三州と東の攻防はどうなりました」



ぜん将軍二人が裏切った」



 文統は常には感情の乏しい顔の青年が顎を落とした様子をめた目で見返した。

「…………は?」

「我らは惣州の進軍を食い止めるため、泉畿から左軍の一軍を応援に寄越されたが、突如として襲撃に遭った。しかし返り討ちにして迅普武じんふぶを捕らえた。惣州軍は途中で合流した壱魴の征南軍が剛州への侵攻を阻止すべく蹴散らし、今はひとまず後退させている」

えい将が……謀叛に加担を?」

「そうだ。信じられないことだがな」

「……ばかな。それで、驃騎ひょうき将まで?しかし、らい将軍は大将軍と泉畿を守って……」

 はた、と顔を上げた。

巌嶽がんがくが敵の手に?」

「認めたくないけど、そういうことなのかもしれないね」

 壱魴が乾いた笑い声を上げて首を竦めた。「俺は泉畿に戻ろうとしたけど剛州軍は門を開けようとしなかった。それでなにかくさいと思ってすぐに文統と連絡を取り州境から離れた」

「東からまわり込めなかったのですか。あちらの州境は征東将軍の守護にあったのでは」


測弋そくよくは死んだ」


 場が水を打ったように静まり返る。文統は重々しく続けた。

「淮州の水門を守っていたが後背から前将軍と州軍に奇襲を掛けられた」

「まさか……」

「嘘など言うものか。あいつも味方から首を討ち取られるとは思っていなかったろう。征東軍は包囲されて壊滅、残った兵はすでに謀叛軍の手に落ちた。宮城はもはや敵の本陣、我々は帰るべき場所を失い、こちらのほうが叛軍とみなされそうな勢いだ」

 瑜順はくらい眼をした。泉宮が――落ちた。

「泉主と太后様、王族の方々の行方は全く分からない。ただ、東で一声、淮州封侯王が叛乱の先頭におわして自らが一泉国主だと宣した。無論我らはそんなことは信じてはいない。越位された側に降勅こうちょくなど、今まで聞いたことはない」

 面々は頷く。淮封侯の宣旨はおそらく虚言だが、敵は封侯を推し上げて民を扇動しているのだ。そのほうがなにかと都合がいい。


 瑜順は深い溜息をついた。まさかこんなことになろうとは。

「淮州軍は封侯を奉って泉畿に上ろうとしておるようだが、今はまだ。なにやらあちらでもひとつ大きな乱があり、避難民が逃げて来ている」

「褚将軍は伝令の混乱のなか、どこでそのような情報を?」

「俺ではない。あの河元という兵曹従事が言うには頂天同夥ちょうてんどうかとかいう連中が東と泉畿で見てきたことだと」

「頂天同夥?」

「義賊だかなんだかよくは知らん。その中に従事の知己がいて、見聞きしたことをこちらに流しているらしい」

「噂だけには聞くね。割と古くから一泉に隠伏している侠客集団、いや、むしろ間諜集団、のようなものかな。表立って行動したのを見たことはない。頂天、とは気勢を盛り上げるという意味なのか……文字通り天、つまり国を支える集団ということなのかも」

 壱魴が言えば文統は鼻を鳴らした。

「国に盾突く、という意味にも取れるぞ。こちらの斥候と言い分に齟齬そごはなさそうだが、なんにせよ胡散臭い連中だ。そんな奴らと関わりがあるとはな」

「彬州が他州の乱と時機よく呼応出来たのは、その頂天同夥の助けがあったから、と?」

「河元は否定している。まあもしそうなら叛乱をきつけているとんでもない奴らということだ。とにかく泉畿は敵の手中に入り、泉宮にも戻れず、俺たちは彬州の東で惣州軍が剛州へ合流するのを防いでいたが、そこへ彬州の使者が来て協調を申し出てきた。角族の人質を取ったものの、いまや要求を聞いてくれる朝廷は機能していないからな。泉畿の叛乱軍とは異なるということを示したかったのだろう」


 彬州の要求はもともと民の救済をうものだった。正当な王政府が他の叛民に阻害されたとなれば要求は通らない可能性があり、戦況が長引けばそれだけ困窮する。秋の収穫はろくな量を見込めず、現に河元はすでに義倉ぎそうを開ける段取りを進めている。ならば正当軍である征西、征南軍と和したほうが後々有利に事を運べると踏んだのだ。


「ということは私たち人質は彬州には不要になった、ということですね?」

 そう聞いたがしかし、二将は首を振った。

「彬州が朝廷に刃向かった事実は消えぬ。まあ、判断は悪くないがな」

「偉そうだねえ」

「うるさい。八馗には引き続き我々に協力してもらうぞ。もとはお前たちが原因でもある」

「やはり同盟に反対して?」

「他になかろうが。大将軍も大司馬もどうなったか分からず、もしかすれば本当に国賊になったのやもしれん今、禁軍の総指揮は序列として右将軍の俺にある」

 中樊がしかし、と声を上げた。「八馗は帰還命令が出ている。俺たちだけでそれは決められない」

「お前たちは一泉朝廷に協力を示した。二言は許さんぞ」

「当初どおり、報酬みかえりについても約定に違わぬということですか」

 瑜順が静かな目を向ければ、文統は憎たらしげに睥睨へいげいしたが、

「国賊を討ち、泉主を奪還すれば、元に戻る」

 と暗に肯定の意を示した。


「……分かりました。族領には、再度あちらからの鳥が来れば文を持たせます。泉地に残っている八馗は留まりましょう」

「瑜順、いいのか」

 中樊の確認に頷く。

「どうにか泉宮に戻った蒼池ソーチと連絡を取り、あちらの状況を知りたいところだが」

「奴らが泉柱せんちゅう違反も辞さないつもりなら少なくとも水虎は巌嶽か剛州の水門ではばまれ、でなくとも伝書は確実に破棄される。こちらからも同様だ。水虎だけが通れても意味がない」

 水虎の往来を妨害することは禁忌だ。毀傷きしょう屠殺とさつも許されない。

言伝ことづては?」

 壱魴がそれもだめだよ、と手を振った。

「水虎は人を疑わない。運悪く敵に行きあって問われれば容易く口を割る」

「鳥では落とされるし、間接的な敵地への連絡手段がないわけか……」

 文統を見る。

「残るは人のみというわけですか。その同夥とやらの力は借りられないのですか?」

胡乱うろんな連中に頼むと?」

「従事にはよしみがあるのでしょう?」

 それはそうだが、と文統は眉をしかめた。「奴らの規模も巌嶽へ出入り出来るのかも分からん。裏切らないという保証はない。彬州も、いまは調子が良いがいつ寝返るか分かったものではない。俺はどう州に陣を構えたほうが良いように思うが、彬州はそれを認めん。我らがもし敵になった時の為だ。しかしもしこちらが裏切られ、禁軍のみで桐州におれば三方を敵に囲まれ、いずれかの敵州軍が隙を突いて剛州へ合流したら厄介だ。くらいなら、この場合は少しでも塊でどちらかを牽制し、局所的に包囲を崩したほうが良い。淮州と重州軍は今のところ泉畿に近づく気配はないから、こうして彬州へ来たわけだが」

「桐州と南三州は俺の下にいるから、問題はないとして……厄介なのは東だね。淮侯が州都にいるなら守りは堅いだろうし重州軍も合流したとするとむしろ惣州よりもそっちが面倒だけれど。東の八馗が撤退しているなら打つ手がないな」


 韃拓が撤退命令など素直に受けるとも思えなかったが、なにかのっぴきならない理由があって領地に帰っているのかもしれない。白鶻は西にも来たが、東のことはなにも伝えていなかったようだ。


「斥候は」

「無論。桐州内の川ならば水虎を渡せると予想するが、万一敵の斥候ほうが桐州におればそれも危険だ。なるべく伝令ひとを走らせる」

「つまるところ、この状況を打破する策は無い、と?」

「泉主があちらに捕らえられたのならば無闇に手を出せん。まさかころすことはなかろうが、仮にも封侯王を推し上げているのだぞ。もしも封侯が泉主だというのが本当であれば、……、我々は逆賊になる」


 結局泉国の戦とは、国の源泉である主泉を手にした者のほうが遥かに有利で、それにまさって力を得ようとするならば泉の命と等しき王――泉主を手中に戴くしかない。主泉はられ、泉主の行方も知れないとあっては文統たちは動きようがないのだ。


 この戦で現泉主姜坎きょうかんが崩御または禅譲ぜんじょうしたならば、次代の泉主は順当にいけば長男の姜亮きょうりょうに移るが、その王太子までもが失われたなら姜謙きょうけんが新王であるという敵の主張もにわかに現実味を帯びる話かもしれない。泉根せんこんへの降勅は人が決められるものではないゆえに、たとえかつて年長である姜謙が弟に王位を越えられていたとしても、姜坎に連なる血筋が途絶えた為に復権したと言われれば文統も壱魴も有り得ないと思っているとはいえ、完全には否定出来ないことなのだった。


 壱魴がまたも軽い笑いを立てた。

「そうなったら戦わなくていいじゃないか。さっさと降伏すれば」

「馬鹿か。大逆の罪で殺される」

「どうかな。現泉主を亡き者にして次代を立てたと知った民がそれを許すだろうか。一泉このくにの民は儀礼を重んずる。王の為人ひととなりなどは雲の上のこととして周知はされないとしても、泉畿はあいつらに焼かれているのだから逆賊であることは明白さ。天命を無理やりに歪め新王を即位させた連中へ諸手を挙げて言祝ぎ恭順するとは思えないね。俺たちへの処罰もそう。こちらを苛烈に断罪するなら民の支持は離れ新朝廷は非難を受ける」

「……じゃあ、降伏したほうがあんたらには都合がいい、ってことか?」

 中樊が問えば首を竦めた。

「いいや、戦わなくて楽だが都合は良くない。これはもしも淮侯が本当に王となったらの仮定の話だ。最悪そうなれば、俺も文統も泉賤どれいにされるかひとやに放り込まれて忘れられるかの転落人生を歩むことになる。それにあちらから全国に回された水虎の公文によると、敵さんは君たち角族のことを良く思っていない。一方的に破棄するくらいなのだから同盟なんて今後も結ばず、角族に与えていた泉も取り上げ、君たちはまた水のない生活に逆戻りだ。状況はまったく、良くはならないね」

「我々には、力づくで泉地を奪える力がある」

「……中樊。あちらはそれをも封じ込める何らかの手段を持っているということだと俺は思うのだが」

 腕を組んだ瑜順は考え込む。「でなければ我々を挑発するような文言を触れ回ったりしない」

「封じ込め?なんだそれは」

 わからない、と言うしかない。「見当もつかないが、何梅さまが白鶻を飛ばしてくるほどの大事が起きているということだ。当主である韃拓を差し置いて」


 何梅はでしゃばりな女でも越権行為を好む性格でもない。であるのに当主の親征している戦況に口を出してきたのは先代としての助言のつもりであり、韃拓と八馗がいまだ自分への信奉を揺るがせていないことへの侮りと信頼でもあり、それを確信しての撤退命令だ。よほどのことがない限りそんな傍若無人な振る舞いをするわけがない。


 ひとつ大きく息をつき、瑜順はとにかく、と周囲を見渡した。

「何より状況把握に努めたい。特に、東の戦況を掴み打開策を練るしかないでしょう。八馗は族領との連絡役として泉地に留まり征西軍と征南軍に引き続き協力します。我々の成した同盟をうやむやのうちに忘れ去られては困る」

 文統は少しだけ悔しそうに口の端を曲げ、壱魴は苦笑した。

「つかぬことをお訊きしますが、我々はまだここにこのままでしょうか?」

「八馗とて全くの信頼は出来ん」

 まだそんなことを、と中樊が呆れ、瑜順も格子越しに睨む。

「敵と裏で手を組んでいるとでも?」

「組んでいないという証明も出来んだろうが。分かるまでお前はこのままだ」

「瑜順がおらねば八馗の作戦指揮に支障が出る」

 訴えた中樊だったが、文統は鼻で笑うだけだ。

「八馗が作戦など立てる必要は無い。真に同盟を重んじ、我らに与するなら戦いにおいて功を挙げてみろ」

 どこまでも喧嘩腰だ、と横で壱魴が首を振り、少し憐れむように瑜順を慰めた。

「韃拓とはしゅう州の依笙いしょうで別れたきりだけれど、最後に見たのは狴犴へいかんんでとんでもない速さで駆けて行く姿だった」

「……ハクを」

「あんな軍がそう易々と負けるはずもない。状況を掴み次第、すぐに拘禁は解く。すまないがそれまで辛抱してほしい」

 なだめられ、瑜順は無表情でさらに考え、

「……せめて、私だけにして頂きたい。何月も狭い房に押し込められ難儀している。ひとりはまだ幼い」

「きみだけで八馗の手綱を握れるのかい?」

「私が失われれば先代も当主もあなた方を許しはしないということを八馗は分かっている」

 中樊も頷いた。「瑜順は韃拓の右腕だ。こいつに許可なく暴れたりはしない」

 だって、と壱魴が文統を促せば、彼はなおも猜疑の目で捕囚の顔色を読み取ろうとしたが、ややあって諦め息を吐いた。

「泉人だからと舐めるなよ。裏切れば殺す」

 そう捨て科白ぜりふを吐いて背を向けた。壱魴が片目をつむりながら手を振って追いかけて行った。


 やっと会話が途切れ、静寂が訪れたところでずっと控えていた少女が近づき、瑜順に褂裴うわがけを差し出した。中樊が眉を上げる。

「なんだその下女は?」

「俺付きにあてがわれた」

「お体が冷えてます」

 中樊には見向きもせずに若藻が言い、瑜順は羽織って彼のほうを向く。

「まだしばらく籠の鳥のようだ。皆のことはあなたに任せる」

「ああ。それは心配するな。お前抜きで事を進めはしないよ。しかし、本当に具合が悪そうだな、大丈夫か」

 以前よりもさらに白んだ顔を見て室内を見回す。

「外の空気を吸えないこんなところにいるんだ。なるべく早く出られるようしつこく掛け合ってみよう。お前は小さい頃からすぐ熱を出したからな。無理はするなよ」

「見た目ほど弱ってはいない。何梅さまから鳥が来たらすぐに知らせてくれ」

 わかった、と言って中樊も退室する。瑜順は長い息を吐いて力無く牀榻しんだいに転がった。

「どうなることやら……」

「泉畿が敵の手中ということは、この国はもうおしまいなのですか」

 まるで他人事のように若藻が首を傾げた。それには茫洋と天花板てんじょうを眺めながらさてねと返す。

「この国というより、こちらというべきか」

「角族は霧を渡れるではないですか。一泉が滅びればまた新たな水の国を求めれば良いのではありませんか。困るのは一泉を牛耳る役人と住む家や田畑を持っている者だけです」

角族わたしたちがなぜこんなにも一泉に執着しているか、解せない顔だね」

「瑜順さまは、孤高を貫いている牙族に憧れがおありのようでしたのでなぜ泉国と仲良くしようとするのか疑問に思っただけです。いまは水が無いとはいえ、牙族が住まうように水の湧く泉外地がまだどこかにあるのかもしれませんし、南の部族は雨露を溜めて使っていると聞いたことがあります。角族の土地には麦飯石脈があって暮らせないことはない。わざわざこちらのことを良く思っていない一泉とどうして和同したいのかわたしにはよくわかりません」

「……いにしえに、東の地にりん族という泉外人がいた」

「知っています。定住地の湧き水が涸れて流浪に身を費やした非業の一族だと」

 瑜順は頷いた。

「霧を隔てて隣の六泉は鱗族を受け入れず、彼らはその向こうのしち泉と我々のように同盟して泉地に居住している」

 手の甲を額にあてた。「泉を割譲してもらう代償として重税に喘ぎ、この数百年七泉の圧政に隷従してはいるもののたびたび反発が起こり、軋轢あつれきは増して一族は弱体の一途を辿っているという。しかし、彼らはそうまでしても泉地にくだらずにはおれなかった。それほど、由霧ゆうむの中で一雫の清水を得るのは至難の業なんだ」


 茶色のあぶく、濁った紫の、手ですくっても透けることのない泥水しかない汚染された土地で水を飲まなければ生きていけない人間がどうして暮らせるというのか。


「鱗族は辛酸をめても水を求めて隷属する道を選んだ。そうするしかなかったからだ。何処にあるかも、いつ見つかるとも分からない湧き水を求め泉外地を彷徨さまよい歩いて一族が滅ぶよりは、虐げられても生きる希望が一縷でもあるほうを採った。角族とて他人事ではない。石はまだあるが、それでもゆっくりと、着実に鉱脈は減っている。『そのとき』が来れば、我々は鱗族と同じてつを踏む」

 さらには南の一族が住まう地のように雨季が多くなく乾燥した北の大地は大雨に恵まれるはずもなく、すぐ隣の迸瀑ほうばくとした泉をよだれを垂らして喉から手が出るほど欲しがっているばかりだった。ようやく、ようやく小さな泉を得られたのだ。易々と手放せるわけがない。

「いまさら同盟破棄など、有り得ない。角族は如願じょがん泉を足掛かりに泉地と共和して行くしかないんだ。子孫に安住を授けてやれるか否かの分水嶺わかれめなんだよ、今の状況は。……内輪揉めのどさくさに我々を疎外することは許さない、絶対に」

 甲を瞼に降ろし、平静な声音のなかに苦悶する色を滲ませたのを若藻は瞬きせずに見つめた。

「……瑜順さまは、ご自分のことは何一つお考えになっておられない」

「聞いていたか?現に一族のことを」

「いいえ」

 若藻は屈んでいた腰を上げた。瑜順は視線を向けられていることに気がつき塞いでいた瞼を開くも、相手の感情は窺い知れない。夜陰の水中のような深遠な瞳はまるで揺るがず、ただ静かに黒鳶くろとび色の指先で房室の隅を指した。



「あなたさまは、お水を必要としないではありませんか」


『お前にそれは飲めぬ』


漏壺とけいの水がおかしいのです。少しずれています。瑜順さまはわたしのいない合間に水差しの水を抜いておられます」


儕輩なかまに気取られるな』


「水をなぜお飲みにならないのか、わたしにはわかりませんが、瑜順さまはお一人ならば先に立ってこんな争いをしなくても生きていけるのではありませんか」


『我らのいと。お前こそが我らを守り導き、みずむくいるための祝忌いわい


 見つめる視線の先で瑜順はむくりと起き上がり、しどけなく体を傾げてみせた。

「……俺に一族を裏切って逃げろと言っているのか」

 なおもひたと見据える。

「あなたさまは、なにか隠しておられる。わたしにだけでなく、お身内にも。まるで罠にかかって身動き出来なくなっている兎のようです」

「さすがに無礼だ」

「何故そこまで一族に忠義を尽くすのですか。尽くすだけのものがありますか。何かを口にすれば具合の悪くなること、お仲間にも話しておられないのでしょう?今まで、食べるたびに吐き戻していらっしゃったのですか」


『気取られるな。愛されよ。愛されよ。愛されよ』


「…………少し黙ってくれないか」


 静かに手を伸ばす。彼女は逃げない。

「それほど信じられないのなら、そんな仲間たちは命を懸けるほどのものではないのでは?」

 長い指で顎を捉えてしたたかに力を入れた。

「口を閉じろ」

 底冷えする声音で命じられても若藻は怯えなかった。掴まれたまま、ただ凛として微動だにせず、ふいに、ほんのわずか目元を細めた。

「わたしは」

「耳がついていないのか?」

「わたしは、瑜順さまが羨ましいのです」


 ぱちりともやが晴れた。虚を突かれて思わず力を緩める。それを両手で握り、若藻はようやく目線を外し俯いた。

「わたしは、一族に見放されましたから。同じ一族の商人に売られましたから。自民族への誇りなんて塵一つもありません。牙族がどうなろうと知ったことではないのです。瑜順さまは、他の角族の方とは違うように思いました。それでも、一族を身内とし、家族として愛しておられ、その為に戦っておられる。守りたいと心からおもっていらっしゃるのが分かる……少し毛色が違っても皆さまも瑜順さまを頼りにしておられる。あなたさまには帰る場所があるのだと分かって、羨んでしまいました」

 無いものねだりです、と恥じ入った。手が微かに震えているのに我に返りぱっと離す。そのまま床に伏した。

「罰は受けます。不遜な舌をお抜き下さい」

 瑜順は凝り固まった眉間を揉んだ。縮こまる小さな頭を戸惑って眺める。

「……若藻、立ってくれ」

 首を振られて、足を降ろした。両手で頬を包み、ゆっくりと上げさせる。ぽろぽろと、人形のような双眼から真珠のごとき粒がこぼれるのを擘指おやゆびの腹で拭った。

「乱暴をした。すまない。すぐ冷やそう」

 顎を撫でると否定する。

「これは、瑜順さまがお可哀想だからです」

「羨んだり憐れんだり、君は忙しいね」

 そのまま立たせて埃を払ってやる。若藻は両腕を伸ばして主の頭を抱いた。

「いじらしくて、お可哀想な瑜順さま。きっと、あなただけが理不尽に苦しんでおられるのです」

 目を閉じた。

「……蜂蜜のにおいだ」

「お嫌ですか」

 いいや、と本心で微笑む。「香りだけならとても好きなんだ。蜜の甘いのも、花のせるのも、水のすうとしたのも」




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