三十章



「これをお前にやろう」


 差し出されたのは薄汚れた小袋だった。怪訝に受け取った様子に『彼女』は口角を上げた。しかし歯は見えない。ただ唇の形だけが弧を描き、袋を開けるよう急かす。友はおそるおそる中を見て、気味悪さに思わず取り落とした。


「こら。粗末にするものではない。これでも苦労して採ってきたんだ」

「……も、申し訳ございません。しかし、これは……」

 逡巡した姿に私は隣で口を開いた。


「これで貴女は王になれる」


 言えば目を伏せた。「そんなつもりはない。私には、きっと本当は相応ふさわしくないのさ」

「それはお前が決めることではない。我らと同じ希望を抱くのであれば、お前はこれを受け取るべきだ」

 小袋を拾い上げ、『彼女』はもう一度それを掲げた。

「だが、忘れるな。私がお前にこれだけのことをしているのがなぜなのか。期待を裏切らないでおくれよ」

 射抜くような双眸に頷き震える手で胸に抱いた。大丈夫、と私は微笑んで肩を抱いてやった。

「貴女なら出来る」

「……そうかな。私はただの泉民の女でしかないが」

「面白くもない冗談だな葛斎かつさい。我々と巡り会った己の天運を信じよ。信じて進め」


 二人して見上げれば『彼女』は腕を組み、ほんの少し首をかたむけた。幼子おさなごを見守る親のようでいて、しかしいつも険のある笑い方をした。その表情をつくることが莫迦らしいと言わんばかりの嘲笑だった。そうして伸ばし放題の髪をなびかせて去っていくのだ。


 烈火が燦然と燃えたぎるような、赤い髪を。







 韃拓は白い息を吐き出した。霧中の木々が濁った色に紛れながらもほのかに紅葉したらしくそれらしい色に染まっている。すでに霜が降りて大地は凍っており、ざくざくと踏み潰しながら丘の上で目を細めた。北の冬は早い。しかし、今年の二回目の遷住いどうはまだ行っていない。

 毛帽で耳まで覆ってもきんと冷気が刺す。さらに大きな溜息を漏らした。裘衣かわごろもの裾を払い大地と同じく白んで冷たい空を見上げ、莫迦莫迦しくなって俯いた。なにが当主だ、と。そうしてもう何度も先日の会話を振り返る。




「――まず我らが為すべきは鴆鳥毒ちんちょうどくへの対処です」

 何梅が散らかした水晶片の前に片膝を立てて言った。

「持ち込まれた毒への対抗がなくば戦に勝つことは出来ない。敵は既に宮を占拠し一泉を乗っ取った。しかし、我々の会盟を永続させるという望みはいまだ消えていない」

「なぜそう言えるのです」


 西の八馗が領地へ帰還した。韃拓と那乃ナナイよりも十日ほど遅く霧界まわりで戻り、これで領地にいる俟斤しきんは郝秀と渠長さいしょうでもある柱勢ジュセの二人だけ。議場に集まったのはあとは各家の大人たいじんと古老のみだ。


「泉は腐っていない。我々が盟約した泉主は死んでおらん。宮城にふんぞり返って偽王ぎおうを立てるはただの偽朝よ。なんら天の許しも民の承認も得ておらぬ」

 何梅の言を継ぎ柱勢が言い、しかしな、と古老のひとりが苦言を呈した。

「我らの排斥に熱が上がっておるではないか。それに軍兵が盾突いたのならばまことの朝廷とて太刀打ち出来ぬのではないか」

「だからこそ我々が力添えせねばならんのであろうが」

「しかし東の八馗はいまだ帰って来ぬ。そろそろ南へ移動したほうが良いのでは」

「こちらへ戻ってくる兵と入れ違いになっては困る。一人でも帰ってきて事情を聞ければすぐにでも移動する」

「封侯はいまだ淮州に?」

「おそらくはな」

「彬州の瑜順らはどうかのう。戻って来られるじゃろうか」

 ふん、と鼻を鳴らし郝秀が胡座あぐらの上で頬杖をついた。「自ら人質となったのだぞ。放っておけばいい。巻き込まれた四人も憐れなものだ」

「郝秀、当主の前でぞんざいな発言はやめよ」

 横で父親の郝伸カクシンに膝を叩かれても彼は韃拓を一瞥して顔を背けた。こちらは不機嫌な顔でそれで、と何梅を見る。

媽媽おふくろはどうしたって同盟を諦めはしないんだろ」

「お前は違うのですか」

「俺だってそんなつもりはない。だがあのとんでもない毒にどうやって対抗する。毒の強さも尋常じゃないが東の国境での戦いではかなりの量持ち込まれていた。あれが数倍あったとして俺たちはどう戦う」

「当主は那乃を救ったと聞いたが?」

 大人のひとりに訊かれて渋面をつくった。

「たまたま毒が回りきる前に腕を落とすのが間に合っただけだ。それと、まじないで犀角さいかくを」

「まじないなどではない。韃拓、私の語った伝承をほんのひと握りでもおぼえていてくれて嬉しいかぎり。実際に鴆の羽毒うどくに効くのは犀のつのなのです」

 言いながら何梅は色石を転がした。

「では、犀角があれば毒に耐えうると?」

「いいえ。犀角は解毒には適するがあらかじめ身の内にれたとて予防は出来ない。それに、犀という獣は今は霧界にはおらず、噂では三泉さんせん国にしかいないという希少な獣。そう易々と角が手に入るとも思えぬ。もっと別のものが必要です」

 目を閉じた。「私は一足先に窰洞ちかへ移動して文献を探らなくてはなりません」

 彼女でさえ有効な手段がないとは、と周囲が狼狽する。

「……薬効に詳しいのは何より巫師。胡仙こせんさまにお縋りするしかないであろ」

 古老が頷き、大半もそれに同意した。「いまは数も少ない。妹御たちも連れて行きなされよ」

 何梅は頷き、顎を撫でている息子を見る。

「こちらのことは任せますよ、韃拓。鷹を置いていきます。良いですね?」

 しかし考え込んで答えない。

「韃拓?」

「……なあ、媽媽。薬に詳しい奴は毒にも詳しいのか」

「ふたつは必ずしも相反しない。毒とされるものさえ、使い方によれば薬ともなる。逆も然り」

「薬師も巫師も似たようなものか。じゃあ煉丹れんたん術師も同じか?」

 何梅は少し首を傾けた。「泉国のまじない師のことですね。まあ、煉丹術も様々なものを使うらしいけれど、ああいうのは新術をきわめるものであって我々の医術に通ずるかと言われると疑問が残ります」

「ひとり、詳しいやつがいる」

「泉人?」

「ああ。俺が白鶻しらせをもらうまでいたむらに隠れていた重州刺史だ」

「刺史が煉丹術師?」

「自称だが、俺が訪ねた時には小屋を吹き飛ばしてた」

 周囲はざわりと揺れて喧噪が大きくなる。郝秀がふてぶてしく手を振った。

「泉人に頼るって?俺たちが?馬鹿らしい。一泉人は俺たちのことを憎んでるんだぞ」

「あいつは六泉人だ。生粋の一泉人じゃない。まあ、それを抜きにしても悪い奴じゃなかった」

「信ずるに値するとは思えん。そんな怪しげな奴が鴆鳥毒を解毒する正しい方法を知っているはずがない」

「分かんねえじゃねえか。訊いてみる価値はある」

黄仙こうせんさま、安易に泉人を頼みにすべきではありませぬぞ。こうしてあなたさまも戻って来ざるを得なかったのに」

「左様。毒などを使う卑劣な者たちよ。あれが水に溶けてみよ、同輩とて死ぬのだぞ。そんなことも考え及ばぬ愚民どもだ」

 大人たちも呆れて首を振る。勢いづいた郝秀はそれみたことかと口の端で嘲笑った。

「当主も気が動転しておるようだ。無理もないが、右腕がおらねば八馗の差配も難しいようで心配だな。まあ、その腕も己からほいほいと敵の俘虜とりこになりに行く頓馬とんまみたいだ、がっ⁉」

 言い終わらないうちに、喉元に白刃の切っ先が触れそうになって舌を噛む。静まった議場にただひとり立った主が両眼を吊り上げて睨み据えていた。

鑲黄じょうこう俟斤、俺のことはいくら侮ってもいい。現に軍を見捨てて尻尾巻いて逃げ帰ったことを言い訳はしない。――だが」

 地を這う殺気に空間全体はおののきに包まれて古老たちまでもが無言で身を引いた。

「あいつのことをそしれば剣を振らない自信が無い」

 郝秀は苦虫を噛み潰したように顔を歪め、しかし果敢にも反駁はんばくした。

「いくら兄御前あにごぜだからといって、当主はあれを重用しすぎる。先代もだ」

 周囲が息を飲んだ。

「手ずからお育てになったとはいえ、あれは一族の者ではない。どんなに馴染もうとすれど毛色が違うのが一目で分かる。そういう気は団結を乱す。八馗に加えているのも解せん。なぜなら、あやつは鋼兼ハガネではない。斬りつければ直ぐに死ぬただの弱い由歩ですよ。気に入りません。もしも当主が灰仙はいせんのままだったなら、ほまれある戦士には加えなかったでしょう」

 言い終えた途端、横から拳が飛んできた。郝秀は受け身を取ったもののよろめいて地毯しきものに手を着く。鼻から熱い水が垂れ、父を睨みつけた。

「馬鹿者。当主と胡仙さまに詫びろ。今すぐだ」

 郝伸が唸るように言い代わりに頭を下げた。

「申し訳ございませぬ。愚息が無礼をあげつらいました」

 返答はない。ようよう窺えば剣を提げたままの青年の顔はもはやなんの色もなく、母親に瓜二つの、試し斬りの藁を眺める温度のない眼で郝秀を今にも排除せんと見つめている。

 額に汗を浮かべた郝伸はもう一度深々と頭を下げ、隣の息子も渋々それに倣った。

 冷えた沈黙のなか、鉄よりも硬い声が降る。

「私が気に入らないのはお前です郝秀。八馗の不安をあおり和を乱しているのが己であるという自覚もないのなら救いようもないが、反省出来る心が残っているなら詫びなさい。それに、ここにいる黄仙だけが我ら角族の当主です。二度と族長の位にもしもの話を入れてはなりません。――――韃拓、……韃拓、私の息子。ハクぶのはおよしなさい。祭壇を不潔な血でけがすことはなりません」

 何梅が言ったのに初めて気がつけば外で獣の唸り声が聞こえ、一同はぎくりと背を凍らせた。

「剣はならぬ。族霊の加護を失いたくなくば怒りを抑えよ」

「――――詫びろ。ふりは要らない。瑜順を八馗に数えてんのは俺の兄貴分だからじゃねえ。あいつが欠かせない戦力だからだ。それを見込んでる。少なくともあいつはお前よりはずっと頭が回るし腕が立つ。誰よりも一族の為を想ってる。俟斤をすげ替えるなら俺は真っ先にお前を外すぜ。ここまで言わないと分かんねえ奴に兵を任せられないからな」

「……出過ぎたことを、申し訳ありませんでした、当主」

「父親に免ずる。次はない」

 剣を収めた韃拓は周囲を見る。

「郝秀とおんなじことを思う奴もいるだろうが、そんなのは百も承知で八馗を組んでる。今回の撤退は媽媽の判断に従ったが、俺には俺のやり方がある。当主として一族を背負ったからには投げ出すつもりはねえ。不満のある奴は郝秀みたく言ってくれていい。ただし、真っ当な意見しか認めない」

 臣下たちの一斉に垂れた頭の上で浅い息をついた。「仮にも俺たちと一泉は同盟した。爺さまたちが奴らを軽んじる気持ちも分かるし、俺とて全幅の信に足るとは思いきれてないが、先の為に俺たちは歩み寄らなきゃなんねえだろ」


 浄水石の採掘量が例年より少ない。今年生まれた赤子が急激な季節の変化についていけずにちらほらと欠けだした。すでに厳しい冬に足を踏み入れている。

 皆一様に主を見上げ、その視線を追った。香煙をくゆらせた祭壇には各家から寄せられたこまごまとした捧げ物が所狭しと並ぶ。


「泉外一の最強部族、神の子孫と自負している俺たちが敵に踊らされて仲間割れなんて聞いて呆れる。このままじゃ終われねえぞ」







 穹廬すまいを建てた集落から少し離れた丘に登り、久方ぶりに召喚した狛に背を預けて一泉全土の大まかな地図を頭に叩き込んでいると、大哥アニキ、と叫ぶ声が聞こえて顔を上げた。同じ八馗正黄家に属す少年たちだ。ただならぬ様子に立ち上がる。



「帰ってきた!八馗が帰ってきたよ‼」



 待ちかねた報告に弾かれて駆け出し、追い縋る彼らは口々に叫ぶ。

「少ない!みんなボロボロ!」

「東まわりで帰って来たみたい‼」

「誰か先代に鷹を飛ばしたか」

 何梅ら巫師の家の女たちは半数を残してすでに移動している。もしかすれば行きあったかもしれない。

 飛ばしました、とまたひとりが息を切らせて言った。「渠長のお指図でともかくも帰ってきたことだけ。でも黄仙さま、皆ひどいありさまです。四不像しふぞうも出て行った半分もいない」

「どこに集めた」

 これには全員口を揃えた。

「南の大広場!」



 天幕群の密集したなかに開けた広場があり、韃拓が駆け込んだ時にはすでに帰還した八馗兵が四不像と共に倒れ込みそこかしこで呻いていた。もちろん外傷はないが、肌を青くさせ血を吐くのを見るに臓腑をやられたと予想できた。毒矢が掠って切り落としたか、四肢や指の無い者も少なからずいた。



「韃拓にい!」



 巨大な両角と体躯からだに大荷物を括りつけた麋鹿うまが疾走してくる。夏営地に残った巫師のひとり、季娘キジョウだ。


「人を集めて!水を沸かして‼」

「わかった」


 騒ぎを聞きつけた人々に大声で指図を飛ばし、大釜に大量の湯をつくる。韃拓は兵たちの惨状に険しい顔をした。襖甲よろいは砕けてほつれ、いっそのこと脱いだほうがましなくらい、胸を押さえて呻く者、焼け焦げて皮膚がただれ落ちている者。絶望をき上げるのはその数だ。広場は帰還兵が全て入っても余りある。

 肌が塞がっているぶん、どこに傷を受けたのか外見では判断できない。季娘はてきぱきと死期の近そうな者とまだ助かる者とを分けた。

「ひどいぞこれは」

「しかし、よく帰ってきた」

 迎えた仲間たちは青褪めつつも大慌てで治療に加勢し、血染めでもはや原型のない衣服を裂き、体を押さえて具合を確かめる。

「………韃拓、韃拓っ!」

 振り返ればすすけて汚いが見知った顔が走り寄ってきた。

宣尾センビさん!無事だったか」

「ああ、なんとかな。とんでもない目に遭った」

「話はまた後で聞く」

 宣尾は赤い目を痛そうに瞬かせた。「霧界に入ってからも何人も欠けた。谷に落ちたんだ。もう助からん」

「分かってる」

采舞さいぶの泉民も沢山死んだ」

「分かってるから!今はやめてくれ」


 手当てしている兵が盛大に吐血した。季娘、とがなると、なに、と殺気立った声が返ってきた。

「どこが悪いのかまるで分からねえ!はりを持ってるか⁉手当たり次第に血の流れを止める!」

「だめ!まずはあたしがるから、兄さんは口の利ける人を優先にあたって!」

 皮膚を開いて臓腑の裂け目を縫うことが出来ないからともかくも痛みがないよう体を麻痺させることしか出来ない。

 鍼というのもかつて泉国から仕入れた技術だ。身体に巡る気を操る。韃拓も一応手ほどきを受けてなんとなくではあるが打ち方を知っている。だがそんな悠長なことをしていられないほどに、領地に辿り着いた兵たちは安堵でか、力尽きたか次々と冷たくなっていく。


 韃拓が抱えた兵も虚ろに空を見上げて震える手を伸ばした。

「……こ……せ…さま…………」

「ああ!ここにいる。お前は帰ってきた。気をしっかり持て」

 力強く握り返せば、微笑もうとした。

「任せろ。大丈夫だ、皆助かる」

 涙を一筋流し、目を閉じた。

「おい……おい!」

 頬を叩いてもすでに力を失くした腕が揺れるばかり。


「――――くそっ!」


 寒風のなか、やるせなく広場を見渡し歯噛みした。想像以上の悲惨さに目を背けたくなる。

「黄仙!こちらへ!」

 呼ばれて複数人に抱えられた巨体が近づく。苦しげに汗を散らし、大口から血が溢れる。それでも笑った。


「……黄仙。無事だったか」

富隆フルンさん……‼」


 割れた襖甲の隙間から異様なものが見えた。富隆は自嘲するようにさらに笑う。

「腹を……やられた。皮膚が合わさる前に、こうしておけば止血にもなろうと思うてな」

 脇で支えていた佟原トーゲンが馬鹿め、とののしる。彼も片眼を負傷していた。

「だからといって、無謀すぎる……」

 韃拓が富隆の腹をあらわにすれば、肌に嵌まりこんだ拳大の石が見えた。肌の癒着を阻止する為に自分であてがったのだ。

「季娘、この穴を両側から引っ張って留め置き、傷ついたはらわたを縫えるか」

 傷痕を見て少し怖じけた。

「縫えることは縫えるけど……こんな大きな穴では、俟斤が痛みに耐えられるか」

 麻酔が効かないだろうと泣きそうになって言えば老将は変わらぬ威勢で血唾を飛ばす。

「ここまで死ぬ思いで帰ってきたのだ、このうえ目をえぐられ生爪剥がされようともなんともないわい」

「季娘、やってくれ」

 皆に言われ「……わかった」と頷き、仮設の天幕を示した。

「清潔な水と布をあるだけ。腹の穴のまわりをかぎで支えてなかを診る。介添えが欲しい。俟斤を押さえておける人は来て。麻沸散くすりも持ってきて」

 家々から女たちも駆けつけてきて韃拓は富隆を任す。彼はもう一度、黄仙、と呼びかけその腕を強く掴んだ。

「死んだ後では伝えられぬ。――彼奴きゃつら、毒を水に入れることを躊躇しなかった。なにか、まだからくりがあるぞ」

「からくり……」

「韃拓兄、いまは」

 頷くだけにとどめそれ以上は問わず、いまだ広場に転がる兵たちを眺め渡す。大きな背中を見つけ名を呼んだ。

褒具ホーグ!」

 びくりと一度たじろいだ男は泣きそうな顔をして振り返る。

「……韃拓」

「無事か。怪我は」

 抱えていた仲間を降ろし、力なく首を振って項垂うなだれた。

「そうか。何よりだ。森悦シンエツを見なかったか。あと俟斤はあいつだけだ」

 大男は広い肩をすぼめた。俯いて口を引き結ぶ。

「媽媽たちとは鉢合ったか。先に冬の家に行ったんだが……」

 震わせた両手が膝を掴んで必死に嗚咽おえつこらえているのに、韃拓は言を切った。じっとその様子を見下ろす。

「森悦……は……」

 先が言えず、大きく肩をいからせ、涙を見せまいと前屈みになった。

「――――死んだか」

「…………逃げ遅れた泉人の子どもを、庇って……あいつは、弓より長槍ながやりが得意だったから、壁下したに降りて敵兵とやりあってたんだ。それで……」

 我慢できなくなり顔を手で覆った。

「毒矢であっという間に逝ってしまった‼」

 叫びにならない慟哭どうこくがわななく唇から洩れ出た。

「俺が……もう少し早くに加勢しておれば……‼」

「自分を責めるな。森悦は最期まで勇敢な俺たちの戦士だった。誇れ」

「あいつはまだ二十五だったんだぞ。若すぎる」

「戦いで死ぬは最高の栄誉だといつも言うだろ」

「泉人の卑怯な毒矢で死ぬことの何が栄誉か!恥まみれの死に方だ‼」


「――――だったら、俺はどうなんだっ‼‼」


 褒具の襟を掴み上げた。


「二万の八馗を敵地に置いて、当主だからと気を遣われそれに甘えてのうのうと帰った俺こそ、お前たちを侮辱した最たる奴じゃねえか!毒であれなんであれ、必死に戦って散った奴らは犬死にだったと言いたいのか⁉恥晒しの卑怯者は俺だ!森悦の死を誇れないなら俺を殺してむくいろ‼」

 吠えた叫びに歔欷きょきが満ちる。ついに褒具は声を上げて泣き出した。深い悲しみに打ちひしがれた兵たちもつられて地を打ち叩く。

「――何人だ。何人帰った」

 数えろ、という怒声に少年たちがこらえた顔で従う。やがて集まった。

「おおよそ戦士千人と、騎馬七千」

 二万の八馗兵が、千、と領地に残っていた者たちは理解及ばず慄然とした。これほどの兵の損失は一族の歴史上初めてだった。


「失われた一万九千の命、この俺が背負った。必ず受け戻す。必ず、必ず見合ったものを手に入れる。敵を滅す。それが俺に出来る弔いだ」


 喘ぐ戦士たちのなかを進みながら、なおも叫ぶ。


「誓う。お前たちの痛みも、うらみも、悲しみも、希望とて全部まるごと連れてってやる。俺に託せ。俺はやる。だから――今は死ぬな‼」


 傷のない兵士たち、しかしその内側は染まった血の分だけずたずたに腐り、やがて朽ちていく。せめて意志の力で止められるのなら、どんなにいいだろうか。死ぬな、と命じ続けることしか出来ない無力さに足許から崩れ落ちそうな絶望を感じる。底無しの奈落へと誘われて。

 自分だけ無傷なことがこれほど恥ずかしいと思ったことはない。まさに役立たず、当主なぞ名ばかりで、皆の怨嗟えんさで真っ先に呪い死ぬべきは自分だ。だが今出来ることは言葉だけの鼓舞しかないのだ。当主としての自分を信じさせ、皆に活力を与えること、復讐を誓うこと、それが今の韃拓に出来る最善にして最低の立ち居振る舞いだった。





 火葬場は夕曛よいやみのなか煌々とけぶる。肉の燃える臭い、噴き上がってせ返る大量の粉塵、掘ったあなふちで老婆が泣いている。焼かないでくれと皺だらけの手で土を掻いた。


 一族の葬儀は故人を埋葬するまでに丁寧な時をかけるが、今回はそうもいかない。少なからず毒を受けた兵士たちの遺体を長く残せば、大地の汚染を招く。巡り巡って由霧の侵蝕を招いてしまえば生活する土地がさらに狭まる。


 老人と女子供は泣き、並べられ焔煙ほのおに渦巻かれてく者たちの最期の姿を見届けようと群がった。しかし、男たちは絶対に涙を見せなかった。ここに辿り着けたのはほんの一部だ。多くは異郷で無惨に殺され、死してなお恥辱を受けている。想って唇を噛み切った。同胞を殺された悲しみと憎しみがどす黒くおりのように溢れて、心頭を焼き焦がすほどの猛烈な怒りがあたりを包んでいた。くわに寄りかかった韃拓もまた、煙のみた血眼ちまなこで彼らが空へ霧散するさまを見送っていた。


「……かたきを討ったら、俺もすぐに追いつく……」


 そう呟き、うろ覚えの誄詞るいしを唱えた。





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