二十六章



 淮州都曲汕は丘を背にして広がり、丘は徐々に傾斜を高くし東に行くにつれて山脈を形成する一端となっている。峰はそこから州の東端まで延び、山裾に沿って小泉と付随した人口の少ない邑里が点在した集落群をつくっていた。


 そのひとつ、斜面に張りつくようにしてわずか二十戸ほどの軒を数える邑の入口で馬を下り、韃拓たちは古びていまにも朽ち落ちそうな背の低い家々を見回す。静かで人気ひとけなく、ただ早くも秋めいた色の木々が涼しい風に吹かれて葉を重ねる音と小鳥のさえずりだけが響く。先に立った小福がこっち、と声を潜めて手招いた。

 続いて一歩踏み出そうとした保蹼。が、隣の韃拓に腕を差し出された。どうしたのかと問おうとし、目のに飛来する鋭利な輝きをみとめ反射で体を強ばらせた。動きを止めた正面に迫った矢はしかし、標的に届く前にくうで矢柄を散らせて落ちる。横の彼が捕らえて折ったのだ。

「保蹼、矢が来たら止まらず避けろ」

「も、申し訳ありません」

 剣柄たかびに伸ばそうとした手が行き場を失い、ともかくも息をつく。折れたそれを見下ろした。

「いったいどういう」


「……ふん、手練てだれか」


 突如として姿の見えない声が響いた。「だが、たとえ福の紹介でも禁軍のいぬと異人は信じらんねえぞ」

矰繳いぐるみ……」

 矢羽に絹のように細い糸が結び付けられ、陽に反射して光っている。それは手前の民家の壁に続いていた。

賽風坊さいふうぼう

 小福が困ったように呼び掛けた。「危ないじゃないか。びっくりするだろ」

「福、お前こそなんでそんな奴ら連れて来た。ここは隠れ里だぞ」

 隠れ里って、と保蹼が呆れる。泉が一つでもある限り官府に把握されていないわけがない。その心中を読んだのか、声は馬鹿にした笑いを立てた。

「愚か者。字面通りにしか捉えんとは。きさま相当の阿呆だな?」

 韃拓が一歩踏み出した。

「いい加減出て来い。俺たちは敵じゃない」

「野蛮な北狄ほくてきめ。しかし、福に免じて入るのは許してやる」

 姿を現したのは小福と同じほどの背丈の少年だった。粗末な姿なりだが髪や顔は清潔に整っている。

に会いに来たんだな?」

 低い声で韃拓を見上げた。見下ろしたほうは早くしろ、と顎をしゃくる。その態度に不快そうに眉をしかめながら、来な、と言ってくるりと背を向けた。



 邑は突然現れたこの少年以外にはまるで人の気配がなかった。炊事の音も話し声も聞こえず、なのに不用心にも半蔀はじとみの窓が開いていたり戸口が開け放されていた。少年はその中を進み山に近い坂道を登る。集落の外れ、人家がまばらになり、離れてぽつりと一つだけ建っている雑草とつるで覆われた、崩れかけの蘆舎あばらやに辿り着いた。


 少年はしばらく沈黙し、なぜか戸口には近づかず立ち止まる。息を吸い込んで声を張った。



顕賢けんけん!」



 叫び声は少しばかりやまびこを呼んだ。しかしそれが静まっても返答はない。ただ、何事かごとりと音が聞こえたかと思うと、突然凄まじい破裂音が響いた。


 砂埃を巻き上げて戸が木っ端微塵に飛び散る。賽風坊の後ろにいた三人は唖然とし、続いて爆発から黒い塊が転がり出て来て保蹼が今度は遅れずに剣を抜いた。

 もうもうと立ち込めた白煙に警戒して後退ると煙の中から雄叫びが。


飛亀舞蛇ひきぶだ!」


 人影はごろごろと四人の前に転がりで、地面に逆さになったまま脚の間から顔を覗かせた。ぱちくりと小動物のようにこちらを見つめる。賽風坊が額を押さえた。

「やっぱりな。懲りてないと思ったぜ」

「――え?だ、だれ?」

 すすだらけで起き上がった男は一転しておどおどと客人を迎える。

「あんたが重州刺史?」

 韃拓が問えば目を丸くして案内役を見る。彼は首を振った。

「敵じゃねえってさ」

「なんだ。ついに売り渡されるのかと」

 胸を撫で下ろしたが賽風坊はまなじりを吊り上げた。

「こんなことばっかりやってたら本当に敵にばらしてやるからな!あんたはお尋ね者だって自覚をもっと持て。ほんとに次は無いぞ、分かったか!」

「ご、ごめん」

 途端に萎れた男は地面に正座して頬を掻いた。賽風坊は、まったく、と息を吐いて三人を指す。

「お前から話を聞きたいんだと」


 見上げてきた刺史は朴訥ぼくとつな小男で、たいして特徴のない容貌を少しばかり傾げてみせた。

「君たちは?」

「言ってただろ、人を連れて帰るかもしれないって」

 小福が韃拓の影から出て言うと、ああ、と汚れを払い拱手えしゃくする。

「重州刺史……今は、追われている身ですが……顕賢といいます」

「角族の韃拓だ」

「角族……」

「私は禁軍中軍旅帥りょすい、保蹼と申します」

「き、禁軍⁉」

 途端に怯む。信じ難いという目で見た。

「福さん、禁軍兵などなぜ連れてきたんだ。あちら側の間者かもしれないのに」

 小福はちらりと窺い、違うさと答えた。

「ほ、ほんとうに?」

「少なくとも保蹼はあんたの言う敵じゃねえ。で、聞きたいのはその事だ、呉刺史。いまこの国で何がどうなってるのかあんたには分かってんのか?」

 顕賢は韃拓をまじまじと見つめると表情を曇らせ、中を示した。

「とにかく、外では落ち着かない。汚してしまったけれど、よければどうぞ」



「というか、さっきの火花みたいなのは何だったんだ?」

 爆発したあとの小房は牀台ねだいやら椅子やらが折れてひどいことになっていた。火が燃え移らなかったのが奇跡だ。

 問われた顕賢は照れ、興奮冷めやらないというふうに拳を握った。

「あれは煉炭術れんたんじゅつの一種さ。真似事だがね」

「煉炭術?」

「土から黄金を作り出すという方術のことですか?」

 保蹼が言えば、先ほどの警戒はどこへやら勢いよく頷いた。

「そう。冶金やきんと同じような工程でつくる。仙薬せんやくを得るための術だ」

「仙薬?」

「あらゆる病を治す不老長寿の妙薬。これを飲めば尸解しかいして仙人になれる」

 実は、とうきうきと粉塵を払い壺を持ってくる。

「いくつか作ってみたりしている。効果のほどは分からないが、興味があれば試してみてくれないか?」

 韃拓と保蹼は呆れて見交わした。

「そんな危険ヤバそうなもの、自分で試せばいいだろ?」

 つれなく断られて顕賢はきょとんとする。

「俺は飲まないよ。仙人になってしまうだろう?」

 どうにもよく分からない男だ。

「仙人になりたくて作ってたんだろ?」

「いいや?ただこういう工作が好きなんだよ。特に長生きしたいとも思っていない」

「薬が失敗作だとは疑わないのですね……」

「作ったはいいが試してくれる人がいなくて困ってるんだ。福さんも全然飲んでくれないし」

 飲むかよ、と毒づく。「ここに来た最初の頃も他にもなんかいろいろ混ぜ込んでさっきみたいに小火ぼや騒ぎになったんだ。それでこの蘆舎に追いやられたのに、懲りもせずに」

「なんというはた迷惑な御仁か。州軍にばれればただでは済まないのが分かっておいででないのですか」

 顕賢はばつの悪そうに肩を竦めて壺を押しやると、ようやく本題の為に居住まいを正した。

「それで、あなたがたが来られたのは……」

「単刀直入に訊く。乱を起こしている朝敵とは誰だ」

 眉根を寄せた。

「俺も自分の身の回りのことしか状況が掴めていないよ。明らかに敵だと言えるのは重州牧と淮州牧だけれど、泉宮で大規模な謀叛が起きたということは、朝廷のかなり高位にいる者が裏切ったと考えるのが自然だね」

「少なくともあんたは重州牧が誰に誘われて決起したのか知ってんだろう?」

 するとさらに渋い顔をしてみせた。

「特定の個人までは俺も知らない。重州牧は、もともと武官だ。出身はごう州、州牧として赴任する前は……禁軍に」

 言って保蹼を見た。

「なんで軍属から出た」

「元来それほどお身体からだが強くなく、風痺ふうひこじらせて剣を振るうことかなわなくなり、それで自ら転籍を願い出られたと聞いている。州牧としては長い。私も時々疾医いしゃに薬の調合について意見を求められていたよ」

「あんたは薬師なのか?」

「違うけれど、もともと俺は六泉出身だからね。六泉は昔から卜占ぼくせん巫術ふじゅつが盛んだ。関連して薬学にも詳しいのさ」

「あんたが煉炭術の技を持つのもそういうなりゆきでか」

「まあ俺はただ好事家なだけだ。でも、治療には術で使う材料も薬として使うから、詳しいといえば詳しいかも」

 今思えば、と顕賢は続ける。「体調を崩したというのも全くの大嘘だったのやも。とにかく重州牧は昔のよしみで軍閥とは今でも懇意にしていた。度々そういう客がこっそり来ていたからね。怪しいと思っていたんだ。だから州牧に叛逆の話を吹き込んだのは泉畿せんきの武官で間違いないよ」

 では、と保蹼が首を振った。

「やはり京師兵けいしへいのなかに裏切り者が?」

「それも大人数を主導できる位と言えば禁軍で確定だろう。俺たちが遠征に行っている合間、泉畿にいたのは大将軍の奠牛てんぎゅう車騎しゃき将軍で閨閥けいばつの紀将軍、驃騎ひょうき将軍の頼魯観らいろかんえい将軍の迅普武じんふぶ、少し離れて剛州と淮州の州境にいたのが征東将軍の測弋そくよく

「彼らのうち、叛逆者が」

「もしくは、やはり全員」

 小福が首を傾げた。

「衛将軍はそう州の応援に出たはずだよ」

「小さくともさすがは『耳』か。だとしたら、首謀は四人?」

「とも限らない。もしかすれば本当に禁軍全てが逆らってるのかもしれない。いずれにしてももう軍に全幅の信頼を置けねえということだ」

 顕賢が禁軍の保蹼を警戒した理由が分かった。

「俺は協力するよう命令されたが、内心乗り気でないのを見破られたんだろう、うすうす不味まずい気がして州都を逃げ出した直後に案の定やしきは襲われ、追っ手がかかった。なんとか隠れて淮州へ入ったものの、行き倒れて動けなくなっていたところ、淮侯の『耳』だという御仁に助け出されて」

「小福の言ってた男か」


陸郁りくいくどのという。ここは彼の郷里ふるさとだ。皆出払っていたろう?邑人むらびとは半鉱夫で、山中で土を掘り、少しばかりの畑地を耕している。彼は西で功をおさめて邑に富をもたらした。だから邑人はみな彼に協力してくれているんだ。こんな小さなところだけれど、そこいらの県郷よりも金を持っている。と、俺は推測する」


 少なくとも顕賢を長期に匿い、人目につく愚かな実験を握り潰せるほどには懐に余裕がある。そう分析した。

「分かっていてやっているのですね……」

「じゃあ結局のところ、あんたは封侯の『耳』ではないってことか」

 顕賢は両手を挙げた。

「残念ながら。けれどもちろん、決して謀叛側でもないさ。俺は安定したろくをもらえればそれで良かったんだ。そして心ゆくまで術を高めたいだけだったのに……」

 肩を落とした様子を韃拓はしばし観察し、それから、さて、と蘆舎を見渡した。

「とはいえ、いつまでもここに隠れてるわけにもいかないんじゃねえか?そのうち謀叛軍がしらみ潰しに探しに来るかもしれない」

「そんな」

「しかし泉畿がすでにあちら側なら我々も戻ることは出来ないのでは?やはり壱魴いつほう様となんとか連絡を取りたいところですが」

 首を振った。「やめておけ保蹼。危険だぞ。こっちの居場所がばれかねない。まあ、それも時間の問題だが。目下俺たちは封侯を手に入れたい」

 顕賢が目を丸くした。

「謀叛軍と戦うって?無茶だ、どれほど寝返っているのかも分からず、いまや泉主だってあちらに捕まっているかもしれないのに!」

「じゃああんたは隠れて無駄な練成で遊んでろ。だが、本来の職務を投げ出して目耳を塞いでただで済むと思うなよ」

 顕賢は再びそんな、と頭を抱えた。保蹼が溜息をついた。

「正直、収穫はあまりありませんでしたか……。せめて禁軍のうち、誰が敵で味方なのか、それがはっきり分かれば良かったのですが」

「……これは俺のただの当て推量だけれど、重州牧より下の世代の将軍が関与しているとは考えにくいな」

 しょんぼりとして頬をこすりながらも言った。

「なぜそう思う」

「淮州の大禍たいかを経験してないからさ」

 壺を撫で目を細めた。

「もう…二十四、五年ほど前になるのかな。当時重州牧は禁軍前軍、たしか二師をまとめる部帥ぶすいだったはずだ。ちょうど秋の稲刈りを終えた頃だった。俺はそのころまだ重州の太学たいがくの学生でね、けれど淮州からどんどん避難民が溢れてきていたから、話だけは沢山聞いたよ」

「首謀は淮州戦役せんえきの経験者……」

「あなたも当時はまだ学生でした?」

 保蹼は頷いた。

「私は五泉ごせんの軍学に留学るがくしていましたから、実際に戦場を見たことはないのですが」

「掠奪はそれは酷いものだったそうで。血と泥の混じった水が重州まで流れてきて都水台はてんてこまい、水虎すいこは死ぬわ、義倉ぎそうが空になるわ。行方不明者を尋ねて州府の門前は毎日人だかりが絶えず、親を失くした孤児がそこかしこで泣き喚いていてね。それを見ていた側としては、角族と同盟するなんて、と誰もが思う」


 保蹼は隣を窺い見た。韃拓とて淮州の大禍当時、まだ生まれてもいなかったが自民族のやってきたことは知っているはずだ。しかし、彼はどう思っているのだろうと見た顔は平静そのものでまるで心を動かされた様子は無かった。その雰囲気は富隆フルンと全く同じ。


「下流の重州でさえそんな有様だった。まして戦地にいた重州牧やその他将軍はもっと悲惨な経験をしている。為すすべもなくやられるままだったんだから、そりゃ不満も溜まるだろうと」

「角族に媚びた朝廷に対する鬱憤がその当時からあった、と」

「どのみちこんな大規模な謀叛、明日やろうと言って決行出来るものではないでしょう?きっと周到に準備して虎視眈々と狙っていたのではないかな。とすれば、これは角族に対する復讐戦ということになる。積年の怨みを断ち切るのは難しいよ。受けたほうは昨日の事のように覚えているからね」

 顕賢は指を組んだ。やはり彼も同じ意見か、と保蹼は内心消沈する。

 沈黙が満ち、いたたまれなくなり口を開こうとした。しかし、角族主はふっと息を吐いた。

「そんなことははじめから分かってる。だが、だからといってこの事態が許されるのかというとそうじゃないだろ。一度生まれた怨みを禍根なく除くのは無理だ。だが、ずっと立ち止まってるわけにもいかねえ」

「加害者に言われてもね。しかし言いたいことは分かる。共存していこうというのなら必ずどこかで受け容れなければならない部分が必要になる」

 顕賢は頭を振った。

「正直、俺は角族と協調するという朝廷の方針に疑問だが、上におわす方々はこちらが思ってもないことをお考えになっているんだろう。そう思ってきたし、これからもそうだ。なんにせよ掠奪が収まったのは一泉の平和には大きなことだからね。それは評価している。だからというのも含めて謀叛に協力は出来ない。けれど勝ち目もないのにわざわざ出て行って敵の槍衾やりぶすまに蜂の巣にされることもないでしょう」

「自分は事が落ち着くまでのうのうと隠れてるってことか」

「あのね、人には出来ることと出来ないことがあるし、向き不向きもある。そもそも俺は刺史だよ?敵が来れば抵抗出来ずに真っ先に死ぬんだ。そりゃあこうして封侯に助けてもらっているから恩は返したいけれど身の程知らずに戦場のただなかに突っ込んで行くほど義に過ぎる馬鹿じゃないさ」


 顕賢の言は間違っていない。宮城が正体の見えない敵の手に落ち、味方もどうなっているか分からない状況で、この乱に取り立てて深く関わっているわけでもないいち刺史の身の振り方にとやかく言っても始まらない。そう思い、保蹼は溜息を漏らした。


 とにかく、封侯が実のところは諸手を挙げて謀叛側ではないということだけは事実だと分かった。


「しかし、むしろ事態は悪化したと言っていいです。淮封侯がこちらの味方であっても、彼は実質人質ということではないですか。しかも敵にうまく利用されていては、もし奪取しようと動くにしても危険が大きすぎる」

 言って韃拓を見れば彼も悩ましげに険しい顔をした。

「とにかく、斥候の報告を聞くしかない。そんなに期待してないが」

「ですね。いずれにしろいま曲汕に近寄るのは難しい」




 韃拓たちは翌朝を待って早々に采舞に引き揚げることになった。わざわざ危険を冒して出向いて来たものの、結局対立勢力のはっきりした構図は分からず、顕賢も特に戦力になりそうな男ではなかったからだ。



 しかし、陽も昇っていない、薄く白んでひんやりとした冷気が立ち込め、邑ではようやく雄鶏おんどりが啼きはじめたもののいまだ人々が寝静まっている黎明、韃拓はいきなり襲いかかったぞわりとした悪寒に飛び起きた。

 咄嗟に得物を掴んであたりを見回す。動きですぐ横で休んでいた保蹼も何事ですか、とふとんを跳ね除けた。

「――――族主?」

 垂れかかる髪をそのままに低姿勢で警戒した姿に緊張が走る。数拍置いて息を吐きながら構えを解いた。

「族主。……角公」

 しかし呼び掛けてもまだ周囲を睨んだまま返答がないので、たまらず大声を出す。

「――韃拓どの!何事です?敵襲ですか」

「………いや」

 ようやく応えた韃拓はそれでも剣呑な目つきで戸口から裸足で外へ出た。

 しんと無音の薄闇のなか、ただ遠くで鳥の声だけが響く静寂しじま――微かに、ひづめの音。

「二騎」

「なんですって」

 保蹼が血相を変えたが、手で制される。

「敵じゃない。四不像しふぞうの音」

 手早く髪をからげ、くつをつっかけあっという間に邑の入口へと駆けていく。ともかく保蹼も大慌てで後に続き剣を片手に飛び出した。


 やっと物の輪郭がはっきりと分かる明るさになりはじめ、追いつくと賽風坊までも門前に立って弓を構えているのをみとめた。隣には客を待って立ち尽くす韃拓。

 てっきりまた喧嘩しているのかと思いきや、二人とも無言で前方を見つめて動かない。

「……嫌な感じだ」

 近寄ってきたのに気がつき、賽風坊は顔をしかめながら振り返った。

「嫌な?」

「おい、お前、近づいてるのはほんとに敵じゃねんだろうな?」

 無言の青年に少年は苛立って舌打ちした。

「何とか言えよ」

「黙ってろ」

 低い声が降る。いつものような朗らかさの欠片もない声に保蹼は慄然とその背を見た。いったい何が来る。

 山裾にある駒麓は払暁でも朝陽は射さず暗い。急な傾斜を下りきった山道の向こうにようやく光と影の境界が浮き、それを横切って二頭の麋鹿おおじかがとてつもない速さで迫ってきた。そのうちの一頭を駆る者を判じ、やっと少し緊張が解けた。



「――――韃拓っ!」



 坂を登りきり停止するのももどかしげに、四不像の背に乗ってきた者は跳び下りる。


那乃ナナイ。どうした。何があった」


 隻腕の少年は泥だらけだった。走ってきた勢いのまま必死の形相で主の胸に飛び込む。

「早く逃げよう!」

「どういうことだ。ちゃんと説明しろ」

 あまりに焦って混乱しているのか、言葉が出ないのをなだめるうちに、いつの間にか起き出してきた小福が水囊すいとうを投げつけた。

「落ち着けよ」

 喉を引きらせて呼吸の苦しそうな那乃に差し出す。ともかくもそれを飲み下し、口を拭いながら泣きそうに叫んだ。

「采舞が包囲された!」

「――なに⁉州軍が動いたのか!」

「ぼくが曲汕の近くまで着いた時にはもう、入れ違いで」

 絶望の色濃い顔は青褪めて白い。

「華囲郡軍も出兵した」

「それで、なんでお前は俺たちがここにいるとわかった」

 那乃は震える手を伸ばし、

「……これを」

 苦労して懐から引っ張り出した皺くちゃの文は少し焦げていた。瞳を潤ませて首を振る。

「今頃、采舞は火の海だ。淮州軍は、民ごとぼくたちを焼き殺そうとしてる……‼」

「なんという」

 愕然と呟いた保蹼はそれでも訊いた。

「壁外には展開しなかったので?」

 八馗はっきは、と顔を伏せた姿が痛々しい。

「民を逃がそうとしてほとんどがまだ中に」

「すぐ戻る」

 言った主に再び首を振った。韃拓は睨み下ろした。

「臆病にかれたか、那乃。たとえ多勢でも仲間が戦ってるのに逃げられるか」

 ちがう、と叫んだ。「ちがうんだよ、韃拓!そうじゃないんだ‼」

「何が違う」

「少しだけ……少しだけ遅かったんだ。でも、富隆さんも佟原トーゲンさんも従えと」

 言って空の一点を指す。つられて見上げた澄んだ秋空に、近づいて来るのは一羽の鳥。


「…………媽媽おふくろの、白鶻しろたか…………」

「先代族主の?」

 保蹼が問えば那乃は昏い顔で頷いた。

「――――撤退の合図だ」

 角族以外の三人はぽかんとした。

「……撤退……?」

 白い鳥は駒麓の上空まで辿り着き、なおも円を描いて大きく旋回している。

何梅カバイさまの白鶻は伝書もするけれど、狩りにおいては旗と同じだ。広い範囲でよく見える」

 鳥はようやく滑るように降りて来て、四不像の背に堂々と止まった。

「伝書は二人も知ってる」

 受け取ろうとしない韃拓に那乃は文を広げてみせた。

「韃拓は領地に帰らなきゃならない。いますぐに」

「断る」

「だめだよ。州軍の注意が采舞に向いてる間に、山を越えてまっすぐ北に帰らなきゃ」

「ふざけるな。八馗が戦ってんだぞ⁉おめおめと尻を見せて逃げ帰れるか!」

 荒らげた声にたまらず那乃も叫び返す。

「みんなの死を無駄にする気なの⁉もう助からないんだ‼分かるでしょ⁉」

 ついに瞳から涙が一粒零れた。それに全員が呆気に取られる。

「采舞の八馗は泉民を浜陽関ひんようかんから他州へ逃がすために囮になって開けた南門を死守して戦ってる。おまけにあの毒がまだあるんだ!火矢と毒矢を浴びながら、ぼくたちのせいでと民に恨まれながらそれでも踏みとどまってるんだ。褒具ホーグ森悦シンエツ宣尾センビさんも、韃拓は何梅さまの指図通りに帰れと言った。当主は絶対に、絶対に死んじゃだめだからだよ!みんなの想いを無駄にするな!」

 地団駄を踏んだ訴えに応じず、しばらく、韃拓は沈黙していた。白鶻が急かすように啼く。黒いの並んだ羽を大きく広げたところで悪態をついた。


「……他の斥候は」

「今は、曲汕と、采舞の状況を知れる近くに」

 顔を伏せたまま頷く。

「州軍はどのくらいが移動した」

「淮州、重州軍あわせておよそ四万弱と、華囲郡軍一万ほど。曲汕にはいまだ同じほどの軍がいる」

「合同軍か……」

 保蹼が呟き、小福はもらい泣きしそうになりながら、でも、と声を上げる。

「いま帰ったら、叛逆者たちの天下になるぞ。それでいいのかこれは」

「八馗が壊滅するなら、どのみち一泉の内乱に手は出せなくなる。ここで韃拓がひとりで助けに戻ったってどうしようもないんだよ…………」

 ついに那乃は韃拓の胸に顔をうずめた。

「ごめんなさい……ぼく、生き恥だ……」

「――莫迦ばか。男が泣くな」

 ふいに力強く小さな頭を抱き締め、しばらく韃拓は何かに耐えるように俯いた。やがて吹っ切り顔を上げる。

「保蹼」

「はい」

「俺は領地に帰る。お前はどうする」

 問われて目を見開いた。

「どうする、とは……」

「淮州にもう味方はいない。今頃浜陽関も封鎖されてる。袋の鼠だ。あっちに降伏しても助かるか分からねえし、ここも危ない」

「私が、角領かくりょうへ行っても良いと?」

「ああ。俺は構わん」

 保蹼は少しの間無言で硬い顔を見つめたが、ゆっくりと首を振った。

「……いえ。どさくさに紛れ、なんとかして西へ抜けます。どうにか壱魴様と合流し、こちらの近況を伝え、どうなっているのかを把握したい」

 それに、と陽の照ってきた空を見る。

「私は不能渡わたれずですから、醸菫水じょうきんすいがなければ由霧のなかへは入れない。この混乱です、今からまとまった量が手に入るとは思えない」

「…そうか」

「私も配下を采舞に残して逃げるのは気が咎めますが……」

 苦悶して黙り、しかしやはり頷いた。

「征南軍が味方だと信じて向かうしかありません」

「おれもいく」

 声を上げた少女には渋い顔をした。

「危険です。それにきみには関係ないことだ」

「同じ一泉民のおれが、無関係だって?それにおれはこれでも『耳』なんだぞ」

「きみは子どもだ。敵の包囲を掻い潜るのにどんな目に遭うか」

「『耳』はいろんな抜け道を知ってると陸郁は言ってた。賽風坊、駒麓で道に詳しい奴がいるだろ。淮州からどう州へ行くのに安全な道を教えてくれ」

 弓を肩に掛けたまま、少年は不貞ふて腐れて見返す。

「本気か。きっと西も荒れてるぞ。陸郁にここにいろと言われたのだろ」

「この人が死んだら、こちらの状況を伝える人がいなくなる」

 伝令の水虎に密書を託したとて、川を移動する途中で取り上げられればこちらの動きが洩れてしまう。この状況でそれはあまりにも危険だった。

 賽風坊は短い沈黙のあと、分かった、と頷いた。韃拓は彼に問う。

「お前たちは引き続きここで隠遁するか」

「危ないと思ったら山中に入る」

「そうか。お前を見込んで俺からひとつ頼みがある」

 泣きじゃくる那乃の肩を叩いて離し、民家の側を指差した。こっそりと様子を窺っていた小男が慌てて物陰に隠れる。

「刺史を敵に奪わせるな」

「顕賢を?」

「あとで役に立つかもしれない。足手まといになるならしょうがねえが、なるべく生かせ。こっちが領地まで逃げおおせたら鳥を飛ばす」

 そう言って手巾てぬぐいを寄越せと言う。

伝鷹でんようは互いが移動したら跡を追えないが、特別に躾けたものならにおいを覚えさせれば問題ねえ」

 白鶻の鋭利なあしにそれを結び付け腕に移すと、勢いよく振った。鳥は風に乗って羽音を立てず低空を滑り、峰に沿って急上昇しあっという間に北へ消えた。


「征西軍の八馗には」

「おそらくあっちにも飛んでいる。だが、もし征西軍が謀叛側なら鴆鳥ちんちょう毒が渡ってるかもしれない。生きてれば北の霧界まわりで帰ってくるが、どのみちひん州で人質になってる瑜順たちは無理だな。……こういう時に、あいつがいないのは痛い」

 平静な言の裏に心底悔しそうな声色を滲ませ、韃拓は保蹼に向き直った。

「お前のなんかも俺にくれ。頃合いを見て鳥を送る。勘だが、壱魴はおそらく敵じゃねえ。必ず辿り着く」

 保蹼が頷き返して取った囲巾えりまきをもらいながら横を見下ろす。懐の木札を投げた。

「小福、そいつを返すぜ。関が機能してないとはいえ、あったほうがいいだろ」

「ああ、うん」

「疑ってすまなかった。保蹼を頼んだ」

 小福は大きな瞳を潤ませ、まかせとけ、と胸を張る。韃拓は一同を見渡して腰に手を当てた。

「一泉は俺たちのものだ。水は誰にも渡さねえ。どんなに時がかかろうと裏切り者は必ず俺が殺す。これがたとえ俺たちへの復讐としても、甘んじてくだりはしない。全力で受けて立つ」

「……族主。どうか、くれぐれも」

 痛ましげに保蹼が言えば、彼は至極平然としていたがきつく奥歯を噛み締め振り切るように身をひるがえした。






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