五十一章
冬至とは
一泉では
円丘と呼ぶとおり
祭祀は動乱のなかで行われた去年とはまるで違い、より丁寧に、そしてさらに完璧に踏襲された。しかし今の葛斎にはこんな円丘での
もう一度
「
「
これがほんの小さな一歩だとしても、とうとうやってのけたのだ。
冬至前夜。瑜順を伴い
中へ入り、いつもの
「よく来た」
今までと同じくぱちりと扇を打ち鳴らす。黒目がちの眼で睨むように見てきた。
「何梅からは聞いているな、二人とも」
それには瑜順が答えた。
「私と私が
葛斎は重々しく頷く。
「天の扉を
「遠くなる……?」
「足で稼ぐ道のりのことではない。とにかく、叩扉を行えるのは明日の
少年は怯えを宿しつつもしっかりと頷いた。葛斎は立ち上がる。
「来や」
一泉宮の北は内朝、さらには後宮、つきつめてその真北には黎泉を
その扉を躊躇なく開ける。先導してきた冬騎は入らなかった。葛斎は手ずから燭台に火を灯し、ゆっくりと廟堂の中央へと進み、一度そこで礼拝する。
葛斎は再び立ち上がり、広間の端に歩を進める。暗がりに立ち止まって突然呼び掛けた。
「――角公。これに」
「何だ?」
沈黙して成り行きを見守っていた韃拓は怪訝に近づく。磨かれた石床に屈むと、一箇所だけぼんやりと白い光を発する場所があった。
「……これに血を。数滴で良い」
密かな声に眉を上げ、
軋む音にはっと振り返る。地の底で
ごりごりと擦り音を響かせ石板は機械的に前後左右しひとつの大穴を形成していく。続いて巨像が地の底に空いた
「これは……」
「そう。これが一泉の主泉へと降りる本当の道」
「降りる、だと?」
「我が国の源泉、もとの場所とは城と周りを囲む谷底との中点ほどの地下にある。どんな水脈の流れで地表に湧き上がっておるのかは妾にも存じ得ぬ」
葛斎を先頭に石の階段を降りていく。風もなく、においもない、ただ冴えた冷気だけが彼らを迎えた。
それほど降りていないと感じたが、振り返るとすでに入口は見えない。入れ替わって先に光をみとめる。王太子が怖じけて立ち止まったのを見て瑜順が手を取れば、無言の視線に少年は
ついに階は途切れ、一行は巨大な地下空間に到着した。火の元もないのに幽光が
「これは
言葉もなく立ち尽くしていると葛斎が中央へ登りながら静かに言を紡ぐ。
「かつては
中央真中点に据えられた大鼎のすぐ後ろには背の低い牌門が架かっている。まるでなにかの入口だとでもいうように。葛斎は王太子を促して共に九拝し、それから降りて白銀の階段まで
「あとは頼んだぞ、二人とも」
頂上まで辿り着いた韃拓と瑜順は顔を見合わせ、牌門の前に並び立つ。ほぼ同時に手首を切り、水の大鏡に浸した。
祖母の傍らで、姜亮は両手で口を押さえた。驚愕して
「静かに。気を乱してはならぬ。言ったろう、お前は全てを見届けよ」
「でも……
指差した、中央の壇上にいたはずの二人の姿は消失した。なにか光ったと思い目を
「大事はない。あの者たちは昇黎したのだ。お前も本来ならばああして黎泉へと向かった」
「それは……つまり……」
「無論、泉根ではないゆえ
え、と祖母を凝視する。
「
「…………な、なぜ…………‼」
いまだ理解追いつかず震える。
「もはやこの国を統べる力がないからじゃ」
にべもない確固とした宣言にへたりこんだところで別の静謐な声が聞こえた。
「王太子殿下はこの世界で初めて『正しく』黎泉の
葛斎は驚いて前方を見据えた。
「……何梅、そなたどうして」
「
神像の頭の横に座り凭れた何梅は面白そうに腕を組んでいた。
「それに、私に会いたかったでしょう、葛斎」
白と赤の人影は笑みを
「私も貴女にとても会いたくて、勝手に来てしまいました。迷惑でした?」
「……歓迎する」
微笑んだ葛斎に何梅は同じく笑み返し、音も立てずに石盤に降り立つ。ゆっくりと近づいて二人のもとへと階を登ってきた。姜亮に礼をとる。
「殿下、我らの勝手に巻き込んだ無礼を今一度お詫び申し上げます。しかし今回のことが成功したあかつきには、殿下にはもはや黎泉の
「……あらましは、お祖母さまにも聞いたが……それでは、私が王でなくとも良いのではないか」
異人の女は微笑む。
「それはそう。ですがそうなれば民は混乱致しますゆえ、我らはこのことを公にするつもりはございません。
ですが、と壇上を振り返る。「それが我らが生きている間に果たされるかは分かりません。ですからあえて殿下にお知らせ申し上げた。次代を受け継ぎしあなたさまに」
いまや大凪だった泉は細かな波紋を立てて泡立っていた。水音を背に何梅はひとつ頷く。
「葛斎、今宵どのくらい時がかかるかは分かりません。王太子は冬至の
しかし遮った悲鳴が葛斎を揺らす。
「お祖母さま!泉が……‼」
少年が半泣きで見た外縁の水は波を荒立て壇に降りかかり白銀の石畳を黒く汚した。まるで戦場の血飛沫と同じように。
始まったか、と女二人は中央を睨む。
「あとは頼みますよ、二人とも」
呟き、何梅は
しばし呼吸するのを忘れていたのか、息せききって空気を吸い込み、処理しきれずに咳き込んだ痛みで意識が戻る。
「韃拓‼」
気がつけば誰かに抱き締められている。苦しい、と引き剥がせば目の前の人物は濡れた前髪を顔に張り付かせたまま、口だけが見える。弧を描いて白い歯を見せた。
「大丈夫か?」
「…………瑜順?」
いったい何が起こったかと目に入る滴を拭い、そのまま髪を掻き上げる。結髪はほどけ、衣は着ていなかった。慌ててあたりを見回すと青い幽光の大空洞、背の低い白銀の牌門に大鼎。はたと手を見る。
「しまった。
「問題ない。ここにある」
差し出された指環にほっとし、受け取ってひとつ身震いしともかく衣を羽織った。
「ええと……俺はどうなったんだっけか」
座り込んだまま見上げれば友は顔を伏せたまま笑う。
「黎泉に行ったろう」
ああ、と息を吐き出した。そうだ、そうだった。瑜順もまたひどく疲弊したのか俯いて帯を締める手には力がない。
「俺は、俺たちは……やったのか?」
「ええ、よくやりました。私の
ふいに声が聞こえ、二人は登ってきた影に驚く。
「叩扉の儀は成功した。証に水は澄んだままです。本当に、よくぞやってくれました」
何梅は力が抜けて膝をついた瑜順の頬を両手で包んだ。絞りもしていない前髪を払い、しばらくじっと見下ろす。
「……瑜順。
「……申し訳、ありません。戻すことは出来ませんでした。
「そうか。よい。それはあちらも分かっていたことでしょう……韃拓、
続いて問われ、韃拓は見えない鎖を辿る。
「いる……今は、気配は薄い」
「流石と言うべきか。お前にはもう頭が上がりませんね」
文字通り
「どのくらい経ったんだ?」
「今は至日の朝です」
それには二人とも呆然とした。「朝?霧と雲の中にほんの数刻いただけのような気がしてたんだが」
「俺もだ。まるで時の流れが違った…………」
「黎泉とはそのような場所です。さあ、ここから出ましょう。あまり長居して騒がれてはまずい」
地上へ続く階へと向かった何梅の背に従おうと韃拓は立ち上がり、横で少しふらついた瑜順の腕を掴んだ。伏し目がちの顔を覗き込み、驚きで硬直した。
「瑜順!眼が……‼」
「ああ、やはり変か?」
弱々しげに笑った生気のない顔に異様に輝く赤い両眼が細められた。「光が
「見えてるか?」
「それは心配ないが」
韃拓は裾を裂いて彼の頭に巻き付けた。瑜順は笑う。
「おい、これでは何も見えないじゃないか」
「いいから、出るぞ」
触れた手が死人のように冷たい。白い階を登りながらいまだ夢心地のまま後ろを振り向く。
「なあ、これでひとまずは終わったんだよな?」
それには力強い頷きが返ってきた。
「ともかくも、この国の二つの天門は
「本当に?」
「もちろんこんなことが広まれば混乱を招くから他言は出来ないし、これまで通り祭礼も儀式も続けられるだろう。この初めの一歩はかなり大きなことだ。韃拓、お前は英雄だ」
なんだかな、と釈然としないまま小さく見えてきた出口の光を見つけた。
「俺は正直、こんなことをする必要があったのか身に迫っては分からなかったが。
「お前には苦労をかけたよ。でも二回目の『選定』もきっと戻ってくると信じていた」
瑜順は手を握り返す。
「韃拓、お前は俺たち一族の、いいや、この大地にいるすべての者の希望だ」
「…………瑜順?なんで泣いてるんだ?」
苦笑して首を振った。まさかその選ばれた者の傍らにいて、自身さえもがこんな大それたことに
眼が痛むのか、と覆いをずらしてきた主になんでもない、と笑う。韃拓は首を傾げた。
「なんだか今日はよく笑うのな。まるで昔みたいだ」
「……そうだな」
「そんなに嬉しいのか」
「ああ。嬉しい」
「そっか。……あのさ、別に
「何梅さまや太后から聞いていないのか?」
「訊いてもはぐらかされた。それに俺はお前から直接聞きたい」
『選定』を受けていない瑜順が昇黎出来たことは偶然なんかではないから。そう言い切ってまた前を向く背に、分かった、と呟いた。
「落ち着いたら話すさ。全て。俺が今までどう育って、何を考えてきたか」
瞼を下ろしていても眩しく感じる出口が間近に迫る。それは自分の心象とあまりにも酷似していて、また口許を
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