四十九章
韃拓は立ち上がった。ついさっきとは一転、顔は険しい。
「
崖上のほうの彼は首を竦めた。結構な高さをそのまま落ち、水飛沫もなく降り立った。
こちらの韃拓が少女を庇ったのに気がつき
「心配しなくても取って食ったりしねえよ」
「いいからさっさと姿を
「言ったろ?お前のがいちばんやりやすいんだって」
言い合う同一人物に窈世は目を白黒させた。
「幻?わたくしはまた夢を見ているのかしら?」
「夢じゃない」
重なる声にさらに混乱した。「どちらが本物なの?」
「間違いなく俺だ」
窈世の肩を抱いたままの韃拓が溜息を吐き、頭を掻いた。しかし飛び降りてきたほうも寸分違わず彼そのものだ。
「ええと、このひとは韃拓じゃないのね?」
「またまた懐かしい匂いだ。王家の血か」
距離を詰めようとして追い払われる。さらに微笑し、偽物の韃拓は手で顔を覆った。そして二人の前に片膝をつく。
「お迎えにあがった。
そう言って再び上げた面はすでに窈世の知らないものになっていた。驚いて隣に抱きつく。
「も、もののけ?」
「そんなようなものでございます」
急に
「窈世、こいつは俺の
韃拓がぞんざいに言えばニタリと笑う。
「
「また
ですね、と青年は立ち上がる。主人より頭一つ分背が高かった。
いまだ状況が飲み込めない窈世は戸惑う。「あなたが韃拓の……新しい相棒?」
彼は
「あんま近づくなよ」
「ひどいですね、我が主は。まるで臭いもののように」
すごい、と窈世は手を合わせる。「人に化けられるのね!もしかして
「いいや。
「あなたはなんという……獣?なの?ひょっとして
青年は意味深に主に視線を投げ、大仰に首を傾げてみせた。「本来、私に名はありません」
「そうなの?」
「人が呼ぶ名はいくつか。どれもこれも勝手に名付けられたもの」
「でも名がないとなんと呼べばいいか分からないわね」
韃拓と青年は期せずして目を見交わす。この非常な状況になんとも思わないのか、窈世はけろりとしている。
「てっきり腰を抜かすかと思ったが」
「なによ、ありえない事なんてもう散々味わったわ。今さらあなたが二人いようと平気」
言えば青年は口を
そして悲しげに腰を屈めた。「私はこの方と契ったのに呼び名を授けてくださらないのです。可哀想だと思いませんか?」
「欲しいのね」
「
おや、とずいと顔を寄せる。
「良いところを邪魔されてご立腹でございますか。せっかくお助けに参上したというのに
「その馬鹿くせえ話し方をやめろ」
「相も変わらず雑な扱い」
窈世はそれなら、と韃拓の袖を引く。
「わたくしが付けてあげてもいいかしら」
「構わねえが、こいつは本来とんでもねえ化物なんだ。名付けたいと思うようなものじゃない」
「でも今はあなたの下僕なのでしょ?呼び名があったほうが便利だわ」
やはり、ニタ、と青年は口角を上げる。完全に
「だいたい、来るのが遅すぎる」
「
「戦況はどうなった」
空を見上げる。
「
「
「敵州軍は関門と本拠地
なんだ、と問われ歯を見せた。
「
「お前のせいだぞ」
「瑜順どのにうまく収めていただきました」
ニタニタと笑う表情に反省の色はない。まあいい、と溜息をつく。
「泉主は」
しかし、さて、と肝心なところを濁したのに眉を上げる。「知らねえのか」
「まあ、おそらくご無事でしょう。瑜順どのと共に先行して
「にしては遅い」
「そう責めないでくださいませ。崖下に落ちた
再び肩を竦め両手を挙げた。谷底はそんな形状になっていたのか、と窈世は息を飲み、ひょっとしたら上手く避けてくれたのも狛だったのかもしれない、と切なく俯いた。そんな姿を異形の青年は興味深そうに目を細めて観察する。
「面白いですねえ」
「いいから早く上げろ」
韃拓は命じて窈世を抱えた。
「ねえ、でもどうやってこんな崖を」
「これでどうでしょう」
目を離した隙にまた姿を変えたのに短く悲鳴をあげる。白い大きな一頭の狛が長い尾を楽しげに振ってみせた。韃拓はひどく不機嫌そうに睨むが金の眼は意に返さず、前肢を屈めて騎乗を促した。
まるで重みなく悠々と舞い上がり、一気に
「韃拓、あの洞窟は水で沈んでしまうかしら」
「かもな。どのみち二度と降りることはない。なにか気がかりがあったのか?」
いいえ、と呟いて前を――上を向く。
「あそこでのことを忘れたくないと思っただけよ」
狛が死に、己の中の
しかし背後の彼は憂いを打ち消す。
「忘れないさ」
まるで自分がいるからと言うように回された腕に力がこもった。
一泉宮の奥深くから湧き出す主泉に
西の
泉宮で幽閉されていた泉主はじめ王族他の諸貴族はただちに保護され、大将軍
この一年半余の内紛を先導したのは
国内の食糧生産、国家経済と財政を管理する
全国に内紛
「――――
大きく開かれた
「大司空は大罪を犯したが、思いとどまることなくあれだけの諸官と将兵たちも賛同し叛旗を
玉座には何者の姿もない。泉主は命に別条はないものの、長い軟禁生活により心身を弱らせていた。
「我々も、いまここで太后陛下にご引退されては右も左も分からずさらに混乱しまする。失った人員の穴が埋まるのはまだまだ先、今は少しでもまず泉宮を再建することに重きを置くべき。
大将軍奠牛は目を布で覆っている。不衛生で明かりの乏しい地下牢に拘束されたまま放り込まれた。病に
「その為に、角族との協調は絶対に必要なものとなった」
「――――そうだろ。俺もそう思う。はじめからそのつもりだったがな」
朗々と答えたのは壇上、玉座の横の椅子から。長靴の脚を組んだ異民族の青年は頷いた。
「巌嶽は焼け野原で民の支援もおざなりだ。
言を
「今回の内乱の平定は角族の支援なくば不可能だったことは、そうしつこく言わずとも分かっている。約束通り畑地のひとつやふたつくれてやる」
彼は笑みを絶やさない。
「
皆が上座を見上げれば太后は頷いた。
「如願泉の貸与は従来通り。加えて当該地を含む
議場はざわついた。
「胡市は見合ったものとして、理解は出来ますが……居住権?角族を一定人数住まわせると仰るのですか」
「しかも、采舞ははじめに毒で壊滅した因縁の地ですぞ」
「いまだ人も戻らず汚染された土を除くのに骨を折っているとか」
頬杖をついた族主は笑う。「だからだ。俺たちをいちばん嫌ってるのは淮州、一時は謀叛軍になびいていたし、特に采舞は被害が大きかった。和解するには難しい到底無理そうな場所だ。だがだからこそあえて俺たちと交流を持たせる。これは長い目で見なきゃいけねえことだ。角族でもこっちに住みたい奴なんていないかもしれねえが、まるっとどこかの土地を貰って泉民を追い出すよりゃ平和だし現実的だろ?」
ここで言を継いだのは族主の従僕だった。
「まずは、我々と一泉民のあいだを隔てる心の
首脳陣としては場を整えることしか出来ないのであり、全てはひとりひとりの意思の力に頼らざるを得ない。
「成功も失敗もどうなるかは分かりません。どちらかが痺れを切らせばまた
議場は静まり返り、人々はまだ生々しい戦禍の爪痕に思いを馳せて顔を曇らせた。そういうわけで、と場違いに明るい声を出して族主は手を叩く。
「新年早々にこれを
さらに細くなってひとまわり縮んだ大司徒がおずおずと太后を見上げた。
「今のこの雰囲気をみるに、現朝廷では異議を申し立てる者はいないと存じますが……泉主のご意思はどうでございましょうか」
「泉主はご心労大きくいまだ伏しておられるが、折をみて妾から話を通す。国の安寧を何よりも考えて来られた御方じゃ、きっと賛同は得られよう」
ちらりと族主が投げて寄越した視線を太后は無視した。
「――――さて、それで、もうひとつの問題じゃが」
声色が変わり臣下は再び一斉に顔を上げる。壇座の族主は至極愉快げにした。
「当初の予定通り、一泉国王家第十三子姜恋公主を角族
居合わせる角族の誰かが口笛を吹き、即座に
「無論、
異論は、と見渡すと当事者の族主がひらひらと手を振った。
「全部賛成だ。それで、婚儀はいつにするんだ?」
「角公の意見を聞こう」
「じゃ、俺たちは去年の春にこっちへ来たから来年のそれくらいにしようぜ」
提案に今度こそ
「良いだろう。皆、冬至と新春の準備も進めつつ、婚儀のはからいも厚うせよ。――――ようやっと、一泉に平和が訪れる」
血と汗と泥と、そして毒に汚染された大地にやっと芽吹きの兆しが見えた。
太后は
全てはこのために――――我々の
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