四十八章



 韃拓の数えていた日数によれば谷底に落ちてすでに十日あまりが経過しているようだった。常に湿気しけっていて食糧である狛の肉も乾燥できず徐々にいたんできていた。できるかぎりを火で焼いたり煙でいぶしたりはしたが、土壁を穿うがたないと吊り下げるのも難しく保存することもままならない。


「鉄みてえに固いなしかし」

 剣で突いてもなかなか割れない。姜恋は空間を見渡した。まだ微熱は続いているが大分楽になっていた。

「これは息壌そくじょうの力だと思うわ」

太后たいこうが昔手に入れたっていう妖土か」

「ふつうの土に混ぜると固くなるらしいの。きっとそうだわ」

 余計なことを、と舌打ちしたのを横目に悩む。

「でもどのみち出口を探すのでしょう?」

 一向に迎えが来ないので韃拓もようやく脱出のための道を模索し始めたのだ。

「見つけられなかったら戻って来なきゃならねえしな……姜恋、お前は待ってていいんだぞ」

 嫌よ、と首を振る。独りになるのは恐ろしかった。「一緒に行く!」

「じゃあ俺に泳ぎ方を教えてくれよ。そもそも、何もしなくたって水に浮くもんじゃねえのか?」

「沈む人もいるわよ」

 まさか、と驚いたのがおかしくてくすくすと笑った。しかし片眼が見え辛そうなのが心配になる。

「ねえ、本当に治る?破片が入っているのじゃないかしら」

 つい頬に触れるとり寄られた。

てくれるのか?」

 近づいてくる顔に危険な気配を察知し慌てて手を引っこめる。なんだか、韃拓はこのところ変だ。妙に――なれなれしい。まあ、それは最初からだったが、と思い直していると、出来たぞ、と丸いものを投げられた。


 狛の皮でつくった浮囊うきぶくろだ。川を遡上していよいよ道がなくなったら水中を進まねばならないからだ。

 到底今日一日で脱出を果たせるとは思えないから、ねぐらにした大洞を見失わないよう気をつけなければならない。


「ま、分からなくなっても大きな流れを下れば戻れる。そんなに心配するな」

 姜恋の裸足に切り分けた毛皮を巻きながら韃拓は笑った。

「だといいけれど……」

 そうしてもう一度狛の遺骸の残る洞を覗き頭上へは登れないことを確認し、二人は連れ立って歩き始めた。



 角族は野生の勘とも言うべきものが優れているのか、それとも韃拓が天運に恵まれているのか、いくつかあった分岐を適当に折れ曲がり、もうすぐ昼時かというほど歩いてきたところでねぐらと同じほどの大きな空間に出た。頭上から幾条か垂れる水柱にはきらきらと光が混じっている。今までで一番明るく、直下で水が浅く広がっている。


 見渡して姜恋は声を上げた。

梅花藻ばいかもだわ!」

「なんだそれは?」

「あら、宮にもあったでしょう?水の中に咲くお花よ」

 指差した水面のほど近く、揺らめく藻草に紛れて赤と黄の小さな花が点々と咲いている。

「戦ばかりで水の中なんてちゃんと見てなかったな……」

「特別綺麗な水にしか咲かないのよ」

 陽光が散乱して地上に広がる銀河に梅花藻が泡粒を浮かせ、まるで啓明星きんせいが沢山あるみたいだ。

「花が好きなのか?」

 少し休憩しようと二人で座り込むと韃拓が不思議そうに訊いてきたので、逆に問う。

「たいてい皆好きなのではないの?特に女の子は好きよ」

「ふうん」

「もしかして誰かにお花をあげたこともないの?」

「北に花は少ない」

「そうなのね。じゃあ角族は夫婦で贈り合ったりもないのかしら。まあ、あなたは結婚してないのだし、そんな機会もまだないでしょうけれど」

「いる」

 水をすくって飲んでいるほうはどうでも良さげに言った。魚でもいたのかと身を乗り出す。

「なにが?」

さいも子もいる」

 姜恋はしばし言葉を反芻する。

「ええっと、どなたに?」

「俺」

 ゆるゆると驚きに包まれる。

「うそ……」

「知らなかったのか?」

「言ってなかったのはあなたよ!」

 そうだったか、と頭を掻いた暢気のんきな姿に呆れた。

「ちょっと、じゃあわたくしは側妾めかけとして選ばれたわけなの?」

「いいや。立場としてはお前のほうが上だ」

「いったいどういうことなのよ」

「別に嫁をもらう気はなかったんだ。流れで……仕方なく」

 仕方なく、って、とどう捉えればいいか分からず困惑していれば韃拓は口を拭い隣に座りなおした。片膝を台替わりに頬杖をつく。

「あれはもとあによめだから」

「一から説明してちょうだい」


 韃拓は姜恋の剣幕に少々雲行きが怪しくなったのを悟る。しかし時はすでに遅い。またわめかれたらたまらないというふうに肩をすくめた。


「俺の嫁はもとは大哥あにきつがってた。自分の兄弟の嫁が寡女やもめになったら、残りの誰かがめとりなおすのが習わしだ」

 愕然とした。「そんな……じゃあ、お兄さんと弟と、どちらの子供も産むの……?」

「泉人は嫌がるとは聞いてた。だが大哥との間に子はできずじまいだったから、今いるのは俺とのだけだ」

 予想外のところで文化の決定的な違いを目の当たりにして姜恋は口をつぐんだ。韃拓は窺って首を傾げる。

「コブ付きの男が相手は嫌か?」

「なんて言い方なの。そういう問題ではないわ」

 韃拓がすでに兄の妻を娶っているということは。

「あの……族主というのは泉主と同じで世襲なのかしら」

「絶対に、じゃない。けど俺までで三代は俺の家系からだな」

「年長順?」「基本は」

「じゃあもしかしたら族主はあなたのお兄さまだった可能性もあった……お早くお亡くなりになってしまったということね……」

 それはそれで不思議な巡り合わせだ。韃拓以外が角族主になっていたら、一泉との再同盟ははたしてどんな流れになっていたのだろうかと想像もつかないことを少しの間思った。

 急に黙りこくった現族主は伸びた顎髭をさすっている。

 姜恋は憮然とした様子に溜息をついた。

「詳しくは、聞かないわ。どうせ降嫁したら嫌でも耳に入るし。ただ、いま聞けて良かった。でないと裏切られたと思って出戻ったかもしれないわ」

 それには目を瞬かせた。

「姜恋、お前、俺のとこにとつぐって決めたのか?」

「あなたが選んだくせに信じてなかったの?」

「嫌がってたから」

 当たり前でしょ、と唇を突き出した。

「今も嫌だけど、でも、わたくしには負うべき責任があるのよ。逃げたくない」

 韃拓は大した心境の変化だ、と微笑む。が、

「お前は瑜順が好きだろ?」

 いきなり図星を指され、姜恋は途端に首から上へ熱を集める。「な、なんで……」

「皆知ってるぞ」

 おどけているが瞳は笑っていない。いじけたような雰囲気に眉を下げた。

「再同盟に降嫁は必至よ。けれどわたくし自身の気持ちは、……どうなるのかはまだ分からないわ。変わるかもしれないし、変わらないかもしれない……」

「言っとくが別の奴を好きでも俺の嫁になったあかつきにはお前を抱くからな」

 ぼそりと低く宣言した声に弾かれて立ち上がった。

「――不潔!まさか、嫂さまにもそんな……」

「あれとのことはまったく記憶にない」


 どう行為に至ったかもおぼえてはいないが、その前後にかかわらず秘密裏に殺されそうになったことは度々ある。それらの衝撃のほうが強い。証拠を残すような女ではないから追及したこともないが。


 再び沈黙すると姜恋もまた溜息をつきながら額を押さえた。「あなたと話すと毎回心臓が口から飛び出そうになるわ……」

「…………姜恋。実際、お前は俺たちと一泉が同盟を組むこと、どう考えてる?」

「どう、って……」

「そんなんで今までのしこりはなくならないだろ。この二十数年でも消えはしなかった。今回のことで俺たち角族はまた一泉民の怨みを買ったし、反対派もいまだ根強い。叛乱が起きたのだってほぼ俺たちが原因のようなものだ。形ばかりの友好関係でこの状態が改善されるわけがねえと思う。だが、俺たちは譲れない。この戦いに勝てば少なくとも如願じょがん泉ともうひとつ土地を獲得するのが決まってる。それを今さら無しにするのは許さない。……けど、お前たちの気持ちも分かる、……ようになった」


 采舞さいぶで起きたような悲劇が頻繁にわい州であったのなら当たり前に憎悪は深い。そののろいほどくことはもはや韃拓には出来ない。


「俺の生まれちゃいない代から続く因縁なんざ、俺に断ち切れるわけがない。だが一泉に見限られたら俺たちは破滅の道を突き進む。だから選択の余地はねえが……お前はどうだ?」


 姜恋はしばらく考えていた。水面がなぜか落下する流れとは逆の波紋を描くのを見つめる。


「……正直、わたくしにだって分からないわ。わたくしは親兄弟を殺されたり食べ物をられたわけでもないもの。けれど、同じ国の民が長年苦しんできたのは知識としては学んだ。きっと彼らは自分たちが味わったのと同じようにあなたたちが苦しむ姿を見たかったはずよ。そして実際目の前でたくさん死んでしまって、ざまあないと胸のすく思いだったことでしょうね」

 でも、と両膝に顎を乗せる。

「怨みを怨みで返しあっていたらきりがないわ。そのうちみんないなくなってしまう……でも、そう思うと同時に、わたくしは一泉民としては、あなたたちを許さなくてもいいと思う」

 許そうとして許せるものとも思えない。

「べつにあなたも許されたいと思ってはいないのでしょう」

「……まあ、そうだな。族主おれは謝らないし、謝っちゃいけねえんだよ」

「角族にとっては掠奪も必要なことだったと今でも思っているのね。けれどこちらとしては到底受け入れられないことよ。さんざん酷い目にった。たくさん死んだ。角族を許す必要はないわ。でも、……それでも共生していく道はあると思うの」

「共生?」

「嫌いならなるべく関わらなければいいだけよ。でも困ることがあるならその時だけ助け合えばいいわ。――ううん、助け合うという言い方は恩着せがましいしこっちも屈辱ね……例えば、わたくしは太后陛下が苦手。あちらもわたくしのことはお嫌い」

 姜恋は両手の頭指を立てた。

「でもわたくしは宮で何不自由なく与えられて育った。お祖母ばあさまはいくらわたくしを嫌っていても住まいを取り上げたり餓死させたりはなさらなかったわ。それはあの方の矜恃きょうじと誇りのためでもあるし、人として当たり前のことだから。そうでなくては名に傷がつく。つまりは自分のためなの。わたくしも苦手だからといって不必要に避けたり悪口や不満を言い立てたりしなかったわ。そういうのって、結局は自分に返ってくるの。あなたの言うのろいと同じでね。けれど、ここにこうして生きている以上お互いが全く関わらずにいることは不可能なのよ。同盟も、わたくしたちとあなたたちの関係もそんなふうに自分の立場を守りつつ付き合っていけばいいのじゃないかしら。急に仲直りして愛し合いましょうなんて言ったってどうせ無理な話。余計に嫌いになるわ」

 韃拓は姜恋の話に静かに耳を傾けていた。

「角族は水と土地が欲しい。一泉は角族に国を荒らされたくない。それに泉外地の資源を効率よく手に入れたい。所詮同盟なんて、利害関係を天秤ではかって丁度いい塩梅あんばいで手を打ったものでしかないのでしょ。いまはそれでいい。渋々交わした手を徐々に堅く握れるようにという布石が、つまりはわたくしでしょう?」

 きっと、と自分で組んだ手を水に遊ばせた。「本当に親友になれるのなんて夢のまた夢よ。掠奪や戦を経験した世代もそれを聞いて育った子孫も全て死に絶えて、血がざって過去の歴史が風化したくらいになって初めて達成されるものだわ。どうして昔は仲が悪かったんだっけ、ってね。怨みは消えない。呪となってく。なら、それを持っていない人が増えるしかないわよね」

 分かり合うことは出来ずとも両者が存在するかぎりはとなり合う。

「……当事者となった俺たちはもう剣のない世の中に生きるのは不可能、か」

「だけど使わないよう努力することは出来るわ。そうじゃない?皆が皆喧嘩好きなわけではないわよ。あなたたちと違って」


 どれほど理解し合えずとも、争わずに済む道は必ずある。たとえ衝突を繰り返しても、進み続けていれば必ずなわては固まり広くなる。――しかし結局は、薄氷の上。叩き壊すのは一瞬でいいがふさぐのには長い時がかかる。韃拓は長く息を吐いた。


はなから俺が気張っても仕方ない話だったってことだよな」

「そんなことないわ。わたくしが言ったのはすべて甘ちゃんの綺麗事。将来の理想も、きっと万に一つも起こらない奇跡なのよ。けれど今、実際に叛乱軍を抑えているのは角族でしょう?ごう州が開かれれば見直す人もいるわ。目下、再同盟を達成するには力を示すことも必要よ。人は強いほうに流れるもの。そういう、理屈や道理じゃ動かせないものは後宮でずっと見てきたわ」


 人は権力に弱く過半数の意見に流れやすい。加えて恐怖や痛みを忌避しようとする本能がもともとあるのだ。姜恋は過去の角族の行いを正当化するつもりはさらさらない。しかし、いくら一泉民が誇り高くかつて味わった蛮行を忘れていないとはいえ、ここまできて少なからず内乱鎮圧に手を貸した彼らの要求をねつけることはもはや出来ないだろう。


「……お前、ずっとぼうっとしてたのにいつの間にか賢くなったなあ」

 わしわしと頭を撫でられて姜恋はむくれた。

「その前からちゃんと勉強してたんだから!」

 子どもっぽい仕草に韃拓は笑う。しかし姜恋はどこか悄然とした様子に怪訝になる。

「なに?大丈夫?」

「まさかお前がそこまでちゃんと考えてるとは思わなくて意外だっただけだ」

 出った頃はただ王族というだけの無垢で無知だった少女は、いまやとてつもなく重いものをいくつも背負わねばならなくなった。……背負わせてしまった。それが細くて小さな彼女を容易たやすく押し潰していまいそうで気が気ではない。


 韃拓は頭に置いた手を滑らせ顎に持っていき、指の腹で柔らかな唇を撫でる。


「……ずっと聞けずじまいでいたけどよ、お前のよびな、まだ知らない」

「いまさら……?」

「知りたい」

 じっと見つめてくる黒い瞳は猫眼石ねこめいしのよう、逸らせない。


「――――ようせい」


 濃い睫毛に縁取られたそれを見返した。

「窈世、というの」

「どんな意味だ?」

「広い世界」

「それはいいな」

 見せてやる、と今まで聞いたこともない優しげな声が囁いた。そのまま口先が近づく。


 あと指一本分重なる距離で突如、窈世は頭を硬い胸に押しつけられた。同時に地鳴り。しん、と一拍、何も聞こえなくなったかと思うと急に視界が恐ろしく明るくなった。


「なに………⁉」


 眩しさに目を細めつつ、埋まった顔を上げれば韃拓は頭上を睨んでいる。驚いたことに土の天蓋はすべて取り払われ、遠い遥かにある一面の青空が広がっていた。城壁も見える。空いた円のふちからは、亀裂から注いでいたはずの上部の水が怒濤となって流れ込む。


 韃拓はがっちりと窈世を抱いたまま声を上げた。――否、笑ったのは同じ声だが別のところから。


「悪い。邪魔した」


 窈世は顎を落とした。崩れた崖の上、水煙を浴びながら得意気に立つのは――――。


「どういうこと……」


 瞬きさえ忘れて見比べた。


「なぜ韃拓が二人いるの⁉」




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