求章 於 九泉国〈五〉



「お待ちを。この者は泉賤どれいとはいえ、一泉民です。私に貸し与えられてはおりますが、本来の主もおります。泉主がお気に召されたのはようございましたが、今この場でのご性急な事の運びはお許しください」

 瑜順がさりげなく庇うように若藻の前に身を乗り出す。

「泉賤には戸籍はなく、給地もない。それに、この場でそれを言うのは戯言たわごとにしか聞こえない。がめつく無理を乞うているのはなれだ」

「……それでも、お待ちください。私は若藻を差し出す為に連れてきたわけではございません。泉主は、珍しきものなら、人でもその範疇なのですね」

「そう。このようにかたちを異にしたヒトは珍しいゆえ、流れてくればおくるよう言ってある。泉民でも泉外人でもない若藻のような者たちを特には砂人さじんと呼び習わすそうだ」

「砂人……」

 若藻は脳裏に自分を同じように呼んだ影を思い出した。呆然としたのに対して泉主は微笑んだ気配をさせた。

「心配はない。私はただ汝に小鳥のように並んでさえずって欲しいだけ。女官と同じく、ただ傍にいるだけでいい。他にも同類なかまはいるし、いじめられしいたげられもしない。それに、九泉には他国で言うところの泉賤はいない。生きる人には必ず爵位があり、土地が与えられる。我々は最下位の者を慣例としてそう呼ぶのみ。暮らしはふつうの民とあまり変わらない。ここで仕えるならより良く扱われる」


 泉主は釣り糸を垂らす。傷つけずすくえるよう、網を構えながら。


「わ、わたくしは……」

 どうするのが正しいのか分からず、若藻はいまだ固まったまま縋る目で見上げた。瑜順は深々と腰を折る。

「この件につきましては、どうかお時間を頂きとうございます」

「代わるものを汝が差し出せるか」

「そうではなく。これも混乱しておりますれば、下命を整理させる暇が必要かと存じます」

 少女が倣って頭を下げたのに面紗ふくめんの下でふうん、と唸り、泉主は再び椅子背に凭れた。

「分かった。許す」

 うべないを得て振り返る。「一度、外しなさい」

 はい、と若藻は泣きそうに答え、そのまま退さがって殿を出た。


 崔遷が若藻を同行させるよう言った理由に今さら得心がいった。内心舌打ちし、瑜順は壇上に向き直る。

「仮に若藻を差し出せば、効薬は必ず分けて頂けるのでしょうか」



「――――その前に。があの女たちから聞き及んだことを余すところなく言ってみろ」



 再びがらりと雰囲気が変わった。得体の知れない様子に思わず身構える。

「そう睨むな。くだんのことは、共通認識がなければどだい無理な話だろう」

「聞き及んだこと……何から、申し上げればよいか」

 泉主は脚を組んで身を反らした。

「では答えやすいようが訊いてやる。まず、楓氏とはなんぞや」

「……兵主神いくさがみ蚩尤シユウの子孫、九黎きゅうれいの民の末裔、と」

「特性は?」

「水や食物を受けつけない。由歩だが、それ以上の力……『天啓てんけい』をける力は持っていない。そして、天の監門もんばん

「少なくとも泉水は飲めない。腥血なまぐさの味がすると聞いたが?」

「……おおよそ飲むものではありません」

 はは、と泉主は笑った。

「そんなものを命水として崇める我々は、お前から見ればさぞけがらわしいだろう。さて、では、監門とはなんだ」

「黎泉にあるという天上の水門を監視する門卒のようなものかと」

「なんだ、詳しくは聞いてないのか」

「太后さまからは、監門であるがゆえに門の領域に辿り着く能力ちからがある、と言われましたが、私にはまるで」

 首を振るのにさらに含み笑う。

「そんな理解でよく従ってるな」

「聞いたのはこれだけではありません。この世界についても」

 遮って泉主は手招きした。

「来い、瑜順。そこは足が冷えるだろ。酒といきたいが今は茶でも飲もう」

「……おそれながら、泉主はご気分の善し悪しでご寛容さの振り幅が大きいのですか」

「そんなようなものだ。いいからこっちに座れ」

 静かに壇上に近づき、登ってみると玉虫色の台座にはみぞがあり泉水をたたえていた。それを跨ぎ越し広い玉座の長い足台の端に座り込んだ。

「おいおい、いぬじゃないんだぞ」

「狗で十分です。お構いなく」

 泉主は無感動に言い返されても微笑し、再び下官を呼び立てて茶盆を持ってこさせる。瑜順はぞんざいに差し出されたわんを押しいただいたが、甘い香りの白く濁ったものは明らかに茶ではなかった。髪と同じ色の眼がしげしげと覗き込んでくる。

「なるほどな。えらくつらだが、やはり趣味じゃない」

「やはり?……なによりです。それで、大泉地に関してですが」

「神についてか。どう教わった」

 器用に布の下で別のものをすする姿を伏し目がちに見、それから灯火にきらめく玉座の石の紋様を眺めつつ口を開く。


「大泉地の神とは、北の守護神、玄冥げんめい。またの名を禺疆ぐうきょう。水神であり風神、大蛇を従え、または大亀に乗る。大泉地は、その神がつくった世界である、と」


 泉主は黙ったままさらに一口茶を飲んだ。


「納得は出来ます。黎泉は世界の北にあり、各国の主泉も北、かの神は西北から瘟風おんふうを吹かし陰陽いんようを整える」

「それでお前は大泉地ここが何だと?」

「外界とは閉ざされた、ここは『もともとあった寰宇かんう』の裏側」

 見返せば頷いた。

「この地は黎泉から湧く由霧で隔絶された異郷。諸説あるなかで、たしかに泉民の間で信仰される創世神・天帝とは水伯すいはく、はたまた天呉てんご、そして禺疆。六泉では九嬰きゅうえいという火と水の神が人気だ。あそこはまあ、泉国のなかでも変わっているからな。では、逆に泉外地とは?」

「泉外地とは、神世の大戦のおりにこの世界を創成しおこもりあそばされた禺疆神を滅ぼそうと外界の神々が送り込んだ者たちが住まう地のこと。つまり、泉外人と泉人とは源を異にする者たち」

「――――かつて、霧には、三十六の異族がいた。しかし今ではたったの四部族。霧の裂け目に棲み、わずかな湧き水、または水浄みずきよめの石を依りどころとして暮らすヒト。しかし閉ざされた地で豊満な水は得られず、いつしか泉を奪おうと躍起になり、泉民に幾度も狼煙のろしを上げた。泉外人どうしでも争い、融合し、または破滅していった。とはいえ、仮にも神々に見込まれてこの地に導かれた者たち。大泉地を崩壊させるための力を与えられている」


「……それが、『選定』を受けた者。すなわち、族主」


「そうだ。そしてお前の母たちはその力を使ってこの地に亀裂を入れようと試みている。天の水門の『開閉』によって」

 泉主は片膝を立て、己の白いてのひらを見た。

「瑜順、天門については聞いたのか」

「おおよそは……。にわかには信じられませんでしたが」

 とはいえ否定しては自分という存在に対してもっともらしい理由が消える。それが無性に怖い。泉主は掌をこぶしに変え、指を一本立てた。

「我らの天とはすなわち黎泉。黎泉には、九重ここのえの門がある。九重とは言うが、べつに九層になっているわけではない。物質量として存在するものとしては考えないほうがいい。九つの泉と対応してそれぞれに水門があるが、この門は二門一対で、重なる門が九組あるという意味で九重なのだ。一方は常に開いており、もう片方は閉じているのが均衡した正しいかたちだという。黎泉の奥底には戦で傷ついた神がいまだ眠る。この門を乱すと、神の忿怒いかりを買う」

「徳の門と、不徳の門。外周そとがわが徳門であり、常には開いている。内門である不徳門は不開あかずの扉」

「この門の均衡を乱す、つまり本来の『開閉』を人為的に行うことにより大泉地にはなんらかの影響が起こる。瑜順、徳門が常に開いているとは、どんな状態だ?」

「該当する泉国が無事であるということ。つまり、泉根である泉主が君臨しているという証」

「その通りだ。徳門が開いていれば不徳門は必ず閉じている。泉根が途絶えれば徳門は閉まる。それは泉の汚穢おわいを招く結果となる」

「泉主とは、泉地の浄化の力であり、徳門を開いておくための存在……」

 しかし、と顔を上げた。「外門の徳門が閉まれば、内門の不徳門は開くものだと聞きましたが」

そうだ。そもそも、門は何のためにあると?」

「この大泉地は、いにしえの神々たちによる天下の大乱戦を逃れ傷ついた神が力を蓄え終わり復活するため、自らを封じた場所だと。だとすれば天門とは、神がよみがえるために必要な、何がしかの装置しかけということではないですか。本来なら、我々が力づくで『開閉』を行うことはあってはならず、時が来ればおのずと門は動く」

「理解が早くて良い。つまるところ泉主とは封神ほうしんの蘇生に際し不徳門を開くための『鍵』だ。お前の母たちはまったく、とんでもないことをしようとしている。初めは呆れたが、よくやるものだと今は感心しきりだ」


 瑜順はかげりを帯びた表情を崩さなかった。


 不徳門を開けるには『鍵』である泉主の存在が必要不可欠だが、泉主は『じょう』にもなりうる。徳門が閉まる条件は泉主がいないこと、つまり泉根が絶えること。この時点で矛盾が生まれる。故意に閉めるには手っ取り早くは、泉主を取り除き泉の根を断ち切れば容易たやすい。だがそうすれば不徳門の『鍵』も失われる。その場合、無理やり閉じた徳門に呼応して不徳門が開くのかは疑問だ。むしろ『鍵』が不在なのに開くと思えない。そうなれば門の均衡は崩れ泉は腐る。何梅カバイ葛斎かつさいもそんな危険な橋を渡るわけがなかった。


「……私に、その門をどうこうする力が本当にあると?」

「俺も直に見たことなどないから、やってみなければ分からないが、やる価値は大いにある。その為に小梓しょうし小胡しょうこもずっと前から計画を練り続けていたのだからな。そしてなんの天命かお前を得た。お前だってその為に椒図しょうずをもらいに来たのだろう?」

 瑜順は頷いたが、いまだ咀嚼出来ないというふうに見上げた。

「獣の九子は泉主の半双かたわれ。開ける力である『鍵』の半分なのに、徳門に『錠』として使えるものなのですか」

 小童こどものような頼りない無垢さを感じ、泉主は目許を和ませる。

「瑜順。九子のなかで、初めと終わりの二子は他の七子とはまるで力が異なる。饕餮とうてつが全てを暴く力ならば、椒図とは全てを秘める力。椒図は他の八子とはとりわけへだたる特質を持っている。……椒図に、『鍵』の力はない」

「ない?だとしたら……いったい天門はどうなって……」

「椒図においては鎖扃さけいの力しかないのだ。九泉このくには由霧が完全には晴れていない。お前なら分かったろう?入国しても微細に立ち込める霧のにおいが。あれはそのせいだ」

 思い当たる感覚に視線を合わせた。

「この大泉地において重要なのは外界から『閉ざすこと』だった。ゆえに九泉くせんは他の国より、それこそ一泉よりも特異な存在だ。そして俺はその頂点。楓氏は監門というが、九泉主である俺こそが大泉地せかいの番人と言っていい」

 しかし悠々としておおよそこのことに頓着ないようだ。

「……あなたさま自身はまるで他人事ですね」

「そうでもないぞ。太太おくさまがたのやっていることには興味津々だ。だからこそこうして協力している」

 けれど、どこまでも上から眺望しているような言い草だ、と瑜順は茶杯を卓子に置いた。

「であれば、椒図をお貸し願えますか」

「小梓もお前も貸し出せと言うが、戻ってくる保証があるのか」

「……それは、分かりかねます」

 だろう、と泉主は目尻に笑い皺を寄せた。頬杖をつく。

「ひとつ、これだけは言っておく。九泉だけはらん門とけい門、どちらもが開いていて例外だが、他の八人における天の内なる門とは、開く為に存在するもの。外門よりも輪をかけて重要であり本来触れてはならない禁忌で禁域だ。それを一度こじ開ければどうなるかをよく考えよ。いくら椒図が閉じる力を持つと言っても絶対に汎用が利くのかは俺とて分からぬ。それでも欲しいのか」

「……試す価値はあります」

 泉主はひとつ息を吐き、しばらく憂うように眺めたが、やがてにやりと笑った。

「分かった。要求は飲んでもいい。が、あの砂人を寄越せ」

「本気なのですか」

「本気もなにもいますぐここに呼び出して愛でたいくらいだ」

 言えば遠慮もなくじとりと睨まれる。

「失礼ながら、幼き者へのたしなみなどはございますか」

ひどい侮蔑だ。俺は湶后せんごう一筋だぞ。めかけもいちおういるがなべて正丁せいじんだ。宝を壊すような真似をするはずがなかろう」

「まあそんなことは諸官に尋ねて裏付けを取れば済みますが。しかし問題は本人です」

「そんなもの、お前がここに残れと命じればいい話だろうに」

 首を振った。「立場上、私は主ではありますが、あれの心までを縛るつもりはありません」

「ふん、她牠あれそれと言ってるくせに、にくい名を与えて随分な可愛がりようではないか。だがな、俺のほうが辛い目にわせずに済む」

 瑜順は暗い殿の向こうを透かすように見た。

「……若藻は、私が他人とはまるで異なると知っても、言い立てたり気味悪がったりしなかった。むしろ慕ってくれたことは素直に嬉しかったのです」

「今までの己と重ねたか。砂人は見目からして我らとは違い嫌厭けんえんの的になりやすい。多くは西戎せいじゅうの住む地にしかいないものだが僅かに流れてきた泉国ではたいてい泉賤扱いだ。信じ難い。俺にはとても美しく見えるからな」

「いずれにしても、若藻が是と言わないのであればお渡しは出来ませんし、言うよう圧力をかけるつもりもありません」

 泉主は頑なさに呆れた。

「顔に似合わぬ硬骨漢め。それは効薬を手に入れられないということだぞ。そうなれば一泉で多くの仲間が死ぬ」

 瑜順はただ黙した。九泉主はこれでもかなり譲歩してくれている。若藻ひとりをここに残せば薬を全て揃えられる。天秤にかけることではないと言う。自分もそう思うが、それでも即答は出来ない。

「……九泉の気は、不能渡わたれずにとって毒でしょうか」

「泉水が浄化する。この地では生まれる数は少ないがたいていは大きな病もせず緩やかに歳をとり百を数える頃に眠るように消える」

 穏やかな死を約束された九泉国。泉宮でこの男に寿ことほがれて暮らすのと、極寒の一泉国の片田舎で凍え、病で死ぬまで泉賤として働くのと、どちらが彼女にとって良いのだろう。


「返事は急がずとも良いぞ。そっちはどうか知らないが」

 億劫そうに立ち上がる。「俺は忘れやすいから早めのほうが助かる。そうだ、若藻を安心させたいから同じ砂人の下女を客殿に付ける。言っておくが、諦めないからな。覚悟しておけ」

 裸足でぺたぺたと階を降り、背を向けたまま手を振る。

 そうして闇に紛れて消えた。







 ――――わたしが残れば、薬を手に入れられる。


 九泉主は紛れもなく、あの日藤蘿ふじの禁苑で言葉を交わした男だった。


(わたしは、砂人というのか)


 知らなかった。自分と同じような者に出会ったことがなかったからだ。泥を塗りこんだように黒い肌は奇異で好奇の目をよく引いた。ののしられたことは数え切れず、一張羅の衣を知らないうちに汚されたことも、主にあることないことを吹聴されて印象を悪くされた時もある。いわれのない濡れ衣を着せられて食事を抜かれ、ひもじく過ごした夜は数え切れない。思い返せば幸せの記憶は少なく、あったとしてもその他の苦しい経験に逼迫ひっぱくされてあまり心に残っていなかった。


 しかしながら自分は主にだけは恵まれていたと思う。河元かげんは物静かで恫喝したり乱暴したりするような男ではなかったし、瑜順は少し変わっていたが何より文字を教えてくれた恩人だ。自分でも好きだとはっきり言える。


(楓氏ってなんだろう……)


 謁見の場でのことを反芻した。きっと瑜順は他とはなにか違う、特別な天命のもとに生まれた人だ。だからあまり飲み食いもしないのだと思ってきた。あれほど人離れした美しさで慈悲深いなら、もしかすれば神仙に近いのかもしれない。現にそうみたいだった。この旅が終われば一泉に戻り、ひん州を出てまた戦いに行ってしまい、平和が戻れば北の霧のなかに帰っていく。こちらは、再び英霜えいそうでずっと泉賤として働く。


 水を汲み、洗濯をして、籾殻もみがらり分け、糸を紡ぎ、毎日毎日同じことの繰り返しで。


 名もなく、あれやそれと顎で使われ、時には侮蔑や嘲笑に晒されてきた。


 河元は良い主人で、感謝もしている。しかし自分自体を見てくれるような主ではなく、惜しまれはしない。心の中の欲求は満たされたことはなかった。


 ――――外見だけで必要とされるなら、そちらのほうがいいのかもしれない。


 九泉主はただいるだけでいいと言ったのだ。もちろん、そんなのは落ち着かないからある程度の世話はさせてもらうかもしれないが、欲しいと言われたのは初めてで、いまだ戸惑いとえも言われぬ嬉しさで胸がどきどきとした。

 でも、と明かりのつけていないへやを見渡す。ここに残るなら、もう一泉には帰れない。ひどい人も多かったが、良くしてくれた泉賤仲間だっていた。河元にも戻ったら再度礼を言うつもりだった。残るなら、もう会うことはない。おそらく、一生。



「若藻、いるか?」



 声が隔扇とびらの向こう側から聞こえ、返事をすれば複雑な表情の青年が白い顔を覗かせた。ふだんの鉄面皮がどことなく悲しげにこちらを見ている。

「瑜順さま」

「若藻、俺は君の好きなようにすればいいと思っている。気を遣う必要はまったくない。遣われても嬉しくない。……君は聡いから、自分の気持ちよりも何が最善なのかを優先して決めてしまいそうで、俺は嫌なんだ」

 膝をついて目線を合わせてきた主はひどく優しい声音だった。

「……瑜順さま。九泉主はほんとうに、並べた石を飽きて砕いたりなどしないでしょうか」

 すでに半分、答えを決めている言葉に本気で辛そうにした。やっぱりお優しいな、と俯く。あの囚われの牢で出ったはじめから、瑜順は丁寧で情深かった。

「……明日から、同じ砂人の下官が来てくれる。彼女らの振る舞いを見てゆっくり決めればいい」

「ゆっくりしている暇など、ないのでは?今度いつ九泉主に会えるのかも分からないのに」

 屯蹇あしぶみしている余裕はない。今も一泉では仲間が戦って死んでいる。瑜順は目を閉じた。小さな両肩を掴む。

「こんなことなら、やはり連れてくるのではなかった」

「ほんとうに、そうお思いなのですか」

「子どもを駆け引きの道具に使うなんて、自分に腹が立ってしようがない」

 絞り出した声に少しだけ驚く。ややあって、微笑んで手を握り返した。

「瑜順さま。わたしはもう、子どもではありません。自分のことは自分で決められますから」

 こちらの名を呼び掛ける声は重く沈んだまま。

「英霜に帰っても、また同じ毎日が来るだけです。ひょっとしたら、戦に巻き込まれて死んでしまうかも。それなら九泉で花を摘んで、ふかふかの芝生でお昼寝していたほうが幸せです。務めから逃げた卑怯者と言われようと、九泉主がそれでいいと置いてくださるなら、そっちのほうがいいに決まってます」

「……嫌になっても、一泉には帰れない」

「なりません。きっと」

「九泉主は掴めないお方だ。心から信用はできない」

「それでも、この国を見ていれば民から慕われているのは分かります。大丈夫です」

 心配そうに自分を見つめる頬を包んでも、拒絶はされなかった。

「瑜順さま。短い間でしたが、わたしはあなたと過ごせて幸せでした。そして天運を掴みました。これからもっと幸せを見つけるために生きます。――――置いていってください。お願いします」

 語尾は震えて、まなじりから雫が零れた。なんだろう、と笑ったのを、いつかと同じく少し硬い指の腹が拭ってくれる。

「……棨伝てがたを割る。俺が九泉から出たら、もう昔のことは一切忘れなさい。いいね?」

 はい、と頷いたのに、瑜順は頷き返した。


「君は俺たちにとって、救いの洛嬪めがみだ」


 ありがとう、と言った声が静寂しじまに柔らかく染み込んだ。







 夕暮れ、燃え朽ちていく陽が水面にあかい影を揺らめかせ、黄昏は青藍の夜を連れてきた。


「…………私の麗春花ひなげしは元気にしているだろうか…………」


 泉のなかでぼんやりと緋色が冴えていくのを眺めていれば、道の端に杖をついた老臣の姿が見えた。


「――――泉主」

「久しいな、崔遷」


 言いながら髪を絞る。崔遷は立ち止まり、目を細めた。

「夜の泉はお身体からだが冷えますよ」

 主は水音を立てて上がってきた。下官に体を拭かせながら微笑む。

「酔妃に嘉藻うたを贈ったと。大層気に入っていた。ける」

「泉主のかんそむくのは本意ではありません。お許しを」

 自らに羽織らせた衣を揺蕩たゆたわせながら裸足で近づく。片方の眼に、ほのかに色の入った煙水晶の眼鏡を掛けた。

「怒らぬよ。こちらは別のものを贈られたからな。どうだ、一杯?」

「では、ご相伴しょうばんあずからせて頂きます」

「お前には椒柏酒くすりざけのほうが良いか?」

 問われて苦笑いした。「お正月はとうに終わりました」

「年中そんなようなものだ。それに、お前にはまだまだ長生きしてもらわねば私が困るのだ」

 罩灯ぼんぼりを浮かせた涼亭あずまやに辿り着き、用意された酒肴に手を伸ばす。老臣に注いでやった。崔遷は朧月の浮いた盃を眺めて静かに問う。

「……効薬を、存分にお与えになったとか」

 手酌であおり、口端に垂れたのを指先で取りつつ主は頷いた。

「無論だろう。他ならぬお前の頼みを私が無下にすると?」

「それはもったいないお言葉でございます。いえ、かなり放って置かれていたのでどうしたものかと思っておりました」

 聞き流し、無言で湿ったままの髪を耳に掛ける。崔遷は酒の進みが速いのを見咎めた。

「とてもたのしそうに見えますね」

「当たり前だろう」

 欲していたものが手に入って上機嫌なのだ。まわりを見れば下官は皆、見目の珍しい者ばかり。

「瑜順どのと、ゆっくりお話しできたとか」

「そう」

 主は思い出して可笑しげにした。

「どうかしましたか」

「やはり梓氏は素直で可愛らしいな。私の言ったことを鵜呑みにして、それを又聞きした楓氏も疑いもしていない」

 酔いにまかせてついに噴き出した。肩を揺らした反動で盃から少しこぼれる。まるで気に止めず、片手で口を押さえた。


 そして、笑いの波が引いたあとには酷薄に冷たく目をすがめた。

「――――この九土てんかの神が、禺疆なわけがないだろう。文献が散佚さんいつしているといえ、安直に過ぎる推理だ」

「お教えしなかったので?」

「教えなくとも支障なかろう。私は否定も肯定もせなんだよ。ただ、黎泉のことは……もうしばし、時がる」

 ふむ、と崔遷はひげを撫でた。言ったきり俯いた主。おそらく、頭を上げれば、


「………………ごめんね、崔遷。気を悪くした…………?」


 おどおどと瞳を揺らす気弱なかおが浮かんだ。

「困らせたいわけじゃないの」

「分かっておりますよ」

「ただ、は、みんなに仲良くして欲しくて……」


 観測者としての九泉主。彼はいつでも舟の上なのだ。魚たちと一緒になってたわむれることは出来ないし、どちらか一方を身びいきすることもない。しかし、平和を願いはすれども魚たちの戦いを止める仲裁者ともならない。


の楓氏も綺麗な面立ちをしていたがね、瑜順もとんでもなく美人だった。女なら留め置いたものを」


「いや、美しすぎるのはだめじゃ。すぐ飽きてしまう。それに、楓氏じゃぞ?」


「眼は赤くはなかったなあ。子犬のようでたいそう可愛らしかったこと」


「――――いずれにしても」


 すっ、と真顔になり酒に濡れた黒い爪先で白い唇を撫でた。



「あれはただのちぬられた人偶ひとがたにすぎぬ」



「……上手くは、いきませんか」

 問うたのには思案する色が浮かんだ。

「『叩扉こうひの儀』に試しはない。勝負は一度だけ、やってみなければ何も分からない。楓氏の存在とその意義についてはまだまだ分からないことばかりなのだ。……予見は出来るがな。あくまで私の想像に過ぎない」

「止めないので?」

「止められると?饕餮の一泉と神の末裔を?」

 冗談だろう、というように肩を竦めた。

「遠縁のお前が警告しても進み続けるさ。梓氏にはその権力ちからがある。胡仙がついているのならなおさら今度こそ成功させようとするはずだ。……まあ、たとえどのみち」

 眼鏡の玉紐を揺らして頬杖をつく。


「彼らが成功してもそうでなくとも……この九天九地せかいおわりはじまりに向かって息を弾ませてゆく。現状、我らの棲むこの時代ときは、いまだ救恤すくいのない九泉よみ折山くに


 大きく溜息を吐き、下官のひとりを呼んだ。静かに涼亭に入ってきたその手を両の掌で包む。

「憂える心をなだめねば、影現ようげん瞬間ときまで耐えられぬ」

 覗き込み、優しげに目を細めた。

悠久完畢とおいおわりの生の無聊ぶりょうを、せめて一時でも慰めておくれ、若藻」




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