求章 於 九泉国〈五〉
「お待ちを。この者は
瑜順がさりげなく庇うように若藻の前に身を乗り出す。
「泉賤には戸籍はなく、給地もない。それに、この場でそれを言うのは
「……それでも、お待ちください。私は若藻を差し出す為に連れてきたわけではございません。泉主は、珍しきものなら、人でもその範疇なのですね」
「そう。このように
「砂人……」
若藻は脳裏に自分を同じように呼んだ影を思い出した。呆然としたのに対して泉主は微笑んだ気配をさせた。
「心配はない。私はただ汝に小鳥のように並んで
泉主は釣り糸を垂らす。傷つけず
「わ、わたくしは……」
どうするのが正しいのか分からず、若藻はいまだ固まったまま縋る目で見上げた。瑜順は深々と腰を折る。
「この件につきましては、どうかお時間を頂きとうございます」
「代わるものを汝が差し出せるか」
「そうではなく。これも混乱しておりますれば、下命を整理させる暇が必要かと存じます」
少女が倣って頭を下げたのに
「分かった。許す」
はい、と若藻は泣きそうに答え、そのまま
崔遷が若藻を同行させるよう言った理由に今さら得心がいった。内心舌打ちし、瑜順は壇上に向き直る。
「仮に若藻を差し出せば、効薬は必ず分けて頂けるのでしょうか」
「――――その前に。お前があの女たちから聞き及んだことを余すところなく言ってみろ」
再びがらりと雰囲気が変わった。得体の知れない様子に思わず身構える。
「そう睨むな。
「聞き及んだこと……何から、申し上げればよいか」
泉主は脚を組んで身を反らした。
「では答えやすいよう俺が訊いてやる。まず、楓氏とはなんぞや」
「……
「特性は?」
「水や食物を受けつけない。由歩だが、それ以上の力……『
「少なくとも泉水は飲めない。
「……おおよそ飲むものではありません」
はは、と泉主は笑った。
「そんなものを命水として崇める我々は、お前から見ればさぞ
「黎泉にあるという天上の水門を監視する門卒のようなものかと」
「なんだ、詳しくは聞いてないのか」
「太后さまからは、監門であるがゆえに門の領域に辿り着く
首を振るのにさらに含み笑う。
「そんな理解でよく従ってるな」
「聞いたのはこれだけではありません。この世界についても」
遮って泉主は手招きした。
「来い、瑜順。そこは足が冷えるだろ。酒といきたいが今は茶でも飲もう」
「……
「そんなようなものだ。いいからこっちに座れ」
静かに壇上に近づき、登ってみると玉虫色の台座には
「おいおい、
「狗で十分です。お構いなく」
泉主は無感動に言い返されても微笑し、再び下官を呼び立てて茶盆を持ってこさせる。瑜順はぞんざいに差し出された
「なるほどな。えらく
「やはり?……なによりです。それで、大泉地に関してですが」
「神についてか。どう教わった」
器用に布の下で別のものを
「大泉地の神とは、北の守護神、
泉主は黙ったままさらに一口茶を飲んだ。
「納得は出来ます。黎泉は世界の北にあり、各国の主泉も北、かの神は西北から
「それでお前は
「外界とは閉ざされた、ここは『もともとあった
見返せば頷いた。
「この地は黎泉から湧く由霧で隔絶された異郷。諸説あるなかで、たしかに泉民の間で信仰される創世神・天帝とは
「泉外地とは、神世の大戦のおりにこの世界を創成しお
「――――かつて、霧海には、三十六の異族がいた。しかし今ではたったの四部族。霧の裂け目に棲み、
「……それが、『選定』を受けた者。すなわち、族主」
「そうだ。そしてお前の母たちはその力を使ってこの地に亀裂を入れようと試みている。天の水門の『開閉』によって」
泉主は片膝を立て、己の白い
「瑜順、天門については聞いたのか」
「おおよそは……。
とはいえ否定しては自分という存在に対してもっともらしい理由が消える。それが無性に怖い。泉主は掌を
「我らの天とはすなわち黎泉。黎泉には、
「徳の門と、不徳の門。
「この門の均衡を乱す、つまり本来の『開閉』を人為的に行うことにより大泉地にはなんらかの影響が起こる。瑜順、徳門が常に開いているとは、どんな状態だ?」
「該当する泉国が無事であるということ。つまり、泉根である泉主が君臨しているという証」
「その通りだ。徳門が開いていれば不徳門は必ず閉じている。泉根が途絶えれば徳門は閉まる。それは泉の
「泉主とは、泉地の浄化の力であり、徳門を開いておくための存在……」
しかし、と顔を上げた。「外門の徳門が閉まれば、内門の不徳門は開くものだと聞きましたが」
「正当ならばそうだ。そもそも、門は何のためにあると?」
「この大泉地は、
「理解が早くて良い。つまるところ泉主とは
瑜順は
不徳門を開けるには『鍵』である泉主の存在が必要不可欠だが、泉主は『
「……私に、その門をどうこうする力が本当にあると?」
「俺も直に見たことなどないから、やってみなければ分からないが、やる価値は大いにある。その為に
瑜順は頷いたが、いまだ咀嚼出来ないというふうに見上げた。
「獣の九子は泉主の
「瑜順。九子のなかで、初めと終わりの二子は他の七子とはまるで力が異なる。
「ない?だとしたら……いったい天門はどうなって……」
「椒図においては
思い当たる感覚に視線を合わせた。
「この大泉地において重要なのは外界から『閉ざすこと』だった。ゆえに
しかし悠々としておおよそこのことに頓着ないようだ。
「……あなたさま自身はまるで他人事ですね」
「そうでもないぞ。
けれど、どこまでも上から眺望しているような言い草だ、と瑜順は茶杯を卓子に置いた。
「であれば、椒図をお貸し願えますか」
「小梓もお前も貸し出せと言うが、戻ってくる保証があるのか」
「……それは、分かりかねます」
だろう、と泉主は目尻に笑い皺を寄せた。頬杖をつく。
「ひとつ、これだけは言っておく。九泉だけは
「……試す価値はあります」
泉主はひとつ息を吐き、しばらく憂うように眺めたが、やがてにやりと笑った。
「分かった。要求は飲んでもいい。が、あの砂人を寄越せ」
「本気なのですか」
「本気もなにもいますぐここに呼び出して愛でたいくらいだ」
言えば遠慮もなくじとりと睨まれる。
「失礼ながら、幼き者への
「
「まあそんなことは諸官に尋ねて裏付けを取れば済みますが。しかし問題は本人です」
「そんなもの、お前がここに残れと命じればいい話だろうに」
首を振った。「立場上、私は主ではありますが、あれの心までを縛るつもりはありません」
「ふん、
瑜順は暗い殿の向こうを透かすように見た。
「……若藻は、私が他人とはまるで異なると知っても、言い立てたり気味悪がったりしなかった。むしろ慕ってくれたことは素直に嬉しかったのです」
「今までの己と重ねたか。砂人は見目からして我らとは違い
「いずれにしても、若藻が是と言わないのであればお渡しは出来ませんし、言うよう圧力をかけるつもりもありません」
泉主は頑なさに呆れた。
「顔に似合わぬ硬骨漢め。それは効薬を手に入れられないということだぞ。そうなれば一泉で多くの仲間が死ぬ」
瑜順はただ黙した。九泉主はこれでもかなり譲歩してくれている。若藻ひとりをここに残せば薬を全て揃えられる。天秤にかけることではないと言う。自分もそう思うが、それでも即答は出来ない。
「……九泉の気は、
「泉水が浄化する。この地では生まれる数は少ないがたいていは大きな病もせず緩やかに歳をとり百を数える頃に眠るように消える」
穏やかな死を約束された九泉国。泉宮でこの男に
「返事は急がずとも良いぞ。そっちはどうか知らないが」
億劫そうに立ち上がる。「俺は忘れやすいから早めのほうが助かる。そうだ、若藻を安心させたいから同じ砂人の下女を客殿に付ける。言っておくが、諦めないからな。覚悟しておけ」
裸足でぺたぺたと階を降り、背を向けたまま手を振る。
そうして闇に紛れて消えた。
――――わたしが残れば、薬を手に入れられる。
九泉主は紛れもなく、あの日
(わたしは、砂人というのか)
知らなかった。自分と同じような者に出会ったことがなかったからだ。泥を塗りこんだように黒い肌は奇異で好奇の目をよく引いた。
しかしながら自分は主にだけは恵まれていたと思う。
(楓氏ってなんだろう……)
謁見の場でのことを反芻した。きっと瑜順は他とはなにか違う、特別な天命のもとに生まれた人だ。だからあまり飲み食いもしないのだと思ってきた。あれほど人離れした美しさで慈悲深いなら、もしかすれば神仙に近いのかもしれない。現にそうみたいだった。この旅が終われば一泉に戻り、
水を汲み、洗濯をして、
名もなく、あれやそれと顎で使われ、時には侮蔑や嘲笑に晒されてきた。
河元は良い主人で、感謝もしている。しかし自分自体を見てくれるような主ではなく、惜しまれはしない。心の中の欲求は満たされたことはなかった。
――――外見だけで必要とされるなら、そちらのほうがいいのかもしれない。
九泉主はただいるだけでいいと言ったのだ。もちろん、そんなのは落ち着かないからある程度の世話はさせてもらうかもしれないが、欲しいと言われたのは初めてで、いまだ戸惑いとえも言われぬ嬉しさで胸がどきどきとした。
でも、と明かりのつけていない
「若藻、いるか?」
声が
「瑜順さま」
「若藻、俺は君の好きなようにすればいいと思っている。気を遣う必要はまったくない。遣われても嬉しくない。……君は聡いから、自分の気持ちよりも何が最善なのかを優先して決めてしまいそうで、俺は嫌なんだ」
膝をついて目線を合わせてきた主はひどく優しい声音だった。
「……瑜順さま。九泉主はほんとうに、並べた石を飽きて砕いたりなどしないでしょうか」
すでに半分、答えを決めている言葉に本気で辛そうにした。やっぱりお優しいな、と俯く。あの囚われの牢で出
「……明日から、同じ砂人の下官が来てくれる。彼女らの振る舞いを見てゆっくり決めればいい」
「ゆっくりしている暇など、ないのでは?今度いつ九泉主に会えるのかも分からないのに」
「こんなことなら、やはり連れてくるのではなかった」
「ほんとうに、そうお思いなのですか」
「子どもを駆け引きの道具に使うなんて、自分に腹が立ってしようがない」
絞り出した声に少しだけ驚く。ややあって、微笑んで手を握り返した。
「瑜順さま。わたしはもう、子どもではありません。自分のことは自分で決められますから」
こちらの名を呼び掛ける声は重く沈んだまま。
「英霜に帰っても、また同じ毎日が来るだけです。ひょっとしたら、戦に巻き込まれて死んでしまうかも。それなら九泉で花を摘んで、ふかふかの芝生でお昼寝していたほうが幸せです。務めから逃げた卑怯者と言われようと、九泉主がそれでいいと置いてくださるなら、そっちのほうがいいに決まってます」
「……嫌になっても、一泉には帰れない」
「なりません。きっと」
「九泉主は掴めないお方だ。心から信用はできない」
「それでも、この国を見ていれば民から慕われているのは分かります。大丈夫です」
心配そうに自分を見つめる頬を包んでも、拒絶はされなかった。
「瑜順さま。短い間でしたが、わたしはあなたと過ごせて幸せでした。そして天運を掴みました。これからもっと幸せを見つけるために生きます。――――置いていってください。お願いします」
語尾は震えて、
「……
はい、と頷いたのに、瑜順は頷き返した。
「君は俺たちにとって、救いの
ありがとう、と言った声が
夕暮れ、燃え朽ちていく陽が水面に
「…………私の
泉のなかでぼんやりと緋色が冴えていくのを眺めていれば、道の端に杖をついた老臣の姿が見えた。
「――――泉主」
「久しいな、崔遷」
言いながら髪を絞る。崔遷は立ち止まり、目を細めた。
「夜の泉はお
主は水音を立てて上がってきた。下官に体を拭かせながら微笑む。
「酔妃に
「泉主の
自らに羽織らせた衣を
「怒らぬよ。こちらは別のものを贈られたからな。どうだ、一杯?」
「では、ご
「お前には
問われて苦笑いした。「お正月はとうに終わりました」
「年中そんなようなものだ。それに、お前にはまだまだ長生きしてもらわねば私が困るのだ」
「……効薬を、存分にお与えになったとか」
手酌で
「無論だろう。他ならぬお前の頼みを私が無下にすると?」
「それはもったいないお言葉でございます。いえ、かなり放って置かれていたのでどうしたものかと思っておりました」
聞き流し、無言で湿ったままの髪を耳に掛ける。崔遷は酒の進みが速いのを見咎めた。
「とても
「当たり前だろう」
欲していたものが手に入って上機嫌なのだ。まわりを見れば下官は皆、見目の珍しい者ばかり。
「瑜順どのと、ゆっくりお話しできたとか」
「そう」
主は思い出して可笑しげにした。
「どうかしましたか」
「やはり梓氏は素直で可愛らしいな。私の言ったことを鵜呑みにして、それを又聞きした楓氏も疑いもしていない」
酔いにまかせてついに噴き出した。肩を揺らした反動で盃から少しこぼれる。まるで気に止めず、片手で口を押さえた。
そして、笑いの波が引いたあとには酷薄に冷たく目を
「――――この
「お教えしなかったので?」
「教えなくとも支障なかろう。私は否定も肯定もせなんだよ。ただ、黎泉のことは……もうしばし、時が
ふむ、と崔遷は
「………………ごめんね、崔遷。気を悪くした…………?」
おどおどと瞳を揺らす気弱な
「困らせたいわけじゃないの」
「分かっておりますよ」
「ただ、ぼくは、みんなに仲良くして欲しくて……」
観測者としての九泉主。彼はいつでも舟の上なのだ。魚たちと一緒になって
「あちらの楓氏も綺麗な面立ちをしていたがね、瑜順もとんでもなく美人だった。女なら留め置いたものを」
「いや、美しすぎるのはだめじゃ。すぐ飽きてしまう。それに、楓氏じゃぞ?」
「眼は赤くはなかったなあ。子犬のようでたいそう可愛らしかったこと」
「――――いずれにしても」
すっ、と真顔になり酒に濡れた黒い爪先で白い唇を撫でた。
「あれはただの
「……上手くは、いきませんか」
問うたのには思案する色が浮かんだ。
「『
「止めないので?」
「止められると?饕餮の一泉と神の末裔を?」
冗談だろう、というように肩を竦めた。
「遠縁のお前が警告しても進み続けるさ。梓氏にはその
眼鏡の玉紐を揺らして頬杖をつく。
「彼らが成功してもそうでなくとも……この
大きく溜息を吐き、下官のひとりを呼んだ。静かに涼亭に入ってきたその手を両の掌で包む。
「憂える心を
覗き込み、優しげに目を細めた。
「
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