二十四章



 采舞さいぶは淮州都曲汕のある華囲かい郡は南端の泰林たいりん県に属し、浜陽関のある積栄せきえい郡との郡境に接した付近一帯の郷里に流れる泉水を一括管理する都水台が備わる主要な県郷である。南北を曲汕と大関門をそなえる浜陽に挟まれている為に人口は多くはないが、広い主泉に加えて大小二つの大泉を擁し貯水塔の数は十、八馗軍は余水のあるこの郷に滞在していた。


 剛州の水門が開き水には困らなくなったものの突然に雑な偽文書を突きつけられ断交を求められた八馗軍の将たちは、たいして大きくもない県城の一房を借り受けて今日も軍議をこじらせていた。



「やはり征南軍に合わせていちど巌嶽がんがくへ戻り、本営に直接今の状況を確かめたほうがいいのでは」

 保蹼ほぼくが難しげに言った。それに異を唱えるのは褒具ホーグ森悦シンエツ

「泉宮でも謀叛が起きたと。ということは大将軍以下京師兵きんぐん諸将の安否、なにより泉主と太后の存命すら分からないのだろう。戻ったところでさらに混乱するに違いないぞ」

「水が腐っていないことを見るに泉主はご無事なのでしょうがすでに敵の手に落ちたやもしれませんし、なにより本営が機能していないならば我らはいったいどのような立場でこの戦を乗り切ればいいのです?一方的に同盟の解消を求められましたが、血璽が本物なのであれば脅されて書いたにせよこれは一泉としての正式なものということになります。この状況で我々が戦い続ける理由はありますか?」

 富隆フルンは顎をさすった。「他軍の動きで分かっているのは今のところ報せをもらった征南軍のみ。征東軍、征西軍の動きはまるで伝わってこない。指揮系統と連繋が崩れているとすればもはやどの軍も我らと同じく混乱のさなかだろう。しかし血璽文について言えばこれは眉唾ものだな。たとえ本物であろうとも一方的に送りつけて白紙になるような類のものではない。それに宮の最大権力者たる太后の龍印りゅういんもない。同盟を結ばせた当事者を蚊帳の外にして作られた勅旨というのも一泉朝廷ならば有り得ない」

「極めつけに解せぬ問題は水虎によってもたらされた公布であろう」


 ぼそりと言ったのは霧界から山越えして合流した八馗鑲白じょうはく軍の佟原トーゲン。富隆とは正反対に寡黙で口数少なく、狩人かりゅうどのように鋭い目つきで地図を見下ろした。呟きに保蹼が頷く。


「おかしな宣布です。泉主は越位えついの王で淮封侯は兄君であられます。もし泉主が禅譲なされたのが事実としても、淮封侯に継承権が戻ることは有り得ない」

「それが有り得る場合とはどういうものだ?」

 それは、と動揺した。

「……泉主に続く泉根がいないのであれば、あるいは。しかし王太子に加え王弟君もおられます。そもそも継承順位が上位の方が存命しているのに越位が起こること自体が珍しく、それほどまでに王位を廃された淮封侯に改めて降勅こうちょくするとは到底考えられません」

「もし布告が真実ならば他の泉根全てを殺しても泉は涸れない」

 保蹼はただ首を振った。「次代のないまま泉根を枯らす危険を冒してまで絶やし尽くすなんてことは」

 富隆も同意した。

「王族を皆殺しにして諸官の支持が得られるとは思えぬ。それよりも現泉主を籠絡か幽閉かして生殺しにした上で政権を盗ったほうが容易たやすかろう」

「それならば侯王が立ったと言ってもおかしくはない。いずれにしても民には誰が真の王かなぞ泉の汚濁おじょく以外に判断できる基準がないですからね」

「それで、我らはどちらにつくのですか」


 皆が沈黙して韃拓を注視した。黙ったままの主は腕を組んで答えない。富隆が息をつき、

「ともかく、曲汕を攻めるのは今は時ではないな。同盟を破棄するつもりはこちらは毛頭無いが、一度胡仙さまに伺うのも手だろう。重州都に向かわせた五千と征西軍に同行した八馗も呼び戻して」

「淮封侯はいまどこにいる」

 言を遮って韃拓が問うた。それには保蹼が返す。

「淮州軍が曲汕から移動していないとみるに泉畿へは上っていないのではありませんか。そもそも州境から戻って来たのは宮城の謀叛と示し合わせて防備を固める為だったのでしょう」

「もしそうでも、なんで征東軍を無視して戻った。水門の開いた今、征東軍が南下してくれば俺たちと挟まれて不利なのは目に見えている」

 一同は図面を見下ろして悩む。


「征東将軍は州境で関を鎮護しているから、こちらまで攻め込んで来ないと読んだのでは。それに泉南から避難してきた民の対応で城攻めどころではないだろう」

「いいや……違うな。州軍は明らかに俺たちを警戒して封侯のいる曲汕まで戻って来た。背を見せても大丈夫な何かがあるんじゃねえか」

「何か」

「攻められない絶対の自信がある」

 富隆が唸る。

「征東軍になにか良からぬことが起きた」

 韃拓は首肯する。「南下出来ない事態が生じた。それを知って淮州軍は根城まで戻った。もしかしたら泉畿へ移動するかもしれない」

「ちょっと待て。では征東軍はもう壁を崩されたということか」

「そう考えたら自然だろ。俺たちの進みが速いのを危ぶんだんだ。ここで攻めなきゃあいつら親玉を守りながら剛州へ行く。そうしたら戻ってる征南軍とぶつかる。大将軍と前左将がいないなら兵をられた可能性もある……俺たちが曲汕を押さえるべきだ」

 湯呑みを地図の黒点に置いた。皆はそれを注視する。隅で宣尾センビが言った。

「しかし攻めてどうする。万一公布が真実であった場合、我々は逆賊になる。そうすれば同盟の継続はおろかこうして泉地で戦うことそのものの意味がなくなるぞ」

「淮封侯を俺たちで奪う。それで何が起きているか訊く」

 保蹼が息を飲んだ。

「封侯王の奪取……」

「もし本当に泉主になったのなら改めて同盟の是非を問う。否と言おうと従わせて傀儡かいらいにする」

 せせら笑った。

「そうすれば一泉は俺たちのもんだぞ。泉主がこちらにいる限り手出しは出来ねえ」

「おいおい、何を言い出す」

「同盟をが新たに結びなおす。そうすれば今の約定は白紙だ。太后もいないのならそれは出来るはず、なにより簒奪さんだつして即位した泉主なら遠慮も要らない。俺たちが国を乗っ取っても文句は言わせない」


 わずかな沈黙は主が本気でそう言っているのを確信した間だった。保蹼が冷や汗を垂らした。

「一泉を……征服すると?」

「結果的にはそうなるかもな」

「待ってください。いまだ諸軍の動向は分からず、禁軍大本営の旗色も定かでない今、そのように安易に事を進めるのは危険です。それに、もしそういうおつもりなら私以下一泉兵はあなた方に加担することは出来ません」

 韃拓は、ふうん、と目を眇めた。

「生きて軍を抜けられるとでも?」

「もちろん、それは考えておりません」

 保蹼は即座にひざまずいて見つめ、腰に帯びた剣を外して膝の前に置いた。

「国を裏切って角族兵にはなれません。しかし、どうか私と引き換えに一泉兵は解放してください」

「無理だな。こちらの動きを流されちゃ困る」

「……では、致し方ありません」

 居住まいを正す。保蹼さま、と一泉兵の配下が狼狽したが無視した。見下ろした韃拓は剣を拾い上げ、刀身を引き抜く。それを彼の首に添えた。

「言い遺すことは?」

「……私は、独り身です。家族もおりません。しかし、公私共に目をかけて頂いたべん将軍には、どうかご息災で、と」

「努力する」

 それで目を閉じる。膝の上で拳を握り直した。

「おい、黄仙」

 富隆が咎めたがそちらも無視された。韃拓が剣を構える気配がし、一瞬ののちに風を切る音が響く。衝撃に備えた保蹼は掠めた感触に怪訝な面持ちで瞼を開け、直後、はらりと引きつめていた髪が顔に垂れかかる。


「…………?」


 頭の上に手を置けば緇撮まげが断ち切られていた。慌てて見回すとそれは地に落ちている。驚愕して目の前の得意気な顔をした青年を振り仰いだ。

「………どういうことです⁉」

「見上げた忠義だ。お前に免じて征服の件は保留にしてやる。よく考えれば泉主はともかくあの太后がそう簡単に死ぬわけないからな。全ては淮封侯を確保して巌嶽に戻らないと何も分かんねえ。それまで泉地に詳しい兵は必要だ。お前は俺たちに同行してくれなきゃ困る」

 保蹼は目を瞬かせた。韃拓のことだから何の躊躇もなく首をねると思ったのだが、彼は剣を鞘に丁寧に収めて差し出してくる。受け取ったものの依然困惑している表情にさらに可笑しげに目を細めた。

「なぜ…」

「俺はお前を気に入ってる。それに壱魴もいけ好かないがまあ悪い奴じゃない。あいつに怒られるのはごめんだし、ちょっとばかり惜しくなった。それだけだ」

 そう言ってなんの拘りもなく手を振り解散を告げ出て行く。途方に暮れて見送っているとぼそりと声が聞こえた。

「相も変わらずの気まぐれようだ」

 渋い顔で呟いたのは佟原でまだ座り込んだままの保蹼を見下ろした。

「もうけたな」

「理解が追いつきません」

 だろう、と頷く。「見たところ狩りに情を挟むおぬしに瑜順を重ねておるのだろう。あんな頭の悪いのでも自身のたがの必要性は分かっているようだ。懸念することはなんでも言ってやれ」

 なおも首を捻った保蹼にそれ以上は言葉を交わさず、彼もまた去って行った。




 采舞に留まってさらにひと月経ったが泉畿の様子は一向に分からなかった。水虎を借り受けて送っても返信は無く、こちらの動きが敵に露見することを危惧して取り止めた。走らせた斥候によれば剛州の水門は開いているものの陸路の関門は閉じたまま、連絡の取れた征南軍も関を越えられず桐州との州境で足止めを食っている。ということは剛州軍はあちら側に落ちたとみていい。征東軍とはいまだ音信不通、そしてようやく征西軍の詳細が壱魴経由で届いた。


「瑜順が人質だあ?」

「のようだ」


 何やってんだあいつは、と呆れる。

「征西将軍によれば自らひん州州都に赴いたとか。それで州牧刺史と入れ替わり、彼らは泉畿へ護送された。八馗からひとり同行者がいる」

 文を読み進めた富隆にそれは誰か、と宣尾が尋ねた。

蒼池ソーチだ。英霜えいそうに入った使者は瑜順含めて残り四人、今もそのままおるようだな」

「宮城に戻っているというなら、連絡が取れないだろうか」

「謀叛が泉宮内部で起こったのならそもそも無事かは分からんな。うまく抜け出してくれていればいいが」

「ともかく、彬州では膠着している。征西軍と加勢の禁軍左軍の一部はそう州に向いていたが巌嶽での謀叛を受けてこちらも混乱しておる。しかし惣州軍が剛州に入って合流されては困るからな。おそらく征南軍も加わって三軍で叩く気ではと思う。我々は時同じくして曲汕に攻め入る」


 このひと月様子を見ていたがいまだ淮州軍は州都から動かないままだ。征南軍が桐州東側を空けるならそちら側へと動く可能性もある。大まかな段取りを組んでいた富隆と佟原は無言で額を押さえていた韃拓に顔を向けた。


「どうした」

「……今、思い至ったんだけどよ。淮州軍が州境を気にせず曲汕に戻ったのは、敵がいなかったからとも考えられるよな」

「何?」

 扳指ゆがけをいじりながら剣呑な目をしてみせた。

「後ろを突かれる心配がないのは征東軍がなにかのっぴきならない理由でそうなのかと思ってた。宮城が落とされたなら救援に呼び戻されてもおかしくない。だが、もし征東軍も謀叛に加わっていたとしたら?」

「それなら最初から関門で小競り合いはしていないだろう」

「淮州軍は朴東ぼくとうはじめ淮州剛州間の関門を押さえようとしてたが、佟原さんの言うように、小競り合いだ。本気でやり合ったわけじゃない。数度押しししてそのまま睨み合いだと聞いた」

「…………まさか、演技だったと?しかし、なぜ」

 信じ難く保蹼が顎に手を遣り、他の者も顔を見合わせた。

「泉畿で謀叛の準備が整うのを待っていたのかもしれないし、八馗おれたちを寄せない為に押さえているふりをしていたのかもしれない」

「そんな……そく将軍が裏切るとは考えにくいですが」

「しかしそう考えれば淮州軍がなりふり構わず取って返したのも腑に落ちるな。関門を閉じているのはあくまでも我々のほうを剛州に入れない為……」

 唸った富隆にちょっと待ってください、と森悦が声を上げた。

「では泉畿で謀叛を起こしているのは征東軍ということですか?しかし征東軍が巌嶽の具合を見計らって駐留していたのなら矛盾しませんか?」

「そうだとも。おかしい。ということはいま宮城を占拠しているのは、」

 褒具が続けて顔を険しくした。

「おい、ありうるのか、こんなことが」

 それは場にいる者全員の心を代弁していた。

「まさか大将軍がそむいたということなのか?」



 信じられないことだが、八州の叛乱鎮圧にあたり巌嶽の守護に残ったのは前左軍二軍四営と各将、車騎しゃき将軍の小隊そして本営の中枢で全権において指揮を統括していた大将軍奠牛てんぎゅうだった。このうち左軍一部団とえい将軍迅普武じんふぶは彬州の件で身動きの取れなくなった右軍つまり征西軍を輔弼ほひつするため進発し泉畿から離れた。


 もしかしたら、という空気がさらに流れる。



「――――禁軍全てが、裏切りを?」



「まさか。それはない。現に征南軍は何度も我らと伝令をやり取りしたがそのはなかった」

「分かりませんよ。八州叛乱に乗じた革命……よもや我々はあ奴らの決起に上手く利用されたのではありませんか」

 森悦が保蹼を睨んだ。「当主の気に召したそいつも間者では」

「お待ちを。それはとんでもない誤解です」

「証せはしないだろうが。西の報せは征南軍経由でこちらに回ってきた。それらが全て虚偽で我らを討たんと今まさに進軍している可能性だってある」

「卞将軍がそのようなこと、なさるはずがないでしょう!」

「なぜ言い切れる。見たところたいした所信もなく日和見ひよりみしそうな主だったではないか。禁軍全てが謀叛……もう政変と言ったほうが正しいが、大将軍以下から協力を要請されれば断りはすまい。瑜順らを彬州に差し出し我らの弱味を作ろうと画策し、重州で禁忌の毒でもって八馗壊滅を企んだ」

「こじつけです!」

「保蹼」

 静かな声がして向けば韃拓がひたと見据えている。

「本当のことを言え」

「私はもとより卞将軍もなにひとつあなた方を裏切るような真似はしていません。たとえ私の潔白を信ずる証拠がないとしても、壱魴様が謀略に加わることなど、有り得ないのです」

 言い切って息を詰め見返す。受けてそちらはさらに問うてきた。

「確とした理由があるのか」

 それは、と一瞬言い淀み、ままよ、と声を上げた。


「――――壱魴様は、一泉国主姜坎きょうかん泉帝陛下の末弟君、姜決きょうけつ殿下のお母上であらせられる紀婕妤きしょうよさまの腹違いの弟御です」

「壱魴が王家の外戚?じゃあなんで姉と姓が違うんだ?」

「私も詳しくは。ただ婕妤さまが後宮入りされるおり、壱魴様とその……私奔かけおちしようとしたというお噂があり、そのことで壱魴様は紀家から排斥の憂き目に遭ってしまわれて改姓したと。……真偽はどうあれ、あの方は今でも婕妤さまのことを貴んでおられるのは事実です。そんな壱魴様が、婕妤さまや血の繋がりのある姜決殿下のお命が危うくなるような争いに加担するはずがありません」


 言ってしまったあとで、彼は主名に瑕疵きずをつけてしまったと思ったのかひどく居心地悪そうにした。韃拓は腕を組む。

「たとえ側妾と親族で懇意にしていたとしても軍を巻き込んで一人だけ逆らうとは考えにくい……と、ふつうならそう思うが、俺は信じてもいい」

「当主」

「保蹼。お前が主公しゅこうの為なら命を惜しまない男なのはこのあいだの件で分かってる。俺はお前のその忠義心を信じる」

 はい、と保蹼は噛み締めるような顔をし頭を垂れた。しかしいまだ不服そうな森悦は目許を険しくしたままだ。

「俺は信用出来ません」

鑲纁じょうくん俟斤。いい加減にせんか」

 富隆が言った。「仮にも我々は一泉の同盟軍だ。黄仙がこれらと協調すると決めたのだから八馗はそれに従う。かきせめいでおる場合ではない。お前も保蹼に負けぬ忠信が身のうちにあるのなら主の意向に従え」

「……………主君への赤誠を本人の前で持ち出されれば否とは言えません」

 ようやく折れた彼の肩を叩き頷く。

「お前の言うことはもっともだ。八馗の心配をするのも当たり前だ。だが、ここは抑えてくれ」

 次いで面々を見渡した。

「一泉は混乱の窮みって感じだ。でも俺たちは同盟を破棄しないし一方的な書文も到底受け入れられない。丁度よく王だと名乗る奴がすぐ目の前にいる。まずはそいつに会って俺たちの立ち位置を改めて決める」

 褒具が問う。

「征西軍の八馗はどうする。郝秀カクシュウ中樊チュウハン以下の百五十は今も征西軍と行動しているはずだろう」

「まずは何とか連絡が取れないことにはな。とは言うものの合流するのを待ってはいられない。封侯が曲汕にいる間に攻める」

「八馗が征西軍に殺されている可能性は」

「百五十いたら全滅とまではいかないだろう。西のことはこの際後回しだ。先んじて曲汕に斥候を出す」


「―――ぼくが行く」


 ふいに隔扇とびらが開き、少年が毅然とした面持ちで入って来た。それには皆が首を振る。

「お前はまだ駄目だ」


 鴆鳥毒のせいで高熱にうなされていた那乃ナナイは先頃ようやくまともに起き上がれるようになったところだった。まだ傷の痛みも消えていないだろう。しかし首を振り返す。

「お願い韃拓。もうぼくに弓は引けない。ここで役立たずのままでいるのは嫌だよ。満嵐マンランにも笑われてしまう。重州でもきちんとできたでしょう?」

 右腕は上肢を残して無惨に欠け落ち、これからもっとたくましくなるはずだった若々しい手はもうどこにも無い。利き腕を失くし得物を扱うことも取り上げられた那乃はくやしむよりも自分が軍の荷物となることへ焦りを感じていた。


 やがてそんな彼の頭を韃拓は荒く撫でた。

「……仕方ねぇな。分かった。あと何人か選ぶから、無理はするなよ?」

「子ども扱いしないで。大丈夫、ちゃんと出来るよ」

 もう一度そうだな、と同意し、韃拓らは曲汕攻略の作戦に本腰を入れた。重州都に向かわせていた五千を呼び戻しこちらは総じて二万と少し、対して淮州曲汕にいる州軍は左右中三万五千兵が集結している。その分郡兵には周囲の郷々まちまちを守らせているから州都以外は手薄といっていい。まず足止めを食らうことはないとみた。



 曲汕を訪れたことのある者が保蹼の配下におり、その説明を聴きながら大まかに記された街の地図を見てみれば、州城を北に置いた郷は隔壁が真四角ではなく東西に横長で、それもそのはず、曲汕泉は州城を囲うように引き伸びた広大な泉だからだった。外淵に沿って貯水塔が六、地下に貯水槽二十を持つ堅牢不落の要塞でありさらに壁は外壁と内壁に分かれる。中央南門を大門として北門はなく三方位門とそれぞれに小門がふたつずつあった。水門は西から幹川かんせん、東からは支流の儀水ぎすいが流れ込む。南壁は三つの門の間に下流へと続く二水門を通していた。


 水門というのは陸路である閭門りょもんその他と同じく朝に開き日没に閉まるが、水中に沈む下部は鉄格子や柵になっており流れは滞らない。伝令の水虎はここを通る。流れを狭める時は閉められた。航行する舟は日没までに目的地に入れなければたいてい郊外に設けられた舟着場に停泊し、開門と同時に壁の中に入るのが常だ。また、桐州向筏こうばつでそうだったように舟着場の周囲に門前町が形成されている場合もあった。



 ひとつ、と褒具が指を立てた。

「俺たちの目的は淮封侯を生け捕りにする。で、良いんだよな?州牧その他と兵はどうする。二万全てで真っ向から進軍するなら采舞を出てすぐに隠れようもなくあちらにもバレるぞ。まず曲汕の外に展開される」

「まあ、俺たちの性分としては正面からぶつかって踏み倒して行きたいところではある……が、仮にも壁の中には民がいる」

 保蹼がちらりと韃拓を見た。

「全軍で攻めるなら到着までに民が逃げる余裕もあるだろうが、州軍がそれを許すかも分からないからな」

「民を盾に籠城戦か」

 宣尾が肩を竦めた。「足許を見られるからね。こちらは八馗といえど民を守るべき国軍だ。郊外に布陣はするだろうがおそらく本気でかかっては来まい」

「ではやはり隠密行動か。向筏の時のように?」

「今回はそう上手くはいかない。あちらが我々の動きを把握しているなら攻められることを頭に入れている。警戒の度合いが違う」

「さて……ではどうします。曲汕攻略は難しい?」

「淮封侯はおのが王だと言っておるのだろう。であればいずれは曲汕を出て宮に向かうのではないのか」

 しかつめらしく佟原が言う。

「王がただひとりでいてもまつりごとは出来んぞ。それにまこと泉主ならば正当性を示す為には必ず泉畿に行かなければならん。いつまでもいち州都に留まっていて民に偽物だと判じられれば壁の中は安全とは言えなくなる」

「泉国の市井の民がそれほど戴く主の真贋しんがんに執心するものかね。兎にも角にも水が腐らなければ誰だっていいのだろう」

 我らとは違って、と富隆がぞんざいに手を振った。

「そうであっても国の中枢諸官はそういうわけにもいかない。元首なくして国はまわらない。封侯が曲汕を出御しゅつぎょする機会を狙い一気に叩くのはどうか。壁内よりは戦いやすい」

「しかしそんな悠長にしていられるか。泉畿がどうなっておるかも分からんのに。禅譲が本当なのかも定かでない。嘘なら、我らが手をこまねいている合間に現泉主が殺されるという危険もある」


 どうする、とやはり空論が堂々巡りして視線が主に集まる。彼は前髪を掻きあげた。

「中の民を追い出せばいいってことだよな?だいたいどのくらいいる」

「おおよそ十二、三万です」

 保蹼の配下が答えたのには片眉を動かす。

「州都で十三万?少ないな」

「でなければ州軍全てを壁内に収容は出来なかっただろうな。家々の区画も狭いんだ。一泉の街区というのはどこも道が広い代わりに建物は高楼造りが多い。火難の延焼対策を兼ねているとはいっても階層を重ねては危険が増すばかりだと俺は思う。これでは本末転倒だ」

 宣尾が穏やかに笑う。はたと韃拓は目を上げた。

「ああ……そうか。野焼きか」

「――――なに?」

「州城は最北にあるんだろう?北には門もない。後ろは低い丘。州城の周囲にほりは?」

「ございます」

「好都合だな。橋を封鎖して州城の門前から南に向かって火を放つ」

 保蹼が思い詰めた顔をした。

「敵の巌嶽での攻撃と同じことをするおつもりですか」

 富隆が頷いた。

「なるほどな。州城におるであろう封侯の逃げ場をなくし、民を壁外へ追い出すということか」

「火事だと騒いで早鐘が鳴れば民は門に詰めかける。混乱に乗じて侵入し州城を包囲する。十三万が九門から散り散りに出るならそれほど時間も掛からない。合間に隔壁を占拠して門を制圧すれば本当に逃げ場をなくせる」

「ではやはり街区にまとまった数の仕込みが必要ということですね。忍ばせられるでしょうか」

「どうにかして潜り込ませるしかない。なんならあからさまに郊外に布陣して目を引くという手もある」

「それでは門をるのが難しくはないか?」

 肝要は、と森悦が地図を睨んだ。

「州城に封侯がいることを確かめた上で決起しなければならないということです。火攻めするなら最重要かつ絶対に不可欠なことです。斥候だけで居所が掴めるものとも思えませんが」

「まあそもそも必ず曲汕にいるという確証も得られてはおらんからな。しばらく偵察に時間がかかるのは否めん」


 すぐに斬り込んで行きたい衝動にじりじりとした焦燥があるのは皆同じだ。だがここで急いては今までと同じく角族はただの掠奪者に成り果ててしまう。


「この戦、どのくらいかかるか見当がつかん。輜重しちょうの準備は万全にしておかねばならんし、最悪曲汕を落とせずとも采舞と同じく駐屯できる拠点が欲しい。泉人である保蹼には働いてもらう」

 保蹼は力を込めて頷く。

「幸い全地域に水が通った今、剛州州境に押しかけた民も戻りつつあります。貯水の豊富な郷なら二万程度を賄える所もあるでしょう。ではさっそく、私は内々に各地に要請を――――?」


 みなまで言わず、外の喧騒に首を巡らす。やがて房に入ってきた兵は少し困ったような顔をしていた。

「何かあったか」

 それが、と身を引いた後ろ、暴れる衣擦れと、離せよ、という怒号が響き、首根っこをもう一人の兵に掴まれた小さな影が現れた。


「痛い痛い!おれは敵じゃねえっ!」

「じゃあなんで兵舎の前をこそこそしてたんだ」

 韃拓は驚いた。

小福しょうふくじゃねえか」

「知っておるのか黄仙」

「朴東関で俺を淮封侯に売った小鬼ガキだ」

 なに、と気色ばんだ面々にひっ、と怯え、やっとおとなしくなる。

「なんでお前がこんなところに?またなにか悪さしようってのか?」

「……売ってない」

 俯いて呟くと泣きそうな顔を上げた。そしてもう一度口を開く。

「おれは、あんたを売ってない」

「信じられるかよ」

「売ってたら瑜順も関門を通れなかったはずだろ!あれは手違いだったんだ!」

 友の名を聞き険しい顔をする。小さな少女に近づくと襟首を掴み上げた。

「お前は誰の手先だ。なんでここにいる」

 爪先立ちになった小福は抵抗せず、こぼれ落ちそうな瞳で頭上の顔を直視した。

「敵じゃないってんなら本当のことを言え。子どもったって許されることと許されないことがある」

 氷の声音で威圧され、おれは、とびくともしない片腕を両手で掴んだ。

「華囲郡太守の伝令で来たんだ」

「……どういうこった?」

 思いがけない言葉に場の空気が揺らぐ。

 もういいだろう、というようにようやく緩んだのを引き剥がし、反動で尻餅をついたまま続けて言った。


「淮州封侯王は、あんたらの敵じゃない」


 唖然とした男たちはただ顔を見合わせた。





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