八章



 葛斎の私兵である冬騎とともに安命殿へと駆け戻ると、周辺は逃げ出た男たちが腰を抜かして座り込み、女たちはいまだ泣き止まず、やっと駆けつけた衛士たちが松明たいまつを焚いて事態の把握に努めようと右往左往していた。なにか焦げ臭い空気に包まれて騒然とした広場のなか、人々は道の向こうからやって来る黒ずくめの集団に気がつき動きを止める。到着した冬騎兵は状況をすぐに飲み込むと瘍医官よういかんへの連絡、妃嬪の後宮への送り返しや諸官の保護を手際良く采配し始めた。


 外には羽林を自称していた甲冑の兵も少数おり、すでに捕らえられていたが茫然自失したのかおとなしく項垂うなだれていた。瑜順はそれを見て胸に苦いものを抱えながら開け放たれた大扉の前に立つ。共に進んだ兵が息を飲んだのが聞こえた。



 広大な室内の惨憺たるありさまには言葉も出ない。しかし瑜順はどちらかというと血と漿液の臭気よりも後片付けのことに憂えて顔をしかめた。大卓は倒され割られ、一面赤黒いもので染まっている。置物のようにそこかしこに手やら腕やら四肢をはじめ人の内容物が散らばっており、たおれている者はほぼ羽林兵だったが、逃げ遅れた下官や宮女の遺体も転がっていた。それらを跨いであたりを見回す。彼の姿をみとめた仲間が声を上げた。汚れた唸る顔はまるで血に酔った獣だ。軽く手を挙げるだけにとどめ、広間の中央でいまだ得物を握っている背にまっすぐ近づいた。


「――韃拓」


 呼びかけられて血濡れた顔で振り返った主は咥えていた誰かの片耳を床に噴き捨てた。ぎらつく四白眼の瞳孔が猛虎のように細まったが、後ろの人物が友であるのをみとめるとそれは和みようやく露を払って刀を収める。


「姜恋たちは?」

「ご無事だ」


 返事にそうか、と満面の笑みを浮かべ荒く顔を拭う。破壊し尽くされた卓の間を進み割れていない酒瓶の中身を確認しだした。


「韃拓、余りざけを漁っている場合ではない」

 言ったが無視された。溜息をつく。ともかくも冬騎たちに頼んで死体をすべて運び出さなければならなかったが、損壊ように渋面をつくっているのが面紗ぬのごしでも分かる。しかし仲間たちは決して殺した相手をしつこくいたぶるような真似はしていないのだ。ただ、相手に与える傷はなにも刃によるものだけではなく、時には斬りかかりながら髪をむしり、目をえぐり、耳を食いちぎる。五体全てを使って戦うのが角族の習わしでありそれは人に限らず獣相手に狩りをする時でもそうだった。生命を奪う時には自身の全力をもって相対あいたいしなければ侮辱に当たる。言語化するとそういうことなのだが、彼らの中ではただ単に正に丁寧に――それこそ自分の肉体と魂をぶつけて相手を殺してやるのが良い戦い方だと刷り込まれているから、そうしないと己の心持ちが悪いという感覚なだけなのだった。


 ここに姜恋がいなくて本当によかったと思う。いたらさすがに泡を噴いて気絶していたに違いない。狩りの後の韃拓は雰囲気がまるで別人だ。それなのに普段の笑みを浮かべるから余計に食い違いがおぞましく見える。そういうときは自分の注進でさえ届きはしない。嬉しそうに喉を鳴らして酒を呷るのを見据えて、瑜順はもう一度溜息をつき腰に手を当てた。一服すれば徐々にいつもの彼に戻っていくだろう。



 数えた結果、羽林を名乗る兵は総数四百五十ほどの集団で、そのほとんどが犠牲となってしまった。途中で外に逃げ出していた十人余も未だ口を利けるような状態ではなく、決して自決させないよう厳重に言いおいて連行させた。





 招寧殿は広い院子なかにわを中心に大きく三つ、小さく九つの小殿からなる複合殿で、一番大きな北の主殿は三層の高楼造りだった。慌ただしく夜が明け、韃拓たちはひとまずここに戻されて身の安全を図るという名分で絶対に敷地から出ないよう申し渡された(おそらくこれ以上余計なことをされたくないという意向のほうが大きいのだろうが)。ともかくも身を清めて衣を改め、瑜順が高楼の最上階に指定された韃拓の居室を訪れると、彼はすっかり落ち着いてたばこを食んでいた。


「おう」

「髪くらいちゃんと拭け。風邪をひくぞ」


 本来なら国賓である角族には十分な数の下仕えが付けられているはずだが、いまその姿は少なく隅で二、三人の女官が怯えるように控えているのみだった。韃拓はそれを鬱陶しそうに見やる。瑜順は側に転がっていた紐と櫛を拾い上げた。

「下女に不満があるなら退さがらせれば良いだろうに」

 軽く手を振ると礼もそこそこに逃げるように退室していった。主は無言で痰盂つぼに口中のものを吐き出す。

「びくびくしてるああいう女どもは嫌いだ」

「血まみれで帰ってきたのだから脅かして当たり前だろう」

 聞き入れないふうにつんと顔を逸らして紐を奪うと、背に流したままの髪を一括りにして、それで、と問う。

「あれはほんとに羽林兵だったのか?」

「なにか気づいたのか」

「弱いにもほどがある」

 お前では参考にならないな、と瑜順は首を振る。

「偽の羽林だったとして、未だ真の敵の姿が見えない」

「真の敵?泉主が指図してるんだろ?」

「泉主はただ黙認しているだけ……つまり、何もしていないと言ったほうが正しいだろうな。おそらく不調を理由に宴席に顔を出さなかったのも誰かからこのことを事前に聞いていた可能性がある」

「黒幕がいるのか。誰なんだ?太后はどうだ?」

「昨夜会った感じではそんな企みをはたらいたようには見えなかった。理由もない」

 瑜順はまたも首を振った。「ともかくも早急に太后と泉主と話さなければ。もう事件は宮外にまで伝わっているだろう。俺は何梅さまに文を出すから、お前はいつでも謁見出来るようにしておけよ」

「話すって何を話すんだ?」

「決まっているだろう。こんなことが続くなら同盟している意味がない。太后も泉主もこちらには何も伝えて来ない。ここまで大々的に殺されそうになったんだ、しかも泉宮で。さすがの俺も限界だ」

 韃拓が笑った。

「そうこなきゃだな。それでもしらばっくれたら?」

「身の危険がある以上、一泉には居れない。族領に戻って様子を見る。もちろん、貢物は耳を揃えて全て返してもらう」



 瑜順は平和主義者だ、と韃拓は常日頃思っている。彼は基本として争いも殺しも好まない。一族において臆病者は嫌われ、勇敢でないことは消極的な評価に繋がる。しかし、こと瑜順に関しては皆どこか一目置いていた。それは本人がその時戦わないことには明確な理由があると何となく周囲に悟らせる雰囲気を持っているからであり、都度的確な判断を下すのを知っているからだった。反対に、韃拓は敵と味方の区別をはっきりさせて敵を排除したがるため、今日のように止められずやむなく従う場合も多々ある。しかし不思議なことに、韃拓が戦うと判断して剣を抜く時には大抵間違いなく自分たちに害をなす敵なのであり、その嗅覚を瑜順も信頼していた。だからたとえ不本意に戦闘になったとしても瑜順が韃拓に不満を述べることはなかった。


 とはいえ未然に防げるいさかいについては相手が目上であろうと遠慮なく諫言するし叱責もする。そんな、辛抱強く智を働かせてなんとか争いを避けようとする瑜順が、ついに限界だと言った。韃拓はこっそりと舌舐めずりする。実のところ誰も彼の激昴したところを見たことがないのだ。常に諦観してどこか醒めた調子の瑜順が熱くなっている姿を見てみたいと思ってしまう、それを期待するのはさすがにふざけすぎか。



 朝餉あさげを終えていくらも経たないうちに使者が来た。韃拓と瑜順、それに数人の代表を連れて案内された門前に立ち一行は前方を見つめた。堅固に閉じられた大扉の色はあか。その先はごく限られた者のみが立ち入りを許される一泉宮の閉ざされた禁域、後宮だった。



 門で衛士から宦官へと引き継ぎがなされ、続く道を進む。途方もなく広大な敷地はもはやひとつの街だった。そこかしこで水が小瀑布たきとなって流れ落ち、受け止めた蹲踞つくばいや溜池には必ず浄水石の砂利が敷き詰められていた。そして柱や壁、ちょっとした生垣の棒杭や蝶番ちょうつがいに至るまでなにかの獣の面のような意匠が彫りこまれているのだった。前左右を見渡しても地平は見えないが、北に行くにつれて緩やかに標高が上がっていく後宮は後ろを見るとうっすらと国府の屋根が見降ろせた。韃拓らはかなりのあいだ歩かされ、一向に目的地へ着かないことに痺れを切らし不平を言う頃に宮の北側の建物に辿り着いた。扁額へんがくには長楽ちょうらく宮とある。


 角族一行を待っていた臣下たちは特徴のある宦官服の胸の前で袖を合わせ、頭を垂れてみせる。皆若々しくまるで少嬪おとめのようで、それなりに歳を重ねているであろうという者も肌艶が良く背筋が伸びていた。


「太后様がお待ちです」


 そう言われて中へ足を踏み入れ謁見の為の場に入ると、すでに葛斎が座してせわしく筆を動かしていた。その横で居心地悪そうにしているのは泉主、姿を現した韃拓らに目を泳がせてみせた。


 吹き抜けの天井から落ちる数条の流水は結構な高さから落ちているのに音はあまりしない。宮殿の床下まで落ちているのか、と瑜順は予測した。水の珠簾たますだれを背にした壇上で葛斎は優雅な仕草で筆を置いた。


「よくおいでになった」

 書き付けを丁寧に銀紐で巻き臣下に渡すと袖を正し、座についた韃拓に向き直った。

「安命殿での仔細は聞き及んだ。大理しらべによれば闖入した羽林はやはり偽物であった」

「どうりでな。戦い甲斐のない奴らだった」

「いったいどうやって入り込んだのです?」

 葛斎は畳んだ扇の先をてのひらで包む。

「襲撃は夜、国府の門扉は閉まり宿直とのいと見張りの者以外は辞していた時刻だった。もちろん後宮も夜になれば門は閉じる。そこで外朝にいたはずの衛士たちがなぜ持ち場を離れたのか、その理由は本人たちに聞いてみよう。――――郎中卿ろうじゅうきょう衛尉えいい卿」


 呼ばれて広房ひろまに入ってきたのは渋い顔をした男たちだった。まず名乗った男は九卿きゅうけい、つまりは郎中府の頭である郎中卿と名乗った。大司馬の統括する三卿の一である。同じく横に控えたのは衛尉府の長だった。


 郎中府は宮門に宿衛し不法に通行する者を取り締まり、また賓客の案内や取り次ぎを行う。天子の近侍兵である羽林と虎賁こほんの管理もつかさどった。衛尉は衛士を統率して宮内の保安守備を担い、犯罪に目を光らせる。職掌としては郎中よりも狭いが広大な宮を隅々まで守備しているのは主には衛尉府の兵卒たちであった。


 衛尉卿が膝立ちして口を開く。

「実は昨晩、国府の門が閉じた後に訴えが参ったのです。宮の外郭東付近で火災が発生したと。それで私は宴を中座したのでございます」

 郎中卿が続ける。

「奏上された火事は事実でございます。しかしそれは宮内ではなくほりの向こうの市中においてでございました。私たちは確かにそれを確認いたしました。……なれど、万一濠を越えて宮城にもしもの事があってはならぬと守備兵を向かわせたのです」

「なぜ東の衛士だけでなく外朝の兵すべてを集めたのです?」

 問うた瑜順に険しい顔をした。「火のまわりが思っていたよりも早く、しかも東門の橋に燃え移ってしまったのです。東門は木造ですゆえ。そして極めつけに我らが守備を総動員して火避けを築いていたのは……」

 言い淀んで葛斎を見る。

「太后陛下のご命令であるとの通達を受け取ったからでございます」

 葛斎は眉をひそめた。「妾は火災の報は聞き及んだ。しかしそのような命を出してはおらぬ」

「ですが、たしかに太后様の印章を押した書状を私も郎中卿も目にしております。告げ知らせた下官の言葉を聞いた者はもっとおりますれば、誰も疑いもせずに東へと集まったのです」

「安命殿の守備まで?」

「そのとき外朝で人の多く集まっている殿は安命殿と太后府だけでございました。そしてその後に今度は泉主の勅書も受け取ったのです。大事なもてなしの宴を中断させることはならず、守備には代わりの人員をお寄越しになるので至急東門へ駆け付けるようにと。実際にやってきた兵卒は羽林の姿でしたので私どもはてっきり本物かと――そういうわけで殿を警固していた衛士も彼らに守備を任せて場を離れたのです」

 葛斎は冷え冷えとした眼を泉主に向けつつ問う。

勅定ちょくじょう血璽けつじであったか」

「間違えようもございません。たしかに透過に薄墨色で雲母を撒いたように輝く御璽ぎょじでございました」

 怯えた泉主が葛斎を見つめながら勢いよく首を振った。

われは何もしておりません!昨夜は早くから後宮に湶后せんごうとおりました!火災の知らせは受け取りましたがそのようなものはしたためておりません!」

「いつまで愚昧な振る舞いをするつもりか。もう堪忍ならぬぞ。仮にもおぬしは泉主ゆえ大目に見てきたが、いい加減洗いざらい、包み隠さず申してみよ」

「本当に違うのです!」

 泉主は泣きそうになりながら両手を掲げて見せた。「一滴も血を出してはおりません!母上、お願いです。信じてください。確かに我は角族が泉畿へと来る旅の途上で妨害されることは薄々分かっていて見ぬ振りをしました。しかし、昨日のように城の者を、しかも我の妃たちを巻き込むような大捕物をするよう命じてはおりません!」

 瑜順が立ち上がった。

「太后陛下。泉主のおっしゃりようはとても虚偽だとは思えません。ひとつお聞きしますが、過去に宮城の近くで火災が起きたことは?」

「ここは寒冷の地。風は年中乾燥し薪の火花だけでも種火となる。ゆえに一泉の家々は延焼を防ぐために間を空けて建てみちを広くしたものが多いのじゃ」

 それを聞いて衛尉卿と郎中卿を見た。

「書状の文面をしかと読みましたか?」

「いや……御璽は押し戴いたが文面は読み上げられるままに聞いて中身はちらとしか。なにせ皆近づいてくる火を阻もうと錯綜しておりましたからな」

「右に同じく、私も集めた兵の采配に忙しく」

 瑜順は腕を組む。「それでは、本当に書状が昨晩の火災について書いていたことであるかは分からないわけですね。失礼ながら泉主、泉畿の火災において血璽をお用いになったことがあるはずですが」

 泉主は涙目のままぱちくりとした。

「ああ。火災は我が即位してから泉宮でも起きたことがあるから。数える程度ではあるが」

 そう言って葛斎を窺うと彼女も頷いた。

「記憶に新しくは後宮で起きた小火ぼや騒ぎじゃの。あのときも不寝番が消し忘れた灯火が原因で妃嬪たちが煙を吸って大騒ぎになった。以来、夜に人の退出した殿は極力、門前も暗いままにしてある」

「とすれば、その書状は以前の火災の時のものであったかもしれないのですね」

 葛斎は手遊んでいた扇の動きを止めた。

「……なるほど。であれば血璽も前にしたものだと」


 泉主の血を使う勅命書は頻繁に用いるものではないゆえに、厳重な管理のなされた玉璽ぎょくじも不届きな官がいてもそうそう容易たやすく持ち出せるものではない。


「つまり犯人は外朝の兵の気を逸らした使者と書状を運んできた者だということになります。泉主、昨晩はなぜ宴にご参加下さらなかったのですか?誰かから何か言われたとか」

 それには言いにくそうにもごもごと口を動かす。葛斎が額に青筋を立てて静かに怒りを表した。

「業腹なことに泉主に讒言ざんげんを垂れておる者を掴めておらなんだ。湶后か、妃嬪の誰かか。それとも三公のうちのどれかか。いったい誰からそそのかされておる。もう口をつぐむことは許されませぬぞ」

 泉主は辛そうに背を丸めた。

「た、太師たいしが……宴には行くべきでないと」

 一泉の臣下たちが色めきたった。

三師さんしである太師が?」

「なんと……太師といえば太后様の表兄いとこ君。しかし、納得しました。太師なら泉主とはお役目としても王親としてもお近い。太后様の目を盗んでいくらでも泉主と密になれます」


 三師は天子を善導し道徳面において訓戒するいわば教師たちである。参政権はなく、太師はおもに徳や礼儀作法を授ける三師のうち中心人物とされる。今現在一泉の太師は太后葛斎の母方の親族、泉主の外戚である。


「泉主。太師はなんとおっしゃられていたのですか」

 瑜順が重ねて尋ねると泉主はその、と言いにくそうにする。

「せ、泉主は我なのだから……太后陛下に全て従わずとも良いと。角族との同盟も以前のことであるから、継続するか否かは我が決めるべきことで、真実気に入らないのならそれ相応に態度で示し、歓迎の為の宴には出席しないことで意思を示すことも必要では、と……」

「妾は何度も朝議で訊いたぞ。考えを聞かせろとな。しかしおぬしは何に対しても曖昧に頷くばかり。同盟調印とて既になされたのに、今になってそんなことを言うとは。そんなだから他人に振り回されるのじゃ」

 泉主はどうしていいか分からないように俯いた。葛斎が無表情に令を飛ばす。

「至急太師を捕らえ口を割らせよ。内容によっては泉主を教唆した罪に問わねばならぬ」

「太后さま。太師が泉主にそのように仰っていたとはいえ、書面をどのように準備したのでしょうか。黒幕は太師だけではないのでは?」

 無論だ、とさらに扇で配下たちに指図する。

「泉主が太師に言いくるめられている隙に偽の書状をあつらえて嘘っぱちの羽林兵を宮城に招いた不届き者がまだおる。勅書の偽造をしたとなるとまず疑うべくは尚書台しょうしょだいじゃ。一人も逃がさず捕まえて吐かせよ」


 通常、朝廷つまり国府を通して発布される下行文書とは草案から発行まで何度も諸官の審議を重ね、主立った各府の承認を得て初めて公布されるものである。しかしこと血璽文となると話が違う。国政における事項・事件においての、また緊急に泉主自身が強く意思を示すための最重要文書だった。血璽文においては泉柱せんちゅう違反やよほど泉主の専横暴戻を加速させるような檄文でなければ封駁さしもどしは許されず、諸官府ごとの署名認印も必要としない。写し控えが取られても効力を発するのは血璽の押捺おうなつされたただ一つの原本だけだ。発布された後は他と同じく一定期間保管され最終的には廃棄されるが、その際にも泉主に奏上しなければならなかった。公文書を管理するのはおもに尚書台の役目だ。


「太后様、しかしそれだけで尚書台全てを捕えるのは無謀では」

 諫めた者に冷たい目を向ける。

「これだけではないわ。妾は昨日、昼の調印式のすぐあとに司隷校尉しれいこういを呼び出した。泉畿で流行はやる角族恭順の噂を確かめる為にな。噂の出処はまさに国府であったのよ」

 その言葉に今までつまらなさそうに話を聞いていた韃拓がしばらくぶりに、なに、と声を上げて葛斎を睨んだ。


 一国には行政区分を大きく分けて九州ある。泉畿のある州を首都州朝廷直轄地とし、残りの州それぞれに州牧しゅうぼく刺史ししを置く。彼らは州の監察を務め各郡の太守を取り纏め、時には州軍を動かして夫役に就かせ有事の際には兵を派遣する。首都州においてはこの州牧と刺史の役目を司隷校尉が受け持った。


「いったいどういうことだ?」

 問われて葛斎は急くなというように手を挙げた。

「ひとまず状況を整理せねばならぬ。そも角族使節団は淮州で郡郷に入れず、また何者かの指図を受けた民の襲撃に遭った。使節の淮州入りも秘匿された。この時点で角族を秘密裏に排除しようという勢力がいることがまず一。しかし逆に剛州では角族を歓迎した。それは角族が我が国に全面的に帰服するという噂があったからじゃ。噂が首都州の端にまで行き渡っていたということは具体的な書面かなにかで剛州内の各郡太守に通達がなされたと考えたほうが自然に思える。偽報ではあったが角族を泉畿に迎え入れようとし、成功した。これが二。三に、一泉宮に迎えた角族を滅しようとした者たち。火災もおそらくこの者たちの仕業であり最も過激で注意すべき敵じゃ。さてこう考えると、一と三が同じ仲間とも思えるが、二と三が連携して角族をおとしいれたとも考えられるの」

「全部が同じ敵とも考えられるだろ。淮州で俺たちを捕まえるのに失敗して、別の手として宮城までおびき寄せたとか」

 韃拓が後ろ頭に手を当ててそう言い、隣を見た。少し考えた瑜順は前を向く。

「先ほど国府が帰服の噂の出処だと。文書その他で各方面に伝えられたのだとしたらやはり尚書台が怪しいというわけですか。しかし、一から三の動きどれもに一貫性がない。一の敵は州軍を動かさず民を使って密かに我々を除こうとした。それなのに三の敵は大胆な作戦でなりふり構わず攻撃してきた。動きにかなり差があって同じ勢力とするのは少し苦しい。二は敵かどうかは分からないが、三の敵と同じなら我々が泉畿に到着したことを国府に申告した時点で居所は知れたのだから討伐隊を送り出せたのではないだろうか。あれだけ大っぴらな捕縛作戦を行うような連中なら市中での行動も辞さないだろうし、むしろ同じ勢力の仕業であれば手を出しにくい宮城に入られたくはなかったはずだ。――泉主、先ほど我々が淮州で妨害に遭うことは分かっていたとおおせれたのは何故ですか?」

 泉主は注目を浴びてだらだらと汗をかいた。

「……その……確信があったわけでは……」

「早う仰られよ。妾が何も分からぬ梼昧とうまいとお思いかえ?おぬしは妾の口から問いかけねばただ事が過ぎ去るのを待つだけで何もせぬのかえ?」

 葛斎に威迫され、泉主はぶんぶんと首を振ると、ままよ、と声を張り上げた。


淮封侯わいほうこう!――謙侯王けんこうおうが、きっとそうなさると思っていたからです!兄上は夷狄ばんぞくがお嫌いなのです……!」


「兄……」

 瑜順は呆然としつつ頷いた。「なるほど…であれば泉主は越位えついなされたのですか」

「瑜順、なんだそれは」

「ふつう、泉主の公子こうしで最も年長の男子が王太子として立儲りっちょする。王太子以外でも継承権を持つ泉根は誰でも昇黎しょうれい、つまり次王位の請願を許されるが、神勅しんちょくも通常は王太子にくだる。しかし一番上の公子が健在であるのに、稀に歳下の弟君に降勅こうちょくする場合がある。そうして即位することを越位と言うんだ」

「なんでだ?」

「理由はわからない。降勅とはこの大泉地を統べる黎泉れいせんが決めることだからな」

 瑜順の説明に郎中卿が頷いた。

「先代は御子みこがおられぬうちに早世なされた。必然に継承は他の泉根せんこん男子に流れ、現泉主であられる姜坎きょうかん陛下が兄君であられる姜謙侯王をお抜きになり王位にかれた」

「それで、淮封侯が泉主の兄やで泉外人嫌いだから俺たちを追い払おうとした?」

「だけではない。襲撃は本来ならば成功させなければならないはずだった。淮封侯は角族が泉地入りしたことを隠して我々を消そうとし、我々が泉畿へ送った連絡も断たれた。淮州で起こすことを朝廷に知られるのを恐れたんだ。しかし泉主のご様子からすると淮州での動向はおおよそ伝わっていたのですよね?泉主はどうやら淮封侯には頭が上がらない。それを見越して宮での襲撃に関しても黙殺しろと暗に了解をいられたということではないですか」

 当の王はおどおどと怯え、「指示されたわけではない」と小声で呟いた。

「泉主を操れるような奴がなんでそこまでこそこそするんだ?」

 答えず瑜順は葛斎をじっと見据える。彼女もまた何の色もないかおで見返した。

「……とにかく、計画は失敗し我々は淮州を抜けこうして泉宮に辿り着いている。俺たちは淮州での襲撃は内部の反対派が淮封侯に知られたくないからだと誤解していたが、泉主の証言により一つめの敵は淮封侯であることが明らかになった」


 一時は味方かもしれないという結論に落ち着いていたが当初のとおりやはり淮封侯は敵対勢力ということで間違いないようだ。


「ふうん。……じゃあ、二番目は?」

 視線を投げられて泉主は必死で首を振った。仲間の一人が言う。

「我々が妨害を受けていると知った何者かの吹聴…と考えられないか?」

「味方ってことか?」

 瑜順は首を振った。「それは言い切れない。巌嶽で角族恭順の噂を耳にした時に考えたとおり、もしかしたらお前を泉宮までおびき出して捕らえ、角族を脅そうとした何者かの犯行で正解なのかも。我々がぎりぎりまで隠伏し、国府に申し出て即座に入城したゆえに向こうの計画を頓挫させるという目論見が成功したということなのかもしれない」

「結局誰がやったのかは分からずか」


 少しの合間沈黙が降り、三番目の、と脇に控えた中樊チュウハンが口を開いた。

「偽の羽林は弱かったが少なくともただの農民ではなかったな。剣を握ったことのある奴らだった」

「そうだな。強かったのはほんの数人だが、基本は仕込まれていた」

 仲間が同意して瑜順は葛斎を見た。

「禁軍と剛州兵で動きのあったものなどはありましたか?」

「問い合わせたが昨晩火災に駆り出された人員以外、兵舎や武官の邸宅からどこかの小隊が夜に出ていったというようなことはなかったと聞いた」

 葛斎はいくつかの書面を持って来させた。

「昨晩巌嶽の関門は定刻通りに完全に閉まり、朝まで開門はなかった。つまり、偽の兵たちは遅くとも昨日までには門を通過している。加えて宮の掖門や脇戸か、どこかから侵入していることを考えると宮城に確実に仲間が潜んでいるということだ」

「過激な連中が一番厄介だ。またどこから湧いてくるのか分かったものではない」

「そんで、淮封侯をどうするつもりだ?」

 韃拓が問うて面々が渋い顔をする。

 むこうとしては泉主が見て見ぬふりをすることは折り込み済みの行動で、だとしたら何がしかの要求や依頼をあえて出しているわけがない。

「招請し問いただすことは出来るが、証拠のひとつもなければしらを切り通されるだけ」

「泉主の命でもか?」

「むしろ…相手が泉帝陛下だからこそいわれのない罪だと騒がれればこじれる。こじらされる。泉主がのりを無視して専横弾圧とみなされることを行えば諸官は必ずこれに異議を唱え、不信が募る」

 不信は民に伝わり、不満となって広がる。そうなれば最悪、泉主は神勅を失う可能性もあると考えられている。

「淮州の民に証言を募っても無駄だろうな。みな報復を恐れて口を割らない。せめて偽羽林たちの訊問でなにか聞き出せれば良いが」

 韃拓が舌打ちして腕を組んだまま体を揺らした。

「そんで?こんな状況で、あんたらは本当に同盟を続けられるのかよ。しかも角族おれたちは約を何一つたがえちゃいないのに一方的に排除されそうになったんだぜ」

「詫びは公主殿下を指名したことで受け入れたであろう。足りぬと?」

「我々とてこの事件は想定外のこと、むしろ被害は一泉民に出ました。角公はこの上対等な同盟に何がしかの権益を上乗せせよと仰るのか」

 がめつい、と郎中卿と衛尉卿が渋面をつくった。それを鼻で笑って葛斎を見上げる。

「どうなんだ、この件を抜きにしても今まで通り俺たちに如願泉を永久貸与し、二年後には本当に公主の降嫁を許してすべて丸く収められるんだろうな?」

「無論。反対勢力がどれほどぬしらに盾突こうと一泉朝廷が同盟を反故ほごにすることは有り得ぬ」

 確信を込めた返答に瑜順を見る。それで口を開いた。

「一泉の御方々。この度の襲撃は我々を狙ったことは明白です。鞠訊とりしらべには我らからも聴聞役を送らせて頂きたい。加えて全ての情報の共有を求めます。今までのように、なんら隠し事のない正々堂々とした提携を今一度お約束ください」

「もとよりそのつもりじゃ」

 彼は深く息をつき、受容するよう主に目配せした。

「……二言は許さねえ。泉主もいいな?」

 王は泣きそうになりながらも首肯し、それでようやく場を明け渡した。


「ともかく、警護はさらに厳重に致します。城へ出入りする者たちは特に検閲を厳しくしたほうがよろしいでしょう。角族のお方々も不用意に招寧殿からお出になりませんよう」

 郎中卿と衛尉卿が顔を見合わせて進言し、韃拓たちにも念を押すように言った。葛斎は頷き、泉主を厳しく見る。

「泉主。今後淮州から万一接触があった場合は逐一報告してもらうぞ」

「……分かりました……あの、太師は」

「よもや奸言でおぬしをそそのかした者を庇うつもりかえ?救う相手を履き違えるでない。おぬしが早くに淮侯わいこうの動きを公にしておれば角族は辛酸を嘗める行軍をする必要はなく、巌嶽まちは火を放たれず民にも被害は無かったのだ。そのことをよくお考えになるべきじゃ」

「し、しかし……そもそも角族が来なければ」

「黙りゃ。おぬしは何か?一泉と角族を反目させ合いたいと申すか?ならばなぜ朝議でそう言わなんだ?おぬしがいつまでも木偶でくのようであるから皆の信奉はいつまで経っても妾から離れぬのじゃ。真に角族を受け入れぬと言うなら彼らを納得させ外地に帰らせるだけのことを申してみるがいい」

 静かな語調とは裏腹に傲然とした面持ちで扇を投げつけられて泉主は動揺し、やがて項垂うなだれて拳を握った。葛斎は正庁ひろまに響く声で命ずる。

「必ずや軍卒をかたった者たちの首魁を突き止め、市中に放火し罪なき民を苦しめた敵を明らかにせよ。剛州のみならず一泉全土において手配を回せ。被害を受けた者への援助を厚うし対象には本日より一年間の税の減免を申し渡す。また、角族を侮り広まった事実無根の偽報を取り除き、天下をきよめることに力を尽くせ。叛逆の疑いのある尚書台は早急に有無罪をり分け不足の人員を直ちに補充せよ。足りなければ牢に入れたまま政務を全うさせる。異論は認めぬ。これは妾の命である」

 集まった者たちが一斉に腰を折った。摂政政治ここに極まれりといったところか、と角族の面々は思った。この国では泉主の勅令よりも太后の懿旨いしが優先されるようだ。





 長楽宮を辞した韃拓は仲間に続いて来た道を戻り始める。結局、瑜順が怒りを爆発させることはなく、偽の羽林たちを動かした叛逆者も分からないままもやもやとした結果にすっきりしない気持ちを抱え歩んでいると、突然小走りに駆け寄って来る者がある。先頭の案内役の宦官に耳打ちして頭を下げた下官は韃拓の前に膝をついた。


「突然の無礼をお許しください。我が主が是非におん族主と従者様をご休憩にと」

「主?」

 再び恭しく頭を下げる。

「玉雲綺君のお招きにございます」

 韃拓と瑜順は瞬いて顔を見合わせた。





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