七章



 角族の進物は予定通りに納入され、また淮州は各鏢局ひょうきょくに留め置いている四不像しふぞうも呼び寄せることになった。



 そして夜は改めて盛大な宴が催された。しかし襲撃に遭ったことや一泉内部で泉主と摂政に明確な権力差という確執があるらしい事情を踏まえ、何も知らなかった角族でさえも諸手で酒宴に興じるのははばかられると理解できた為になんとなくぎくしゃくとしている。昼間のことがあって泉主と湶后は体調が芳しくないとして欠席し、太后も雑事があるとして顔を見せず、王族としてはまだ若い王弟たちと、政に直接関わりのない傍系の王親たちや遠縁、韃拓によって次期角族主の妻として選ばれた玉雲綺君が臨席することになった。



 憂鬱だわ、と鏡に映る自分の姿を見つめながらげんなりと息を吐いた。軽く両手を広げて立ち、もう結構な時間が経つ。幾重もの綺絹あやぎぬを着せ掛けられ、錦帯を締められ、やっと凳子いすに座れたと思えば、今度は首の折れるほど髪をうずたかく編み上げられて玉笄かんざし華勝かざりを挿される。うんざりしたがここで下官と争っても時間の無駄であることは経験上分かっているのでただ顔を不機嫌にするだけにとどめた。

 どうせ飲み食いしたら落ちてしまうのに、と思いつつも紅を刷かれて円扇おうぎを持たされ、花盆底たかぞこの歩きにくいくつに足を差し込みようやく全部の身繕いが整う。着替えただけでこんなにも疲れるのに、これから真夜中まで野蛮な泉外人の相手とは。


(隙を見て抜け出そう)


 と密かに画策するが、最悪なことにその夷狄の首魁しゅかいに見初められてしまったから、はたしてどうなるか。とはいえ、と輿に揺られながら思案する。角族のあの瑜順とかいう下僕によれば二年間奉仕すると言った。であれば、その間にあちらの意向を変えさせるいとまは十分にある。妃嬪も公主も王族の女は選び放題なのだ、べつになにがなんでも自分でなくてもいいはずだ。あの族主もなんとなくあの場で怖がらなかった女を選んでみただけだ、と半ば言い聞かせるように己を励ましたところで、宴の会場である安命あんめい殿に到着した。



 開かれた大扉からは赤い絨毯しきものがまっすぐ延びて最奥の壇へと続く。その壇上に並べられた椅子のひとつに座るよう言われて息を飲んだ。これではあたかも婚儀のようではないか。既に集まっていた人々が礼を取りながらも様々な色の視線で射てきた。好奇や侮蔑、憐れみ、容姿に対する論評などなど。だがそんなものには慣れっこだ。特に外見に関しては、自分でもお世辞にも美人という言葉とは縁遠いことはよく分かっていた。だから十人並みだと言われても変えようのないものはどうしようもないから、気にしたってしょうがないのだ。

 しかし角族に選ばれたという風聞も加わって大広間に漂う微かな自分への雑言はいつにも増して気持ちのいいものではない。それらを一切合切無視して進み、席に着いたところでまた扉が開かれた。角族たちだ。昼間と同じで目を引く極彩色の盛装、指定された席にわらわらと座り、諸官と簡単に挨拶を交わす。前回の同盟で互いに見知った者もいるのだろう、表面上は和やかな空気のなか、赤い道をまっすぐにやって来る人影がある。


 一際目立つ雄黄色ゆうおういろの礼服を纏った男は磨かれた黒い長靴を悠々と運び壇下に立った。立派な金細工の帯鉤おびかぎと豪奢な飾り刀が触れて華やかな音を響かせる。その隣で深緑のものを着ているのはあの瑜順という顔立ちのいい男、では、目の前の人物は誰だろう。見覚えがなかった。怪訝に首を傾げていれば瑜順がひざまずいて口を開いた。

「昼間は大変な不調法を失礼つかまつりました。改めて我が主から宴の前のご挨拶を」

 ぽかんと口を開いた。目の前の男は顎をさする。まだ若い。褐色の肌で、猫眼で――さらには尖った虎牙やえばを覗かせ笑ってみせた。

 ようやく悟って愕然とした。族主その人だった。そうだ。髭がない。あの整えもせずに伸ばした無精髭がないのだ。あれのせいでもっと歳上だと思っていた。


「見違えたか?」

 気安く話しかけられて目を丸くさせ貝のように口を閉ざした。

「改めて名乗る。角族族主、韃拓だ。まあ今日は顔合わせみたいなものだろ?気軽に行こうぜ。お前は……ええと?」

 横を向いて確認すると隣には呆れた顔をされる。

「玉雲綺君さまと」

「長ったらしいな。それは名まえじゃないだろ?」

 向き直った韃拓は笑みを絶やさない。

「なんてんだ?」

「……王族の真名を問うのはたとえ族主といえど無礼どころの話ではありません」

 さも不快げに強く言ってみせれば、すかさず瑜順が前へ出る。「申し訳ございません。主はあざなと名の区別がついていないのです」

 それにはこちらも呆れた。

「泉地のことを何もお知りでないのね。それにあなたこそ、仮にも一族の主が姓氏せいしも持っていないのですか?」

 問いながら再度首を傾げた。姓がなくては、誰がどの家の者なのか分からなくなるではないか。角族にも階級や派閥はあるだろうに、混乱のもとにならないのだろうか。

「我らに姓や氏というものは無いのです、綺君。しかし、泉地と交わる上で欠かせませんから、大抵皆、ようと名乗っております」

「おかしな話。みんな同じでは余計に意味がないわ」

 韃拓は頭を掻いた。「角族おれたちは個人の家系でなく八馗はっきでまとまる。誰がどの血筋であるかはあまり関係がない」

「八馗……?」

「――当主、そろそろ皆にも挨拶を」

 脇から他の者が下官と礼を交わし終えて促したので二人の会話は一旦途切れた。



 觴政しょうせいに慣れているのだろう、韃拓はまるで緊張感の欠片もなく口上を述べた。思いがけず朗々とした声に聴き惚れてしまったが、お決まりの文言を宣し終えたあとには、そんじゃ、と一気に語調が砕け、さかずきを頭上へと掲げた。


「今日は再同盟の祝いだ。派手にいこう!」


 おお、と沸き立った角族につられて諸官も控えめに笑みを綻ばせる。それまで典雅な音調を奏でていた楽師たちが気分を高揚させる勢いのある曲に変えた。芸妓が舞台に進み出る。皆賑やかに飲み食いし始めた。


 角族は興が乗ると非常に陽気になる人々らしかった。はじめは彼らも至極落ち着いて酒肴を楽しんでいたが、宴が進み酔いが回ってきたところでにわかに浮き足立ちはじめた。馬首を彫り出した二絃琴を抱えて弾きだし、それに合わせて踊る。脚を高く揚げ、くるくると軽快に回り、または曲に合わせて不思議な跳躍で皆を楽しませた。はやし立てる仲間たちは手を打ち叩き、そろって嵌めた片擘指かたおやゆび指環ゆびわをちかちかときらめかせる。錦繍を刺した色とりどりの裾と長い辮結みつあみを天女の領巾かたかけのようにひらめかせて舞う。壇上で、それをどこか遠い夢の光景のようにぼんやりと見つめていた。



 しばらくあちらこちらで騒いでいた韃拓はぐるりと広間を見渡す。壇上の公主が浮かない顔をしているのを見てとると、ようやく隣の席にどっかと座った。びくりと肩を揺らした少女はおそるおそる見てくる。


「そうそう、そんで、字はなんといったか」


 韃拓は宮女から酒瓶を奪い手酌で注ぎながら明日の天候を話すような軽い口振りで問うた。彼は配下たちとは異なり、両の指にひとつずつ色の違う円環を着けていた。おそらく主だからだろうと思い、こんな人が、という気持ちでまた苛々いらいらとした感情が胸に起こる。

「字も名も、その人自身を表すもの。適当な気持ちで尋ねて欲しくはないわ」

 まして友人でもなければ目上でもない者に親しく呼ぶための字を自分から教えたくはなかった。それに王族の真名とはすなわちいみなだ。ほぼ天寿を終えるまで知られることはないしもし呼ばれるとしてもそれはほんの一部の高貴なる者からの呼び掛けに限られる。ふつう、民が成丁せいじんしてから持つ字を、王族は生まれた時から持つ。だから民でも貴人でも単に名はと問えばそれはおおかた字を訊いているのだが、それを諱を問われたと憤慨してみせた。貴人の、まして王族の諱を聞き出そうとするのは杖刑程度では済まされない不敬罪だ。あえてそう誤解したのは韃拓のことを恥知らずだと皆に思わせたかったからだが、目論見は外れ、当人は慌てるふうもなく恬然てんぜんとしている。


 気丈な少女を韃拓は疑問の顔で見た。

「適当?どうでもいい奴に名を問いはしないだろ?むしろ又聞きして呼ぶほうが失礼かと思ったが」

 それには反論出来ずに口をすぼめた。確かに教えてもいないのにいきなりなれなれしく呼ばれるほうが嫌だ。しかしそれでも頑強だった。

「あのね、なぜ貴人にはうじや号があると思っているの?富貴な方を名で呼び捨てては畏れ多く失礼だからよ。だから憚って敬意を示すための呼び方がたくさんあるの」

「それがややこしいんだよなあ。幾つも言い方を変えればそいつに従ってると示せるのか?」

「少なくとも、礼儀は伝わるわ」

「何個も名があったってお前は一人しかいないじゃねえか」

 二人の言い合いに気がついた瑜順が近づいてきた。

「綺君。主がまた何か」

「ほら!この人のような呼び方で十分なの!」

「それは瑜順が下手に出ているからだ。俺は仮にもお前の未来のつまだぞ?親しく呼んでなにがいけないんだ?」

 少女は魚のように音の出ない口を動かした。伝わらない。言葉の意味は通じるのに、この青年には何も伝わっていない。今度はひどく気が抜けてしまった。莫迦莫迦しくなったのである。


「――――姜恋きょうれんよ。今のあなたにはそれで十分だわ」

「つれねえなあ」


 貴人の名は下るにしたがい使うことの控えられるものになっていく。王族ならなおのこと字で呼び合うのはたとえ兄弟姉妹であってもよほど親しくなければ用いられないものだった。

「まあ、呼びやすくていいか」

 韃拓は満足気に笑った。言わせたと威張るでもなくただいい名だと機嫌良く酒を飲んだのにさらに無性に腹が立った。だから指を突きつける。

「角楊韃拓、姓氏なまえを教えはしたけれど呼ぶのを許したわけではないわ。わたくしはあなたのさいになるなんてまっぴらご免よ!あまり近寄らないで」

「はは、気の弱そうな女だと思ったが真逆だったな。そっちのほうがいい。そうこなくては厳しい北の地で生き残れない。よろしくな、姜恋」

「聞いてなかったの⁉呼ばないでと言っているのよ」

「申し訳ありません、当主は自分の中でこうと決めたら変えない頑固なところがありまして」

 従僕のほうは憮然と謝ったが、姜恋は嫌悪を表す眉間にさらに皺を寄せた。満足したのかまた席を離れた韃拓は場に酔い酒に酔い、大声で笑っている。

「信じられない…なんて品のない人なの」

 絶望して俯いた。食事など喉を通らない。こんな気荒い男のもとへ本当に嫁ぐことになったらどうしようと目眩めまいに額を押さえた。

「最悪だわ……」

 呟きが聞こえたのかは分からなかったが、騒ぐ主をなだめていた瑜順が黙って目礼してきた。




 宴もたけなわになった頃にはもう酒が皆に行き届きそこかしこで馬鹿騒ぎが起きていた。そろそろ抜け出してもばれないだろうと少し腰を上げたところで、突然正面の大扉が開き、甲冑よろい姿の兵が駆け込んで来たのをみとめて姜恋は唖然とする。何かの余興かと思えば広間の中の者達も一様に驚いて声を上げたので冗談ではないのだと息を飲んだ。


 なんだ、と会場がどよめく。楽曲が途切れた。扉から乱入してきた羽林兵のうち一人が前へ進み出た。


「ここに、泉帝陛下よりの宣旨を読み上げる!」


 騒いでいた人々も大声を聞き呆気に取られて動きを止めた。姜恋もまた椅子の上で硬直する。こんな宴の席に宣旨とはどういうことか。


「主のたまわく、角族の使節団一行二百人は、如願泉から剛州へと至る道すがら、掠奪不法行為を働き淮州各地の富裕なるを妬んで民を惨殺し、郷里に火をかけた。これは角族の明らかな盟約違反である。即刻使節団全員を捕らえ、訊問にかけて処刑するようにとの泉主のお達しである」


 会場が静まり返る。徐々に音を取り戻し始めた人々はどうすれば良いのか分からずただ重装備の兵を見上げ、やがてようやくとんでもない事態だと飲み込んだのか悲鳴を漏らし騒ぎ始めた。

 逃げ惑う妃嬪や女官たちが入り乱れ広間は色の嵐。諸官も酔いのまわってふらつく脚を叱咤し兵たちに道を開けた。


「首魁、角族族主角楊韃拓は何処いずこか!」

「ここにいるが?」

 標的は卓の上に座り込み酒瓶にそのまま口をつけていた。大きく呷って拳で拭い、羽林兵たちを睨む。

「全部嘘っぱちだ、そんなの」

「虚偽などではない!現に淮州の各地から訴状が山のように届いておるのだ、しらを切っても無駄であるぞ!」

「――ったく、一泉ではこんなんばっかだ。人がせっかくいい気持ちでいるところに」

 韃拓は酒瓶を荒く投げ捨てる。玻璃の砕ける甲高い音が鳴り、それと同時に腰の剣を抜いた。

 飾り刀ではなかったのか、と姜恋が目をみはったところで韃拓が瑜順を大声で呼んだ。

「ひとまず姜恋と女たちを安全なところへ連れて行け」

「まさかやり合うつもりか。羽林は泉主の近衛兵だぞ。逆らえば叛逆したも同じだ」

「知るか!お前ら、抜け‼」

 怒号に呼応して臣下たちが一斉に抜刀する。それを見て羽林も殺気立った。

「あくまで抵抗するというのか。愚かな夷狄共」

「どうも話がおかしい。おとなしく捕まってはやれねえ」

 羽林と韃拓が言い合いしているのを見守りながら、姜恋は揺れる鋭利な剣戟に腰を抜かした。怖気おぞけが足許から忍び寄ってくる。

 と同じ、ひどく冷たい眼をした兵たちが自分を見ている。



 ――――お母さま。



 自然と落ちた瞼を固くつむり、両手を握り合わせたところで柔らかな声がかかった。

「ご案じなさいますな綺君。羽林はあくまで我々角族を捕らえようとしております。しかし、ここにいて巻き込まれては危険です。どうか外にお逃げ下さい」

 広い背が白刃の光を阻むように視界に広がった。

「あ……脚が、動かないの」

 情けないことに腰から下の力が抜けてしまい、立ち上がれなかった。干上がった声を掠れさせて訴えたがしかし、助けて、と求めることは矜持が許さない。


 そこかしこで既に打ち合いが始まった。怯えて再び目を閉じる。青年は振り返り、失礼を、と言うと同時にその体を抱え上げた。

 突然の浮遊感に驚いて目を開く。片腕で軽々と姜恋を支えた瑜順はもう一方の手で剣を構えた。


「私にお掴まりを」


 公主に危害を加えようとしていると誤解したのか羽林兵が壇上へと駆けてくる。飛び降りた瑜順はそのままの勢いで正面の兵の頭を回し蹴り、流れるような動きで囲った者たちを斬り捨てた。

 怒号が飛び交うなか、右へ左へと振り回されて姜恋はたまらず首に縋りつく。結った髪の飾りが飛ばされる感触がした。とにかく早く終わって、と念じながら、額を押し当てて歯を食いしばって泣いた。





 悲鳴と蛮声と振り回される動きに酔い、どれくらいそうしていたのか、ふと肩を叩かれて我に返る。ゆっくりと痛む目を上げると、自分を抱えたままの瑜順の顔が間近にあった。

「大事ございませんか?」

 その頬に散ったものに姜恋はおののき、気がついて相手は申し訳なさそうな顔をした。

「すみません。なるたけ避けたのですが、あなたにも少し飛んでしまいました」

 言うと高価な袖で労わるように拭われ、こんな状況なのに思わず赤面した。目を逸らして呟く。

「あの…どうなって?」

 ああ、と瑜順はあたりを見た。つられて首を巡らせたそこは安命殿の中ではなくどうやら裏の走廊ろうかのひとつだった。耳をよく澄ますとまだ争う声が聞こえる。

「さて困りました。羽林といえば泉主の近侍、この場合誰にとりなしを求めたら良いのでしょう」

「だ、大司馬に」

「三公九卿の長はすべて安命殿の中におりました。すでに避難されましたが。しかし争いが始まってだいぶ経つのに、羽林を抑えようとする兵が来ない。まるで彼らが我々を討ち取るのを待っているようです」

「そんな、でもなんで……」

 瑜順は溜息をついた。「一泉が同盟賛成派と反対派に二分されている、その最たるところはやはり泉宮だったというわけですね」

 ただ首を振った。自分にはまるであずかり知らぬことだ。瑜順はひとまず刀を収めてまずいな、と呟いた。姜恋はその端正な横顔を窺う。

「このままじゃ、あなたの仲間が」

 殺されてしまう、という言葉が恐ろしくてそこで口を噤んだが、瑜順はいえ、と殿のほうを見ながら否定する。

「逆です。……綺君、羽林を止められる方はおりませんか?」

「羽林軍は泉主のものよ。そんなの誰にも止められるわけがないわ。それに、泉主が角族を討つというならこれに刃向かえば逆賊よ」

「あなたはこの状況がおかしいとは思いませんか?」

「思うわよ。広間には角族だけでなく王族や妃嬪もいたのよ。襲うなら真夜中に角族の逗留場所である招寧しょうねい殿を焼き討ちすればいいだけでしょ?」

 瑜順は無表情のなかに少し笑みを浮かべた。

「公主にしては過激な発想ですね」

「他の無関係な者を巻き込む可能性があるのにわざわざ宴に乗り込むような危険は冒したくないわ、ふつうなら」

「では、この状況はふつうではないということです。一泉に入ってからというもの、解せないことばかり。……そもそも、あれらは本当に羽林兵なのでしょうか?」

「あの重装備と徽章しるしを見たでしょう。間違いないわ」

 言われて考えつつ顎に手を当てたところで、人の気配を察して素早く柱の陰に隠れた。

「……ねえ。いい加減もう降ろして」

 いまだに抱えられていた姜恋は衣を引っ張る。しかし瑜順は指を立てて静粛を請い、あたりをさらに警戒した。

 安命殿の裏に人影をみとめて息を殺す。影はしばらく中の様子を見ると、瞬く間に駆け去った。その行く方角を追って眉をしかめる。

「綺君、案内して欲しいところがあります」

 顔を近づけ小声で囁かれ、姜恋はどきまぎと見上げる。

「どこへ?」

王太后府おうたいこうふです」

 瞬き、一転震え上がった。「い、いやよ」

「理由があります。太后陛下は先代泉主の御代から摂政であり、強大な力を持つ御方なのでございましょう?泉主を止められるのはあの方しかいないでしょう。しかし私ひとりでは門前払いが関の山」

「でも、太后府は不用意に近づいてはならないのよ。あそこはお祖母ばあさまの御苑おにわも同じなの。それにあの方がこんないさかいに関わるとは思えないわ」

 それでも、と瑜順は安命殿を振り返った。

「このままでは我らは全ての罪を被せられて処刑されます。お願いです、公主さま。あなたは案内してくださるだけでいいのです」

 姜恋はひどく迷った。

「でも……」

「これは羽林のためでもあります。一泉の民へ情けのお心があるのであればどうか」

「……分かったわ。どのみちこの状況をなんとかしなければならないし、案内するだけなら。――――待って、今のはどういう意味?」

 怪訝な問いに、瑜順は顔を進む道に向けたまま答えた。

「おそらく、安命殿の中の羽林はそう持ちません。見たところ我々の倍程度の人数、それだけで捕縛が成功すると考えるのは愚かというもの」


 人一人抱えたまましなやかに走り出す。姜恋は今更ながら自分が裸足であるのに気がついた。舄も羅襪くつしたも知らぬ間に脱げたのだろう。この青年は自分を降ろすと足裏が汚れるのを気遣ってくれていたのだ。

「……あなたは思っていたような角族とは違うわ」

「それはどうでしょう」

 真顔で見返された。

「角族は戦いにおいては苛烈です。泉民の言葉を借りるなら野蛮というのでしょう。とにかく荒いと言っておきます。おそらく宴会場は今頃血の海です」

「……あなたもそんなふうに戦うの?」

「それが我々の戦い方ですから。申し上げたように二百の我らに四百で勝とうとするのは無謀です」

「じゃあ、何人なら倒れるの?」

「公主さまは鋼兼ハガネというのをご存知ですか?」

くろがねのこと?」

 走りながら首を振る。


「そうではありません。角族に伝わる体質です。字面どおり肌を剣でいでも鋼のように跳ね返してしまい、深くは傷つかない。刺しても穴が空くことなく、血が噴き出すこともない。腕力も並の泉民よりは屈強です。その力とそれを持つ者をどちらも鋼兼と呼ぶのです」


 姜恋は大きな目をくるりと回した。「死なないということ?それは人なの?」

「いえ、外はすぐに塞がりますが、刃先が臓腑まで届けば致命傷にはなります。ですから角族は腕を落とすことも首をねることも一太刀では難しい。泉民とは違い身体からだが頑丈なのです。それに剣や弓の扱いにも長けているとなれば、只人ではまともにやり合えません」

 そんな力が、と愕然とした。

「じゃあ……中の羽林は」

「早く止めなければ全滅です」

「待って、それは駄目よ」

 瑜順はさらに首を振った。「当主は我々に抜けと言ったのです。あれは仲間を傷つけられるのが何よりも耐えられない。手加減など最初から頭にないでしょう」

 姜恋はとんでもないことになったと今更ながら実感し、昼間の同盟調印式とはなんだったのかと呆れた。


 宮殿たてものの合間を縫い目立たないように移動していた二人だったが、異変に気がつく。


「おかしいわ……なぜ衛士がひとりもいないのかしら」

 警戒しながら進む割に通りは人気ひとけなくしんと静まり返っている。瑜順がすぐ脇の門を見渡した。

「宿衛もいませんね。そういえば安命殿の外を守っていたはずの兵も見当たらなかった」

 姜恋は困惑しつつも前方を指差した。

「この門を越えたら王太后府があるわ」

 府殿は外朝の最も北の端、内朝とその奥の後宮を囲う郭壁と大門のすぐ外にあって大通りに配されている。姜恋に示され瑜順は向かって右の巨大な高楼造りの殿へと近づいた。しかし、踏み出した足を一瞬後には退げ、体ごと横に跳ぶ。

 衝撃に耐えた姜恋がこわごわ首を巡らすと今まで立っていたところに極太の矢が突き立っている。咄嗟に声が上がりそうになった口を塞がれ、こらえて頷き返すと、瑜順は手を離してゆっくりと刀を抜いた。


「――――太后府に前触れなく許しを得ず入るは重罪である」


 静寂によく通る声が響き、あちらこちらから現れた影はそれぞれに武器を持っている。囲まれた瑜順は見せつけるように得物を捨てて手を挙げた。

「太后陛下に折り入って奏上したい旨がある。緊急だ」

「礼を欠く不当な申し出である。許可することまかりならず。早々に立ち去られよ」

 きり、と弓弦を絞る音が聞こえて眉をしかめる。しかし抱えた少女が震えた声を上げた。

「待って!わたくしがこの者を案内したの。わたくしに免じて武器を降ろしなさい!」

「その者、何処いずこの官府の者か」

凜明宮りんめいきゅうの姜恋公主に剣を向けるとは何事!罰せられたくなかったら武装を解きなさい!」

 兵たちが気圧けおされて少し刃先を下げる。しかしなおもいぶかる視線を交わし、完全に警戒は解いていない。

「玉雲綺君がそのようなお姿で太后府にいったい何用にございますか」

 問答している兵の長らしき者も先ほどよりは丁寧な口調になったが硬い態度を崩さない。それには今度は怒りで震えた。

「だから火急だと言っているのよ!安命殿の宴席に羽林が乱入して大変なの!すぐに太后陛下に奏し申し上げたいの!」

「しかし、そのような報告は上がっておりません」

「この姿を見て嘘だと言うの⁉でまかせだと思うなら見て来なさい!」

 必死に大声で喚いた姿に兵たちはようやく事態を納得したらしい。臨戦態勢を解く。隊長が府殿から走り出てきた影から耳打ちされるのが見えた。向き直って片膝をつき、兵たちが次々とそれに倣う。

「――大変御無礼を致しました、綺君。どうぞ」

 門内へ進むよう促されて姜恋はほっと息をついた。瑜順も安堵して彼女を見た。

「やはりあなたに案内してもらって正解でした。ありがとうございます」

「まだ気は抜けないわ。太后府は泉宮の中でも特別なの」



 意味は中へ入るとすぐに分かった。異様な数の兵たちが二人を迎えたからだ。それも、今まで見た武官とは明らかに異なる装いに身を包み、極めつけは目下から顔を隠している姿はまるで斥候かなにかのようで得体が知れない。いろいろと問い尋ねたかったが、粛々と高楼の奥に招かれてともかくも従う。


 派手ではないが十分に絢爛な一室に招かれ待っているように言われた。姜恋はようやく椅子に降ろされる。

「ごめんなさい。ずっと抱えて走っていたから疲れたでしょう」


 幾つもの明かりを灯された室内は真昼のようで、照らされた髪や衣を検分すると思った以上にひどい有様だ。謝りながら慌てて乱れた胸元を整えた。

 いいえ、と答えながら瑜順は厳しい顔で房室へやを見渡す。佩刀はいとうは許されなかったから丸腰で落ち着かない。いざとなれば室内のものを使うしかない。この緻密にされた燭台とか。それを横目で見て、窓辺に近づき薄絹織りの帷帳とばりをめくる。歪みのない透明な玻璃窓から外を眺め、思いもよらない新たな発見に目を見開いた。そういうことか、と得心して呟いたとき、扉が開いた。


「……夜中に騒々しいことじゃ」


 兵を連れて現れた人影は扇を前面にかざし入って来る。二人はその姿に拝礼した。設けられた座に着いた黒衣の影は手を揺らして扉を閉めさせた。

「……それで?こんな夜更けに寝入りを叩き起して何事かえ」

 瑜順は嘘だと思った。内宮で休んでいたならこんなに早く来られるわけがない。それに微かに墨のにおいがするから、たった今まで目の前の人物は執務の真っ只中だったのだ。

「そなたが太后府をおとなうとは珍しきこともあったものよの、綺君。しかもそんな姿なりで」

 話しかけられて姜恋が目に見えて萎縮した。

「……御前に拝謁いたしますのに御無礼であるとは重々承知しております。しかし緊急に太后陛下に申し上げたき由がございまして、こうしてまかり越しました」

「話は聞いた。安命殿で羽林の訴追を受けたと?」

 姜恋はさらに頭を下げた。「宴席のおりに突然に。殿内が混迷をきわめるなか、わたくしはこの者に救い出されここまで参りました」

「おぬしは角族の……族主の従僕であるな。たしか、瑜順とか言ったか」

 扇を閉じた。冷たい顔で見下ろす。

「顔を上げよ、二人とも」


 瑜順と姜恋が従えば女は軽く頷いた。紛れもなく、太后の葛斎だった。

「それで、こんな所まで来て妾に何用じゃ」

「太后陛下、どうか羽林を止めてください」

「なんであれ羽林が動くということは泉主のめい。摂政といえど泉主のご意向を邪魔立ては出来ぬ」

 瑜順が口を開いた。「我々は本日再同盟を交わしたばかり。その我々に真実かどうかもまだ確かめられていない事象において捕縛を命じ、流血沙汰にするのはあまりに誠意を欠いた暴挙ではありませんか。しかも宴の真っ最中で諸官や妃嬪もいるなかの捕物とは乱暴に過ぎませんでしょうか。捉えようによっては一泉が我々の信を蔑ろにして盟約を軽んじたと考えることも出来ます」

 葛斎は眉をぴくりと動かした。

「……なるほど、一理ある。泉主とて泉柱せんちゅうはじめ定められた法は守らねばならぬ。同盟の約定とてそれは同じよの」

「泉主の下命といえどこれは角族に対する立派な背信行為では?たとえこちらになにか不義があったとしても、まずは然るべき手順で主に伝えられるのが礼儀。まして祝いの酒席を乱すようなことではありません」

 訴えにはしばらく無言だった。瑜順は重ねて口を開く。

「太后陛下。あなたは実はこのことをご存知だったのでは?」

 姜恋が驚いて二人を見比べた。対して葛斎は超然と問う。

「どういう意味ぞ?」

「失礼、口が過ぎました。朝廷で泉主と並ぶほどの権勢を布いておられる太后さまならば、城内の不穏な動きには耳敏いのではと愚考したまでです。しかし、誤解だったようですね。どうやら下々のことには興味がおありでない。太后府の守備兵も皆手練のようにお見受けしましたので、きっと心根も風紀を正そうとする義心を持ち合わせた優秀な方々なのかと期待してしまっただけです。でなければこんな狭い敷地の中で知らぬ存ぜぬと臆病風を吹かしているわけがございません」

 ぎち、と護衛の兵の槍柄が鳴った気がした。葛斎は感情のない硝子玉のような眼で瑜順を射抜く。

「妾を位に胡座あぐらをかいた無知だとあげつらうか。乳臭い角族の若造が」

「事態を把握していても見て見ぬふりでは、それは知らなかったと言っているのと同じです」

 悪びれない態度に、ふ、と微かに唇を歪めた。「よく口がまわる。そなたの言を否定はせぬ。しかし、我が兵の名誉を傷つけぬ為にも弁解させてもらう。安命殿のことは妾も先ほど聞いたばかりじゃ。これは妾にとっても不測なるは真実まことである」

「しかし、近々きんきんに我々が襲われる、もしくは良くないことが起こるのは予測していたのではないですか?だから太后府からよく見える招寧殿を角族の逗留場所にした」

 姜恋がさっきの会話を思い出して瑜順を見る。

「招寧殿に何かが起こらないようにここで私兵たちに見張らせていたのでは?しかし、敵も考えた。太后さまの縄張りである後宮に近い招寧殿に多勢で押し寄せ、まして包囲するのは難しい。ならば角族がどこか他の場所にいる時を狙えばいいと。安命殿は国府のすぐ隣の客殿です。しかも外郭寄りだ。攻めるのは容易い」

「おぬしはまるで羽林が城の外から来たかのように言うのだな」

 瑜順は葛斎を見返した。

「あれは本当に羽林でしょうか」

「というと?」

「昼にお見受けした泉帝陛下は、三公諸卿や王族を巻き込んでまで斬り合いを命じるような方とは到底思えませんでした。淮州のこともしかり。直接指図なされたとは思えません。そもそも太后さまに頭が上がらない御様子の泉主がそのような大それたことを画策実行するとは考えにくく思います。しかし、羽林を動かせるのは泉主だけ。となれば羽林をかたった別の勢力」

 葛斎は彼の言葉に考えるように目を閉じた。しばらくして扇を開く。

「――――あいわかった。これはげにゆゆしき事態。我が太后府の宦官兵、冬騎とうきを五十遣わす。しかし、泉兵こちらが乱闘をめるよう言っても聞くまい。瑜順とやら、共に行ってそなたの主をしずめよ」



 泉国の宮城には通常、泉主を公私で支え泉根せんこんを送り出す后妃の諸事を司る王后府は機関としてあっても、王太后府などというものは存在しない。太后の懿旨いしを伝えるのには後宮の居宮で王后府に準じた役職の太后付きの属官が外朝と文書をやり取りし、出御しゅつぎょのおりに随従する下官を揃えていればそれで事足りる。垂簾聴政すいれんちょうせいとはそもそも即位した幼君が加冠せいじんするまでの間、もしくは十分に親政できるとみなされるまでの限られた期間しか行わないものだからだ。

 しかし一泉宮にはたしかに太后が政に深く関わるための府殿がまるでさも当然のように内宮ではなく外朝に置かれている。加えて私兵まで抱えているのは只事ではない。もはや泉主と同等、それ以上の勢力であり、さらに不可解なのはなぜそんな太后の振る舞いが黙認され、あまつさえ許容されむしろ頼りにされているようなのかということだった。当代の泉帝が愚君であるというだけでその威厳を損なうほど大っぴらに勢力を拡大することが有り得るのか、現に有り得ているのがなぜなのか瑜順には分からなかった。



 葛斎の前を辞して太后府から出ながら、輿に乗せられた姜恋を振り返る。

「公主さま。本当に助かりました。御礼はまた後日に改めて。どうかお早いうちに自宮にお戻りくださいませ」

 でも、とそちらは逡巡する。「ひとりで大丈夫なの?」

「太后さまからご助力のお言葉も貰えました。しかしこれ以上は障りがございます。どうか御身をよくおいといくださいませ」

 頭を下げたのにやっと肩の力を抜いて頷く。

「助けてくれて感謝するわ。くれぐれも気をつけて……瑜順」

 迷いながら名を口にすると、呼ばれたほうは顔を上げ、初めて歯を見せて笑った。

「お任せ下さい。ではまたいずれ」

 もう一度一礼しきびすを返した。頭の中は既にこれからの事でいっぱいで、上がった口角はすぐ水平に戻る。しかしそれは後ろでほうける少女には見えなかった。




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