第4話
その日は今年最初の真夏日だった。
「暑いですねえ」
僕は湿度で肘に張り付いた書類を払い落としながら谷さんに声をかけた。
『こう暑いと警らもかったるいよなあ」
谷さんはノートで自分を仰ぎながら時計をチラリと見る。午後3時だ。
碑文谷派出所詰めになって3年。谷さんは俺の指導担当でもあった。
鋭い洞察力で的確に不審者を職務質問することで有名だった。
そして、あと3ヶ月で定年だった。
「そろそろ行きますか」
谷さんが立ち上がり、僕もイヤイヤながら従う。
「帰りビール行きませんか」
「今日はダメだ、孫が遊びにくるんだよ」
そんな軽口を叩きながら僕たちはいつものように警らに出ようと準備をしていた。
そのとき、生臭い、血の匂いがした。
「た、助けて!化け物が!!」
派出所の入り口から女性が一人駆け込んできた。
白いワンピースは所々血に染まっており、つんとした鉄の匂いがあたりに満ちる。
女性の顔を僕は見ようとしたが、逆光でうまく見えない。
「何がありましたか」
顔を見ようとすると妙に目の中が眩しくなってしまうので、僕は目を伏せて彼女のワンピースを見た。
ワンピースは血に染まっていたが、彼女に怪我はなさそうだった。
「とにかくそこの道路に!化け物が人をどんどん跳ねてるんです!」
化け物って、と彼女に聞き返そうとした瞬間、彼女は谷さんの手をとって外へ駆け出した。
「ちょ、ちょっと一体、うわ、うわああ!!」
谷さんの叫び声。派出所から出た谷さんと女性に大きく黒い影がものすごいスピードで突っ込んだ。
「谷さん!」
派出所から5メートルは吹っ飛んでいただろう。
谷さんはうめきながら僕の方にゆっくりと手を伸ばし。
「───くるな」
谷さんが何を言っているかを理解したのと何かに勢いよくぶつかられたのはほぼ同時だった。
地面と空が、ぐるんぐるんと忙しなく回転し、気がついた時には熱いアスファルトに頬を付けていた。
「う──、ぐ───」
体が動かない。下半身はまるで力が入らない。
そして。
「ぎゅあっ」
谷さんがまるで、蛙をすり潰したような声をあげた。
目の前をまたバタバタとうるさい足音が通り過ぎる。
ゴミ収集車だ。ゴミ収集車に見えた。
ゴミの投げ込み口に、谷さんの下半身がゆっくりと咀嚼するように飲み込まれていく。
「なんだよ、これ───」
ありったけの力を振り絞って、胸につけていた無線のスイッチを押す。
無線のノイズ。ノイズ。太ももから突き出した自分の骨。
「ちくしょう、ちくしょう」
涙がアスファルトに落ちる。
よく見ると、数メートル向こうからこちらまで、アスファルトは赤黒い血の海になっていた。
血溜まりの中には、いくつかの被害者の物らしきカバンや、携帯、ミニカー、ベビーカー。
「こちら、目黒3、至急、応援を」
無線に吐き出すように伝える。
目を瞑ってはいけないのにひどくまぶたは重く、意識はアスファルトに溶けていく。
そのまま目の前が暗くなり───
「そこまでだ。大丈夫?」
振り子を止められて僕は意識を引き戻された。
両目からはボロボロと大量の涙が溢れており、声を出そうとしてもしゃくりあげてしまう。
「ぼ、く───僕、は───」
日野さんが優しく水の入ったマグカップを差し出す。
「疲れたろ、大きく息をしながらこれ飲んで」
子供のように泣きじゃくりながら言われた通り水を飲む。
その水はただの水道水のはずなのにやけに甘く感じた。
「これが認知面接。そのときあった出来事を事細かに、時系列に沿って思い出してもらったわけだ」
船場さんが割って入る。
「菊住サン、聞いてて思ったんだけどこれ霊とかじゃなくない?交番に入ってきた女の人も実体があるっぽい」
佐々木さんが頷く。
「ゴミ収集車と言ったが恐らく本当のゴミ収集車を使ったわけでもない、ですね。八百坂くんが聞いたバタバタという音はエンジン音では、ない」
森繁さんが天井を見つめながら細い声で続けた。
「──八百坂くん、アメリカ育ちじゃないです。バタバタという擬音はアメリカではマシンガンの音に使うことありますが、日本では足音です」
鈴掛さんがそれを聞いてさらに続ける。
「多分式神か妖怪の類ですね。ゴミ収集車のような見た目ってことは大蝦蟇だと思います。ただそれだとバタバタではなくもっとジャンプするような音になりそうですが──」
頷きながら6課の面々の意見を聞いていた菊住警部はやおら捜査資料をめくり始めた。
「───あった。被害者のものと思われる血溜まりの血液の中には女性は2名しかいない。それも出血量から見ると致命傷かそれに近い怪我を負っているはずだ。しかし派出所に駆け込んできた女性は怪我をしていなかった」
そのまま捜査資料に赤のサインペンで菊住警部は書き込み始める。
「碑文谷派出所の入り口は東向きだ。午後3時の日差しで外から来た相手の顔がしじゅう逆光なんてあり得ないんだ。つまりこの女は意図的に”顔を記憶から消して”いた。この女が万が一なんらかの術の心得がある善良な発見者だとしても、それなら意図的に顔の記憶を消す必要性がない」
キュッ、と小さい音をたててサインペンが止まる。
「この女がこの事件のホンボシだ」
僕の涙はいつの間にか止まり、握るマグカップの水はすっかりなくなっていた。
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