取り憑く様に取り付いて
逃げるなら、同じ所に戻ってきてはならない。どこまでも前に進んでいくしかない。例え、偶然その先が出発点であったとしても、こいつはそこを素早く通り抜けて、どうにかして別の場所に辿り着かなければならないのだ。ただ、なぜ逃げているのか。どうやって逃げているのか。こいつには何も分かったものではない。
例えば、何かしらの陰謀に巻き込まれているのなら、こいつがどうして
そうやって、こいつはあの路線の側をぐるぐると、訳も分からず回り続けているだけなのだ。こいつとは自分の事だ。決して第三者ではない。それくらいは分かっているだろうが、一応書いておく。こいつはこいつの事が心底嫌いで、どうにか他者の様に触れようとしているだけなのだと。だが、それはできない。それは、同じ場所から離れようとする自分も同じ事だ。もはやどこに向かっても、同じ場所しか見当たらないのだ。だから進み続けているのだとしたら、こんなに馬鹿馬鹿しいことは他にあるまい。
分からない。分からないがとにかく逃げなければならない。そうやって逃げ始めたのはいつからだろうか。途方もない時間が流れているように感じられた。それなのに、むしろどんどん若返っていくかの様なのだ。そういう生き物なのかもしれない。どういう生き物なのかは知らないが、とにかくそうやって生きながらえているのだと。そんな事はいい。とにかく……ここにいる事は得策ではない。
そうやっていつまでも、目的を見失った逃避を続けるのだと思っていた。居もしない交際相手を手に引いて、どこまでも親元から離れようとしているのかもしれない。どういう事なのだろうか。恐らくは、その様にありもしない事を考えて、現実逃避さえも達成しようとしているのだろう。そうやって逃げようと画策している間というのは、逃げ切れずにいるものなのだ。だから追いつかれているはずだ。だが一向に追いつかれる気配もない。これまでの人生の記憶はあるが、正直なところ記憶喪失と変わらない。大事なことは何もかも置いてきてしまった。今持っている物と言えば、ただ焦燥感くらいなものだ。だからこいつは、路地裏のごみ箱を漁って、そこから
亡霊だか、幽霊だか、そういうものを信じているのは愚かしい事だと思っていた。そんなものを信じて、自分を信じていないのなら、そんなにあべこべな事もないだろうと、そう思っていた。今も思っている。あんなのは馬鹿馬鹿しい事だ。こいつと同じくらいだ。だから、亡霊に出くわしたあの日の事は、今でも信じられないのだ。
「あの、少し聞きたいことがあるんですが、いいですかね?」
「いや、こいつは忙しいんだ。放っておいてくれ」
「そうはいかないんです。自分の話を聞いてくれる人なら、自分の悩みを解決してもらわないと、そうしないと何も立ち行かなくなる。あなただってそうでしょう? 今だって逃げようとしているんだ。話は聞きました。自分に関する与太話についての情報を求めているんです」
一方的な人物だ。いや違うだろうか。亡霊というものは人と呼ぶべきか分からない。便宜上、人という事にしておこう。その半透明の人物は、逃げおおせようとするこいつとは違って、求めるものに近づいていく者であった。まるで逆の人物だった。いや、方向が逆なのであって、進んでいる道は全く同じであったのかもしれない。ともあれ、その要求を断る程の意志の強さをこいつは持ち合わせておらず、与太話の正体を求めて練り歩く者は二人になった。無論、その話とこいつとは全く関係がない。ただ亡霊を知覚する存在として、こいつが発見されただけなのだ。
その時も確かに逃げていたが、不思議と焦燥感はなかった。何から逃げているのか分からないのなら、元々焦燥感も何もあったものではないのだが。どうだろうか。こいつは逃げていなかったのか。どうでもいいことだ。どうせ、何も見つけられやしない。亡霊の自分について書かれている本の著者を探しているなどと……それもちゃんちゃらおかしいが、そんな妄言を信じているこいつも相当馬鹿げていた。どうでもよかった。どうあっても、何も変わりはしないだろう。どうせまた逃げるのだ。とにかく逃げるのだ。どこに逃げるのか。亡霊の代わりに、こいつが聞き込みをしていた。それから逃げようとしていたのか。どうだろうと……そんな事、誰も気にしやしないだろう。
どうせろくでもない人間なのだ、こいつは。どっちの話だ? 自分で言っているのに段々と分からなくなってきた。自分の中では何の間違いもないのだ。そうだ。亡霊とこいつとでは全くの別人なのだ。進む道は同じでも、姿形から全く違うのだ。同質ではあっても、同一ではないのだ。そう思い込んでいるだけだとしても、思い込むこいつはそこにいる。そうでないと亡霊に散々こき使われたこいつの立場がない。馬鹿にされて嘲笑されて……そうやってやっと情報を掴み取ったこいつの立場はどうなる。
「この本か。懐かしいな……子供の頃によく読んでいたよ。この作者のファンで、よく手紙なんか送ったりしていたんだが。最近はてんで話を聞かないね。作者の隣に住んでいるから、いくらでも話はできるんだけどな。代わりに話を聞いてこようか? 人見知りなんだ。急にやってきて、与太話がどうこう言い出したら驚くだろうな。だからまあ……話くらいはできるように、取り持ってあげるよ。彼が君達の役に立てたらいいんだが」
随分と親切な人であった。まるで、こちらを騙そうと勘案していると勘違いする程には。しかし他に情報もなかった。ある訳がないだろう! 聞いたら聞くだけ馬鹿だ阿保だと笑われるのに……それを亡霊に慰められる始末だ。そこで亡霊に八つ当たりでもしてみろ、それで周囲から狂人かなんかだと思われるのは目に見えている。だから、これはしなかった。その代わり、自分の頬を思い切りぶん殴ったりしていた。そうでないと正気を保てなかった。そんな事をしていなかったとしても、亡霊を側に携えて歩いているなどと言いふらしている時点で、狂人には変わりないだろう。
何がかなしくて、亡霊の世話などしてやらなければならないのだ。こんなことなら、逃避などせずにいればよかった。そうだ。こいつはなぜ逃避しているのだ。もうその事はいいだろう! 何度同じ事を考えて答えを出さずに放り出してきたか! 放り出してきた疑問が、連なって道になって路線ができるくらいには、こいつはこいつを馬鹿にしていきてきたんだ。今さら解決するつもりなどない。とにかく亡霊だ。亡霊からどうにかして離れなければならない。もうあんな七面倒なのは御免だ。何が好きで亡霊の世話などするものか。自分の意志を、他者を介して伝えようとする愚かな行為に、誰が手など貸すものか! だからこいつは、足か頭かを貸していたんだろう。全く愚かだ。自分の口があって、意志があって、それで他者に責任を委ねるという事は、そいつにどんなに言葉を捻じ曲げられても構わないって事だろう。何をそこまで信用できるんだ。一度そう言ってやった。考えもしなかった様だった。いや、正確には、それでもそうしなければならないのだ。結局、こちらが愚かなだけだった。聞かずとも分かる事を聞き、言わずとも伝わる事を言う……そういう馬鹿はこちらだけだ。
作者に立ち会う事になったのはいつだったろうか。どうでもいい事だ。早くこんな事を済ませて、衆目から散々に浴びた羞恥ともおさらばだ。初めは隣人に立ち会ってもらうつもりだったのだが、話を聞いて、進んで話をしてみせようと腰を上げたらしい。どういう風の吹き回しかは知らないが、面倒が減るなら構いはしない。扉が開いた。部屋は随分と狭苦しいものであった。ぶくぶくと太った、作者と名乗る輩の影響を受けているのだろう。そう思った。実際、二人が入るには十分な空間が用意されていたのだ。やっとその感覚に馴れてきた矢先の出来事だった。
「君が、僕の書いた本について聞きに来たって人かい?」
「そうだ。ところで、俺の隣にあんたの書いた本に出てくる亡霊ってのがいるんだが、見えるか?」
「……なるほど。全く見えないな。あいつもとんでもない人間を寄越してきたもんだ」
こっちの台詞だ。真偽不明のでっち上げの為にここまで苦労させやがって、後で覚悟しやがれってんだ。苛立っていた。顔にも出ていた。加えて変な人間だと思われたくなくて止めた。筆者も驚いていただろう。憤怒の形相でいたかと思えば、急に落ち着き払っているのだ。おそらくは、より変な人間だと思われただけだろう。
「まあいい。あの本の事が全くの出鱈目だと言っても、君は納得しないでここに居座るつもりだろう。だから、より深く説明してあげよう。下らない事だが……これは僕の子供の頃の想像でね。大人になってからどうにかしてでっち上げたら、胡散臭いものとしての立ち位置を獲得してくれるんじゃないかと思ってね、書いてみたんだよ。まあ、そこまで人気にはならなかったが……これは求めている話とは違うな」
そうだ。自慢なら壁にでもしておけ。
「その子供の頃の想像っていうのはだ、いつも決まった場所で成されるものだったんだ。それがあの、とっくに閉館した博物館でね。名前も展示物も忘れてしまったが、場所は覚えている。そこでは電気が通っていない筈なのに自動音声が流れていてね。それが不思議で、そこに何度も足を運んでいたんだ。僕はそれを、もっぱら「体の無い人間」と呼んでいた。いや、同じ事を伝えようとするばかりの音声だったんだが、それが何だかおかしくてね、たぶん馬鹿にしようとしていたんだろう。好き勝手に言葉を投げかけていたんだが……いつだったか、返答を寄越してきたんだ。『どうやら、ここに興味があって来た訳ではなさそうだな。』何というか……最初はおそらく、彼が怒っていると思った。謝罪の言葉を投げかけようとしたんだ。『だったら、私の話し相手になってくれないか?』何だか面白い事になってきた。もちろんその日は日が暮れるまで話したし、次の日だってそうした。他に行く所も無かったものだから、そうやって過ごしていたんだ。そうしているうちに、彼は望みを持ち始めた。『忘れられないものを、感じてみたい。』そう言っていた」
何が何だか分かったものではないが、とにかく、期待できる話に辿り着いたらしい。じっと話に聞き入っていた。手記の亡霊も、どうやら同じ気分でいた。別にそれを望んでいた訳ではなかったが、そうやって嫌に思ったところでどうなるでもない。作者は丼一杯の液体らしきものを飲み込むと、また話し始めた。
「僕は悩んだ。その頃は
急に土下座を始めたものだからどうしようもない。思わず怒鳴りつけてしまう始末だ。反射的な行動は謝罪を生んだ。生まれてから常に行き急いできたものだから、思いやりの向け方が分からない。だが、そんなこいつの振る舞いに対して、作者は落ち着いた様子で話を続けようとするのだ。最早どちらがおかしいのか分からなくなっていた。いやこいつの方だ。そんな事を比べてもどうにもならないだろう……。
「そうだな。あんたに謝ったところでどうしようもない。どうにかしてしまったようだ。気持ちが
「じゃあ、あの手記は本当に不思議のものだったのか。今は駅員の一人が所持している。だからここで存在し続けて、ここまで来れたのだ。そうか……初めから何から、全ては消え去る為か……」
亡霊の言葉など聞こえている筈も無いので、作者に伝わったのはこいつの口からだ。こいつは頭が悪いので、聞き手はいまいち要領を得ない様子だったが、概要は掴めたらしい。
「あの手記は、手にした僕等も正体が分からない。気付けば手にしていた。本当に分からないんだ。そうだな……しびれを切らした様だった。明らかに、それをもたらした者がいる事だけは分かっていた。隣人がそこまでできる様な存在だとも思っていなかったしな。失礼かもしれないが、僕みたいなのにこき使われて、特に嫌に思う訳でもないんだ。余程世間に馴染めなかったらしい。僕が言えた事ではないが……まあ、両者とも損はしていないんだ。とにかく、手記は自作自演の代物ではない。僕等にそれだけの事ができるなら、あんな与太話、いくらでも現実に仕立て上げられただろう。だが実際にはあの手記の話だけだ。今思えばそれで良かったのかもしれない。消え去る為に生まれるなんて、そんなに辛い事はない。だから人は生きる事に意味を見出そうとするんだ。僕もそうだな。亡霊はその結果だよ。その結果が、その考えとは真逆になってしまうのだから……恥ずかしい限りだ」
しきりにだらしない腹をかいているのは恥ずかしくないのだろうか。亡霊もその様子を何度もみている筈だ。今さら何も言わないと、そういうつもりなのだろう。
「じゃあ、この辺で失礼しますよ。ここまで話を聞けたなら十分だ。博物館に行って、何か話を聞けばそれでいいんでしょう」
「まあ、そう言えばそうだが……もうちょっとこう、感動してくれてもいいんだがな」
目も向けずに黙って扉を抜けて出て行った。もうあんな辱めを受ける必要はない……そう思うだけで救われる思いだった。とにかく物事が解決する事を望んでいた。この時、こいつは何から逃げていたのだろうか? 元々、何からも逃げていなかったのだろうか。意図のない焦燥感は消えずに
「……なあ、亡霊さんよ」
「なんだ」
「お前の事が嫌いだよ。憎たらしいね。都合良く誰かが救ってくれて、物事の方から自動的に解決してくれる、消えていくだけの軽薄な存在だろう。どうしようもなく嫌いだ。消してしまえるのなら今にでも消してやりたい。そうやっても、結局はお前の思い通りだ。だから苛立つ。だから……お前が嫌いなんだ」
「そうか。お前は俺を覚えていてくれるんだな。嬉しいよ」
思わぬ返答だった。皮肉であろう事は分かっていた。だが、淡々と返答する亡霊の姿に哀愁を感じていながらにして、丁度良い返答を思いつける程、こいつは器用な人間ではない。ふと風が吹いてきていた。亡霊は、いつにも増して儚げに見えた。
博物館は確かに佇んでいた。その入口は開け放たれていた。なるほど、子供でも入り込めた訳だ。なら、こいつはもうついていかなくてもいいだろう。ここから先はこいつの物語ではない。ただ亡霊の望みが叶えられるのがオチだろう。そんなのは御免だ。悦に浸る者を見て喜ぶ趣味はない。そもそも、亡霊の事などはなっからどうでも良かったのだ。焦燥感が解決すると思って今まで付き合ってきたが、全くの期待外れだ! こんな事ならあんな亡霊など放っておけば……それで、どうなるでもないだろう。八つ当たりなど、何の意味もない。
「今さらだが、興が削がれた。こいつはここらで退散する」
「そうか。見ていかないのか? ここまで来たのにもったいないな」
「その一時の執着に逃避を殺されるくらいなら、俺はどこまでも逃げ続けてやる。大体な、嫌いな奴の最期をわざわざ見届けるなんていうのは酔狂のする事だろう。こいつがそんな奴に見えるか?」
「初めに出会ってからここまで付き合って、最期の手前で別れる方が、余程酔狂だと思うがな」
「うるさい! とにかく逃げるんだ。お前の様な奴と一緒にいても、こいつは何も変わらなかった。お前にそれを期待していたんだ。完全な失敗だった。お前に頼るくらいなら消えてしまった方がマシだ……違う! あぁもう……どうしてお前にここまで律儀に付き合ってしまったんだ!? 全く無駄だった。こんなのは二度としてやらない。望まれてもしない」
「……本当についてこないのか?」
御免被る……そう言おうとして、喉に声がつっかえて、そのまま背を向けて走り去った。嫌悪と、後悔と、軽薄さと……亡霊に向かう筈の感情が自分に向けて攻撃を始めていた。ここには、だからこいつだけが残った。恐らく亡霊は消えてしまっているだろう。確かめる気にもならなかった。確かめたその時、亡霊は本当に消えてしまうのだろう。そう思った。だから奴は、未だこの世に存在し続けている。こいつの嫌悪の側、常に奴はいる。そうなるくらいなら、きっちりとけじめをつけてくれば良かった。失敗だった。いや、結局どちらを選択しても……やはり失敗だったと確信するだろう。進みたいと思える道は、その時既に塞がっていた。何を選んでも苦痛に取り残されるのだ。出会わなければ良かった。それだけで、何も引きずる事もなく生きていけたというのに……。
しかし考えていても仕方がない。その日から、とにかく卑しさだけは取り払ってしまおうと、真っ当な生活を始めようと試みたのだ。今この様に文字を連ねているのは、もっぱらその努力のおかげと言っても良いだろう。いや、あの作者の所に居候をしているだけであって、生活破綻者に違いはないのだが。そして、何度も何度も亡霊の結末を聞かされて嫌になっている事にも変わりはない。どこに逃げられるでもなく、そうして日々苛立ちを募らせるだけなのだ……。
だから、逃げるなら、同じ場所に戻ってきてはならない。そんな事は初めから分かっていた筈なのだ。どうやらこいつは、逃げるのも嫌になったらしい。そうしているうちに結局は作者稼業を手伝う事になり、今では文筆の仕事まで貰っている……というか、こちらに仕事を押し付けてくれやがっているのだ。まあ、そういうのもいいかもしれない。どうせこれ以上逃げる場所も見つからないのだ。それならいっそ、馬鹿馬鹿しくても楽しく暮らしていける方が……その方が、先の見えない逃避よりも余程良いだろう。だが、丼一杯を丸呑みにする姿を見せつけられるのは、その判断を間違ったものと錯覚させるのに十分な効力を発揮している。だがこれ以上は止めておこう。仕事仲間をそう拒絶する方がおかしいのだ。仲良くやっていくしかない。そうしていないと……こいつがどうしようもなく嫌悪するばかりの、軽薄な亡霊について考えてしまうだろうから。
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