走るナガサは佇んで

 いつも側にいてくれる人は、本当はその時にしかいないのだ。そこに戻ろうとしても、そこにはもう誰もいないのだ。それは隣人も、子供の頃の理解者も、ただ寄り添ってくれている存在も……そして、ミチだって例外ではない。今、側にいてくれている人だ。それはいつかは離れていかなければならない存在なのだ。昨日も、今日も、明日だってそうなのだ。その時が、他のどの時よりもおそろしい。ミチは隣で微笑んでいる。そこに表れる優しさこそが、私に別れを想起させているものの正体で、それが私にはおそろしかった。


「明日もまたここで話し合いましょう。きっと明日も、ここに来られるから」

「ええ、もちろん」


 そうでなければ、それは今生の別れだ。私には耐えきれない出来事だ。再会の約束はその恐怖を忘れさせる。明日になればまた会える。何も、もう会えない訳ではないのだ。だから大丈夫なのだ。だから……今この時まで恐怖が残っていたのだろう。


 そうしてまた、再会する時が訪れる。私は同じ場所で、同じ時間に、何事もなく待っている。遠くから見覚えのある姿が近づいてくる。そしてそれはいつもゆったりとしているのだ。私はいつもミチを待っている人だった。ミチを待たせた事は一度もなかった。私はずっと走っているのだ。絶えず孤独から逃れようとしているのだ。ミチはむしろ、孤独を引き連れて仲良く談笑している様にさえ見える。私は孤独が恐ろしい。私はミチの様に過ごす事はできない。


「あなたっていつも先に待っているのね。わたしが来るのが遅いのかしら」

「私が速いだけ。ミチが遅いわけじゃないよ。歩きならミチの方が速いでしょ?」

「確かに、そうかも。いや、そんな事はいいの。今日は試験勉強する日なんだから」


 試験勉強といっても、大したものではない。暗記に次ぐ暗記だ。しかも暗記する箇所かしょまで指定されているのだから、試験に答えを持ち込む様なものだろう。だから、これ自体は何の苦労もなかった。勉強するなどというのは、集まる事の理由付けに過ぎないのだ。お互いそれは分かっていた。なら、どうして集まっているのだろう。もしかすると、私の弱さはもう、ミチにばれてしまっているのだろうか。


「それで次は……おひつじ座、おうし座、ふたご座、かに座……その後はなんだっけ?」

「しし座、おとめ座、てんびん座。この間語呂合わせを作ったじゃない。羊と牡牛を双子が飼っている。カニと獅子が喧嘩して、乙女が天秤で罪量る。サソリが射ったヤギを、カメと魚が食べちゃった」

「そうだった。牡羊座、牡牛座、双子座、蟹座に獅子座に乙女座に……」


 覚えようとしている内容はどうでもよかった。それよりも、ミチと一緒に何かをしているという事が、私にとってかけがえのない事なのだ。私から欠けてはならないものだ。でも、その為にミチを縛り付けているなら、私は卑怯な人間だ。私は、卑怯者になりたくはない。でも、その気持ち一つで、ミチを私から引き剥がす事ができるだろうか?

 時は私の不安をよそにして、絶えず流れ続けている。また、別れの時だ。


「今日もナガサのおかげではかどったよ。また一緒にお願いね。それじゃあ、また」

「またね」


 また会えると分かっているから離れられるのだ。そうでなければ私は孤独だ。そう考える事さえもおそろしかった。逃げ出したかった。その日も走って帰った。それでも、何からも、私は逃げられない。私はただ怯えていた。孤独に対してではない。ミチが離れていく事ではない。その一つ一つが心をつんざいて萎ませようとしてくるのに、まともに対抗できない事に対してだ。


 そのうちに試験は終わった。終わった事にさえ気づいていなかった。いつもそうなのだ。いつも、ミチの事が気にかかって仕方ないのだ。その日は会えなかった。お互いに疲れを癒そうと決めたのだ。だから会わなかった。分かっている。どうしてなのかは分かっている。だから大丈夫だ。大丈夫……いつも、こうしているのだから。そうやって思い悩む間は、いつも眠れなかった。私は脆弱ぜいじゃくだ。そしてその事を伝えられない臆病者なのだ。だから、ミチに会うまでの間は、何とかこらえるしかなかった。会えるなら、それまではどうにか耐えられる。自分に無理を強いていた。その後はいつも、目元のクマを指摘されるのだった。


 そしてその日もミチは訪れた。いつもの様に、楽しく過ごしていた。いつまでも、こんな日々が続いていくものだと、子供が星に願う様に……いや、この頃は本当に星に願っていた。そうでもしなければどうにかなってしまいそうだった。なってしまえばよかっただろうか。それで済んだだろうか。そうなったら、ミチはどうなるだろう。ミチには、そうなって欲しくはない。

 他愛もない話が済むと、また別れの時が近づくのを感じていた。その日も、何事もなく離れていくのだろうと思っていた。その時のミチは、どこか神妙な顔つきをしていた。緊張して、今にも破裂してしまいそうな弱さが見て取れた。鏡を見ていたのかもしれなかった。


「ねえ、明日も会えるよね?」

「急にどうしたのさ。昨日だって、一昨日おとといだって、生まれた頃からだって、一緒にいたじゃない」

「じゃあ、約束して。わたし……これから旅に出なくちゃいけないの。あなたと一緒に、世界を巡る旅に」

「……どういうこと?」

「わたし、夢だったの。誰か大切な人と一緒に、どこか遠い所に行って、その先で思い出をたくさん作って、そして、ここに戻ってくる。その時、愛の告白をしようって。でも、そんな相手、いつまで経っても他に見つけられなかった。だから、いつからか分からないけれど……それがあなたでも、いいかなって」




 とんでもない事を言い始めている。巡る旅? 愛の告白? 私は、あまりに不思議そうな顔をしているのだろう。ミチは笑っている。そもそも、明日の用事は問題なかったろうか。思考がおぼつかない。でも、きっと大丈夫だろう。ミチが側にいるのだ。きっと、何とかなるだろう。そうであってほしい。


「ナガサが良かったら、明日から出かけようと思ってるの。一緒に路線を一周するなんて素敵でしょ? まるで、そうする為に路線が敷かれたみたい。ね、それっていいでしょ?」

「……とにかく、急いで準備をしないと。明日から出かけるなら今すぐにでも……」

「まあまあ、ゆっくりと、少しずつやりましょ? 何も逃げていかないもの。ナガサも、逃げていかないもの。ナガサはずっと辿り着こうとしているの。何に辿り着こうとしているのかは分からないけど……でも、ゆっくり進んでも、準備は間に合うから」


 そこまで言われて、気付いた。私はミチの事をほとんど知らない。ゆったりとしているなんていうのは、誰が見ても分かる事なのだ。だから、これは内面の事についての問題なのだ。心では自分を意識してばっかりで、ミチは何処にもいない。私はミチを知らなければいけない。旅もまた、始めなければいけない行動になった。準備は緩慢に進んでいった。少しずつ、そして確かに、闇を打ち払う様に……。




 結局、準備はほとんど進まなかった。いや、進んではいたのだが、進めば進む程に計画性が無い事に気づかされたのだ。だが、それがまた旅の楽しみを増大させていった。迷惑は二人の間で消化されて、公の人にはかからなかったので、そこが救いでもあった。失敗が楽しいのは、思えばその日が始めてだった。いや、前からその様な経験はしていた。その時はまだ自分の事ばかり考えていたので気づかなかったのだ。ミチはいつも通りに過ごしていた。それは、私にとってかけがえのない喜びだ。


「それで、次はどうするんだっけ?」

「次は……チケットは買った。荷物の準備はできてる。お腹は減ってない。身だしなみは整えてる。後は……」

「そうだ思い出した。飲み物だよね」

「それなら駅で用意がきくね。なら、後は駅に向かうだけ」

「あら、本当だ。やっぱり、ナガサが準備すると安心だよ」


 時間も十分間に合う余裕がある。これなら大丈夫だ。何が大丈夫なのだろうか。先ほどのミチの声はほとんど耳に入っていなかった。無視したつもりもなかった。そしてミチも特に繰り返さなかったので、後は空間に薄れていくだけだった。どうにも自分から話しかける気持ちになれなかった。今、私は限りなく受動的だ。


「それで、最初はどこに向かうんだっけ」

「隣町でしょ。都会で、家の窓からよく見えていたあの町。遠くもないけど行かないでいた所に」

「回りくどい言い方だけど分かりやすいよ。目的地っていうよりは、憧れって感じだけど」


 ミチが始めに言い出した事だと伝えると、そうだったかしらと返ってくる。このいい加減な所が、私にとっての大きな救いになっている。私は厳格で、あまりいい加減を良しとはできない性格だ。だから生真面目に傷ついてきたのだ。その傷を見ているのだろうか、ミチはあからさまに大雑把なのだ。それが、私の心に余裕を持たせていた。これはまだ、自分の事だろうか。ミチはまだ遠い。都会もまた、景色だけが遠くにそびえていた。


 それもやがて過去になっていく。都会はもう目の前にあった。初めて訪れる場所だが、前々から調べていたので、行くべき所は分かっていた。そして、それがその日の目的地でもあった。宿である。まずここに行かなければ、どこに行っても仕方のない事だ。我々は本拠地を離れ、放浪をしようとしているのである。よって、新たなる本拠地が早急に求められているのだ。冗談めかして言ったのは、ミチだったか、私だったか。たぶん私だろう。その時ミチは笑っていた。ミチが笑う時は、その事にだけ集中している時だ。たぶんそうだ。ミチの事は、まだよく分かっていない。


「ここが今日泊まるホテルなのね。いつもよりずっと豪華な寝床。本当に泊まってもいいのかしら?」

「料金は払ったでしょ。逆に泊まらなかったら迷惑になる。ミチだけベンチで寝るなら止めないけど」

「分かってるよ。冗談よ、冗談。ベンチで寝るのは構わないけど」


 そこは拒絶するべき所だと伝えた。また冗談だと返してきた。時折、その足取りの軽さが不安になる。ミチも私に対して、そんな風に心配事を抱えていたりするのだろか。していてほしいだろうか。私なら、してほしくはない。


「そうだ、世界を巡るなんて恰好つけた事言っちゃったけど、わたしたち、そんなに時間はないよね」

「そうだね。一週間で帰らないと、また別の試験が待ってるし」

「それもそうだけど、あんまりゆっくりとしちゃうと、元の生活に戻るのが億劫おっくうになっちゃうもの。対価を払ってくれるから皆よくしてくれるでしょ? わたしたち、そんなにお金持ちでもないし、お姫様扱いに慣れている訳でもないから」

「でも、一週間の旅に出るには十分なお金はあるよね?」

「もちろん。その為に今まで貯めてきたもの。わたし、本気だから」


 そんな事はとっくに分かっている。私が気にしているのは愛の告白についてだ。あの話がずっとついて回って、自己と告白の区別が段々とつかなくなってきている。どうすればいい。待っていればいいのか? 待っているとは、訪れる何事も受け止めるという意味なのだと、昔ミチから聞きました。そうやって私を縛り付けているのは、間違いなく自分自身だ。ミチではなかった。側に佇む優しさの方では、私を照らす光の方では、遠ざかっては近づいてくる衛星の方ではなかった。そうだ、私はミチを神格化してしまっている。


「あのさ。あの……」

「どうしたの?」

「……何でもない。何でもないんだけどさ、でも……やっぱり聞いておかなくちゃ。出かける前に言っていた事、本当?」

「もちろん。ホントだよ。でも、まだ言わない。まだ、ナガサの事、十分に分かっていないもの。ナガサはきっと、わたしの事なんか何もかもお見通しだよね」


 そんな訳ない。そんな訳ないだろう。そんな訳ないじゃない……私の中には、完璧な理解なんてものは一つとして存在しない。それはミチの事だって……そうなのだから。私はどんな表情をしているのか分からなかった。多分、笑っていた。笑っていたら、時が穏やかに過ぎ去ってくれるだろうと思った。ミチも笑っていた。ミチの笑顔は、裏に何も隠していないまことの笑顔に見えた。私にはできない笑顔だ。


 寝て、次の日になった。行くべき所には行った。楽しむべき事は楽しんだ。知るべき事は、何一つとして知らないでいる。私の欠乏けつぼうはミチが埋めているはずだったのに、今ではミチこそが欠けているものの正体だ。次の目的地に着いた。列車から出て駅に降りた。何も忘れ物はなかった。ただ、欠乏だけが残っていた。ミチが弱音を吐いたところは一度も見た事がない。私も、そうするべきではないのだろうと思った。


「ねえ、あの店行ってみない?」

「……あの店ってどの店? ここには店なんて数えきれない程あるけど。飲食店の展覧会なんて、どこを見たって店ばっかりでしょう」

「あそこ、あのラーメン屋なんて名前のところ」

「いいんじゃない」


 ミチははしゃいでいた。私はそれを見ると口元が綻ぶ。いつもそうなのだ。そうやってミチについていかないと、ミチを置いて行ってしまいそうなのだ。それがこわくて、私はミチの背中を追っている。


 駅の近くで開催されていた展覧会は、注文すれば実際に飲食も可能となっているものだった。そこでは、いつの時代かも分からない食べ物が並べられている。そして、どれもこれも美味しそうな見た目をしていた。いや、見た目が青色一色であったり、一見すると丸焦げのものまであったが、それも食べてみると美味しいのである。こればかりは心配事もなく楽しんでいた。満足して、次の駅に向かった。荷物も忘れず、お金もあり、順風満帆じゅんぷうまんぱんだ。そう、元々旅には問題がないのだ。それは私に集約しているのだから。


「ねえ、ナガサ」

「どうしたの」

「わたし、告白するんだよね」

「そうだよ」

「大丈夫かな。心配になってきちゃった。この気持ちを受け止めてくれるかどうか……そもそもこの気持ちは間違ったものかもしれないし、段々分からなくなってきちゃった」

「……その時が来るまで、私は待ってる。だから、ミチは堂々としていればいいの。あなたは何も間違ってなんかいないの。私、ミチを信じているもの」

「そっか。そうなんだ。よかった」


 ミチは窓の外を眺めた。私はミチの横顔を見ていた。泣くでも笑うでもない、黄昏時たそがれどきの様な表情を見ていた。ふらりとミチがこちらを見つめてくると、私は窓の外を眺めた。私の横顔はミチにどう映っているのだろうか。結局、私の事ばかり考えている。ミチの事どころか、何を話すべきなのかも分からないでいる。時が経っていく。こういう時があってもいいのかもしれない。でも、この沈黙は孤独に似ている。私はどこかに取り残された様な気がしてきて、ここがどこかも分からなくなりそうだ。不安だ。ふとミチの手を掴んだ。掴んでいた。ミチに名前を呼ばれるまで気づかなかった。


「ねぇ、どうしたのさ」

「あ……ごめん」

「そうじゃなくて、理由を聞いているんだよ……でも、きっと不安だったんだよね。こんなに近くにいるのに、それでも近づこうとするんだもん。わたし、やっぱりナガサの事を知らない。教えてくれる?」


 口を閉じようとしていた。開こうともしていた。どちらが本当か、わからない。


「……私、こわいんだ。いつもミチと離れる時、ミチがどこか遠くに行って、そのまま帰ってこない様な気がしてくる。鳥みたいに飛んで行って、そのまま地平線の下に潜ってしまいそうな気がするんだ。私、自分の部屋の中でずっと震えて、でもそれは暗闇のせいじゃなくて、それで……側に誰かがいてほしくて……」


 ミチは何度も頷いていた。ミチには、そうやって何もかもを受け止めようとする、強靭きょうじんな優しさがあるのだ。提案はいつもミチからで、私はいつも提案を受け入れる側だった。この告白だってそうだ。列車を降りずに駅を通過しているのだってそうだ。私の決断ではなかった。私の行動の先にはいつもミチがいるのだ。ミチを見て、私はただ、怯えているだけだ。私の弱さは吐き出される様にしてミチにぶつかっていった。ミチの表情は揺るがなかった。むしろ、私の汚らわしい脆弱ぜいじゃくさに触れて、ミチは輝きを増した様にさえ見えた。等身大のミチは、その輝きに隠れて見えないでいる。


 あれから何駅を過ぎたのだろうか。流石に夜も近づいて、私達は列車を降りて宿に向かった。このまま行くと一日一駅でも一週間はかからないだろう。随分と駅を通り過ぎてしまった。これで良かったのだろうか。ミチに話を切り出すのは、まだこわい。ミチは何も言わなかった。私から話しかけられるのを待っているみたいだ。それからも私は何度も、ミチが私に近づく様にゆっくりと話し始めようとした。口元がこわばる。手足が震える。周囲からすれば、私は不審者に相違ないだろう。


 いや、その時はもう宿の中にいたのだ。私に気を遣ってミチが色々と済ませてくれたのだ。だから、部屋に二人きりで、その事実はより緊張を意識させていた。見つめあっていた。ミチの手に触れていた。私達はここにいて、それと同時にどこか別の場所にそれぞれ取り残されている様な気がした。どうしようもなくかけ離れた場所から、手を伸ばせば届く所にまで来ている様にも思えた。そして、それで、私が何も話せないまま、時だけが過ぎていった。


 ミチはそれでも待っていた。夜も更けて、心地よい風が外から流れてきていた。私はその優しい風に乗せられたつもりで、少しずつ話してみようと試みたのだ。


「……私、ミチの事、本当は何も知らないんだ。分からないんだ。だから、離れていく度に、背中が見えなくなる度に、ミチがそのまま消えてしまうんじゃないかって……」

「まさか。わたし、ずっとここにいるもの。ナガサだってそこにいるでしょ? もしかして、そうじゃないのかしら」

「……そんな訳ないじゃない」


 話しているうちになんだかよくわからなくなってきていた。かなしみと、嬉しさと、とにかく様々なるものが胸中でないまぜになっていた。私はどうやってここに存在しているのだろう。気を抜いたらそのまま、意識まで手放してしまいそうだ。私は感情だった。理解でも、苦痛でも、調和でもなかった。私は泣いていた。ミチは驚いていた。そうだろう。落ち着いて話し始めたかと思ったら、急に感情を表出させるのだ。私はこれを客観的に捉えていたが、それが自分の認識なのかは分からなかった。私はその時、確かに他者に観測されて、それを自己と勘違いしているだけなのかもしれなかった。


 そのうち、ミチも泣き出していた。お互い、よく分からない事だけは分かっているだろうと思った。まだ、こんな事しか共通認識にならないのだ。それでいいのだろうか。ミチには要らない負担ばかり強いている様に思えてならない。私は、本当にミチの側にいてもいいのだろうか。ミチは確かに泣いていたが、笑顔でいた。その笑顔は真のものだ。ミチのものだ。私ではなかった。私であったなら、それをどう捉えていたのだろうか。その裏にやはり傷を隠していたのだろうか。ミチには、そんなものなんて一つも存在しないのだろうか? 本当に? こわくて聞けない。私はミチの汚いところをわざわざ見つけ出してしまいたくはなかった。ましてや、傷口を開かせる様な真似なんてさせられない。結局、ミチの事は何も分からなかった。でも、ミチに私の弱さは十分に伝わっただろうと思った。嫌われるには、十分だ。


 朝まで起きていた。そもそも、横にもならなかった。ずっと椅子に座っていた。ミチもミチで、そんな私をずっと見ていた。私は、は、「私」は……過去の如何なる時の中でも、未来永劫過ぎ去り続ける時の中であっても、今でも、ここにいるだけの存在だろうと思った。ミチは、どんな私を見ているのだろう。




「……ミチ、私に告白、してくれるんだって、信じてる。もうそんな風に私を見られないかもしれないけど……それでも、伝えられる事があるって、信じてる」

「もちろん。だって、そうするためにここまで来たんだよ。いや、まだ目的地じゃないけど……でも、少しずつそこに近づいていけばいいの。今までずっとそうだった。これからも同じ。それとも、違う?」

「いや、そんなことないよ」

「だよね。よかった」







 やがて宿を出た。次の駅に向かっていた。そんな事など知る由もないとして晴れ渡る空は、何からも独立して存在する強さとして映った。私とはまるで逆の……それ自体によって保たれ、損なわれていく存在。どこまでも、それは私ではなかった。私はミチの側にいる。ミチも、私の側にいる。空の様に遠く離れる事もなく、駅の様に点々と散らばる訳でもない……あれ? まあ、とにかく、間違いなく側にいるのだ。それはたった一人で、かけがえのない存在なのだ。そうであってほしいだけなのかもしれなかった。


「何だか疲れちゃったね。ナガサ、あなたはどう?」

「……私、このまま眠って目的地に着くなら、それでもいいかも」

「わたしも同じ。一緒だね。そう、一緒なんだよ。ナガサも、わたしも、ずっと一緒なんだから」

「もう告白しちゃうの?」

「違うよ!? でも、別にいいけどね。最初から伝えてしまえば良かった。わたしは本気だって、伝わっていれば良かったのに。だから無理をさせちゃったんだよね。わたし、やっぱりナガサの事を分かってなかった。これからもっと教えてくれたら嬉しいな」

「もちろん」


 物語はもう済んだ様だった。私はこれから告白を受けて、日常を歩んでいくのだ。何故か、そう定まっている様に思えた。寝ずにいたあの私は、確かにまだここにいるはずだ。どうだろう。きっとそうだ。ミチは、そう思っているはずなのだ。そういえば、先ほどからミチは気にしている素振りだ。どうしたのだろう?


「何か気になる事でもあるの?」

「いや、あのね、あそこに誰かいるんだ」


 指差した先には、周囲の人に片っ端から話しかけているのに、誰にも反応してもらえない、かわいそうな人がいた。それとなく合図を送ってみると、こちらに気づいたのか、喜びの表情と共に近づいてくる。


「やっと気づいてくれる人に出会えたよ!」

「それは良かった。それで……あなたは?」

「ああ、自分は手記から生まれたんだ」




 唖然とした。ミチもそうだ。どうも、その手記がどこからやってきたのかを聞いて回っているらしい。しかも、私達に会うまで誰にも気づいてもらえずに、ここまでずっと列車を乗り継いできたそうだ。


「だがな、気づいてもらえないというのは、料金を払わなくてもいいという事でもあるんだ。どの道、自分は亡霊みたいなものだから、払うも何もって話だけどな。そうやって驚いているところを見ると、手記の事は何も知らなそうだな」

「あ、ごめんなさい。本当に何も知らなくて……」

「いや、いいんだ。気づいてくれただけ、ずっといい。そうだ、その代わりと言っては何だが……自分の事を、噂にするでも何でもいいから、広めてほしいんだ」


 なんやかんや楽しく話しているうちに、目的地まで後一駅のところまで来てしまった。それよりも私達は、あれが現実の事だったのかどうか確かめる為に、私達の認識を掛け合わせようと試みた。そして、どうやら現実に起きた事らしいと結論づけるに至った。危うく本当の目的を忘れてしまいそうになる程に、あの経験は根強く印象に残ったのだ。目的地に話題を戻すまでに随分と苦労した。そう、そこには誰かがいたのだ。私の弱さへの荒療治の様だった。


 それはそれとして、ミチは慌てていた。告白の内容を考えずにここまで来てしまったらしい。あの時話したみたいに、落ち着いていればいいと伝えると、それが難しいとミチは答えた。そうだろう。それでも伝えなければ、何も考えていない様に映るだろうと思うと、それはおそろしかった。私は考えすぎていた。だけど、ミチもきっと分かっているだろう。口を開いて言葉を発しなければ、泡沫うたかたの様に消えていくばかりなのだ。


 私は今、ミチの言葉を聞く為にここにいる。ミチも、確かにそこにいる。いつの間にか、今度は私が言葉を待つ番になっていた。いや、何を言われるのかは分かっている。だからただ、私は決断を受け入れるだけなのだ。ミチと共にいる。それは、私の誕生の時からずっとだ。そう、それは私が……ミチをそこに見つけた時から、ずっとだ。私にとって確かな事はそれだけだ。そこから以前、私はどこにもいなかった。本当にいなかった。私はミチによって顕在化したのだ。私は亡霊だった。あの手記の住人の様に……見つけてもらえないさみしさだった。それでも、私はここにいる。だから、ミチもそこにいるのだと。


 近づいていれば、目的地に着く事となる。ここはもう出発駅だ。あれはもう一週間も前になっていた。なぜか、もっと短い期間の様に感じられた。それがさみしくて、私はあれから日記を書き始めたのだ。そのうち、日記とは別にあの旅の名残を書き始めて、それがこの文章なのだ。これを誰かに見てもらうつもりもないが、だからこれから書く事は、私が生涯秘密にするであろう……あの日の初々ういういしい告白。


















「……ナガサ、聞いてくれる?」

「その為にここにいるよ」

「……ありがとう。あのね、わたし、やっぱり、あなたでも……ナガサでもいいかなって、そう思えたんだ。いや、ごめん、そうじゃない……そうじゃなくて……ナガサだから、だからいいかなって……そう思えたんだ。信じてくれるよね?」

「もちろん」

「よかった」
















 そこにいる事を確かめようとして、抱きしめあった。そこにいた。そう、確かにそこにいるのだ。私は全く同じ場所にいて、その事に気づけなかっただけなのだ。ミチも、きっとそう思っているだろうと感じられた。感じているだろうと思えた。それで、それで……ミチは、今も私の側にいる。今も、私は同じ事をしている。違った者同士で、同じ事をしている。それが私の救いになる様に、ミチの救いになってくれるなら、喜んで同じ事をしていよう。そうやって、絶え間なく循環していくのだ。あの日に乗った列車の様に、とどこおりなく元の場所に戻っていくのだ。それもこれも、全てはミチに会う為に。


 私はまた走り始める。ミチが歩き始めているように、私も前に進んでいく。そしてまた一つ所に集まるだろう。私はナガサ。それは、ミチの側に寄り添う者の名前なのだから。

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