寝過ごす待ち人

 駅のホームの端、一つしかないベンチを占有する男がいた。いや、男なのかどうかは分からない。口調や背格好から、男性的な印象を受けただけだ。おそらく、そこには人がいた。列車に乗り込む列の傍らで、座り込む影と形があった。本当のことなのか、全くの出鱈目でたらめなのか……納得しかねていた。


 そこには、確かに占有されているベンチがあった。浮浪者のような、うすぼけた恰好かっこうをしたやからも、確かにいるはずなのだ。ただ信じられなかった。彼はどうやら、一度も列車に乗り込もうとせず、ただじっとしているらしい。この駅ができてからというもの、彼は常に座り込んでいるそうなのだ。始めのうちは駅員も彼を追い出そうとしたそうだが、そのうち諦めてからは、訪れる人々から名物のように扱われている。彼は痩せこけていた。諦めたにしては、妙に軽そうな体だったのだが……それもまた、客の興味をそそるらしい。そして自分は……。


 そうして列車を寝過ごしている彼が、今日も駅にいることを確かめようとした。やはり彼はそこにいた。一度くらいはいない日があるのではないか。そう思って、早や一年が経過している。用事があってここを訪れるのだが、如何なる時間においても、彼はそこに座っていた。何か末恐ろしいものさえ感じていた。それでもなお気になってしまうのは、自分もまた、彼に興味を持っているということなのだろう。


 一度、彼と話したことがあった。彼の名前が気になっていたからだ。いや、他に気になっていることはいくつかあった。それを引き出す為に、こちらから名前を述べたのだ。覚えてもらおうとは思わなかった。ただ、話が別の方向に進んでいくことを期待していたのだ。


「名前なんてものはない。持っていてほしかったのか知らないが、とにかく持っていない。他人の名前なんてどうでもいいだろう。自分の事もどうにかできない奴が、他人の事を気にしてどうなる」

「じゃあ、あなたは動けなくてここにいるのですか」

「そういう意味じゃない。別に本題があるのなら、それを先に話せばいいじゃないか。どうせ、俺の名前なんかどうだっていいんだろう。だいたいお前は、名前を聞いて、はい分かりましたなどと言って話を終わらせるのか。そんな馬鹿な話ないだろう。で、本当に聞きたかった話は何なんだ」


 この話の流れを作ったのは自分であるのに、なぜか不服だった。腹さえ立っていた。表には出さなかったが、どうも気に障る人だ。それもまた、興味を引き出す要素の一つなのかもしれない。


「……どうしてここに座っているんです。別にどかそうと思っている訳ではないですがね、どうしても気になるんですよ。他に座りたい人だっているかもしれない。それでもあなたはそこに座り続けるんですか」

「そうだが。逆に聞きたいんだがね、どうしてただ座っている人にそんなにちょっかいをかけるんだ。お前は席を譲ってもらう時には、難癖なんくせをつけなければならないのか?」

「そうじゃないですよ。ただ前から気になっていたんです。座るだけなら、コンクリートの上にだって、天井の上にだって……それこそ、列車の席にだって座ることもできたでしょう。どうしてそこにずっといるんです」

「ここに座っているからだ。正確には、お前がそう思っているからだろう。俺がここにいるかどうかなんて、俺にだって分かりゃしない。お前は分かっているのか。お前がそこにいるかどうか」

「思春期の愚痴なら後にしてください。どうしてベンチに固執こしつしているのか、それに答えてくれればいいんです」


 彼は黙り込んだ。どうも、呆れた様子だった。何がそんなに馬鹿馬鹿しいのだろうか。人が真剣でいることは、そんなに面白くないことなのだろうか。しつこいと言えば、こっちだって黙ってやってみせるのに、この人はただ拒否している。そこまで思って、自分の方が周囲に迷惑をかけていると気づき、話を止めて離れていった。こちらに向いていた好奇こうきの目の数々は、元の方向にもどっていった。羞恥心しゅうちしんもまた、元の状態に戻っていった。心には、彼に対する疑問が確かに残っていた。ただ、今度会った時には謝罪しよう。彼がどうであれ、あの時に問題を起こしていたのは間違いなく自分の方だ。だが、菓子折りを持っていくつもりはない。自分はまだ、彼の好みさえ分からないでいるのだ……。


 今日も彼はそこにいた。影と形がはっきりとしていて、それでも存在が希薄きはくであるように見えるのは、僕の目が悪いせいなのかもしれない。次に会う時には眼鏡を付けよう。彼は座っていた。僕も座ろうと思った。丁度ベンチには後もう一人分は座れる場所が確保されていた。そのはずだ。


「今日は何のつもりだ」

「この前のことを謝ろうと思って……」

「その割には、無作法ぶさほうなことをするのだな。お前の親の顔など知らないが、きっとお前に似た顔をしているのだろうな」

「そりゃそうでしょう。いや、そうじゃない人もいるでしょうがね」


 彼は笑った。この間のことは、どうでもよくなっている様に見えた。そんな訳があるか。この人は一体何を考えているのだろう。きっと、彼も同じことを考えているだろうと思った。そうでなければ、自分には彼の考えなど分からない。彼も、やはり同じ状態に陥っているだろうと思った。何か話すべきだ。


「ところで、お腹は減りますか?」

「どうした急に。施しでも与えてくれるのか」

「それならいつもそうでしょう。駅員から聞きましたよ。毎日弁当を貰って食べているとか……」

「それは、そんなつもりではなかった。ただ受け取ったら、それから毎日与えられる様になっただけだ。いや、こんな言い訳などするべきではないか。如何にも、俺は施しを与えられている。これで満足か」

「満足しているのはあなたの方でしょう」


 彼は腹立たしい気持ちでいる様だ。顔中に感情を表現させて、まるで感情にとりつかれているようだ。まさか、彼は本当にそうなっているのだろうか。彼をなだめながら、感情を引き出す方法について勘案かんあんしていた。なんであれ、今は話すしかない。


「そうだ。例えば……好きな人なんて、います?」

「俺を壁か何かと勘違いしてないか? もっとマシな話題を持って寄越してこい。そんな話をする義理など、お前にはない」

「つまり、いるってことですよね」


 彼は急に嫌なものを食べ始めた様だった。そんなはずはない。苦痛を覚える程に、話したくないのだろう。それとも、目の前にいる自分のことを嫌いにでもなったのだろうか。なら、どうして遠ざけないのだろう? やはり、彼の思考は分からない。


「……どうしてもというなら、教えてやる」


 そんなことを言ったつもりはない。それはそれとして、彼は軽そうな口をわざと重々しく開き始めた。わざとらしかった。この人は、優れた演者にはなれないだろう。


「確かに、一人好きな奴はいた。俺の側にいた。確かにいたはずだ。だが今はそうじゃない。分かっているだろうが、俺はこの駅ができてからというもの、このベンチに座りっぱなしだ。おかげで歩くこともできなくなった。だから、どんなに嫌でもお前をそこからどかすことはできないし、逆に俺をここから動かす奴もいない。好きな奴も、もう側にはいない。俺は今でこそやせ細っているが、昔は力仕事に精を出していた。この駅の行先に、一つだけ特別に大きな駅がある。そこの建造に携わったのが最後の仕事だ。あれは素晴らしい仕事だった……そう、好きな奴との生活は、その時までは続いていた訳だな。その仕事が終わった頃、俺はまた収入が途切れた。他の仕事を躍起になって探していた。危うく、人道を踏み外しそうな程にな。それに嫌気がさしたんだろう。いつの間にか、住処からいなくなっていた。本当に消える時には音沙汰おとさたもないもんだ。もちろん探しに行くあてもない。俺は仕事を探すのを諦めた。住処も諦めた。俺はただ休める場所が欲しかっただけだ」


 その割には人通りが多い。この話の流れで、その様な軽口を叩く度胸はなかった。


「もしかすると、もうそいつは俺の知らない所で、誰かと共に幸せな日々を過ごしているかもしれねぇ。ここにいるのは、それにどうにか出くわさないようにしているからなのかもな。ここにいるせいで、出会う羽目になるやもしれねぇのに、馬鹿だよ俺は」


 話は終わった。自分は繋ぐ言葉を思いつかなかった。ここから立ち去るべきだろうとさえ思った。自分が生み出した空気にさいなまれていた。自分は何かとんでもないことをしでかしてしまったのではないか。彼は黙り込んでしまった。自分も黙り込んでいた。空気はより一層苦しいものとなった。そうだ、今日の分の弁当はまだだろうか。そう思ったが先か、こちらに近づいてくる人が先か、若い人が見えた。性別はこの際どうでもよかった。自分の救援要請は、確かに受け取られた様だった。しかし、自分が本当に求めていたのは弁当ではないだろう。


「はい。遅れてごめんなさいね。今日はちょっとお寝坊さんで……はい、今日の分」

「ありがたくもらっておくよ。どうせ、返したって困るだけだろう」

「そうやってまた意地悪言う。まあいいけど。腐る前にちゃんと食べてよ」

「いつもそうしているだろうが。全く……」


 彼の太ももの上に乗った弁当を見て、自分も食欲が湧いてきた。駅弁を買いに行ってベンチに戻ると、先ほどの人はもういなくなっていた。男は貰った弁当に恥ずかしげもなく口をつけている。自分にはそれが酷く羨ましく見えた。そのとがめられない振る舞いに対して感じた苛立いらだちを、羨望せんぼうに変換する事で正気を保っているのかもしれなかった。自分が駅弁の封を開ける頃には、彼は既に食べ終わっていた。自然と上機嫌になって話し始める男を止める者は、どこにもいなかった。


「ところで、さっきのは全部嘘だ。本当にそんな大切な人がいたら、俺はどうやってでもそいつに会いに行こうとするだろうよ。つまり、そうではないってこったな」

「では、本当は何を待っているんです?」

「……さて、何のことだ? 俺はただここに座っているだけなんだがな。そっちが勝手に俺が何かを待っているって勘違いしているだけだろう? 期待しているような答えは、ここにはないよ」


 ここにおいて僕は、彼が嘘をついている事だけは、本当の事だと確信していた。それを踏まえると……実際のところ、彼は何かを待っているのに、それが何なのか分からないでいるのだ。端的たんてきに言えば、彼は記憶喪失なのだ。そうでなければ彼は、会う人を馬鹿にしたくてここにいるのである。それはそれでとんでもない程の物好きだろう。僕はどちらとも思えなかった。では……何故? ここにいれば食料にありつけるから? 何とも言えない。どれであったとしても、どこか大切なものが欠けている様に見えた。そう……彼には人間味がない。嘘をつく事を通して、彼は何も得ようとしていないのだ。


 生きていても、死んでしまっていても、どうでもいいと思っているかの様なのだ。死生観が欠如している。だから、誰にも共感してもらわなくてもいい。誰に食料をもらっても感謝しないのは、そんなつもりが微塵みじんもないからだ。失礼な事を考えているのは分かっていた。だが、彼はそれ以上に失礼な人物なのだ。まるで……自分から全てのものを遠ざけようとしているかの様に。その割には、他者の接触を拒まないのだ。彼と関わると、彼がどれほどおかしいのか、感覚で理解できる部分は多々あった。だが、それを言語化しようとした時に問題は起きる。彼をおかしいと思う自分の基準を、彼に無理やりずらされている様に思えてならないのだ。彼は全てがおかしかった。行動、言動、他者への反応……なら、彼についてとりつかれたように考えている自分の方は、どうしておかしくないのだろう。


 そもそも、彼はただそこにいるだけなのだ。ベンチに座るのに許可は必要ではないし、ましてや、そこで寝ているなんてのは、駅員が処理すればいい問題だ。それでもそこにいるのなら、最早誰が何を言ったところで、彼はそこにいるのだろう。誰が命令するでもなく、自分で望むのでもなく、ただそこにいるのだろう。


 その様な思索しさくをよそに、黙って弁当を頬張っている間も、彼は話し続けていた。こちらの方を見つめていたが、こちらに伝えようとしている話ではなかった。何故か、この話だけは耳に入ってこないのだ。その感覚だけが確かに今でも残っている。それが、彼が存在した、たった一つの証明だ。今の自分には、これ以上の証拠をもたらす事ができない。しかし確かにそこにいたはずなのだ。そう、そういえばこの様な話もあった……。


 いつの日だったか、彼を何度もあそこからどかそうと試みた駅員から、彼が一度殺されそうになった事を聞いた。覆面ふくめんを被った大柄の人物に刃物を向けられたそうだ。それを、震えるでもなく、怯えるでもなく、彼は「やるのか? それともやらないのか?」と聞いた後、覆面の者は確かにらしい。そして場は騒然となった。彼はめった刺しにされても生きていた……。正確には、体中から大量出血しているにも関わらず、普段通りに意思疎通を図る事ができたと。やがて元の姿に戻るまで数日もかからなかったらしい。その駅員は実直な人物で、嘘をつく暇もなさそうにせわしなく働いている。この間に話せたのも、たまたま彼が昼休憩をとっていたからだ。そして、その会話の最中にも、彼は確かにあのベンチに座っていた。全身から出血している人物には見えなかった。それも駅員の仕事の中に含まれていると、その駅員は冗談めかして言っていた。笑えなかった。笑うべきだったかもしれない。だが、どう笑えばよかったのだろう。未だにその答えを掴めていない。無論、彼の正体も。


 今日も彼に会おうと思っている。僕は、彼の存在を確かめることで、僕という存在を確立しようとしているのだ。実際には、彼がいない場所を見つめる事に耐えられないのだ。だが、彼を見たくもなかった。僕は、彼をおそれている。彼がそこにいる事、彼がいなくなる事、彼に知覚される事、彼に知覚されない事……とにかく、彼に絡む全てのものがおそろしい。そして、彼を忘れる事は、その中でもとくにおそろしい事だ。だから会いに行くのだ。狂気的だった。だが、誰にこれを止められようか? ましてや、誰が彼以上に自分を気にかけてくれるものだろう? 彼は最早、僕の存在意義……その代名詞にまで発展している。そして、彼はそこにいる。それは、今日も変わらない事だった。そうだ……段々と、自分の方が寝過ごしている人になっている。


 思えば、大切なものを放り出していたのは、始めから自分の方だったのだ。彼はただそこにいただけだ。本当に、それだけの存在だったのだ。いや、違っていてほしくて、ここに通いつめていたのだろうか。もう思い出せない。何も思っていなかったのかもしれない。なら、どうして今も彼に会おうとしているのだ? 彼はもうそこにいないのだ。いや、これを書き始めた頃には既にいなくなっていた。いや、そうではない。この物語は自分ではない。いやそうじゃない……何か、何かが変だ。




「やあ、座り込んでいる人。元気でしたか?」

「なんだその挨拶は。喧嘩でも売りに来たのか?」

「違いますよ。また、お話させてもらおうと思って」

「なるほどな。だがな、仮にも駅員だろう。俺じゃない所にだって気を使うべきじゃないのか?」

「……この間、横で弁当を食べていた者がいたでしょう?」

「そうだな。俺の話を聞いていた。途中から弁当の方が重要になった様だが」

「彼、本当に存在していると思いますか?」

「どういうことだ」

「何、少し考えていたんですよ。私に話を聞きに来た時から、ずっと妙に思っていてね。彼の姿を見た人、あなたと私以外にいますか?」

「……まさかな。あいつはこっちの方がおかしいと思っていた様だが」

「興味が湧くでしょう? ところで、この手記を見ていただきたいんですがね」

「何だよ、もったいぶって。それにさっきのやつの話でも書いてあるとでも?」

「その通りです。ですが、それだけではありません。初めはあなたの方が疑わしいと思っていた様ですが、段々と彼自身がその疑わしい存在へと変貌していくのです。彼の認識は、彼自身を捉える事ができなくなってしまっていた。とすると、これからやってくるはずの彼は、もはや彼とは別の存在になっているかもしれない。楽しみではありませんか?」

「……それより、あんたの仕事はどうなんだ」

「今日は早引けさせられましてね。これから、彼の正体を暴こうと」

「そうかい。そろそろ時間なんじゃないのか」


 何か、彼等が話していた。見覚えのある二人組だ。そうだ、彼等は実在する。自分の方は? おかしい。何かがおかしい。そうだ、ここにいる以外には、どうやって存在していたんだ。自分はここ以外のどこかに、どうやって存在していられたんだ。ここに訪れたのは一年前からだ。そうだ、その前はどこにいたのだ? 分からない……記憶喪失は自分の方だったみたいだ。自分が駅構内の他には存在していないとしたら、ここに自分を存在させている理由は何だ? どうすればいいんだ? 朦朧もうろうとしている。いや、そうではない。それが考えたいことではない……そう、彼等は確かにそこにいる。話しかけなければ。そう、いつもそうしていたのだ。いつからだ? 何も分からなくなってしまいそうだ。


「……その手記、どこで見つけたんですか」

「これは遺失物いしつぶつに混じっていました。端っこの方にね。誰も気がつかないで放っておいてあったのを、私が見つけたんです。びっくりしましたよ……読んだらあなたの事ばかり。まるで、あなた自身がこれをしたためていた様でした。ですが、あなたはこれを持っていない。これについて話した事もない。そうでしたよね?」

「……えぇ。そうです。そうだった。間違いない。自分はそんな物を見た事だってない。だから不思議なんだ。ここにいたのはいつからなんです?」

「そうですね……一番初めに書かれたのは、丁度一年前」


 膝から崩れ落ちそうなところを、なんとか踏ん張った。どうも、自分は手記の住人らしい。


「だとすると、おかしいと思いませんか? これは一体誰が認めたものなんですかね? まさか、手記が勝手に文字を連ねる訳もないでしょう。私は確かにあなたと話をしました。あなたとはたったそれだけの関係ですが、あなたがこのまま消えていくのは忍びない……続きを書こうと思っています」

「それってつまり……」

「あなたが手記によって存在しているなら、あなたは私の手によって、存在し続ける事ができるはず。真実にだって辿り着くかもしれない。その為にはまず、あなたの意識を鮮明にしなければいけませんね」


 駅員はそう言うと、何かを書き記していく。何をしているのかは分からないが、意識がはっきりとしていくのを感じる。相変わらず一年前よりも以前の出来事は見当もつかないが……少なくとも、あのまま消えていくよりはマシになったのだろう。自分は駅員に思わずすがりついて、気がつくと泣き出していた。どうすればいいのか分かったものではない。だが、この恩に報いなければ。そうしなければ、何も知らずに消えていくだけだ。


「それで、どうするんだ。まさか、ずっとここにいる訳にもいかないだろう」

「とりあえず、列車に乗って手記の持ち主について聞いて回りたいと思います。おそらくは、あなた以上の名物になるでしょうが……どうせ消えていく身です。そんな生き方もいいでしょう?」

「……まあ、止めはしないよ。止められないしな。どうなるかは知らないが、まあ頑張れや。延命処置なんてのは長くは続かない。そうじゃなくても、駅員の方だってお前にずっと気をやってられないんだからな」

「そうでしょうね。でも、途方もない時間が流れていくだろうと思います」


 駅員は大げさに肩をすくめてみせた。不思議と、楽しそうにしているのが分かった。彼は答えを知っていて、その上でそれを隠匿いんとくしているだけなのかもしれないが……どの道、自分では手記を持てない。先ほど持とうと試みたが、どうにも手をすり抜けてしまう様だ。まあ、そうだろう。自分を生み出した物が自分よりも弱かったなら、そんなに拍子抜けな事もない。無論、そうであってほしかったが……どうせ、真実をそこに書いても、それが実現する事はないのだ。書いた事が実現するのではなくて、実現する事が書かれるのであって、何でもありなら今すぐこの世界が崩壊してしまえるだろう。そんなのはごめんだ。


 二人組は、まだそこにいた。いや、自分がまだここにいる方がおかしいだろう。自分は今すぐにでもここでない場所に向かわなければ。だが、それも駅構内だけの話だ。駅から飛び出してしまえる程には、証拠が揃っていない。あてもなく彷徨さまようには、この世はあまりにも広すぎる。いや、この世なんてものだって知りはしないのだ。自分は何も知らないのだ。かすかに、ここでの会話だけだ。後は全て何もない暗闇と同じだ。なら、進まなければ。暗闇を明かさなければ。




「……それで、そいつのその後は?」

「今から書こうとしているところです」

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