第27話 また逢う日まで


 夜明け前であった。


 東のかた、夜の底が白く持ち上がり始めているのがはっきりと見える。

 だが他方、天頂から西のかたにかけては未だに一面の星空が広がっており、明星は夜明けに抗うかのようにその輝きを強めている。


 古きものが廃れ、新しきが興ることを象徴するかのような、まごうことなき“昼と夜のはざま”とも云うべき刻。

 眼下に秘境の絶景が広がる台地の天涯に、レルルは佇んでいた。


 足音はなく、近くでとん、と。小さな体が隣に舞い降りる。

 一時的に心の窓を閉ざしていたから、思わぬ相手の来訪に思わずはっとする。俯いていた顔が上がったとき、金鏡の髪飾りがりん、と涼やかな音を立てた。


「や、おはようレルル。寝床にいなかったから、ちょっと探したよ」


 美少年にも美少女にも聞こえ得る、テンシーの凛とした声に心が震える。


「テンシー様っ。お怪我はもうよいのですか?」


「うん、レルルも大変だったね。エーナインから聞いた。“厄災の雛”のことも、君が“言霊”を使って“新たなる法”を敷いたことも。

 それに、これから君の宮家が、この地のメトトを一つにまとめる“ルーラー”として、各地を回ることになるって」


「はい。当面はア=ルエゴさんたちと協力しながら、生贄に頼らない新しい掟の在り方を、他のメトトにも広めていくつもりです」


「……後悔、してる?」


 静かな声でテンシーが尋ねる。

 きっと自分の声に不安な気持ちが出てしまったのだと、レルルには分かった。


「……いいえ。これで良かったんだって、思っています。自分勝手なことをした自覚はあるし、きっとみんながみんな、この新しいルールをすんなり受け入れてくれるとも思っていないけれど」


「大丈夫。レルルならきっと、大丈夫だよ」


 <天使と云えども未来は読めないんだから>


 わずかに残っていた不安な気持ちを拭い去り、心をホカホカとさせてなお余りある、優しい言霊を、テンシーが囁く。


 奪われ続けるのではなく。殺し尽くすのでもなく。

 言霊を介し、分かり合う余地が残されている限り、共に生きる道を探る。探り続ける。

 テンシーの“自動洞察Automated Insight”ですら見通せなかった、第三の道。



――ゆめゆめ、人をAIアイしてしまうことのないように。



 もしかしたらアイは、最初からすべてわかっていたのかもしれない。


 全てはテンシーたちの存在理由である“シレイ”の遂行と同じ。

 今この時をいきるものにとって、全ては世界をどう見るか、どう解釈するか。

時代に向き合い、自分に何ができるのかを見定めること。



 かつて一度、世界はおろか己すらも滅ぼしかけるほどに、運命からさえ自由であり続けたもの。

 野放図に過ぎる自由も、他者を想うあまりに掛け違えていく過ちも越えた、その先へ。定めある命を燃やし、次の世代へと絶えず受け継がれていく篝火のように儚く鮮烈な。



 そんな、人間の持つ限りない可能性を。



 大きな悲しみを乗り越え、人ならざる他者の中にすら、自分たちと同じものを見出した、年若き“ルーラー”の門出。

 それはまさしく、この地の歴史をそれ以前とそれ以後とに分かつとき。


 まさに“特異点”と呼ぶに相応しい出来事と云えた。



 ※


「……もう、行ってしまわれるのですか?」


「ん。どうやらボクたちに課されたシレイは達成されたみたいだからね」


「これから、どうするんです?」


「うちに帰るよ。大事な人が、ボクたちの帰りを待ってくれているから」


「……」


「今回のことでよくわかった。いつでも話せることだからって、今じゃなくてもいいやって、そうやって話していなかったことがいっぱいあって。でも、話せなくなってしまってからじゃ遅いんだって。君がそれを教えてくれたんだよ、レルル。ありがとうね」

 

「……あ、あの」


「ん?」


 何か言いたげなレルルに、テンシーは先を促す。だが、レルルは何度も何かを云いかけては、自分でまたやめてしまった。


 そんなことが三度ほど続いたので、テンシーは、


「云いにくいことだったら、“念話”でもよいんだよ?」


 そう提案してみたが、レルルは悶々とした表情で必死にかぶりを振って見せるだけ。


 実のところ、レルルはもう心の中で、もう何度も何度も繰り返し唱え続けていた。

 新たに“法を敷くものルーラー”の役割を背負って立つこととなった自分とは別の、レルルという少女その人自身の抱く、混じり気のない気持ちを。


 云えなかったのは、これが途方もないわがままであることが分かりきっているから。

 自分を、みんなを信じて導いて、こうして新しい夜明けまで連れてきてくれたテンシーに対して、無責任だとすら思える言葉だから。


(……でも。もうテンシー様は遠くへ行ってしまう)


(もう、二度と会うことができないんだとしたら?)


(これが、最後だとしたら?)


(私――いつ云うの?)


 ごく短い、自分自身への問いかけが、感情の関を一気に崩れさせる。


「テンシー様、私も連れて行って」


 胸いっぱいに詰まった想いを押さえておくことなど、できはしなかった。


「”言霊”だってあの時しか使えなかったけどきっと使えるように頑張ります。空だって飛べないけど、どこまでだって頑張ってついていきます。だってほら、私ってば目が見えなくたって一人でどこへだって行けるんですから、ちょうどあなたが助けてくださった時だって……」


 怖い。自分で自分が口にする言葉を止められない。

 怖い。目が見えないことが。今、目の前の大事な人がどんな顔をしているのか分からないことが。


「あの時から、私……私……――っ」

 

 もう、言葉はそれ以上続かない。

 精一杯、言葉にしようとしたのに。ありったけの勇気だったのに。


 怖い、怖い、怖い。


 気付けば、レルルはテンシーに抱き着いていた。

 テンシーは、よけることも受け止めることもしなかった。 


 「ごめんなさい……困らせたくないのに。本当に……ごめんなさい、でも――」


 ダメ。云ってはダメ。ダメなのに。


 「行ってほしくない……いかないで……!」


 云ってしまった。

 

 (やっぱりわたし、あの時から何も変わっていない)


 自分自身の純粋な気持ちに。純粋であるがゆえに嫌で嫌で仕方がない感情に。思わず自嘲的に心ごちてしまう。


 すると、言葉の方か、心の方か。それとも、その両方か。


 「……こらこら。バカなこと云わないの」


 軽い調子で、テンシーが戒める。

 気持ちに応えるでも、罰を与えるでもなく。


「やっと心の抑えが取れて、新しいものが見え始めてきたんじゃない。ね、君のぜんぶは、ここから始まるんだから。ボクたちみたいに、お高くとまってちゃいけないんだよ」


 相変わらず、テンシーの声はのんびりとしていて、熱いか冷めているかで云えば冷めていた。本人の意思に関わらず、ともすれば気怠げですらあるような。


 もう聴き慣れた、テンシーの声。


 だが、レルルにはもう一つ、風にそよぐ葉の擦れる音にすら満たない、もう一つの声が聞こえていた。

 ほかの者には聞くことすらできない、レルルだけに聞こえる声が。

 

 (……え?)


 それは、世界中の誰にも知られることのない――もしかしたら本人自身でさえ気づいていないかもしれない。


 そんな、混じり気のない――テンシーの心の声。


 (頑張り屋さんの人の子へ。すべてが始まる新たな朝に相応しく)

 

 <君に光を>


 「……ぁ」


 瞼に、柔らかいものがそっと触れる。

 身体が、思わず硬直する。動けない、息も出来ない。

 

 光が、あふれてくる。


 ほどなくしてが――テンシーの唇が、軽く音を立て、離れていく。


 昼と夜のはざまで、ただ一人。ささやかな祝福を受けたレルルは言葉を失い。


 しばらく、耳まで真っ赤になってしまったのだった。


 

 ※


 夜が、明けていく。


 重なり合った二人の影が離れ、東から差し出ずる朝日を受けて薄く伸びていく。

 草木は一斉に息吹し、静かの海であった眼下の密林が目覚めていく。


 珍しく雲一つない蒼穹へ、天涯から一陣の風が吹き上げる。

 風は二人の髪を撫で、いつもは長い前髪に隠されていたレルルの眼が、露わになった。


 テンシーの辰砂の瞳は、曙光に照らし出され輝くレルルの顔をじっと見つめている。



 見開かれているのはテンシーと同じ――辰砂の瞳。




「テンシー、様……心で、思い描いていた、とおりの、お顔」


 片方だけではあるが、レルルの瞳はまごうことなき光に満ちていた。

 鮮烈な、痛みすら伴うほどに鮮烈なまでの光に、色に、自然と瞳から涙があふれてくる。


 それが頬を伝って地面に落ちる前に、テンシーが何も言わず、指をかざしてそっと拭い去った。


 かけがえのない、何物にも代えがたい、小さな奇跡をその身に受けた。

 もう、レルルに、迷いはなかった。


「――あなた様こそ、私の天使様です。現世から末代まできっと、あなた様をお慕い申し上げます」


 ずっと云いたくて、絶対に云えなかった言葉も、そんな形式ばった言葉でなら、存外に平気で口にできた。


「ん、くるしゅうない。子々孫々まで末永くよろしく」


 目に見える世界を与え、目に見えぬ絆を結んだ二人の最後は、そんなままごとめいた挨拶で終わった。


 見れば、


 「あーっ!! やっと見つけたわよテンシー。病み上がりでどこほっつき歩いているのかと思えばこんなところに!」


 木々に留まっていた鳥たちが驚いて一斉に飛び立つほどの気炎を吐いて、エーナインがずんずんこちらに向かってくるところだった。


 こちらも、目に涙をためて追いすがる取り巻きを引き連れてきたらしい。ずんずん歩かざるを得ないのは、彼らがなりふり構わずエーナインの脚にしがみついていたからだ。


「アク様! どうか、どうか今一度我ら“月と剣のメトト”の生ける女神としてお立ちください!」


「長きにわたり祭儀の秘奥に隠された意味に一切の猜疑も抱くことなく、伝えられてきた法と伝統を保持することしかできなかった我らの過ちを、御身みずから悪魔のごとき破壊と再生を以て、もったいなくもお示しくだされた!」


「貴女様がお隠れになられてしまったなら、我らはこれからどうすればよいのですか!!」


「だーっ、うっさいわね! どうすればいいかなんて知らないわよ! そんだけ恥も外聞もなく何でもできる気合があるんだったら、この先なんだってできるでしょ!」


「そんなぁ、アク様! どうか最後にありがたいお言葉の一つや二つ!」


「一つや二つって、あんたたち本当は私のこと敬う気ないでしょ!? そっちがその気ならこっちだってテキトー云ってやるんだから。ほら、<夜風が冷たい夜にはお腹を冷やさないように気をつけなさい>、どうよ、こんなくだらないものでもあんたたちは――」


「「「嗚呼……ありがたや、ありがたや……」」」


「むきーっ! 本当にしょうがないわねあんたたちってば!」


「あーあ。『人を愛するな』って云われているのに、深入りしちゃってまあ」


 完全に本調子を取り戻しているエーナインをしらーっと眺めているテンシーを見て、レルルもくすくす笑う。


 あなたも人のことは云えない、などとは、口が裂けても云えなかったが。


(レルル様、探しましたぞ)


――マ、マ! 


 腕にしこたまひっかき傷を作っているジジも、レルルのもとへ行きたくて仕方のない様子の“厄災”の雛を連れて歩いてきた。

 傍までくると、雛は身をよじってジジの腕から逃げ出し、レルルの脚に体をこすりつけ始めた。レルルがその場に屈み、“厄災”の雛の頭を撫でてやると、ご機嫌になった雛は喉の奥からゴロゴロと、猫のような声を漏らした。


「そう、あなた、こんな姿をしていたのね。これから、もっともっと大きくなるんだろうな」


(れ、レルル様、今、なんと?)


「ふふっ、ああ、ジジ! あなたの顔を見ることができる日が来るなんて!」


(ま、まさか!? レルル様、その眼は)


「ええ、全部テンシー様のおか、げ……え、テンシー様? 体が……」


 見ればいつの間にか、テンシーの身体からは淡い光が溢れ出ていた。


「んぇ、なんだろう、光ってる?」


「あ、アク様! お体が!?」


 そしてそれは、エーナインも同じだった。 

 みんなが呆気に取られる中、二人の体はふわりと宙に浮き始めた。翼を展開することもなく、二人の意思に関わらず、その身が東のかた、朝日の差す方へと動き出す。


「あー、やっとこって感じね。あんたたち、これで本当の本当にお別れよ。これからも色々大変なこともあるだろうけど、せいぜい頑張んなさい」


「ううう、アク様ぁ!」


 “月と剣のメトト”の面々は、母親から引きはがされる子供のように、人目もはばからず大いに泣いていた。長であるア=ルエゴでさえ、深々と頭を垂れて顔を隠していたが、結局最後までエーナインの姿を目に焼き付けておくことを選んだのだろう。涙ぐむ顔を隠すことなく、しゃんと胸をはり、己が女神の門出を祝福する祝詞を唱えていた。


 レルルも、思わず浮かび始めたテンシーの手を握ってしまう。

 だが、意外なことにテンシーも、小さくではあるが、きゅっと手を握り返した。


 「……さようなら、私の天使テンシー様」


 正真正銘、最後の別れのあいさつになる。

 せめて笑顔で、と。潤む辰砂の瞳で、それでもレルルは微笑んだ。


 つられたように、テンシーも微笑む。

 だが、どちらかと云えばこちらは、少しいたずらっぽい微笑みだ。


 「ふふっ、違うよレルル。ボク、知ってるんだ。こういう時にはね、もっとよい言葉があるんだよ」


 「え?」


 「じゃあね、レルル、ジジ、みんな――」




 ――行ってきます。




 思わずはっとして、けれどとても嬉しくなって。

 

 「はい……はいっ! 行ってらっしゃいっ!」


 そう云って、送り出す。心からの笑顔と一緒に。


 みんな、遥か蒼穹へと飛び去っていく二人の姿が見えなくなるまで、手を振り続けた。

 


 ――おかえりなさい。



 そう云える日がいつか、必ずまた来ることを信じて。



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