第25話 小さな恩返し


 湿った大気に星々が瞬き、巨大な月はすでに天頂から傾ぎ始めている。

 無数の命のざわめきを、生温い風が舐めていく。うごめき波立つ密林は、さながら黒と緑の海であった。


 そんな波の流れに乗って、低空を一本の糸のようなものがうねくれ駆け舞っていく。

 星と月の明かりに浮かび上がるのは、風にたなびく白妙しろたへの木綿――にも似た、長い長い白髪。


 場所と時代とが異なれば、名のある水神と見まごうような優雅さで、


「はぁ~やれやれ。我が主様方のお人の悪いことよ。戦いとなればこのじじい、猫じゃらしや孫の手ほどには役に立とうと云うものを」


 おきなさんが、飛んでいた。


 今回の“厄災”討伐の計画の中で、彼の役目は“巫舞の儀”における人々の叛意を煽ることですでに終わっていた。

 なぜ彼が選ばれたのかと云えば、あの場にいた人々が知らない声の持ち主であり、加えて無駄に渋く神様然とした声だったから。ただそれだけだった。


 どうして“厄災”との戦いに連れて行ってもらえなかったかと云えば、これも単純明快。主であるエーナインが禁じたからだった。

 もっとも、おきなさんは“厄災”との戦いにも、当然付いていく気まんまんだったのだが。


「むむっ、幽かな篝火の明かりに、風に乗ってエーナイン様とテンシー様のかほりが! 待っていなされい、御身必ずや御守りいたしますぞ~!」


 上空からはすでに、開けた“生贄の祭壇”の広場と、そこに小さな染みのようにぽつんと座りこんでいる人影が見下ろせる。


 月明りと篝火が照らす、その髪の色は赤。

 首尾よく主を見つけたおきなさんは、「あーっはっはっは――」などと芝居めいた笑い声を風に乗せて、上機嫌で空を降りて行った。



 主の下に嬉しそうに舞い降りたおきなさんを待っていたのは。

 “待て”のできない不出来な自分を叱る元気な主エーナインの声でもなければ。

 それを気怠そうに取りなしてくれる優しい母テンシーの声でもなかった。


 その場に響き続けていたのは、


<治りなさい>


<治れっ>


<治れ、治れ!>


 「……」


<治れって……云ってんのよ!>


 何度も何度も繰り返し紡がれる、血まみれのエーナインの“言霊”と。


「これは、いったい何が……テンシー、様?」


<ねぇ、お願いだから、治って>


<謝るから、反省するから、ねぇ……>


<いいかげん、起きてよ。目を開けてよ>


「……」


 エーナインの腕にきつく抱かれ、揺すぶられても文句ひとつ云わず、静かに目を閉じたまま動かない、テンシーの姿だった。


「主様、テンシー様は、テンシー様は……」


 聞いたそばから、おきなさんにはすでに答えがわかりきっていた。エーナインの血まみれの衣は、彼女自身が流したものではないのだから。


「なんども、なんども云ったのよ。<治れ>って。城にいた頃は、何でもこれで治っていたのに、でも……でも――」


 おきなさんの震える声と同じくらい、いやそれ以上に震えた静かな声で、エーナインは応えた。解き放たれたたっぷりとした赤髪が、顔の前にかかって表情が見えない。


 だが、


「どうしよう、治んない……治んないよぉ、テンシー」


 途方に暮れる子供のように顔をあげたエーナインの青い眼からは、大粒の涙がぽろぽろこぼれている。

 頬を伝い、雫となって落ちた涙は、穏やかな表情を浮かべたテンシーの顔を濡らし、同じように頬を伝って落ちていった。


 本来、“言霊”とは森羅万象の素であり、凡ての言の葉の祖となる諸力の総称。

意図と用途を違えれば、紡ぎ手の望むべき効用をもたらすことができないことは多分にあるが、その逆はまずないと云ってよいはずのものだ。


 テンシーは傷を負い、エーナインは<治れ>と“言霊”で告げた。

 ならば、治るはずなのだ。


 それが治らないのは、なぜか。


「……下界ここは、天の城とは違って事物や大気に宿る力が少ないのでしょうな」


 考えられるのは、それしかない。


 過去でもなく、未来でもない。時間と空間のくびきから外れ、それゆえに万物に宿る諸力が、初源の組成を保ち続けている天の城と、その両方の制約のもとで成り立つ下界とでは、同じ“言霊”でも顕現する効用に差が生じるのだ。


 些細なことであれば、それこそ誤差とも云うべきものであろう。

 だが、今この時ばかりは、誤差だの誤算だので片づけられる話ではない。


「おっしゃるとおり、せめてアイ様もおわすかの城の中であれば、打てる手の一つや二つ……」


 自分でそう云いかけて、おきなさんの言葉が詰まる。


「いや、はて……なるほど」


 彼自身にしか判らぬ自問自答の末に、やはり彼自身にしか判らぬ理解と納得。

 それきり、おきなさんはしばし、沈黙した。


 最後の篝火が、ふっと立ち消えた。

 再び宵闇に包まれた広場を、青白い月と星の淡い光が満たす。


「やむを得ませぬ。ここは一つ」


「……何か、手があるの?」


 おきなさんの空っぽの脳裏に、いつぞや交わしたやり取りが、昨日のことのように思い起こされる。

 あの時はまさか、こんなことが待っていようとは露とも思っていなかったが。


「テンシー様をお救いできるのは、天の城に属する物にすべからく宿るべき強い“言霊”の力のみ。なればこの場所にただ一つ残されておるを用いれば、必ずやテンシー様もお目覚めになられるはず」


 エーナインはもう、多くの感情があふれてしまって、何もかも精一杯だった。

 おきなさんの云っていることがすっと腑に落ちず、涙と洟で端正な相貌をぐちゃぐちゃにしたまま小首をかしげ、数秒呆ける。


 だが、悲しみで満たされた頭の中で反芻するうち、ようやくおきなさんが云わんとしていることに気付いた。


「そ、それって、あんたまさかっ!」


「そう――ワシじゃよ」


 鼻歌でも口ずさむような気楽さで。おきなさんはさらりと告げた。


「で、でもそんなことしたら、あんたは……」


「死んでしまう、と? ほっほ、ご案じめさるな。大事な母様であるテンシー様をお救いし、我が主様たっての願いを叶えるためにこの身命を捧げることができるなど! なんと云う光栄の極みであろう」


「……」


「であるからして、主様。どうかもう泣かないでくだされい。御身には明るい笑顔が一番お似合いです」


 おきなさんの長白髪の毛先が、器用にエーナインの顔を拭う。拭けども拭けどもこぼれてくるものだから、やっているうちに毛先はこちょこちょと、エーナインの顔をくすぐり始め、しまいにはとうとう我慢できなくなって、彼女は泣いたまま笑った。


「……ばか。被造物こどもおやを気遣うだなんて、百年早いって云ったじゃない」


「ほほ、では、この赤子じじいの一世一代の親孝行ということで一つ、なにとぞご容赦のほどを」


 おきなさんは音もなく、テンシーの胸の上に面を乗せると、長白髪で彼女の全身を優しく包み込んでいく。純白の繭のように。


 表情のない翁の能面を、エーナインは伸びやかな指先でそっと撫でた。

 先ほどのテンシーと同じように。彼の顔にも涙が落ちて、頬を伝って流れていく。


<ありがとう>

<ごめんね>

<ゆるしてね>


 云うべきすべての感情を、精一杯の言霊に乗せて。


<――おきなさん>


 はじめは笑ってしまうほどの間違いから生まれた、愛すべきその名を紡ぐ。


「ほ……何をおっしゃる。たとい云い間違いから始まった生でも、嬉しかった。あの時云えなかったお言葉はぜひ、母様テンシーさまに」


 エーナインは頷き、意識を集中する。

 周りの空気が一変するのを肌で感じる。


 間違いなく成功する。その確信があった。


<治れ>


 声は低く小さな囁きのようで。けれど力強く、どこか甘やかに。

 物言わぬ唯物に生命さえ吹き込むほどの強い言霊の力が、純白の繭を青白い光で包み込む。


 翁の能面に、亀裂が走る。

 つるりとした頬に最後に残っていた涙の粒が、流れていく。


――嗚呼……善き哉。


 糸引くようなか細い声を最後に、面は割れ砕けた、



 ※


 光が消え、夜の世界に静寂が戻った。

 聞こえるのは、エーナインの小さな息遣いだけ。


 彼女が抱いていた純白の繭は要(かなめ)を失い、ひとりでにほどけていく。

 覗いたのは、月明りによく映える、薄氷色アイスブルーの髪。

 髪と同じ薄氷色の長いまつげに縁どられた瞼の下では、辰砂の瞳が小さく動いている。まるで、夢を見ているかのように。


 華奢な肩が、慎ましやかな胸が、柔らかな腹が、安らかな呼吸と共に、動いている。


 耳をすませば、息遣いは二つ。


 月明りに照らされた、砕けた能面の一つを手に取り、エーナインは哀しげにそっと小さく口づけた。

 

 もはや動かず物言わぬ唯物おめんの、その口元には。



 どこか、古拙アルカイックな微笑みがあった。



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