第22話 忘れ去られた場所


“ドリーネ”。


 テンシーがこの地に初めて降臨した日、上空からいくつか視認していた、密林にぽっかりと開いた穴のことを、この地に生きる人々はそう呼んでいる。


 石灰質を多分に含んだ地質と、一年のうちに必ず常雨となる時期がある気候条件。この二つが重なり、幾星霜の年月をかけることによって、沁み込む雨水が岩盤を削って徐々に地下に空洞ができ、ついには表層が崩落して巨大な陥没孔を生むのである。


 誰の意思によるでもなく。ぽっかりと開いた穴には雨水がたまると、そこはあらゆる命の憩いの場となる。


 そうした場所は人々から、“セノーテ”という名で呼ばれている。


 「……うむ。血の跡はやはり、この下へと続いているようだ」

 

 朱色の松明がかざす地面には、粘り気のある黒い血のあとがある。”厄災”が通った痕跡を追って、”生贄の祭壇”からほど近い、大きなセノーテの前に、レルル達は立っていた。


 「困りましたね。まさか”厄災”の巣は、水の中なんでしょうか?」


 「もしそうであれば、無念ではあるが我々にはもうどうしようもないな」


 ア=ルエゴが松明をかざし、セノーテの底でチラチラと光を照り返す、黒い水面を確かめる。照り返しがかなり下の方から来ていることから、水位はそれほど高くはないことがわかる。


 だが、肝心の深さが全く分からない上に、少なくとも水面まででさえ、ゆうに大人五人を垂直に並べたほどの高さがある。道具もなしに進むことなど到底できない障害だった。


 みんなが手をこまねき、一瞬諦めかけたその時。

 ジジが崖っぷちに立ち、持っていた槍をセノーテの中めがけて投てきして見せた。


 ほどなく、下の方で小さな水音が聞こえてきた。松明を持つものが互いに火を寄せ合い、暗闇の中で必死に目を凝らすと、それは見つかった。


 「あっ! 見ろ、槍の柄が水面から出ているぞ、水は深くないみたいだ」


 「で、でもここからどうやって下まで? テンシー様みたいに翼でもなけりゃあ――」


 (大丈夫、さっき使ったツタを持って来た。これで下まで降りられる)


 レルルを介した”念話”を使い、ジジが肩に巻いていたツタの束を解く。

 みんなで手分けして手近な樹にツタを括り付けると、ジジはレルルを背にしがみ付かせたまま先陣を切った。


 「大丈夫、ジジ? 重たくない?」


 (なんのこれしき)


 心で言葉を交わしながら。その背に負うレルルの重さを――成長を。ジジは嬉しく思っていた。

 ただでさえ、テンシーが深手を負って倒れたショックから未だ立ち直れていないレルルが、それでも自分に与えられた役目を全うせんとする、その姿に。

 かつてすべてを諦め、快く死ぬことだけを心の糧としてきた少女は、もうどこにもいないのだ、と。




 水面に降り立つと、先に突き刺さった槍が示す通り、水位はせいぜいジジのみぞおち程度だった。

 ア=ルエゴたちに無事を伝え、全員が降りてくるのを待っている間に、不意に水面が明るくなった。


 月が出たのだ。


 ずっと宵の空を覆い、月を朧に包み込んでいた雲が、ようやく晴れた。おかげで、天からまっすぐに降り注いでくる柔らかな月明りが、松明よりも広く美しく水面を飾る。


 乱反射する光が、陥没孔の壁面を踊るように駆ける。

 それを目で追っていて初めて。ジジは気づいた。レルルもまた、ジジの反応から事を察した。


 「ふう、上手くいったな。さて、これからどこ……へ?」


 降りてきたア=ルエゴが、ジジの視線の先にあるものを目で追って、同じように言葉を失う。


 壁面の一部に、横穴が開いていたのだ。

 雨季の最中であれば、おそらくは水中に没しているであろう場所に、地下の世界へと続く道が開かれていた。


 洞窟に近づき、入り口の周囲を丹念に調べていくと、探し物はすぐ見つかった。壁面に擦り付けられた、”厄災”の血痕だ。


 「この先が、”厄災”の巣」


 (レルル様、いかがですかな。”厄災”の声は)


 「……ええ。微かだけど、まだ聞こえている。絞り出すような、必死な声」


 「うむ、やはりもう生死の淵にいるのだろう。残りの”夜の陽”は持ってきている。もしもまた襲い掛かってくるようならば、これを使って目をくらまし、その隙に傷口に最後の一撃を」


 再びレルルとジジを先頭にして、一行は洞窟へと足を踏み入れる。うち、何名かはかなり尻込みしたものの、やはりすんでのところで思い直し、仲間のあとを追っていった。




 異変に最初に気付いたのはレルルだった。


 「……音が、変わった?」


 それまで礫や砂利を踏みしめて進んできた一行の足音が、急に冷たくコツコツとした硬質な響きに変わったのだ。

 だが、そんなレルルの疑問も、実際に目の前に広がる光景を見ている他の一行が抱いた疑問の前ではごくごく小事としか言えなかった。


 「おどろいたな、こんなもの、今まで一度も見たことがない」


 「あ、ア=ルエゴ様。これは一体……?」

 

 「ぬう……いや、私にもわからぬ。ただ――」


 一行の中では最も博識であるア=ルエゴですら、全く見当がつかぬ光景。


 だが、それは……。


 「――明らかに、人の手で作られたもののようだ」


 遥か神代の、その終わり。

 時の彼方に去り、今は誰の記憶にも残っていない。

 かつて他ならぬ人間が築いた、超高度な文明の痕跡が、そこに在った。


 それは例えば、理路整然と敷き詰められた、ひび割れ一つない硬質タイル。

 触れても熱も冷気も感じないそれは、果たして金属なのか粘土なのか。そんな些細なことすら、一行には推し量ることができないものだった。


 奥に進んでいった先に待ち構えていた暗く広い空間があった。そこからはもはや狭い洞窟ではなく、松明をかざしても天井を見ることはできなかった。


 「柱が、全部折れてしまっている。大丈夫なのか、この場所。もしかして天井が落ちてくるんじゃ!?」


 広いその場のそこかしこには巨大な柱のようなものがあったが、今はすべてが折れていた。

 残っているのは中ほどまで残っている、透明な柱の残骸ばかり。


 と、その時。

 突如として、その場に強烈な光が明滅した。まるで、無明の中で雷が閃いたかのように。


 ――ガアアアアアアアアアッ!!


 「ひっ、あ、あの声はっ」

 

 「”厄災”だ、近いぞ!」


 ――タリ、ナイ。モット、ヒカリ、ヲ


 「ひか、り? でも、どうして……?


 この場所のさらに奥へ行ったところから小さく響いてくる”厄災”の咆哮と同時に、再び心の声が聞こえてくるのを感じとったレルルは、けれどその言葉の意味を分かりかねていた。


 またしても、強烈な光が明滅する。今度ははじめよりも長く、明滅の感覚も短くなっていく。

 次いで数秒間の無明を経て。


 空間が――部屋が、一瞬にして真昼のように明るくなった。


 最後に一本だけ残っていた、巨大な硝子の柱――培養槽が、粉々に砕ける音と同時に。



 

 「ひいいっ、今度はなんだ!?」

 

 「柱が、残っていた柱が崩れたんだ。それにしても、どうなってるんだこれは!? まるでお日様の中にいるみたいだ」


 「すごい、すごいぞこのメトトは! 折れてしまってはいるが、土台は全部鉄でできている!」


 彼らには、わかり得るはずがなかった。

 全てが金属で作られた、彼らがメトトだと思っているそれらが、在りし日には全く異なった用途に用いられていたことも。


 この場所が本来、どのような意味を持つ場所だったのかも。



 「あ、ア=ルエゴ様、は一体……?」


 一人が恐る恐る、先ほど砕けた柱の傍に立ち尽くすア=ルエゴの背に声をかける。

 ア=ルエゴは返事をしなかった。

 

 代わりに、


 「これは、人か? いや……」


 ア=ルエゴは砕けた透明な柱の中で座して黙しているを、食い入るように見つめていた。


 木乃伊ミイラであった。


 その場所が彼――または彼女の墓標であった。木乃伊の体からはとうに肉の一片もなく、青白い皮の下には、そのまま骨がついているかのようだ。

 だが、外の世界と比べれば、保存状態は段違いに良かったのだろう。頭皮には毛髪が完全な状態で残され、眼や頬は大きく落ちくぼんでいたが、表情は至極穏やかに見えた。


 すくなくとも、生贄や罪人、といった印象はない。

 むしろ、どこかとても高貴で、死してなお美しさすら感じさせる姿だ。


 「……っ」


 「おいどうした、寒いのか?」


 「い、いや。どうしちまったのかな、俺。こんなときに……いや、あんなとこを見ちまったあと、だからかもしれないけど」


 「なんだよ」

 

 「この人、さ。何となく、本当に何となくなんだけど、似てないか? その、テンシー様に」


 「……」


 その場にいたみんなが、一様に背筋に寒気を覚えたのを、レルルは心の動きで感じ取っていた。実際のところ、目の見えないレルルが最も、その言葉に動揺していた。

 

 「ば、馬鹿云うなっ。テンシー様たちは空から降りてこられたんだぞ。ここは空から一番遠い場所じゃないか」


 「そ、そうだよな。すまん、さっきのテンシー様の顔を思い出しちまったら、つい」


 「……皆さん、”厄災”はこの奥にいます。今は先へ」


 レルルの言に反対する者はいなかった。あえて声に出さずとも、あまりにも異質に過ぎるこの場所が空恐ろしく感じていたのだ。


 だから、すでにあたりは照明設備によって真昼のように明るかったが、誰一人として手に持つ松明を手放そうとしなかった。


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