第8話 レルルとジジ


 もし叶うなら、お空になるべく近いところから。

 できれば最後に、お日様の光をたくさん浴びながら。

 可能な限りに着飾って、祝賀の時にしか許されない貴金属なんかを身に付けて。


 条件は全て整った。

 今日は吉日だ。

 そう思った。


 「……よし、死のう」


 聞いている者がいたとすれば、とても言葉通りの意味には思えない。

 割かし元気で、存外に前向きにすら聞こえる、自殺の宣告。


 「今、そっちへ行くからね。お姉ちゃん」

 

 足場の悪い崖っぷちで、握りに木彫りの鳥頭をあしらった杖をついて。

 目元まで覆う長い髪に、太陽を模した真円の黄金鏡の髪飾りをつけて。

 そんな少女の短い人生が今、終わりを告げようとしていた。


 一歩。ここから一歩踏み出すだけで、すべてが終わる。

 その一歩が、死ぬためのその一歩が、死ぬほど重い。


 不意に、崖下から這い上がるような突風が吹き上げる。

 今まさに片足を宙へ投げ出しかけた少女の吐息が凍り付いた。


 「むり、むりむりむり、やっぱりむり。死ねない。死にたい」


 腰が抜けたようにその場に蹲り、自己嫌悪と自己願望とを一緒くたにして唱え続ける。もうかれこれ数時間、この調子だった。


 が、少女は何かに気付いたようにハッとして、手探りでその場をかき回し始めた。

 探している反対側では手放した杖がカタカタと、やじろべえのようにその身半分を崖っぷちに投げ出している。

 

 音でありかに気付いた少女が手を伸ばすも、紙一重で指は空をつかむ。

 バランスを失った杖が、軽い音を立てて落ちていく。


 「だ、だめえええっ」


 這いずるように身を乗り出し、空ぶった手を伸ばす。今度は掴んだ。


 代わりに、自分が落ちる羽目になったが。


 「あ――死んだ」


 口をついて出た言葉も、やっぱり軽い。

 なんだ。結局、死に方すらも自由に選べないのか。あれだけ準備して、あれだけ意気込んで。脳裏に駆け巡るものを言葉にして出すには時間が足りない。

 

 でも、痛みがないだけましかもしれない。

 あったとしても、きっと一瞬だけ。後悔する間なんてないはず。きっと大丈夫。


 そこまで。

 そこまで考えたけれど、そこで限界だった。


 「や……いや、いやいやいやあああああああ!」


 痛かろうが痛くなかろうがどっちでも変わらない。痛そうだと思う。それだけでもう痛いのだから。

 軽いとか重いとか関係ない。死ぬのは怖い。死ぬまさにその時に感じてしまったのは最悪以外の何物でもなかった。

 なぜ今なのか。いつでも良かったはずなのに。

 

 どうして?


 「ねぇ、どうして?」


 「……え?」


 私じゃない、人の声?


 「えっと、そろそろ身体を気流に乗せないと、危ないと思うんだけど?」


 「え、は?」


 なに、だれ、どうして?

 あっ、手。にぎって……。


 どうして、飛ばないんだろう。

 もしかして飛べないのかな。でも、だとしたらなんでこんなところにいるんだろう。

 

 ボクは、どうすればいいんだろう。


 「た、たた、た」

 

 「た?」


 「助けてええええええ!」


 「ちょ、ふんぐっ」


 死に物狂いでしがみつく。なぜか裸で一緒に落ちている、得体のしれない声の主に。

 凹凸が無くて抱き着きやすくもあり、それゆえに掴まり甲斐のない薄い体に。


 え、なにいきなり、ちょちょちょ首締まってる息できないやばいやばいやばい。


 死にたくない死にたくない死にたくないお願い神様天使様何でもいいから何とかして。


 え、なんでこの子ボクの名前知ってるのアだめ息できない目回る落ちたらやばい翼翼翼。

 

 意識が混濁する。


 速度が減少する。


 地上が漸近する。

 

 二人が覚えていられたのは、そこまでだった。

 

 


 こっち。こっちだ。確かに声が聞こえた。

 もしかしたらもう、手遅れかも知れない。もしそうなら、死んでも死にきれない。

 頼む。頼むから、無事でいておくれ。


 いた。見つけた。気を失っているが、生きている!

 でも、隣にいるこの子は……? こんな綺麗な――いや、ついぞ見たことがない。

 そもそもどうして裸で、一緒になって倒れている?


 わからない。わからないが、このままにしてはおけまい。


 わからないことだらけだが、とにかく。無事でよかった。

 天使様に、変わらぬ感謝を。



 「んゅ、どういたしまして」


 「あ、起きた……え、寝言?」


 「あぇ、ないん?」


 「え、言葉? 通じてると思うけど、落っこちてる間に話もしたし――あ“、いやその」


 「あれ、違う。あれ、ここは?」


 テンシーは、知らない人の背中で目を覚ました。

 汗と薬草、それに煙草の匂いが鼻につく。目の前の背中は浅黒く、藍色の刺青が渦巻くように彫られていた。齢を重ねた肌の下にも力強い筋肉の躍動があり、そして何より広かった。

 そこまで感じてようやく、自分が背負われていることを実感する。


 「あ、本当に起きた? よかった、ずっと目を覚まさないから、もしかしたら頭を打っているかもしれないってジジが心配していたんです。気分はどうですか」


 隣を見れば、先ほどの少女がテンシーにおずおずと笑いかけていた。ただ、テンシーを見た、というよりは、テンシーの方に顔を向けた。という方が正しいかもしれない。


 褐色の肌が、通気性の高い麻織りの衣からかすかに透けている。長い黒髪。特に前髪が長く、目元は完全に隠れてしまっている。

 杖をついているが、老人のように身体を支えるのではなく、杖先で常に数歩先を探るように使っていた。


 「君、もしかして、目が見えていないの」


 少女のぎこちない笑顔がこわばる。テンシーはコミュニケーションの初手を誤ったのだと気づき、質問を変えた。


 「君の名前は?」

 

 「あ、れ、レルル、です。こっちは世話役のジジ」


 少女――レルルは一二度空ぶりしながらも、テンシーを背負っていた老人の腕を探し当て、ぽんぽんと叩いてみせた。

 

 「そっか、君が僕を介抱してくれたんだ、ありがと。もう大丈夫だから、降ろして」

 

 先ほどから一言も発言せず、黙々と歩き続けていた老人に、背中から声をかける。

 老人は返事もなくその場にしゃがみこんで、テンシーを降ろした。


 テンシーは、自分がもう裸ではない事に気付いた。もっとも、レルルのような麻織りの衣ではなく、最低限の部分を隠すだけの粗末な蓑だったが。


 「どこか痛いところとか、気分が悪いところはないかと、ジジが気にしています」


 「うん、平気。ちょっと膝とかお尻とか擦りむいたくらい」


 「この辺では見ない顔だが、どこから来たのか、ジジは知りたいようです。そういえば、あなたのお名前もまだ聞いていない、と」


 「あ、ボクはテン――ん?」


 名乗ろうとして、テンシーは違和感に気付く。

 

 「あの、なんでさっきから君が、おじいさんの代わりに喋ってるの?」


 レルルはあっと小さく息をのんで、掴んでいた老人の腕にさらにぎゅっと縋り付いた。

 返答の代わりに老人が、顎を上げて自分の喉を見せる。

 彼の褐色の喉元には、獣の爪牙によるものと思しき傷跡が白く盛り上がっていた。


 「うわー、すっごい。これ傷跡? もしかしてこれのせいで、喋れないの?」


 興味津々で近づき、下からまじまじと見上げながらテンシーは尋ねた。

 尋ねた傍から、またも会話の初手を誤ったのではという思いが脳裏をよぎる。


 案の定、レルルの顔はこわばっていた。


 だが、老人の方はそうでもなく、強そうな灰色髭と深いしわを湛えた顔を少年のように輝かせ、茶目っ気たっぷりにウインクすらして見せた。


 「……え、それほんとに云わなきゃだめ? お、『お嬢ちゃん、俺に惚れると火傷じゃ済まねえぜ』……だそうです」


 数秒沈黙のままぽかんとしていると、老人は勝手に照れ始めた。

 当然、テンシーも若干引いたのは云うまでもない。


 ここからテンシーは、彼をジジイと呼ぶことに、抵抗を覚えなくなった。

 

 

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