第7話 テンシーは飛んでいく

 「疲れたー」


 気怠げな、殊に気怠げなテンシーの声が、ひょろひょろの糸のように生温い上昇気流にさらわれていく。


 ここは先ほど滑落した台地の中腹あたり。苔も生えない露出した岩壁に突き刺さるように横ざまに生えていた一本樹である。

 エーナインの保護をおきなさんに任せ、テンシーは一番手近なこの場所で文字通り羽を休めることにした。


 意識の集中を解くと、背中に展開していた力場の翼は消失し、あとに残ったのは途方もない疲労感だけだった。

 一糸まとわぬ体には、びっしょりと玉の汗が浮いている。今は横ざまの一本樹に跨って抱き着くようにして姿勢を安定させ、体力の回復を図るしかなかった。


 「うーむ、もしかしたら翼を大きく展開しすぎたかな。ボク一人だけなら、もっと小さくても大丈夫かも。それに羽ばたきも要らない、これはそういう翼じゃないんだから」


 干された洗濯もののような体制で、浅い呼吸で薄い背中を上下させながらも、テンシーは自身の初めての飛行体験を反省し、分析していた。

 樹皮は思いのほかつるつるとしていたので、裸で身を横たえていてもそれほど痛くはない。だが、いい加減お腹の下あたりにある木のコブが痛く感じてきたので、体を起こして腰かける姿勢に変えた。


 「さて、と。どうしようかな。エーナイン、きっと怒ってるよね。おきなさんにアシスト頼んだから、心配させないように笑顔で見送ったけど。正直ほんとにいっぱいいっぱいだったから、上手く伝わってないかも」


 それに、と。

 テンシーは木の上にバランスよく立ち上がると、遠く青くかすむ台地を見やる。

 滑落する前、確かにあそこに何かがあるのを見た。小さな光のようなものを。


 もっとも、それが何なのかは、テンシーにも分からない。

 もしかしたら、物珍しく眺めていたせいで、単に水たまりが陽光を照り返した様を何かと見間違えたのかもしれない。だとすれば、行ってみたとしても骨折り損というものだ。


 「でも、うーん。エーナインかあ」


 テンシーの頭の中で、まだ見ぬ未知との遭遇への関心と、怒ったエーナインの顔が浮かぶ。

 両者はしばしの間テンシーの頭の中で相争った。それはまさに骨肉の争いだった。


 いくばくかの、沈黙。

 そして、


 「ま、エーナインなら大丈夫でしょ。こっち行ってみよ」


 本人が聞けば確実に怒るであろう軽妙さで、テンシーは二度ほど樹の上でジャンプを繰り返し、三度目でしなる樹の弾性を利用し高く飛んだ。

 次いで、先ほどよりも二回りほど小さい力場の翼を展開すると、お目当ての台地へと方向を定め、再び緩やかな滑空を始めたのだった。


 ちょうど、彼女の遠く背後では密林に火の手と黒煙が上っていたのだが、あいにくと風向きが逆だったので、テンシーが気付くことはなかった。


 


 高高度からでは分からない、低空から直接眼下に見下ろす秘境のあちこちに興味関心を引かれながら、しばしの間テンシーはのらりくらりとした滑空飛行を続けていた。

 

 普段から誰も読むことのない本を漁っては自室に持ち帰り、何一つ書き上げないまでも数多くの草稿を著してきただけあり、にわか仕込みの知識だけならばテンシーのそれは二人の姉を凌いでいた。何一つ書き上げないまでも。


 そんなテンシーだからこそ、色々とわかることがある。

 一つに、この秘境の自然は大部分が原始の組成を保持した生態系であるということ。つまりは、人の介在した痕跡が見当たらない、ということだ。

 限りなく手付かずの状態、あるがままの状態で広がる原生林であるからこそ、そこには多種多様な生命があふれている。けれどそこには、人の気配だけがなかった。


 シレイにあった「ルーラー」なる人間を探し当てる以前に、そもそも人間そのものを探し当てることが困難かもしれない。たった数刻の探索でさえそんな思いがよぎるほど、この地は広く、そして深かった。


 「っと……お、みっけ」


 密林にぽっかりと空いた石灰岩の風穴の多くには雨水が溜まり、動物たちの生活基盤となっていたが、いくつかは水が全くなく、どういう原理か地下から強い上昇気流が吹き上げていた。


 飛行、とは云うものの現状、テンシーの翼は緩やかな滑空の機能しか有していない。それでも無闇に羽ばたくことなく、姿勢と翼の角度を調節しながら飛ぶことで、エーナインを抱えて飛んでいたときよりも数倍の時間を確保出来るようになった。

 

 それに加え、この上昇気流を生み出す風穴を見つけては、右回りの螺旋運動に合わせて気流に乗り、再び高高度まで上昇することで、さらに飛距離を稼ぐことができるようになっていた。

 もっとも、これについては流石にテンシー自身の才能……という訳ではなく、たまたま鳥たちが同じ場所で旋回を繰り返しているのを見つけ、見よう見まねで試したのが当たっただけだった。


 ともあれ、飛び立つ前には青くかすむほどに遠く見えた台地も、いつの間にかすでに目の前まで来ていた。

 

 だが、


 「はあ、やっぱり何もなさそー。これならエーナインと合流した方が良かったかも」


 はじめはあれほどワクワクしていた場所にたどり着こうとする直前になって、テンシーの目にはいつも通りの気怠さが戻り始めていた。というより、延々と慣れない飛行を続けてきたせいもあって、疲れと眠気も大いに混ざっていた。


 テンシーにとってそれは、城で過ごしていた時間と同じ。

 興味関心から始めた種々の草稿が、今まで一度も日の目を見てこなかったのと同じだった。云わば草稿たちは、テンシー自身であった。


 城の中では常に、新しいことを試し続けてきた。たくさん読み、たくさん書き、たくさん作った。でも、何をやってもそれは何故か、テンシーにとってはその場での足踏みにしか感じられない瞬間があった。

 そして、その瞬間を味わうたびに、辰砂色の目は気怠さを帯びた。気持ちを払しょくできないまま、回数を重ねていくごとにそれは増し続け、いつも決まって途方もない眠気に変わるのだった。


 だから、長らく”一歩目”を踏み出すことができずにいたテンシーには、己一人では決して知り得ない領域というものがあった。

 くしくもそれは、彼女がアイやエーナインと絡んでいるときに自然と生まれるものだったが、今この場に彼女らはいないし、テンシーにはその自覚はなかった。


 テンシーに、自分でも気付かぬ”一歩目”を踏み出させてくれるもの。

 それは。


 「ん……んー?」


 気怠い辰砂色の目に、輝きを取り戻させるもの。

 それは。


 「――みっけっ」


 おそらく、自分以外の、誰かの存在だった。


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