第7話 パブロフの犬
「パブロフの犬って知ってる?」
話が飛んだ。虚を突かれ、答えられずにいると高橋は説明しだす。
「犬にご飯をあげる時に毎回ベルを鳴らしてたら、いずれご飯が出なくともベルの音だけで犬は涎を出すっていうやつなんだけど」
「知っています。条件反射の実験ですよね」
真剣な話の途中で意味不明な方向に逸れたので、思わず不機嫌な声で答えるも、高橋は気にしている様子は無い。
「それと同じさ。ナッジは条件に対して出されているものだからね。プレゼントをもらった。嬉しくあるべきでは? 悲恋のドラマを見た。切なさを感じるべきでは? それらは本人が実際感じた感情とは関係なく、外的要因に反応してチップが提示する仕組みとなっている」
話が逸れたと思っていたが、そうではなかったのだ。チップを介して浮かんだ予感で冷や水を浴びたように一瞬にして体が冷める。高橋は話し続ける。
「本当にプレゼントが嬉しかったのかもしれない。実際ドラマに共感して切なくなったのかもしれない。でももしかして、」
くらくらしてきた。座っている椅子ごと地面に沈み込んでしまいそうだ。不意に目を上げた高橋に射抜かれる。耳鳴りが、頭痛が止まない。
「もしかして、そこには本人の感情なんかなくて、ナッジに対する脳の条件反射だけが残ってるのかもね」
犬の涎のようにか。全く冗談じゃない。
高橋の前にある、すっかり小さくなってしまった塩の塊に再び目を落とす。
淘汰されていく両極端。残されるのは個の集まりというよりも集団という名の一つの個。一つの考え方。一つの感じ方。そしてそれを促すナッジ。
高橋の最初の問いが頭の中を反響する。
『それは本当に君の感情なのかい?』
それとも、ナッジから分泌された涎。誘導よりも強制的な、提示される一つの感情。
塩から目が離せず、尋ねてみた。思った以上に弱々しい声だった。
「青島とは、その話をしたのですか?」
だから彼は辞めたのだろうか。自分という個を見失ってしまって。
高橋はテーブルの端に手を伸ばす。そこには難を逃れた一粒の塩でもあったのか、指の腹を使ってちょいと拾い上げ、静かに告げる。
「青島君とは、アウトライヤーの話をしただけさ」
指についた一粒の塩を舐める高橋に対する感情には怒りはもう見当たらない。代わりにチップによって脳内は恐怖と混乱で塗り潰されていた。
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