静かなる大妖怪のあらそい
※
源吾郎は浮遊感を抱きながら中空を漂っていた。上を向いているのか下を向いているのか左右さえよく解らない。ただただ地に足がついていない事が辛うじて解るだけだ。
恐らく……いや確実に何らかの理由で飛ばされて漂っているのだ。源吾郎はぼんやりと思った。彼はまだ空を飛ぶ術を会得していないからだ。鳥類や昆虫などと言った、種族的に空を飛ぶ事の出来る妖怪たちが空を飛ぶのはさして難しくはない。しかし、狐などの構造上空を飛ばない種族の妖怪たちではそうはいかない。
浮遊していると言っても、気持ち悪さは無かった。景色はおぼろで淡い水色が何処までも広がっている。むしろ水の中で浮かんでいるような感じでもあった。
自分以外には誰もいない――と思ったが、遥か遠方に金と銀の毛皮を持つ何かがいるようだった。あれは雪羽だ。そうに違いない。源吾郎は奇妙な確信を抱いていた。
――……ろう、島崎源吾郎!
不意に鋭い声が源吾郎の許に飛び込んできた。奇妙な事にその声は耳で捉えたのではなくて、おのれの内側、脳で捉えた物だった。鋭く少し掠れた声が今再び呼びかけてくる。
――反応したという事は大丈夫だな。そのままでも構わんし、起きても構わんぞ
この声は……みくにさま? 柔らかい源吾郎の思考が僅かに固まった。何故三國が呼びかけているのかそもそも三國の声だと自分が認識したのは何故なのか……解らない事が多すぎる。
――紅藤様が妖気を放ったせいで、雪羽とお前は仲良く飛んじまったんだよ。雪羽の方は大丈夫だと確認が済んだが、ついでにお前の方にも確認を入れたんだ。何、この呼びかけはほんのついでみたいなものだ。
安心しろ。今は緑樹様が結界を張っていてついでに紫苑様と俺の妻が周囲の認識を調整している所だ。戻ってきてもまた妖気の爆風にあてられて飛んじまう事はまずあるまい。結界も長時間持つとは思わんが、あの二人の事だから問題はないだろう
三國の言葉は恐ろしく早口で、途中から「何かを言っているのが聞こえる」というレベルでの認識がやっとだった。話しかけられているというよりも、一方的に情報を詰め込まれていくような、そんな感覚だった。
何、何を告げようとしたんだ……源吾郎の脳内は瞬く間に疑問で埋め尽くされていく。次第におのれの意識の輪郭が定まっていくのを感じ、源吾郎の瞼が開いた。
「…………」
無言のままに源吾郎は周囲を見渡す。眼球だけを動かして。自分は確かにホテルの一室にいた。大阪のホテルの高層階にいるのはその通りだが、別に空を飛んでいた訳ではない。
あれこれ考えた末、自分が少しの間――厳密な時間など解らないが――意識を手放していたのだと悟った。
視界の端に白銀に輝く丸っこいものが見える。椅子にちんまりと座ったそれは変化の解けた雪羽だった。光の加減で淡い黄金色に輝く白銀色の毛皮が幻想的なほどに美しい。サイズは大柄な猫ほどであるが、猫や狐よりも細長い身体と毛足の長い毛皮が特徴的だった。取り巻きを率いて乱痴気騒ぎを行っていた悪たれ小僧とは思えぬほどの、愛らしくも美しい獣だった。
視線に気づいたのか、雪羽は
――これは……
さてここまでおのれや雪羽の状況に意識を向けていた源吾郎であったが、視線と注意をさりげなく紅藤と灰高の両者に向けた。両者は相変わらずにらみ合ったままである。派手な動きが無く静かであるが、それはいずれも強者であるからこその事であろう。強者の闘いほど長引かず、決着が付くのが速い。それを言っていたのは誰だったのか。
紅藤から放たれているはずの膨大な妖気を源吾郎は感じなかった。緑樹が結界を張り、紫苑や月華が認識をぼやかしているからなのだろう。
妖気の影響がないために、紅藤と灰高のやり取りをそれこそ舞台劇を鑑賞するような気分で眺める事が出来た。そして、舞台劇のように冷静に客観的に見る事が出来たからこそ、のっぴきならない状態である事も知ってしまった。
源吾郎は結界の内側にいるから影響はないが、紅藤を起点とする妖気の奔流は未だに収まっていなかった。その証拠に、紅藤の褐色の巻き毛は不自然に逆立ち、灰高の髪や襟元は風にあおられているかのようにはためいている。
妖怪が放出する妖気はつまるところエネルギーの一種である。普通の妖怪であれば、そのエネルギーを用いて妖術として活用するものだ。しかし、莫大な妖力を秘める妖怪であれば、妖術などと言う小細工を使わずとも妖気そのものが武器たり得る。源吾郎はふいにその事を悟った。紅藤は果たしておのれが武器を振るったという認識はあるのか。それは源吾郎には解らない。とはいえ彼女の武器に充てられて、雪羽と仲良く失神していたという事は揺ぎ無い事実だ。
今一度紅藤を源吾郎は見つめる。やはり紅藤と灰高の両者には目立った動きはない。眼前の光景が静止画であると言っても通用するほどに彼らは動かない。大妖怪同士の争いはさぞや派手であろうと無邪気に考える門外漢であればさぞかしがっかりするであろう。
しかし、これはやはり大妖怪同士の争いなのだ。張り詰めた空気が結界の内外を満たしている事が他ならぬ証拠ではないか。現に八頭衆の面々は誰も止めに入ろうとしない。止めに入らないのではなくて止めに入れない事は源吾郎もぼんやりと解った。そもそも八頭衆の誰かが紅藤たちの争いを止められるのであれば、萩尾丸が仲裁なり調停なりをとっくに行っている所だ。
「紅藤様……」
心許ない呟きを漏らしたのは萩尾丸その人だった。源吾郎は思わず彼の顔に視線を向け、声も出ない程に驚愕した。日頃ふんだんにまとっている余裕の笑みが綺麗に消え去り、それどころか青ざめやつれたような表情を浮かべている。声色もそうだが、普段ならば決してお目にかかれないような面差しだった。
幸か不幸か、萩尾丸は源吾郎の視線に気づかなかった。そして、紅藤と灰高が萩尾丸の呟きを聞き取ったのかは定かではない。
「先程のお言葉を撤回してくれますよね、お兄様」
紅藤の凛とした声が張り詰めた空間を揺らす。物言いと絶妙に選ばれたその言葉は既に依頼や懇願ではなくて命令だった。いっそ脅迫めいた気配も見え隠れしている。
だというのに、年長者である灰高の事をお兄様と呼びかけている。しかもお兄様と呼びかける時だけ甘く媚びるような声音を使ったのだ。そこがまた彼女の発言の物騒さと不気味さを際立たせていた。
それとともに、少なくとも紅藤の方はまだ威嚇の段階であるのだと源吾郎は気付いた。確かに、灰高の言葉に彼女は激昂した。しかしまだ本気で彼と闘うつもりではないのだろう。威圧して灰高を抑え込もうと駆け引きをしているというよりも、沸き上がった自身の激情を抑え込んで穏便に済まそうと思っているのだと源吾郎は解釈した。紅藤はビジネスライクな駆け引きよりも、相手を慮って動く事を大切にしている事を知っていたためである。
要するに、今後の展開がどう転ぶかは灰高次第なのだ。彼が素直に詫びればそこで落ち着くはずだ。そして結界の中で成り行きを見守る面々は、灰高が矛を収めるのを望んでいる。みんなの心が一つになった――小学生や中学生に対して使うような文句が源吾郎の脳裏にふっと浮かんだ。
灰高はゆっくりと瞬きをし、頭を揺らした。その動きに源吾郎は思わず注目していた。紅藤の妖気を真正面から受け止めている灰高がどう出るのか。
「潔さが無いですね、紅藤殿。事ここにきて能書きを垂れているのでは、むしろ貴女が及び腰になっていると思われかねないですよ?」
何という事であろうか。灰高の口から出たのは謝罪でも恭順の意思表示でもなかった。灰高の言葉は未だに嘲笑的で挑発的だった。それどころか紅藤が襲い掛かって来るのを望んでいるようなニュアンスさえ孕んでいた。
「まさか私が貴女ごときに恐れをなすと本気で思っておいでなのですか。殺るなら受けて立ちますよ。とはいえ、力を得ただけの雑魚妖怪に過ぎない貴女が、この私に勝てるとは思いませんがね――確かに莫大な妖力と多彩な妖術が貴女の武器でしょう。ですがそれ以上に欠点が多すぎる」
ほんの一瞬、源吾郎は放たれている妖気をその身で感じた。視界の端で緑樹が慌てた様子で手指を動かしているのが見える。源吾郎たちを護る結界は緑樹が担当してくれていたはずだ。もしかするとその結界が揺らいだのかもしれない。
お世辞にも愉快な空気が漂っているとは言えない状況であるが、灰高の言葉でその空気はさらに重苦しくなった。お通夜の空気はこんなものかもしれないと源吾郎は考えていた。母方の親族は皆息災で父方の親族とは疎遠な源吾郎は、未だに葬式や通夜に参列した事は無かった。
灰高のアホは堂々と紅藤に喧嘩を売ってしまったではないか。これはもう自分たちではどうにもならん……むしろとばっちりに巻き込まれるのではないか。重く湿った絶望感が結界の内側を支配し始めた。
「……!」
紅藤が何かを言いかけようとしたまさにその時、唐突に部屋の扉が音を立てて開いた。
室内を満たす空気感を度外視したような、茶目っ気溢れる様子でもって第一幹部の峰白が顔を覗かせた。
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