わがまま雷獣くだを巻く
米田さんが半身を起こしたのは源吾郎が彼女の許に近付き屈みこんだ丁度その時だった。仰向けに倒れていた彼女は、半ば変化の解けかけた姿を取っていた。明るい黄金色の二尾はらせん状に胴体に絡みつき、毛皮と鋭い爪を具えた両腕は明らかに獣の様相を見せている。倒れる間にもどうにかして身を護ろうと奮起した結果であろう。様子を見るに尻尾で腹部を護り、両腕は顔の前でクロスして胸から上を護っていたらしい。
結果的には源吾郎が彼女を護った形になるのだが、彼女も彼女なりに自衛していたという事だ。当然の話だ。普通の獣よりも生命力があると言えども、妖怪とて傷を負う事もあるし苦痛を感じるものだ。それに一度に大きなダメージを受ければ命の危険に晒される事も普通にあるし、ケガによるリスクは弱い妖怪の方が大きいのだから。
――米田さん、こう見えて中々修羅場とか乗り切ってるのかも。
胴体に絡めた尻尾をほどき、両腕を人のそれに戻している米田さんを眺めながら源吾郎は奇妙な感慨に耽っていた。
米田さんの瞳孔がゆっくりと縮んでいくのを源吾郎は見た。やがて焦点が合い、米田さんは宮坂京子がすぐ傍にいる事に気付いたようだ。
「だいじょうぶ?」
「え…………?」
相手の身を案じる短い問いかけが、ごく自然にこぼれ出た。但し源吾郎ではなくて米田さんの口からである。大丈夫、と声をかけるのは宮坂京子のはずだった。思いがけぬピンチに見舞われたのは米田さんで、それを救出したのが宮坂京子なのだから。
しかし実際はどうだろう。米田さんは足の生えたクッションに驚いたような視線を向けてはいたが、源吾郎に対しては落ち着いた笑みを見せるだけなのだ。その彼女の金眼に映る源吾郎の顔は、ひどく切羽詰まっているのかもしれない。
「……宮坂さん。私たちを助けるためだけに無茶しちゃったんじゃないの? 色々と術が発動するのは何となく解ったけれど、それって宮坂さんが一人でやったんでしょ」
米田さんは源吾郎から視線を外すと首を巡らせて周囲を見渡した。動きは止めたが未だあちこちに転がっているクッション。地面に転がっているものの割れてはいないグラスたち。そして半ばクッションに埋もれて今も呆然と横たわる二匹の妖怪たち。確かにこの光景は源吾郎の術によって成し得た物であった。
源吾郎が何もしなければ、米田さんを含む三匹の妖怪たちに迫りくるグラスが牙を剥いていたという事である。
「ありがとうね宮坂さん。とっさの事だったから本当に助かったわ。それにしても心配させてしまったし無理もさせちゃったかもしれないから、それがちょっと申し訳ないかも」
「いえ、無理なんて――」
「そんな、汗だくだし鼻血まで出しちゃって……本当に大丈夫?」
無理なんてやってません。源吾郎は米田さんにそう伝えるつもりだった。しかし米田さんに今のおのれの状況を的確に伝えられ、源吾郎はぐうの音も出なかった。自分の全身が汗でぬめっている事は把握していたが、まさか鼻血まで出ていたとは。恐らくは血圧が上がったがために細い血管のどこかが切れただけなのだろう。しかし面と向かってその事を指摘されると気恥ずかしい。
そんな塩梅で米田さんと話していると、先程まで転がっていた二名ももぞもぞと動き出し身を起こした。鶏妖怪の青年はすぐに本性を隠し、ウェイターの青年姿に戻った。訝しげに、そしておどおどした様子を若干見せてはいたものの、すぐに丸盆を手繰り寄せて転がったグラスを拾い始めていた。
自分たちも先輩に倣って仕事をせねば。雷獣の雪羽が、クッションを跳ね飛ばしつつ身を起こしたのは丁度その時だった。
「大丈夫ですか雪羽様」
「明らかに埋もれてましたぜ雪羽様」
それまで茫洋と立ち尽くしていた取り巻きたち、カマイタチとアライグマ妖怪が身を起こした雪羽の許に近付いていった。彼らはグラスの片づけを行ってほしいという宮坂京子の依頼をガン無視していた訳であるが、それを咎めるつもりは源吾郎には無かった。
彼らが無事である事。それこそが今の源吾郎にとって重要な事だった。
さて雪羽はとういうとシャバの空気はやっぱり旨いだのなんだのと軽口を叩きつつも元気そうな姿を見せている。
雪羽については米田さんほどに心配していなかった源吾郎であるが、それでも素直に良かったと安堵していた。確かに雪羽は酒癖も女癖も悪いようだ。しかも今回の事故もある意味自業自得と言えるだろう。それでも目の前で事故に遭って傷つくのを見るのは寝覚めが悪いと、源吾郎は考えていたのである。
あるいはそれが、源吾郎の甘さなのかもしれないけれど。
「どうしたんすか雪羽様」
カマイタチの少年が硬質な尻尾をふりふり雪羽に尋ねる。銀髪に手櫛を通してから立ち上がった雪羽は、見た目相応の少年らしく寄ってきた取り巻きと楽しそうに冗談を言い合っていた。しかし今は違う。源吾郎を――宮坂京子を凝視している。その眼差しは鋭い。妖怪、それもある程度の実力を具えた妖怪の目だと、源吾郎は思った。
「なぁお嬢さん――あんたは一体何者だ?」
雪羽の唐突な問いかけに源吾郎は即答できなかった。繰り返すが、源吾郎は今宮坂京子という妖狐の少女に化身している。才能も妖力も平均的な、それよりもやや弱い、特段注目されないような存在だ。血統的にも能力的にも雉鶏精一派の幹部やその重臣が興味を引く要素は何処にもないはずだ。
だからこそ、雪羽の剣呑な問いにうろたえたのである。この質問の答えは二通りある。本当の答えと正しい答えだ。本当の答えはすなわち源吾郎の真の立場――玉藻御前の末裔にして第二幹部の重臣――を示すだろう。しかし、おのれの本性を隠して生誕祭に出席している事を思えば、正しい答えとは言い難い。そもそも、宮坂京子を前にしてそのような質問が飛び出してくる事自体が問題なのだ。
「俺たちを助けたあの術……普通の女狐が繰り出すにはいささかでかいし上手いんじゃないかなって思ったんだよ。単に上玉なだけかと思ってたけれど、そっち方面でも興味深そうだなぁ」
少年らしからぬねっとりとした笑みが雪羽の面にふわりと浮かぶ。その笑みを浮かべたまま、取り巻きたちに視線を送る。
「なぁ、お前たちはどう思う」
「雪羽様と同じっすよ。あんな術、普通の狐の術なんかじゃないし」
「俺もそう思うよ」
カマイタチがまず意見を述べ、アライグマ妖怪がそれに追従する。彼らの感想もまぁ当然のものかもしれない。この場に居合わせた者たちの中で、グラスタワー崩壊に巻き込まれずに宮坂京子の活躍を目の当たりにしたのだから。
「まぁ色々あったけど、君みたいな興味深い娘に会えて俺は満足してるぜ」
源吾郎は未だに黙ったままだった。どう返答すれば良いのか考えていたし、何より本性がばれるのではないかと気が気ではなかった。
グラスタワー崩壊という事故を「色々」で言い切った雪羽は相変わらず笑みを浮かべ機嫌が良さそうだ。もしかするとまだ酔いが抜けきっていないのかもしれない。
「俺さ、本当はちょっと退屈してたんだよ。働いている女の子たちも幹部連中に付き従う女たちも俺の事なんて無視しやがるからさ……
それに今回は、本当だったら玉藻御前の末裔とやらも出席する予定だったんだろ? でもそいつは急に体調を崩したとかなんかで欠席するって事になっちまったし。
いやぁ、玉藻御前の末裔が欠席しちまったのは俺も残念だと思ってるよ。ほらアレじゃん。人間の血がかなり濃い癖に最強の妖怪になるっていう野望を持ってるって噂を聞いていたからさ。まぁ言うて、そんなに派手な話が無いって事は、単なるビッグマウスに過ぎないのかもしれんけどな。そこんとこはこの雷園寺雪羽様とは大違いってわけさ。はは、ははは……」
雪羽は雉鶏精一派に加わった玉藻御前の末裔に会えなかった事を悔やんでいる旨の話を行っていたが、主だった内容はその玉藻御前の末裔をこき下ろす事に終始していると言っても問題なかった。
人間の血がかなり濃い。噂がほとんど無いから大した事は無い……日頃源吾郎が気にしているような事柄を雪羽は言ってのけたのだ。それらの言葉を一言一句あまさず聞いていた源吾郎であったが、憤慨する事は無かった。相変わらず宮坂京子としての演技を続けている事は言うまでもない。但しそれ以上に、雪羽が自分の本性に気付いたのではないかと気が気ではなかったのである。
「ああ、すまんなお嬢さん。あんまり愉快な話じゃなかったかな」
雪羽に唐突に謝罪され、源吾郎は一度瞠目し笑みを作った。心中で蠢く動揺を隠し通したと思っていたのだが、どうやら感情の揺らぎを見せてしまったらしい。
「話を聞く限りじゃあ、ガムシだかミズスマシとかいうその狐野郎は自分がモテてモテて仕方ねぇって思いこんでる上に、気に入った女にはすぐに唾を付けるような奴らしいんだよな。そんな奴の話を聞いても、女の子だったらいい気分にはならないよな」
雪羽の、名前に関する言葉遊びは面白いと感じた源吾郎であったが、雪羽はまだ酔いが醒め切っておらず、警戒するに値しないと静かに判断した。玉藻御前の末裔について言及するのを聞いた時はヒヤッとしたが、そのネタを材料にして自分を持ち上げる発言しかしていないわけだし。
そんな事を思っていると、肩のあたりをつつかれた。斜め前に向き合う米田さんが、源吾郎に合図を送っていたのだ。
「しんどいかもしれないけれど、そろそろ片づけましょ。他の妖たちも手伝いに来てくれたみたいだし」
「本当ですね!」
崩落したグラスタワーの向こう側から、幾人のスタッフたちが速足で近付いてきている。騒ぎを聞きつけたのか、或いは源吾郎がこっそり放ったチビ狐の幻術に導かれたかのどちらかであろう。
スタッフたちが訪れたのを見ると、急に元気が沸き上がって来るのを源吾郎は感じた。すぐに彼らと共に片づけの作業に入ろうと思った。
だが――源吾郎も米田さんも結局は動かなかった。周囲の光景に違和感を覚えたためだ。スタッフたちは数メートル先にいる源吾郎や米田さんたちが見えていないように振舞い、転がったグラスを訝りながら拾っていた。のみならず、崩れたグラスタワーの向こう側は灰紫の靄がかかっているようにも見えた。
「雪羽、一体どうしたんだい雪羽……」
スタッフたちが立ち働く逆方向、すなわち源吾郎たちの死角に当たる方角からその声は聞こえてきた。その声は成人男性らしく低く深みがあったが、雪羽の名を口にするときはいっとう優しく甘やかに響いた。
声のした方に視線を向けると、雷園寺雪羽によく似た容貌の青年と、黒ずくめのワンピースとローブをまとった女性が、寄り添うように佇んでいた。
「
喜色溢れる雪羽の声から、やって来たのが第八幹部の三國であると源吾郎は悟った。
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