四尾はひそかに力を振るう

 よろめいた米田さんが無秩序に積み上げられたグラスタワーの方へと倒れかけていた。雷園寺雪羽らいおんじゆきはなる雷獣が彼女を突き飛ばしたのか否かはもはや判らないしそれを議論している場合でもない。


「な、何なんだよッ」


 この展開に驚いているのは雪羽も同じ事であった。彼がゆっくりとした動きで前に進み、米田さんに向かって腕を伸ばすのが源吾郎には見えた。ウェイターは中腰のままの状態で、オロオロしたまま佇んでいる。

 既にグラスタワーは崩落を始めていた。しかもドラマなどで見る整然としたシャンパンタワーとは異なり、武骨なジョッキやデキャンタの類さえ多く見受けられる。二メートル弱まで積み上げられたガラス製の器たちが崩れ、米田さんたちの間に振りかかろうとしているのだ。いかな妖怪と言えども危ない状況だった。

――ああ、これは何とかしないと……!


 雪羽の取り巻きがぼんやりと立ち尽くす中、源吾郎は密かに決意を固めていた。何とかするとは要するに米田さんたちが怪我をしないように自分が動くという事に他ならない。こんな状況下に陥れば慌てふためいてもおかしくは無いのだが、幸運な事に源吾郎は落ち着いた気持ちでこののっぴきならぬ状況を見つめていた。ついでに言えば、米田さんがよろめいてからというものの、周囲の動きがひどくゆったりとしたものに見えるのだ。

 だからこそ、自分でも対処ができるという考えに至った訳である。


「うっ、ぐぅっ……!」


 源吾郎は右手を水平に突き出した。思わず中腰になり、唇の端から呻き交じりの吐息が漏れる。

 それでもなお崩れ落ちる米田さんたちに向けられた指先から、柔らかくモコモコとしたものが幾つも顕現していった。それは獣ともぬいぐるみともクッションともつかぬ代物だった。強いて言うならば、四肢の生えたクッションとでも言うべき存在であろうか。それらは顕現された傍から作り主である源吾郎の元を離れ、グラスタワーやその近辺にいる妖怪たちの許に向かっていく。あるものは落ちてくるグラスをその背で受け止め、またあるものはバランスを崩す米田さんや雪羽をその身で受け止めた。

 グラスタワーは今もなお崩落を続けていたが、存外派手な音は伴わなかった。落ちて誰かにぶつかったり、床に落ちて割れる前に、源吾郎の術がそれをことごとく阻止しているからだ。色々な想念が混ざっているためであろうか。グラスを受け止める幻術の中には、小鳥みたいなものや狐みたいなものもあるにはあった。脳裏にホップの事とか珠彦たちの事とかが浮かんだからなのかもしれないが、今そう言った事を考える暇はない。

――収まった……か……?

 派手な動きや空気の揺らぎはなくなった。視界に映るのは半ば崩れつつもどうにか均衡を保つグラスタワーの残骸、即席クッションの上に転がるグラスたち、そして今もなお状況が呑み込めず倒れたままの妖怪三匹である。

 どうにか大惨事は免れたようだ。血の臭いが漂ってこない所から源吾郎はそのように判断した。使用済みのグラスという事もありアルコールやソフトドリンクの匂いが入り混じっているが、血の強烈な臭いはそれらに隠れる事はまずない。肉食獣ゆえか生命の危険に対する防御規制なのか、獣妖怪たちは血の臭いにはとりわけ敏感なのだ。


「ぐっ……はぁ、はぁ……」


 まだ気を抜く訳には行かなかった。最大のピンチを通り抜けた事で安堵した源吾郎だったが、安堵し気が緩んだのはある意味まずかった。短時間に大規模な術を使った反動が、源吾郎の身体に容赦なく襲い掛かる。

 妖怪の持つ妖力は、端的に言えばエネルギーの一種である。妖力は妖術を使うためのエネルギーに転用されるが、そもそもは円滑な生体活動を行うためのエネルギーに他ならない。妖力を多く保有する妖怪が大規模な術を扱えるのは当然の摂理であるがそれにも限度がある。妖力を使い過ぎると一時的とはいえ消耗する。消耗の度合いは個体差があるが、変化が解けたり意識を失ったりする場合も無論起こりうる話だ。

 今回の源吾郎の場合もそうだ。グラスタワーの崩壊に巻き込まれる妖怪たちを無傷で救出するという、通常ならば無理に近い行為を行ってのけたのだ。そのために彼は精度はさておき普段以上に変化術を行使し、更には不慣れながら結界術も発動させたのだ。しかもという自身の変化を維持したままである。

 全身の血が沸き立ち、血圧が急上昇するような感覚を源吾郎は抱いていた。一瞬でも気を抜けば宮坂京子という着ぐるみが破れ、島崎源吾郎という本性が顕現してしまいかねない。たまらず一尾が飛び出したが、それ以上おのれの変化がほつれるのを源吾郎は許さなかった。


「はぁ……ふぅ」


 全身汗みどろになりつつも、源吾郎はどうにかおのれの内側で暴れていた奔流を制御しきった。本性を晒さず宮坂京子の姿のままで。

 大規模な妖術を展開するに足りる妖力の多さ。

 とっさの出来事の中でも適切な方法を見つけ出す判断力。

 島崎源吾郎が玉藻御前の末裔として産まれ持った能力と日頃の鍛錬によって培われた技術。この両軸が上手にかみ合い、今回力を振るい為すべき事が出来たのだ。

 もっとも、その力を振るったのがである為に、源吾郎自身がその能力の高さを称賛される事は無いのが最大の皮肉であろう。当の本人は起こりうる大惨事を退ける事に必死でその事に気付いてなどいないけれど。


「…………?」


 源吾郎は視線が気になり、ふと後ろを振り返った。景色がゆっくりと流れる現象は既に収まっていた。しゃがみ込む形の源吾郎を、雪羽の取り巻きたちは静かに見下ろしている。

 この取り巻きたちの視線の色が先程までとはまるで異なる事に源吾郎は気付いた。雪羽が彼を捉えた時は取るに足らぬ妖狐の少女だと思っていたらしいが、そういう嘲りは既に無い。驚嘆と称賛と微かな畏怖。二対の瞳にはその色がありありと浮かんでいた。すっかり忘れていたが、彼らもまた宮坂京子の奮闘を間近で見ていたのだ。


「あなた達も、片づけるのを手伝って欲しいんです」


 源吾郎はそこまで言うと、よろよろと立ち上がった。彼も彼でウェイトレスとしてひと踏ん張りせねばならない。しかしその前に、米田さんやウェイターの鶏妖怪の様子を見てやらねばならないのだ。

 半ば動くクッションや狐のような何かに埋もれていた米田さんが動く様子が、源吾郎の眼にははっきりと見えた。

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