思いがけぬ朝の情景

 思いがけぬものを目の当たりにした時、それが何か正しく認識できない。

 この法則は人間様にのみ当てはまるものではない事を源吾郎は今知った。源吾郎自身は人間の血を引いているものの人間とは異なる存在であると自覚しているためだ。

 イベントがあるという事だったので、源吾郎はあの後すぐに研究センターに入ったのだ。ちょっと早い時間だけど、と割合気軽な感覚で。

 研究センターの事務所に入ってまず目に飛び込んできたのは、萩尾丸がを事務所の奥へ運び込もうとしている光景だった。朝だというのに萩尾丸は困ったような表情を浮かべていて、それでも抱え持つようにその荷物を移動させようとしていたのだ。かなり大きなものだった。小柄な人間ほどの大きさと長さがあるように源吾郎には見えた。大きさの割に柔らかいのだろうか、萩尾丸が支える所を起点として、それは明らかにぐんにゃりと曲がっていた。

 どうしたんだい、ぼうっとして。低い声が鼓膜を震わせる。萩尾丸がわざわざ立ち止まり、源吾郎に声をかけているのだと気付いた。源吾郎は何か言おうとしていたがすぐには言葉は出てこなかった。ぼうっとしていた訳ではないのだが、何がどうなっているのかを見定めようといた所なので、すぐに応対が出来なかったのだ。


「紅藤様を運んでいる最中なんだ」


 そういうと萩尾丸は片腕で抱えているものを器用に揺らした。つい先程まで何か判らなかったそれは、紅藤だった。普段見かける白衣ではなく、茶褐色のワンピース姿のようだ。うつぶせの状態なので赤茶けた巻き毛で顔が隠れて表情は見えないが、だらりと垂れた首筋の白さや細さがいやに鮮明だ。


「今さっき僕も事務所に到着したところだけど、紅藤様ときたら機材の前で寝落ちしていたみたいでね……ちょっと仮眠室に移動させておこうと思ってね」

「あ、は、はぁ……」


 源吾郎の声はあいまいだった。萩尾丸が運んでいるものが明らかになったが、源吾郎は落ち着きを取り戻せていなかった。いやむしろ、紅藤を運んでいると知って余計に困惑してさえもいた。紅藤はまだ眠っているらしい。萩尾丸に抱えられながら動く気配は無かった。得体も底も知れない大妖怪とは思えないほどに無防備な姿だった。


「君も時には僕みたいに紅藤様を運ばないといけない時が来るかもしれないね、島崎君」

 

 何気ない様子で放たれたはずの萩尾丸の言葉に、源吾郎はぎくりと身を震わせた。無論この反応を萩尾丸は見逃しはしなかった。


「そんなに心配しなくても良いんだよ島崎君。紅藤様は本性は雉だからね。確かに普通の雉とは較べものにならない程の巨体の持ち主だけど、元は雉だからそんなに重たくは無いんだ。まさか島崎君、いかな君がお坊ちゃま育ちだと言っても、試験管よりも重いものを持った事が無いとか言い出さないだろうねぇ?」

「いえ……そんな……」


 源吾郎は途切れ途切れに言葉を吐き出し、小さくかぶりを振った。

 確かに源吾郎は紅藤を自分が抱え持つ光景を思い浮かべて動揺していた。しかし自分の膂力で紅藤を支えられるのかなどという事で不安がっていた訳ではない。紅藤が、若い女性の姿を取っているから、その姿の彼女を抱える様子を思い浮かべたから動揺していたのだ。

 萩尾丸はやけにゆっくりと進みだした。紅藤の身体は揺れていたが、萩尾丸に引きずられているためであったらしい。


「どうしたの島崎君。顔が赤くなってるけれど」

「……出勤する前にブラブラし過ぎました。日に当たって火照ってしまったのかもしれません」


 早口に思いついた事を述べると、源吾郎はそのまま踵を返し手洗い場に向かった。色白の源吾郎が日焼けに弱いのは事実だが、今回の顔の火照りは陽光のせいではない事を彼は知っている。とはいえ冷たい水を何度も浴びていたら、顔と心の火照りも収まるであろう。



「ごきげんよう。調子はどうかしら」


 始業時間。イベントがあるという事で月曜日ではないが緊急のミーティングが開催された。貴婦人よろしく優雅な笑みでもって源吾郎たちに声をかけるのはもちろん紅藤である。普段通りの白衣姿ではなく、クールビズ対応のパンツスーツ姿である。きっちりとした服装に身を包んでいるためか、いつも以上に凛としているように源吾郎の眼には映った。数十分前まで深い眠りの最中にあり、一番弟子に荷物のように運ばれていたのが噓のようである。

 無論そんな考えは源吾郎はおくびには出さなかった。


「今日は前々から申し上げていた通り、胡琉安様の生誕祭です。会場も時間も例年通りだから、十時には研究センターを出発するわ」


 朗々と今日のイベントを説明する紅藤に対し、それを聞く研究センターの面子の表情は硬く引き締まっていた。青松丸やサカイさんは言うに及ばず、余裕綽々という顔つきが印象的な萩尾丸さえ何処となく不安そうだ。

 源吾郎は神妙な面持ちで紅藤や先輩たちを眺めていた。春に入社した源吾郎は胡琉安の生誕祭に立ち会うのは今回が初めてである。しかし事前に説明を受けていたから、生誕祭が文字通り誕生日を祝うだけの平和な会合ではない事はうっすらと知っていた。

 確かに生誕祭は表向きは胡琉安の誕生日を幹部たちと彼らの重臣たちが祝うという体裁を保っている。だがその実態は、幹部たちの丁々発止のやり取りに終始していると言っても過言ではなかろう。もちろん祝いの席であるから表立って喧嘩になったり場外乱闘になる事はまぁない。それでも幹部同士で互いに牽制しあったり力量をはかり合ったりする事は普通に起こるそうだ。

 ちなみに幹部たちの力量を測るものさしとして、どのような妖怪を重臣として従えているかもポイントになるらしい。

 普段はのんびりとしている青松丸とサカイ先輩がいつになく緊張しているのはこのためだった。彼らは、ついでに言えば源吾郎も紅藤の重臣と見做されるからである。そう見なされるのは紅藤単体の強さとは別問題の話だ。何しろ紅藤の部下は現在四名しかいないのだから。しかも最も優秀で力のある萩尾丸は、幹部であるがゆえに幹部の一人として動かねばならないし。

 新入社員で多くの事情を知らぬ源吾郎も当然のように緊張し始めた。青松丸やサカイ先輩が抱える緊張の念が伝わった為である。

 表情を引き締めたのを見定めたのだろう。サカイ先輩が源吾郎を見、ぎこちないながらも笑みを向けてくれた。


「そ、そんなに緊張しなくても、だ、大丈夫だから、ね。島崎君。ごちそうもお酒も、美味しいものが沢山あるからね」

「サカイ先輩、僕は未成年なのでお酒はちょっと……」


 場の空気がまたも気まずい方向に傾いてしまった事を、源吾郎は肌で感じ取った。未成年だから飲酒は出来ないという発言自体は間違いではない。しかし自分の都合で飲酒云々のみに突っ込みを入れる事が、サカイさんの好意の発言をふいにしてしまったのではないかと思ったのだ。

 だが源吾郎を糾弾する声は上がらず、代わりに萩尾丸がクスクスと静かに笑うだけだった。


「全くもってのんきな物ですね、紅藤様。良いですか、いつも生誕祭の場では申し上げておりますが、僕は第六幹部としての務めを果たさねばならないので、紅藤様にはいつも以上にしっかりなさらねばならないのですよ。

 島崎君は言うまでもなく、サカイさんも青松丸さんすらも僕から見れば心許ない所がありますゆえ……」

「そりゃあもちろん、胡琉安様の生誕祭では私もしっかりやるつもりよ」


 紅藤は穏やかに、しかし決然とした様子で言い放った。


「私は雉鶏精一派の第二幹部ですが、胡琉安様の母親でもあるのよ。大切な息子の祝いの席で、ぼんやりなんて致しませんわ。

 それに萩尾丸。私の配下が少ない事についても心配は要らないわよ。峰白様だって、いつも配下なんてほとんど連れていないじゃない」

「ええと、まぁ……紅藤様の仰る事も一理ありますかね」


 萩尾丸は得意の炎上トークで言い返すのかと思いきや、ややしおらしい様子で紅藤の言葉を受け入れただけだった。

 やはり寝落ちして弟子に引きずられていたとしても、紅藤の大妖怪としての威厳は損なわれる事は無いようだ。

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