妖狐は小鳥に振り回される

 夕方。おのれの身づくろいも半ばに放っておいて、源吾郎は籠にいるホップを外に出してやった。夜の放鳥タイムである。ホップは基本的に籠の中で暮らしていて、朝と晩の日に二回、放鳥タイムの時に籠の外で遊べるようになっていた。

 ちなみに朝の方が放鳥タイムはやや長い。朝は水の交換が終わり餌を交換する段階から放鳥を始めているし、夜は夜でホップも一通り遊び疲れると自ら鳥籠に戻るためだ。

 ぜいたくな事を思っているという自覚はあるが、源吾郎としては朝の放鳥タイムが短くて夜の放鳥タイムが長くなる方が良いと思っている。しかしホップの都合や体調を優先すべき事柄であるから、源吾郎は特に何も言わずホップの動きを見守るのが常だった。

 時折自分が兄らに似てきている事を強く意識しながら。


 あるじである源吾郎の眼差しを時々意識しつつも、ホップは全くもって気ままに振舞っていた。一時避難用の鳥籠の壁面に外側からへばりついていたかと思えば、素早く飛び立って床の上に着陸した。畳を護るためのイグサのマットに興味を示し、ちょこまかと動いていたホップだったが一瞬動きが止まる。いつになく神妙な表情になり、腹回りが膨らむ。


「ピ……」


 控えめな啼き声を上げると、ホップは何食わぬ顔でその場を離脱した。ホップがいた所には案の定フンが残っていた。小鳥は身体の構造上決まった場所でトイレをする事は出来ない。催した時に落とすのが彼らのスタイルである。そしてトイレの後は必ずホップは何処かへ飛び去って行くので、その間に源吾郎がティッシュで拭いてするのが常だった。


「ピ、ププィ!」


 鈍い羽ばたきの音が源吾郎の右頬を掠める。ティッシュを持つ右手の甲に、勢いのある小さな衝撃が伝わってくる。音と衝撃の主はもちろんホップだ。喉を膨らませて啼きながら、実に滑らかな動きで手のひらから床へとつたい降りた。黒々としたつぶらな瞳がキラキラと輝いているのを源吾郎は見た。

 ホップの狙いは源吾郎の手の内にあるティッシュである。源吾郎がホップのフンを回収するのはいつもの事である。そしていつの頃からか、ホップは丸めたティッシュをおのれの獲物と見做すようになっていた。それはもしかすると、放鳥タイムに源吾郎がペレットなどの餌を放り投げてホップに取らせるという遊びを行っていたためなのかもしれない。

 源吾郎の手許にあるティッシュを引っ張るホップに対して、源吾郎は特に慌てはしない。彼にとってもいつもの事だし、どうすれば良いのか解っていたからだ。

 ホップがティッシュの塊を引っ張ろうとしている間に、源吾郎は左手でティッシュを引き出した。あとは丸めてこれ見よがしに放り投げたら終わりだ。派手な動きに気を取られるのか、ホップはほぼ必ず放り投げたティッシュの方に文字通り飛びつくのである。彼がティッシュ遊びに興じている間に、源吾郎は慌てず騒がず手許のティッシュをゴミ袋に収めれば良いのである。


「ピピィ、プイ、ピュピュピュ……」


 ホップは今日も丸まったティッシュ相手に取っ組み合いを果たしている。やはり並の十姉妹よりは活発でアグレッシブなのかもしれない。しかし考えてみればホップは大人の蜥蜴とかげを捕食していたし既に妖怪化も果たしている。これくらい威勢が良くてもおかしくないのかもしれない。


「あ……」


 後始末を終えてティッシュ箱を覗き込む。獲物用に引き出した時軽く感じたが、あれが最後の数枚だったようだ。部屋に視線を走らせるが、ティッシュのストックはもう無い。

――まだ早い時間だし、ティッシュだけでも買いに行くか

 源吾郎はそう思ってホップの方にゆっくりと手を伸ばした。ティッシュの上でふんぞり返って羽ばたいていたホップは、源吾郎の動きに気付いて首をかしげている。



 ママチャリで向かった先は既に行きつけとなりかけているホームセンターだった。スーパーではなくホームセンターの行きつけが出来た理由は簡単である。餌などの小鳥用品と、小鳥そのものを取り扱っているからだ。

 ホームセンターに入った時、源吾郎はほぼ毎回小鳥コーナーに足を運んでいた。購入する物品が無い場合でもついつい立ち寄ってしまうのは、やはり小鳥に対する関心がここ二週間ばかりで上昇しているからに他ならない。おもちゃや小鳥用の餌は言うに及ばず、インコや文鳥などの小鳥そのものを見るのも源吾郎は楽しんでいた。欲を言えば普通の十姉妹を見てみたいと思っていたところだが、キンカチョウがいても十姉妹が入荷されているのはまだ見た事が無かった。


「誰かと思えば島崎君じゃないか」

「あ……」


 綿毛のかたまりのようなインコのヒナを見ていた源吾郎は、驚いて声の主の方に視線を走らせた。源吾郎に声をかけてきたのは術者の青年・柳澤だった。以前会った時とは異なり柔和な表情である。片手に提げた買い物かごの中には、インコ用のおもちゃや餌が入っていた。


「しばらくぶりですね、柳澤さん」


 ひとまず当たり障りのない挨拶を源吾郎は行った。素っ気ないとか馴れ馴れしいとか文句を付けられないかと思ったが、柳澤は源吾郎の言葉に頷いている。上機嫌そうな相手を前に源吾郎はほっとしていた。

 思っている以上に、源吾郎は相手がこちらに向ける敵意や悪意に弱いらしい。情けない話であるが。


「君の所には確か十姉妹がいるって聞いたけれど、インコも興味があるのかい?」

「ええと、インコというよりも小鳥に興味を持った感じですね」


 柳澤の問いかけに、源吾郎は小声で応じた。小声なのはインコのヒナを驚かせないようにという源吾郎なりの配慮だった。


「小鳥全般に関心を持っているのか。結構な話じゃないか。ちなみに俺はセキセイインコを飼っている。インコは良いぞ。動きも声も面白くて癒されるからな……もちろん、フィンチ類の小鳥らしい姿も捨てがたいが」


 いつの間にか柳澤の視線はガラス越しのインコのヒナたちに向けられていた。ヒナ特有の綿毛が多く、まだ腹を付けて寝そべる事くらいしかできない程小さなヒナたちである。自分のインコもここで購入した。そう告げた時には、柳澤の視線はもう源吾郎の方に戻っていた。

 インコを飼っているという柳澤を見つめている間に、源吾郎は鳥園寺さんとアレイの事を思い出した。鳥園寺さんが果たして鳥好きなのかどうかは定かではないが、彼女がオウムに類する存在と一緒に暮らしている事には変わりない。

 その鳥園寺さんの事を、柳澤は少し意識しているらしい。鳥好き、特にインコやオウムに興味があるという点で惹かれたんだろうなと源吾郎はぼんやりと思った。


「まぁ、セキセイインコを飼うときは言葉に気を付けた方が良いかな」


 唐突に柳澤は呟いた。その顔には未だ笑みが浮かんでいたが、照れとも羞恥ともつかぬ色も滲んでいる。


「うちのマリン――背中や腹が水色だったからそう名付けたんだが――は賢いのだろうが中々の曲者でな。オハヨウとかオカエリとか当たり障りのない言葉はどれだけ教えても覚えようとしないのに、教えてもいない上に連呼されると恥ずかしい言葉はすぐに覚えちまうんだよ……なんか最近はチュキチュキィ~とか言い出すしさぁ。ウネウネしながら言うから可愛いんだけれど」


 ちょっと深刻そうな表情を柳澤が浮かべていたので、源吾郎も神妙な表情を作って彼に向き合っていた。インコがウネウネしながら喋る光景は面白いだろうと源吾郎は思っていたけれど。

 鳥の本を読んでいた知った事であるが、インコにしろオウムにしろ覚えてほしくない言葉ほどすぐに覚え、しかも面白がって連呼するのだという。つまるところは飼い主が戸惑ったり驚いたりするのを見て気を引いているらしいのだが、喋る単語によっては色々と問題になるのだろう。


「そうなんですね……僕も家での言葉遣いには気を付けてみますね。ホップが変な事を言ってもまずいですし」


 源吾郎の言葉に一瞬だけ柳澤は怪訝そうな表情を見せた。しかしすぐに源吾郎が言わんとしている事に気付いたらしい。

 十姉妹や文鳥はインコとは異なり人語を発する事はほとんどない。しかし、十姉妹は十姉妹でもホップは妖怪化しているからまた話は別だろう。



 買い物を終えた時には空も暗くなり始めていた。夏に入って日照時間が長いと言えども、それにも限度はある。

 とはいえ、暗くなっているからと言って臆するような源吾郎でもない。幼子だった頃ならばいざ知らず、今は一人暮らしさえ問題なく行える大の大人なのだ。ついでに言えば妖狐の血も濃いしまだ夜と言っても早い時間だ。ついでに言えば等間隔に設置された街灯が青白く道を照らしている。

 源吾郎はだから、夜の道をママチャリで進む事に一切のためらいが無かった。大人の男で、しかも夜も活動する事のある妖狐の血が流れている。それらの事が脅威に値する事柄は無いと源吾郎に思わせていたのだ。


「……!」


 調子よくママチャリを運転していた源吾郎は、前方に転がる物を発見し、急停止をかけた。いささか急な動きであるが、それもこれも妖狐としての動体視力と反射神経の賜物である。普通の人間ならば、気付かずにソレを轢くか気付いても急停止できずに引いてしまうかのどちらかであろうから。

 源吾郎はママチャリから降り、転がっている物の方にゆっくりと歩を進めた。道のど真ん中に転がり、もとい横たわっていたのは一羽の小鳥だ。厳密に言えば雀のようだった。全体的に茶褐色で、喉元や頬が黒い。たたんだ翼もよく見れば黒い紋様が全体的に散っている。それが源吾郎の眼にははっきりと見えた。

 雀は雀の形をしているにもかかわらず、インコのヒナのように地面に腹を付けてじっとうずくまっていた。怪我をしているのか力尽きているのか。

源吾郎は思わず雀に近付いていた。野鳥は無闇に捕まえてはいけないのだが、弱ったり怪我をしたりしているのであれば話は別だ。それに保護せずとも、道の端など安全な所に移動させた方が良いだろう、とも思っていた。


「大丈夫か……」


 源吾郎の指先が触れるか否かと言った丁度その時。雀の眼が開いた。紅い瞳だった。何となく血を想起させる昏い色合いながら、それが光源であるかのように怪しく輝いているように源吾郎には見えた。これヤバい奴やん。一介の妖怪として源吾郎はそのような判断を下した。距離を取ろうと思ったのだが――後手に回ったらしい。

 その間に紅眼の雀は身をひるがえして立ち上がっていた。怪我や衰弱などとんでもない、誠に軽やかな動きであった。そいつは小首をかしげ、片方の眼で源吾郎をしっかと見据えていた。


「かかったな、狐」

「かかったな」

「かかったな」

「かかったな」

「かかったな……」


 幼子のような、しかし禍々しさを孕んだ声が幾重にも反響する。微かな妖気を伴った気配が増えていく事に、源吾郎はここでようやく気付いた。

 間抜けな体勢のまま屈みこむ源吾郎の周囲で、幾つもの紅色の星がきらめいている。きらめく紅色は星などではなく雀共の貪欲な両眼だ。


「狐、いやお前は玉藻御前の末裔だったな。俺たちは知ってるぞ。お前の薄皮を取り込んだ十姉妹が、凡鳥のくびきを逃れて妖怪化した事を」

「……」


 おとり役になっていた雀が甲高い声で告げる。源吾郎は肯定も否定もしなかった。ホップの事、さらにはホップが妖怪化したきっかけまで見ず知らずの妖怪に知られているとは思っていなかった。

 しかし今は噂の広まり具合に思いを馳せている場合ではない。


「その力の素、俺たちにもよこせ」

「よこせ」

「よこせ」

「よこせ」

「よこせ……」


 雀が羽毛を逆立てて嘴を開いた。それが合図だったのだろう。周囲に控えていた雀共が舞い上がる。外が暗いせいか雀たちの姿はほとんど見えない。闇をまとった何かが源吾郎の周りで跋扈しているかのようだった。はっきりとは見えないが、源吾郎を囲い込むように飛び回っているらしい事は音と風の流れで察していた。


「……ッ!」


 右手の甲に鋭い痛みが走る。直後、血の匂いが微かに舞った。引っかかれたのか、嘴で食いちぎられたかのどちらかであろう。

 血の匂いと痛み。この二つの刺激が源吾郎の中でスイッチとして作用した。


「……抵抗する気だな、小僧」


 源吾郎も雀共を退ける事を心に決めたのだ。まず源吾郎の両肩のあたりにテニスボール大の狐火が生じた。狐火は重力を無視してその場を漂い、雀共と源吾郎の周囲を照らしていた。この狐火は攻撃用ではない。

 それから、源吾郎の斜め前に角を生やした狼が顕現する。かつて文明狐と術較べを行った時に登場させた幻術の一体だ。但しサイズは前回よりも幾分小さく、せいぜい紀州犬と変わらぬくらいだ。

 いけ。短い源吾郎の命令に従い、狼が雀の群れに突っ込む。妖狐たる源吾郎の薄皮等を狙っていると言えど、所詮相手は小鳥に過ぎない。狼などのような捕食者の乱入にはさすがの雀も驚いて戦意喪失するであろうと源吾郎は思っていたのだ。

 狼が血路を開いたうちに源吾郎はママチャリに乗って逃走する……これが源吾郎のプランだった。


「な、なにぃ……!」


 ところが狐火に照らされる中で予想だにしない事が発生した。頭や前足を振るって暴れまわる狼に雀共がたじろいだのは一瞬だけだった。状況を察した雀共は、何と自ら狼の方に特攻し、その開いた口の中に入り込んでいったのである。

 思いがけぬ行動に狼も源吾郎も驚くほかなかった。どういう原理かは不明だが、狼の口の中にどんどん雀は入っていく。しかしブラックホールではないから狼の身体がいびつに膨らんでいくのが見えた。

 数秒の後には狼の幻術も消え、中に入り込んでいたであろう雀共の黒々とした塊を目の当たりにする事となったのである。


「もったいないな。力はあるのに使う術はまるきりお粗末じゃないか」


 お粗末じゃないか。その声があちこちで反響する。狼を打ち破った雀共の軍勢は、今もなお源吾郎を取り囲んでいる。しかも先程よりも包囲網を縮めたようだ。


「その力、俺たちがもらい受けるぞ」


 雀が舌なめずりしたのを源吾郎は見た。やはり本気で闘うべきなのか――源吾郎は密かに決意を固めようとした。

 しかし、実に思いがけぬ方向に自体は転がっていった。おのれの勝利を確信していたであろうおとり役の雀が、急に警戒した様子を見せたのだ。その警戒と動揺は他の雀共にも伝わっているようだった。


「まずい、まずいぞこれは! 今日はここまでだ」

「ここまでだ」

「ここまでだ」

「ここまでだ」

「ここまでだ」


 おとり役の雀は事もあろうに源吾郎に背を向け、そのまま空高く舞い上がっていった。他の雀共も彼の後を追ったらしい。甲高い声の混じる羽音は、源吾郎の周囲ではなく斜め上の上空へと向かっていたのだから。

――一体何だったんだ……?

 源吾郎が呆然とする中、雀共は夜の虚空のどこかへと飛び去ってしまった。全くもって奇妙な事だ。つい先程まで源吾郎を追い詰め優勢になっていたというのに。


「大丈夫かしら、島崎源吾郎君」


 優しげな女性の声が源吾郎に呼びかける。気が付くと源吾郎の斜め前に一人の女性が、女妖怪が立っているのが見えた。相手は懐中電灯を持っていて、地面の方に光を向けている。二十代半ば程の、控えめで大人しそうな雰囲気の持ち主だった。そんな雰囲気は彼女の身にまとっている衣装にも反映されていた。お洒落というよりも清潔感があって派手過ぎない出で立ちである。


「ええと、あなたは……」


 源吾郎は相手に声をかけようとして言葉を詰まらせた。相手が妖怪である事、明らかにこちらを知っているであろう事は察知している。しかし親身な様子で声をかけたこの女妖怪が誰なのかはっきりしなかった。

 前に会ったような気がするから却ってモヤモヤが募ってもいた。

 そんな源吾郎の思いが伝わったのか、女妖怪は微笑みながら自己紹介をしてくれた。


「ごめんね、久しぶりだから驚いちゃったよね。何しろ、春の顔合わせ以来ずぅっと会ってないものね。私は紫苑しおん。雉鶏精一派の第五幹部だよ」

「し、紫苑様……!」


 穏やかな口調で素性を口にした紫苑に対して、源吾郎は目を白黒させた。何となく見覚えがあると思ったら、まさかこんなところで雉鶏精一派の幹部に会うなんて……一人で驚く源吾郎を見ながら、紫苑はひっそりと笑った。


「島崎君って面白い子ね。紅藤様の前では割と元気よくお仕事をやってるって聞いたけれど、やっぱりちょっと緊張させちゃったかな」

「あの、ええと……」


 紫苑を見つめながら、源吾郎はどういえば良いのかと考えを巡らせていた。


「……そうよね。今さっきまで妖怪に襲われかけてたから、気が動転しているんだよね。今度あの子たちに絡まれたら、自分は紅藤様の愛弟子だって言ってやったら良いと思うわ。何せ私の気配に驚いて逃げ出しちゃう子なんだから……」

「え、ええと、先程はありがとうございました」


 あれこれ考えた結果、源吾郎の口からまず飛び出したのは感謝の言葉であった。紫苑が雉鶏精一派で紅藤を敬愛している。だからこそ紅藤の愛弟子である源吾郎の窮地を救ってくれた。そう言う事なのだろうと源吾郎は思ったのだ。

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