ある師弟の追憶

 簡素な着物を身にまとった男が一羽の鳥を抱えているのが見えた。鳥は一羽のメス雉だ。全体的に茶褐色の羽毛に覆われているのだが、翼や胸元にかけて所々赤みの強い羽毛が点在しており、藤花の模様にも見えなくもない。

 男はそっとメス雉を床に置く。メス雉は一尺半(約四十五センチ)ほど歩いて男から距離を取るも、すぐに歩みを止めた。術をかけられたのか、ただならぬ気配に身がすくんでしまったのか……メス雉には理解の埒外にある事柄だった。

 いつの間にやら男は懐から何かを取り出していた。食べる物でもなければ傷つける物でもなさそうだ。メス雉にはそれくらいの事しか解らない。ゆえにぼんやりと男の動きを眺めているだけだった。

 そんなメス雉に異変が起きた。その全身が薄い靄に覆われる。靄は始めメス雉より一回り大きい程度であったが、庵の中であるにもかかわらずそのかさを増していく。

 人一人分ほどの大きさになったところで唐突に靄が消えた。

 そこにいるのはメス雉ではなく、人間の娘であった。十代中ごろから後半くらいであろうか。床に尻を付けた形で、何がどうなったか解らないと言いたげな表情を浮かべていた。着物らしきものを身に着けているが、全体的に羽毛のように柔らかく軽そうな材質に見えたし、何より茶褐色の地に所々赤みのあるいびつな文様が所々散っていた。

 娘の正体はつい先程までいたメス雉そのものだ。彼女は先程まで単なる雉に過ぎなかったのだが……男の術によって人の姿にされていた。その術は妖狐や化け狸が自分以外の物品や生物を別の物に見せる幻術に近いものであるが、無論メス雉がそんな事を知る由もない。


「…………ッ!」


 メス雉もとい娘の口から出てきたのは意味をなさない音だった。人語ではない事は明らかだが、雉の啼き声とも違っていた。変化させられた直後で発声がおぼつかないだけなのだろうが、それ以上に彼女が強く混乱している事も要因といえるだろう。

 意思疎通を行うのは諦め、娘は自分の状況を確認した。男と同じく、ヒトの形になっている。とはいえ立って歩く事についての懸念はない。空を飛ぶとはいえ、鳥はそもそもからして二足歩行である。四足歩行の獣よりも、ある意味人型の変化と相性がいい。問題は翼の変質だ。主に地上を闊歩すると言えども雉とて空を飛ぶ存在である。しかし翼だったものはひょろりと伸び、先端は丸くなっているかと思うと妙な塩梅に枝分かれしている――確かヒトはこれを使って色々な事を行うのだ。


「……」


 雉娘は今一度男に視線を向ける。人型になっているものの、濃い紫に輝く両眼には、野生の禽獣らしい烈しい焔が浮かんでいた。禽獣が持ちえる本能、或いは矜持と呼んでも良いものであろう。

 喉が痙攣したように動き、その振動がかつての姿とは比べ物にならぬほど柔らかな口許から漏れてくる。野性の心を抱く雉娘の心中にあるのは疑問だった。なぜ、なんで、なに……そのような疑問が胸の中を押し上げ、出口から飛び出そうとしていたのだ。

 ヒトたちが雉たちとは違うで啼き交わす事は彼女も知っていた。そして自分もその啼き声を出せるのだと思った。


「怖がらなくていい、お嬢さん」


 男の啼き声、いやその言葉は極めて明瞭に雉娘の耳と心に染みわたった。ヒトの形になったから、ヒトの啼き声を意味のあるものと捉える事が出来たのだろうか。


「罠にかかって喰われる手前だったから用心するのは無理もない話だが……何も私はお前を殺したり、傷つけたりするつもりはないよ。喰うなりなんなりするつもりならば、わざわざ数日も掛けて看病もしないさ」


 歯を見せて笑う男から視線を逸らし、雉娘はおのれの足許を見やった。右足にはうっすらと環状の痣が残っているだけだ。括り罠にかかった時の名残である。もっとも、男に引き取られた当時は罠が足に喰い込み、痛みもあったし血も滲んでいたくらいだった。


「これからお前は私の使い魔として保護下に入る」

「な……な……」


 何、何で、何を。どういう事を言おうとしたのか雉娘にもはっきりとしなかった。しかし、ヒトの声がきちんと出てきたという事実にこそ注目すべきであろう。

 疑問を発する雉娘に対し、男は相変わらず笑っている。


「喰う物も寝る所も心配しなくて良いという事だ。ついでに言えばその身を脅かす物にもな。私の傍にいれば、狐も鷹も犬も猟師にも襲われはしない。私が保証しよう。

――但し、その分働いてもらわねばならないがな」


 少し考えてから雉娘は頷いた。危険な目に遭わないというのなら男に従うのもまんざら悪くないと思った。働くという意味は解らないが、悪い事ではないような気がする。


「さて名前を付けてやろう」


 神妙にしている雉娘を見て、使い魔になる心構えが出来たと男は思ったらしい。彼は雉娘の姿をまじまじと見つめてから「名前」を口にした――



「紅藤様、紅藤様!」


 元気のいい声がすぐ傍で聞こえる。それもそのはずで、デスクに向かう紅藤の対面には妖狐の青年が控えていたからだ。彼は島崎源吾郎という。厳密には父と母方の祖父が人間であるから妖狐のクォーターと呼べる存在だった。大妖怪たる玉藻御前の血を一族の中でも色濃く受け継いでおり、大人しそうな見た目とは裏腹に並々ならぬ野望を抱いてもいた。もっとも、紅藤にしてみれば年相応の勢いと幼さを持つ妖狐の若者に過ぎないのだけれど。

 さて源吾郎に話を戻そう。彼は下膨れの頬をわずかに紅潮させ、熱心な様子で紅藤に視線を向けていた。手許には印刷した用紙が添えられてある。

 既に研究室での制服である白衣は脱いでおり、左腕に垂らすような形で抱えていた。終業時間が過ぎていた事を、紅藤はここで思い出した。


「お忙しい所失礼します。依頼を受けていた資料、作りましたので……」


 ありがと。自分の声の遠さを感じながらも資料を受け取る。源吾郎は手短に挨拶をすると、そのまま足早に研究室を去っていった。

 資料を傍らに置き、紅藤は密かにため息をついた。彼女の心中にあるのは源吾郎のよそよそしい態度などではない。お忙しい、と彼が紅藤を見てそう評した事が心の中に引っかかった。

 確かに源吾郎が近づいてきた事にすぐ気づかなかったのは事実である。しかしそれは仕事に専念していたからではない。過去の事を思い出してぼんやりしていただけなのだ。

 そう。過ぎ去った昔日の記憶である。雉鶏精一派を再興した頃よりも、胡喜媚に会った頃よりもずっと昔の日々が、彼女の脳裏に唐突に浮かび上がってきたのだ。その記憶の思いがけぬほどの鮮やかさに驚き、思索にふけってしまったのだ。


「島崎君のやつ、やけに慌てた様子で研究室を飛び出しちゃいましたねぇ、紅藤様」


 低く、やや粘度のある声が紅藤の鼓膜を震わせる。今度の声の主は萩尾丸だった。ごく自然に丸盆を持ち、その上に飲み物の入ったグラスが二つ載っているのが見えた。一方は琥珀色でもう一方は暗い褐色だった。どちらも角ばって透明な氷が浮かんで揺れている。

 萩尾丸は臆せず紅藤に近付き、琥珀色の方を紅藤の許に置いた。


です。まだお仕事をなさるようですし、景気づけになりますよ」

「ありがとう萩尾丸。あなたって本当に気が利くわね。まぁ、終業時間を過ぎてるから、今私がやってるのは余暇になるんですけれど」

「またまたそんな事を仰る……」


 呆れたような表情を見せつつ萩尾丸は笑った。すぐ傍の空いているデスクを見つけ、彼は自分のグラスをそこに置き、ついで自分も腰を下ろす。紅藤はまぁ仕事とも趣味ともつかぬものを行う所であるが、萩尾丸はきっとまだ片づけなければならない仕事があるのかもしれない。

 そう思いながら紅藤は冷やしあめに口を付けた。甘みと生姜のピリッとした味わいと丁度良い冷え具合が絶妙だった。


「……島崎君ですが、すっかり使い魔の小鳥に心を奪われちゃってるみたいですね。今日もああして慌てて帰ったのは、小鳥ちゃんが気がかりだったからにほかなりません」


 そうね。紅藤はゆったりとした口調で応じながら、源吾郎の使い魔に思いを馳せていた。今彼が心血を注いで面倒を見ているのは、ホップという名の妖怪化した十姉妹である。元々は普通の十姉妹として暮らしていたのだが、源吾郎を妖怪であると知ったうえで慕い、尚且つ自身も妖怪化したという経緯を持っている。初めはホップの熱ぶりに源吾郎も押されがちであったようだが、彼らは彼らなりに上手くいっているらしい。厳密に言えば源吾郎がホップと暮らす事に慣れたという話だ。ホップ自体は妖怪としても小鳥としてもまだ幼いから、彼が源吾郎に従順に振舞っているとは考えにくいだろう。


「まぁちょっと浮足立っている感じはするけれど、前よりも仕事の方はまじめにやるようになったと感じるわ」

「確かにそうですね」


 紅藤の言葉に、萩尾丸は含みも何もなく率直に頷いた。色々と言葉に難はあるものの、萩尾丸は案外若手妖怪の育成だとか、彼らの性質を見抜く眼力に優れているのだと紅藤は思っている。


「特に戦闘訓練の時なんか、前に較べてちょっとはお行儀がよくなった感じがするねぇ。前なんか訓練の後に結界術を教えて欲しいって狸の河村君にせっついていたし……僕や紅藤様みたいな明らかに格上の相手ならいざ知らず、自分とあまり変わらない若手に教えを乞うなんて事、前の島崎君なら考えもしなかっただろうに」


 アイスコーヒーを飲む合間に言葉を紡ぐ萩尾丸の顔にははっきりと笑みが浮かんでいる。何だかんだ言いつつも源吾郎が戦闘訓練を経て得るものがあるのならばそれで良いと紅藤は思っている。

 勝敗の行方はさておき、戦闘訓練を拒まずに果敢に続けていく源吾郎は彼なりに頑張っていると紅藤は思っている。源吾郎が相手の妖怪よりも劣った術しか使えない事は、もとより紅藤も萩尾丸も承知の上だ。何しろ源吾郎は喧嘩も知らぬようなお坊ちゃま育ちで、しかも人間として暮らしていた期間が長いのだから。

 もっとも、そうは思っていても紅藤たちはその事実を指摘したり思っているような素振りを見せたりはしない。プライドの高い源吾郎はおだてに弱く調子に乗りやすい事は既に解っている。へこたれすぎて再起不能に追い込むのも問題であるが、調子に乗って慢心するように仕向けるのも同じくらい問題なのだ。幸い源吾郎はプライドが高い一方で適度に打たれ強い側面もあるから、フォローにもさほど気を遣わなくて済む。


「……やっぱり前までは自分の為だけにって言う気持ちが強かったんでしょうけれど、今は違うものね。いずれにせよ、良い変化だと思うわ」


 紅藤はそう言うと再び冷やしあめで喉を潤す。ホップ自身は非力な小鳥かもしれないが、護る者が出来たという責務が、源吾郎の意識を変化させたのだろう。

 紅藤様。囁くような声音で萩尾丸が問いかける。彼は水滴の浮いたグラスを両手に持ち、にやにや笑いを浮かべていた。


「鳥妖怪を使い魔にすれば色々と苦労しそうな気もしますが……それにしても妙にタイミングとか色々と揃っているような気がしませんか? 同じ町内ではなくここから三十キロ以上離れた十姉妹が、妖怪化していると言えども無事に島崎君の許に辿り着くなんて」


 萩尾丸はいったい何を言おうとしているのだろう。紅藤が考えていると彼は笑みを深めながら言い添えた。


「もしかして、あの十姉妹が妖怪化して島崎君の使い魔に収まったのは、紅藤様が――」

「そんな事は無いわ、萩尾丸!」


 気付けば紅藤は鋭い声をあげて萩尾丸の言を遮っていた。彼の発言があまりにも馬鹿馬鹿しく、また腹立たしくて思わず声をあげてしまったのだ。萩尾丸は驚いて目を丸くしている。怯えているというよりも、思いがけぬものを見た、と言いたげだった。


「そんな、この私が普通の動物や鳥だったものを勝手に妖怪化するなんて事は無いわ。特に生まれつきの妖怪たちは、妖怪化したほうが幸せになれるって無邪気に思っている場合が多いわ。

 だけど私にはそうは思えないし、本当の所はどうなのか、まるきり解らないのよ。そりゃあもちろん、単なる雉、単なる十姉妹で終わってしまう以上の事が妖怪化すれば出来るかもしれないわ。多くの事だって知る事が出来るでしょう。けれど多くの事を知り過ぎたがために幸せから遠ざかる事だってあり得るのよ。

 しかも厄介な事に、どちらが幸せなのか較べる事も難しいの。何せ、一度妖怪化すれば元には戻れないんですから……」


 紅藤の言葉を聞く萩尾丸はいつの間にか神妙な面持ちとなっていた。どうやら彼は、紅藤が元々は妖怪とは縁のない、普通の雉であったという話を思い出したらしい。


「まぁ僕は、人間ではなくなって天狗になった事には特段後悔はありませんがね……」

「別に私は、妖怪になった事を後悔している訳じゃないわ。ただ少し、昔の事を思い出しちゃっただけよ。本当に昔の話よ。あなたを部下にした時や、胡喜媚様の弟子になった時よりも、もっと前の事をね」


 そう言いながら、紅藤は萩尾丸の様子を静かに眺めていた。相手に聞かれたらすぐにでも話ができるように。今の紅藤にとっては郷愁と寂寥に満ちた苦い思い出ではあるが、自分よりも若いこの大天狗が興味を持つかもしれないから。



冷やしあめ:関西地方で夏場によく飲まれる飲料。甘く生姜の風味が効いている。(作者註)

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