源吾郎、使い魔を得る

 しばらく驚いて目を白黒させていた源吾郎だったが、手許の小さな動きで我に返った。動きの主はホップである。彼はその名の通りぴょんぴょんと跳躍し、安全圏であるはずの源吾郎の手のひらから離陸してしまったのだ。紅藤のデスクの上で移動するたびに、ホップの爪とデスクの表面がかすかな音を立てる。もちろんホップは何かを訴えているのか呟いているのか、喉を膨らませて啼いている。

 源吾郎はオロオロとホップの動きを見守っていた。紅藤に見せるからと言って、手で軽く包んで連れてきただけではやはりマズかったのだと痛感したのである。とはいえホップを入れておくに丁度良い物が見当たらない。鳥籠は大きすぎるし、キャリーケースは家に置いてきてしまっている。

 あれこれ思っていると、萩尾丸が台座らしきものを何処からともなく用意した。二本の枝をT字型に組み合わせた、ごくごくシンプルなバードスタンドである。これ見よがしに置かれたスタンドにホップは一瞬だけ戸惑いを見せたが、萩尾丸と源吾郎を一瞥してからスタンドの周辺をうろつき始めた。源吾郎は安堵し、念のためにとホップの好む種子をスタンドの足許にまいておいた。


「そこまで驚かなくて良いのよ、島崎君」


 紅藤が呼びかけてきたのは、源吾郎がホップの様子に胸をなでおろした直後の事だった。彼女は紫の瞳を瞠り、源吾郎とホップとを観察している。


「さっきも言ったとおり、普通の動物が妖怪になる事もそう珍しくはないの。島崎君自身は若いし、野柴君たちみたいに生まれつきの妖怪たちと馴染みがあったから、驚いてしまったかもしれませんけれど。ほら、猫又とかは年数を経た猫がなるって昔から言うでしょ?」

「はい……確かにそうですね」


 紅藤の言葉に源吾郎は小さく頷く。つい最近まで人間として暮らしていたとはいえ、妖怪の事は源吾郎も一応知っている。妖狐の中にさえ、本当に普通の狐が妖怪化する事例もあるのだから。


「妖怪が妖力を増やす方法の一つに、他の妖怪の妖気や血肉を取り込む方法がある事は島崎君もご存じよね?」


 源吾郎は頷いたが、神妙な面持ちだった。他の妖怪の血肉を取り込む方法は、妖怪が力を蓄える方法の中でも短期的に効果が出る内容と言える。一方で、捕食しようとした相手の妖怪に返り討ちに遭ったり、無事に仕留めても摂取した妖力の多さに身体が耐えきれなかったり相手の妖怪の身内から報復に遭ったりと何かとデメリットも多いのが難点である。だからこそ実力主義で半ば殺し合いも容認されている妖怪社会であっても、ある程度の秩序が保たれている訳なのである。

 源吾郎は今一度ホップを見た。蜥蜴やハエを捕食したという彼であるが、今は無邪気に餌をついばんでいる。飼い主だった千絵は怯えていたものの、妖怪社会の血生臭い部分と眼前のホップの存在は上手く結びつかない。


「――生まれついての動物の中にも、妖気や妖力を取り込む事がきっかけで妖怪化する者もいるわ。そうでない者もいるけれどね」


 ホップが飛び上がり、スタンドの止まり木に着地する。源吾郎の抱く緊張などお構いなしに、気ままに翼を伸ばしたりはばたいたりして遊んでいた。


「紅藤様っ、まさかホップは、僕の妖気か僕の血肉を取り込んだという事なのですか?」

「よく気付いたね島崎君」


 ありったけの疑念がこもった源吾郎の問いに応じたのは萩尾丸だった。


「僕も君がどんな子なのかってよく解らない時があったけれど、なかなかどうして勘が鋭いみたいだね。まぁ、人心掌握と膨大な知識、そしてそれらを行使できる知力を持った玉藻御前様の曾孫だから当然だよね」

 

 ホップ妖怪化の核心に近付きだした事は源吾郎も解っていた。しかしそれでも疑問は完全には消えていない。しかも紅藤も萩尾丸も全てを知っていると言わんばかりの表情を見せているので、なおさらモヤモヤした感覚が募っていた。

 その通りだと言いたげに紅藤が頷いたのを見て、源吾郎は臆せず疑問をぶつけた。


「仮にホップが僕の妖気を取り込んだとしましょう。ですがいつどのようにホップが僕の妖気を取り込んだのか……皆目見当がつかないのです。ホップがいるところでやたらと妖気を放出した記憶もありませんし、ましてやホップに傷つけられたなんて……」

「プイッ!」


 源吾郎の言葉を半ば遮るように、ホップは一声啼いた。かと思うとスタンドから今再び源吾郎の開いた手の上にさも当然のように着陸したのだ。小さな足で源吾郎の手指を闊歩していたかと思うと、薄桃色の嘴で指先をつつき始めた。軽く咬んでいる感触もあるにはあるが、痛みはない。むしろこそばゆい程度の刺激である。


「んおっ!」


 源吾郎はホップの動きに思わずオッサンのような声をあげてしまった。指先を探索していたホップは、何を思ったか首を伸ばし、源吾郎の甘爪との部分をつつき始めたのである。こういう事は引きとってから何度かあったが、急な事だったので驚いてしまったのだ。とはいえ、ホップを払い落としたわけでもなくホップ自身もそう驚いていないので結果オーライであろう。


、島崎君!」

「プププ……」


 萩尾丸が名探偵よろしく気取った様子で声をあげた。彼の発言に、源吾郎のみならずホップさえもがきょとんとしていた。


「見たかね島崎君。ホップ君は今、君の指のをつついて少しだがはがし取っていただろう? それで君の妖力を取り込んだんだよ。薄皮と言えども、君の身体の一部だからね」

「…………」


 狐につままれたような気分で、源吾郎は慎重にホップを観察した。ホップは小鳥らしい体勢に戻っている。せわしく動く嘴の先には、乳白色の薄い破片が蠢いている。確かに言われてみれば源吾郎の薄皮のようだ。ホップはつぶらな瞳でこちらを見つめ、やがて飲み下した。源吾郎の一部をホップが摂取する瞬間を、源吾郎は見たのだ。

 源吾郎はホップと視線を交わしながら、これまでの事を思い返していた。確かに何度も咬まれていたし、薄皮を持って行かれた事もあった。痛みが無かったので気にしていなかっただけだったのだ。


「仰る通りです、紅藤様に萩尾丸先輩。やはりホップの妖怪化の元凶は他ならぬ僕でした」


 ホップを手に乗せたまま源吾郎は視線を伏せた。ホップは源吾郎を見上げ、何を思ったか身体を伸ばしてさえずっている。オスの小鳥が行う求愛行動であったが、それを見つめる源吾郎の瞳は昏かった。

 取り返しのつかない事をしたのだと源吾郎は思っていた。軽い気持ちで廣川千絵の許に向かった事がきっかけで、ホップの鳥生じんせいを狂わせ、千絵に不要な恐怖をもたらしてしまったのだ。

 萩尾丸と紅藤が何か呼びかけるのが源吾郎の耳に虚ろに響いた。思考にふける彼は、彼らが何を言っているのかはっきりと聞き取れない。だが陽気な声色である事だけは解った。

 その事に気付いた瞬間に、源吾郎の心中にはじりじりとした苛立ちが募りだしたのだ。

 紅藤様。萩尾丸先輩。源吾郎はゆっくりと顔を上げ二人に呼びかける。表情の抜け落ちた、能面のような顔つきで。


「――お二人にはこうなる事は解っていたんですよね? 僕がホップを拾った時から」


 源吾郎の問いかけに、紅藤たちははっきりと頷いていた。

 心中に留まっていた苛立ちが、憤怒にランクアップするのを源吾郎ははっきりと感じた。まなじりを釣り上げ紅藤たちを睨んでいた。但し無言である。本当は千絵と相対したときのように声を上げたかった。しかしさすがに、紅藤たちに恫喝するのは良くないと、なけなしの理性がブレーキをかけていたのだ。

 そのかわり、源吾郎の身体はぶるぶると震えていた。ホップは不思議そうに首をかしげていたが、それでも手の上に留まってくれている。


「いくら私でも、確実にこうなると未来を断言する事は出来ませんわ」


 紅藤はまっすぐ源吾郎を見つめている。声も眼差しも妙に晴れ晴れとしたものだった。


「ただね、ある程度はこうなるだろうって言う予測が立てられるだけに過ぎないわ。とはいえ、予測はあくまでも予測であって、確実にそうなるだろうと思っていても、外れる事もありますし」


 それにだな。紅藤の言葉が終わった直後に、今度は萩尾丸が口を開いた。


「命取りになるような取り返しのつかない事柄でない限り、若い子には身をもって知らなければならない事があるって僕たちは知っているからね。

 そもそも島崎君。君がその小鳥を拾った時に、『そいつは既に妖怪化しているから、元の飼い主の許に返しても受け取らないと』僕が懇切丁寧に教えたらさ、『はいそうですか。それじゃあすぐに僕が飼い主になります』と分別よく応じるつもりだったのかな?」

「それは……」


 源吾郎は問いに応じようとして唇を軽く噛むだけだった。何も考えが無い訳ではない。むしろ多くの考えが浮かびすぎて上手く言葉にできないのだ。萩尾丸の言っている事が正しいであろう事も解る。しかしその理解に付随する幾つもの感情が、源吾郎の発言を奪っていた。

 そんなに思いつめないで。源吾郎の鼓膜を震わせたのは紅藤の声だった。いつになく優しく声色である。


「ホップちゃんが妖怪化したきっかけは確かに島崎君にあるのは明らかよ。だけど、ホップちゃん自身は妖怪になる事を望んでいたわ。だからこそ島崎君の本性を見抜き、自分の家を飛び出して島崎君を探し出したんじゃあないかしら。

 前に教えてくれたでしょ? ホップちゃんは元々、あなたのお友達の許で、他の十姉妹と一緒に暮らしていたって。もちろん、十姉妹には十姉妹の幸せがあると思うわ。だけどホップちゃんのルームメイトが満足していた幸せと、ホップちゃんの考える幸せは違っていたのかもしれないし、もしかしたら他の仲間たちと上手くいっていなかったのかもしれないわ――そうでしょ、ホップちゃん?」


 最後のホップへの呼びかけに驚いた源吾郎だったが、静かにホップの挙動を見守っていた。紅藤が呼びかけた事がホップには解るのだろうか? そう思っている間にもホップはにゅうと首を伸ばし、元気よく一声啼いた。欲目ひいき目があるかもしれないが、「その通りだよッ!」とホップが自ら言っているように源吾郎には思えてならなかった。

 紅藤は返事をしたホップに対してにっこりと微笑んでいる。源吾郎の視線に気づくと、一度瞬きをしてから口を開いた。


「……島崎君、あなたはきっとホップちゃんと上手くやっていけると思うわ。何しろ島崎君とホップちゃんはだもの。

 島崎君だって、元々は人間として生きて行っても遜色のないようにご両親や親族たちに育てられていたでしょ? それでも島崎君は、妖怪として生きる道を選んだわ。人間としての生き方がずっと楽である事も十二分に知っているにも関わらずにね。

 だからそんなに戸惑わなくて良いのよ。かつて自分と同じ決断をした存在が、自分の手許に潜り込んできただけですから」


 紅藤の笑みが変化している事に源吾郎はこの時になって気付いた。先程まで見せていた屈託のない笑みではなく、得体の知れない雰囲気をまとった笑顔である。

 もとより源吾郎は、千絵から突き放されたホップを引き続き養い続けるつもりである。それは紅藤や萩尾丸からあれこれ言われた今も変わらないつもりだった。

 だが今は違う。源吾郎は手のひらの上のホップを見つめていた。十五グラムにも満たないホップの存在は、源吾郎が担うであろう責務のために重々しく感じられた。

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