小さなアイドルの秘密
月曜日。何とも言えないどんよりした気持ちを抱えながらも、源吾郎は出社するべくママチャリを漕いでいた。
気が重いのは何も休暇明けの月曜日だからではない。ホップを得るきっかけとなった、廣川千絵とのやり取りが未だに脳裏にこびりついていたからだ。晴れてホップが源吾郎の飼い鳥になった事は嬉しい出来事に違いない。しかしそこに至るまでの千絵とのやり取りは最悪だった。言ってみれば、二人はホップの事を巡って喧嘩をしたようなものなのだから。
こんなはずじゃなかった……未だに悔悟の苦い思いが源吾郎の心中にはわだかまっている。しかしどうする事も出来ない。そうそうにツブッターを使って詫びの言葉を入れればそれで済むのだろう。だがいざ詫びの言葉をと思うと中々文言が浮かんでこなかった。
「暑いな、今日も……」
源吾郎はママチャリを押しながら空に顔を向けた。空の青さが目に眩しい。それでも重たげな雲が遠くにあるのを源吾郎には見えた。空に顔を向ければ雨の匂いが解ると、妖狐の若者たちが言っていたのを思い出した。源吾郎は生粋の妖狐ではないが嗅覚は鋭い。彼らと同じように雨の匂いを嗅ぎ取れるようになるのかもしれない。
平坦な道が続く中、源吾郎はママチャリを漕がずに頑なに押し続けていた。いつもより荷物が余分に多いからだ。月曜日の朝は、選択した白衣や制服を家から持ち運ぶため、他の曜日よりも荷物が多くなりがちだ。しかし今回はいつもの月曜日とは違っていた。
「プ、プ、ピュ……」
電子音のような、しかし聞きなれた音がママチャリの荷台から聞こえてきた。源吾郎は少しだけママチャリを押す速度を遅め、荷台に視線を向ける。ママチャリ特有の大きな荷台の中には、濃紺の布で包まれた四角い箱状のものが収まっている。
源吾郎は今日、ホップを連れて出社している最中だった。千絵の許に運んだ時とは異なり、いつもホップが入っている鳥籠にて、そのままホップごと輸送しているのだ。鳥籠を布で包んでいるのは、中にいるホップを興奮させないためである。
小鳥は優れた視力の持ち主だが、暗くなると視力も下がり、或いは夜になったと思うのか大人しくなるのだという。十姉妹はとりわけ小鳥の中でも臆病で神経質であるというから、ホップに負担をかけない運び方と言って遜色は無いだろう。但し、当のホップは特に気にせず薄暗い鳥籠の中で動き回っているようだった。特に耳を澄まさずとも、ホップの啼き声や彼が動き回る微かなはばたきは源吾郎にもはっきりと聞こえていた。
保護している最中からもホップを寵愛し、今もなおホップに心を奪われている源吾郎であるが、この度彼がホップと共に出社しているのは彼自身の考えではない。
源吾郎の兄弟子にして雉鶏精一派の第六幹部・萩尾丸に命じられたからに他ならなかった。
※
「おはよう、ございます……」
「ピュッ、ピィ、プイッ!」
朝の挨拶を行う源吾郎の声はいつになく弱弱しかった。その遠因となったホップの啼き声が小鳥らしく元気一杯だったので余計にその弱弱しさが際立っていただろう。
源吾郎が朝から疲れ切っているのは無理もない話だ。いつもは颯爽と漕ぎ進む通勤路であるが、ホップの身を案じて普段の倍近い時間をかけてゆっくりと進んでいたためだ。夏の日差しに晒されたという物理的疲労もさることながら、ホップが驚いたり弱ったりしないだろうかという心理的な消耗も多少はあった。
ちなみに源吾郎自身は暑さ対策として首周りにタオルを巻いていただけだが、ホップの鳥籠には複数個の保冷剤を布越しに籠の上部に配置し、冷気が程よく降りてくるようにしておいた。
止まり木の上で機敏に方向転換をするホップに笑いかけながら、源吾郎は鳥籠を自分のデスクの上に迷わず設置した。いつもの月曜日の六倍ほどの疲労を抱えているような気がしたが、元気でマイペースなホップを見ているとおのれの疲労など軽く吹き飛んだ気がした。今の源吾郎にとって、ちっぽけなホップはそういう存在になっていたのだ。
「おはよう島崎君。おやおや、若いのに干からびたサラリーマンみたいな表情になってるじゃないか」
「ピピピ……ププ」
一息ついた源吾郎の許にやって来たのは言うまでもなく萩尾丸である。研究職ではないと言わんばかりに彼は今日も今日とてスーツ姿である。それよりも特筆すべきは、月曜の朝であっても元気で爽やか、それでいて炎上トークを忘れず搭載している所であろう。
そんな事を思いつつ、源吾郎はホップをちらと見やった。ホップは何度か早口にさえずるとそそくさとつぼ巣の中に入り込んだ。やはり彼も萩尾丸の事は苦手らしい。
しかし萩尾丸はそんな事はお構いなしに、身を乗り出して鳥籠の中を覗き込む。
「おめでとう島崎君。君が目をかけていた小鳥ちゃんは、晴れて君のモノになったんだね」
「ええ、はい……」
萩尾丸の言葉に応じる源吾郎の心中には複雑なものが渦巻いていた。ホップは元の飼い主である千絵から許諾を取って源吾郎の飼い鳥になった訳であるが、そこに至るまでのやり取りは気持ちいいものだったなどと言える代物ではない。
それに萩尾丸が月曜日にホップを連れてくるようにと源吾郎に命じたタイミングも引っかかるものがあった。土曜日、それも源吾郎がホップを連れて自宅に戻った七分後に萩尾丸は連絡を寄越してきたのだ。まるで、ホップが源吾郎の許にやって来るのを見越していたかのようなタイミングの良さである。
朝からそんなしけた表情をしなくて良いじゃないか。萩尾丸はやれやれと言わんばかりに肩をすくめていた。
「ホップちゃん、だっけ。島崎君もホップちゃんとずっと一緒にいたいって思ってたんだろう? ホップちゃんがここの研究センターにいたのは最初の一日だけだったけれど、君はもう先週の間ずっとその小鳥ちゃんにぞっこんだったじゃないか」
そりゃあそうですよ。だってホップは可愛いんですから……そう言って素直に自分の想いを認めればそれはそれで気が楽だったのかもしれない。源吾郎はしかし、あいまいな表情をその顔に浮かべ、目を伏せて沈黙するだけだった。相手が萩尾丸だったから、こんな態度を取ってしまったのかもしれない。
萩尾丸は源吾郎の態度については軽く笑うだけだった。ホップは萩尾丸の存在に慣れ始めたのか、再びつぼ巣から飛び出して止まり木に戻っていた。
「島崎君にとうとうカワイ子ちゃんが出来たのかって、小雀の狐たちも噂する位の入れ込みようだったもんなぁ……まぁ、小鳥だしちっちゃいし可愛いだろうからカワイ子ちゃんには違いないだろうね。
いやはや、君には強くなる事とか色々自分の中で課題があっただろうけれど、まさか僕が戯れに言った課題、使い魔を得る方を先にクリアするなんてね」
「今なんて仰いました、萩尾丸先輩」
噂好きなご婦人よろしく感慨深そうに言葉を紡いでいた萩尾丸の言葉に、源吾郎は鋭く反応した。使い魔を持てと萩尾丸が源吾郎に言っていた事をたった今思い出したのだ。言われてすぐは使い魔を得なければならないのかと気負っていたが、ここ最近はその事をすっかり忘れていたのである。妖怪として若すぎるからすぐには使い魔を得るのは難しいと思っていたし、何よりここ数日ばかり、ホップの事ばかり考えて暮らしていたようなものだったのだ。
源吾郎はそっとホップを見やった。愛らしいホップが使い魔……? 萩尾丸の言葉にただただ疑問が増すだけだった。使い魔というのはやはり妖怪にしろ術者にしろ役に立ち、時に闘いの場で頼りにする相棒のような存在であろう。可愛いホップがそんな存在になるのか源吾郎にははなはだ疑問だったのだ。
千絵の証言では、ホップは生きたハエを捕食したり鳥籠を変形させたりするような並々ならぬ力を持つという。それでも源吾郎にとっては愛らしい小鳥にしか見えなかった。
「ひとまず、ミーティングが終わった後、紅藤様に見て貰おうか。あのお方だって、これから君と永年付き合っていく事になる使い魔がどんな子になるのか気になってらっしゃるだろうし」
もしかすると今回の件は紅藤も一枚噛んでいるのだろう。源吾郎はぼんやりとそんな事を思っていた。
※
「うふふふふふ、島崎君。十姉妹のホップちゃんは無事に妖怪化しているわ」
午前十時過ぎ。源吾郎たちは紅藤のデスクに集まっていた。先程まで紅藤に凝視されていたホップは、やたらと甘えたような声を出して源吾郎の許に近付いていった。紅藤が改めてホップを調査するという事であったが、実際に紅藤が行ったのはホップを手のひらに乗せて数秒間見つめるだけだった。ドクターである紅藤の事だから、何がしかの精密検査を行うのかもしれないと思っていたから、紅藤の動きには拍子抜けするような思いだった。だが考えてみれば、大妖怪たる彼女ならば、見るだけで色々な事が解るのかもしれない。
「何を驚いているんだい、島崎君。もしかして、その十姉妹が普通の十姉妹だとでも思っていたのかな?」
茶化した様子で声をかけてくるのは萩尾丸だった。源吾郎はそれには答えず、手の上にいるホップに視線を走らせた。ホップが驚いて飛んで逃げないかと不安になったためだ。幸いな事に、ホップは逃走ではなく源吾郎の手のひらにくっつく事を選んでくれた。
「島崎君が気付かなかったのも無理のない話よ、萩尾丸」
源吾郎の心中の戸惑いを察したかのように紅藤が口を開いた。
「ホップちゃんの妖気はまだ本当にささやかですし、何より島崎君の妖気と似通っていますもの」
「ああ成程。それだったら気付けなくても仕方ないか……」
「……?」
萩尾丸はさも納得した様子で顎を撫でている。しかし源吾郎にはピンと来ない話であった。自分と妖気が似通っているから察知できない。その理屈は何となく解る。しかし血縁どころか種族が大きくかけ離れているはずのホップが何故自分と似通った妖気の持ち主なのか。そこが源吾郎にとって謎であった。
所在なく視線をさまよわせている間に紅藤と目が合う。彼女はほんのりと笑みを浮かべ源吾郎を見つめていた。
「島崎君。妖怪というのは何も生まれつきの妖怪だけじゃあないのよ。普通の生き物として生まれついても、何らかのきっかけで妖怪化する者も一定数存在するわ。現に私も萩尾丸も、生まれつきの妖怪じゃあありませんし……
ホップちゃんもそう言う妖怪の一羽よ。元々はただの十姉妹だったのが、島崎君の存在がきっかけで妖怪になってしまったの」
紅藤の言葉は淡々としていた。しかし源吾郎の心は強く揺さぶられ、驚きのあまり数秒間ぼんやりしてしまう程であった。
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