小鳥へのまなざし、交錯する思い
「ピュイ、ピッ、プププッ!」
早朝五時半。静かな安アパートの一室で小鳥の啼き声だけが朗々と響いた。源吾郎は毛布の中で身じろぎ、むくりと半身を起こす。ここ数日は、ホップの啼き声が目覚まし代わりになっていた。いきおい普段よりも早い時間に目を覚ます事になる訳だが、源吾郎はそれに不満を抱いた事は無い。もちろんホップの様子を見てやらねばという責務があるのだが、むしろそれが心地よいくらいだ。
源吾郎は鳥籠の傍ににじり寄る。鳥籠に被せられた新聞紙を取りはらうと、小さなホップが相変わらず鳥籠の壁面にへばりついていた。針金細工のような華奢な足指でしっかりと籠の棒を掴んでいる。首をかしげて片眼で源吾郎を見据えながら、彼は啼き続けていた。源吾郎に何かを訴えるその声は、体重十五グラム弱の十姉妹が発しているとは思えないほどの存在感を有していた。
「おはようホップ。今日も元気かい?」
源吾郎が鳥籠の入り口を開けると、ホップはするすると降りて行った。控えめに侵入した源吾郎の手先に何も疑わず飛び乗って来る。
ホップの乗る手をゆっくりと動かし、ホップごとおのれの手を顔に近づける。手乗り十姉妹であるホップを鳥籠から出して遊ばせるのは朝晩の日課であった。そして遊ばせる前に、ホップの見た目に異常が無いか否かを確認するのも大切な日課である。
手を動かしている間にホップは両翼を広げてはばたいた。この動きに源吾郎は一瞬面食らったが、当のホップはすぐに翼をたたむと澄ました表情で首をかしげるだけだった。どうやら源吾郎はからかわれたらしい。
真剣な表情で源吾郎はホップの様子を観察した。顔周りや身体全体は言うに及ばず、尻の周りや爪の先にも視線を向ける。ホップの世話の中で、最も注意を払い力を入れている作業であると言っても過言ではない。
「今日も元気みたいだね、ホップ」
「ピュ、ピュイッ!」
半ば独り言のような感覚で放った源吾郎の言葉に、ホップはすぐに応じる。ホップはお喋りな性質らしくいつでもどこでも啼いているのが常である。しかし源吾郎が何か言葉を発すれば、その直後に必ずこうして胸と喉を膨らませて啼きだすのだ。まるで源吾郎の言葉を理解し、それに返事しているかのようだった。
源吾郎は少しの間自分の指をつつくホップを見守ったり逆にホップの背中を撫でたりしてから、遊び場に彼を移動させた。バードスタンドに数本の止まり木と小さな鳥用ブランコのくっついたそれは、確かに遊び場と呼んで遜色ないであろう。ついでにスタンドの根元に餌入れと水入れも用意すれば、ホップも喜んでそこにいてくれる。
ホップは源吾郎に見られる中、自由奔放に遊んでいた。ブランコに逆さの状態でぶら下がり、筋トレでもしているかのように止まり木から止まり木に移動し、ついでに餌入れに入っているペレットを目ざとく弾き飛ばす。
普通の十姉妹と称するにはいささかアグレッシブな面が目立つ気がするが、アグレッシブすぎる所を源吾郎が気にする事は無かった。繰り返すがホップは源吾郎の飼い鳥ではなく千絵の飼い鳥だ。預かっている鳥が元気はつらつである事はかつて紅藤が言ったように喜ばしい事ではないか。それに実を言えば、源吾郎も既にこのちっぽけな小鳥に魅了されつつあった。ホップは無邪気で屈託がなく、しかも源吾郎に驚くほど懐いていた。ホップが何故源吾郎に懐いているのかは解らない。懐いているのではなくて単に寂しさを紛らわしているだけなのかもしれない。
ホップの意図はさておき、ホップの事を可愛いと思う源吾郎の気持ちには偽りはない。元の飼い主に送り届けるまでしっかり面倒を見なければならないという義務感が、一時過ごすだけの小鳥に対しての愛情をはぐくむ素地になったのかもしれない。源吾郎はホップに対する感情について深く考える事は無かった。千絵の許に戻すまでホップの面倒を見なければならない事と、理屈抜きでホップが可愛い事は彼の中では動かぬ事実だったためだ。
餌入れの餌を新しいものに入れ替えた源吾郎は、さっとホップの方に視線を走らせた。鳥籠に彼を収めようとした意図はホップも気付いたらしい。翼を広げて離陸したかと思うと、次の瞬間には源吾郎の手の甲に着地した。中指の付け根の皮を軽くつつき、源吾郎の様子を窺っている。
「さぁホップ。今日は本当のおうちに帰る日だからね。支度までまだあるから良い子にするんだよ」
「ピ……?」
不思議そうに首をかしげるホップを、源吾郎はそっと鳥籠に戻した。今日は土曜日で、仕事のない休日だ。しかし源吾郎とホップにとっては単なる土曜日ではない。
何故なら、ホップを千絵の許に戻すという重要な任務があるためだ。この日のために源吾郎は甲斐甲斐しくホップの世話をし、彼を安全に輸送するためのキャリーケースなども用意していた。
他人のペットを養うという、神経を使う大変な業務から解放される……本来ならば喜ぶべき事なのだろう。しかし源吾郎は実のところ複雑な心境を抱えていた。千絵にホップを返さねばならないと思っている事には変わりない。
その一方で、ホップをずっと手許に置いておきたいという願望さえ抱いていた。叶えるどころか想う事さえ赦されない願望であると知っていながら。思ってはいけないと思えば思うほど、その考えはより強くなるところが厄介だった。一瞬とはいえ、ホップが死んだという嘘の情報を千絵に伝え、こっそり飼い続ける手もあるだろうという考えが去来したくらいである。
――いや違う。俺はそんな事を望んじゃあいない。
「ホップ。今日は
源吾郎は餌を食べるホップに宣言した。そしてその言葉は、源吾郎自身を奮い立たせる言葉でもあったのだ。
※
「こんにちは、廣川部長」
「こんにちは、島崎君……」
インターホンを押してすぐに、廣川千絵は源吾郎を出迎えてくれた。前に十姉妹たちを見せてくれた時と態度も服装も違う。服装はまぁ良いとして、源吾郎は彼女の態度の方が気になった。
千絵は何かを警戒するような、いっそ何かに怯えるような表情でもって源吾郎を出迎えたのだ。気が強くリーダー気質で堂々とした態度が特徴の彼女にしては珍しい態度だった。彼女が何に怯えているのか源吾郎には皆目見当がつかなかった。源吾郎自身に怯えているという考えはない。確かにSNSや電話でのやり取りには引っかかる所は幾つかあったが……本気で源吾郎を恐れているのならばわざわざ出迎えたりもしないだろう。
大丈夫? 気付けば源吾郎は千絵に問いかけていた。
「ええ。私は大丈夫よ」
千絵は気丈な態度を装って応じた。彼女の視線は源吾郎ではなく、源吾郎が大事そうに抱える紙袋に注がれていた。この中にキャリーケースがあるのは言うまでもない。
「島崎君の事は私も良く知ってるわ。執念深くて律義な島崎君の事だもん。わざわざ私のSNSに連絡をよこしてきた時から、ホップを連れて私の許に来る事は解っていたの」
「SNSに直接連絡を入れたけど、驚かせちゃったかな」
「むしろ島崎君が普通にまじめなアカウントでツブッターをやってた事に驚いたかな。ほら、島崎君だったら『エターナルカオス』とか、そんな感じのアカウント名かなって思っていたから」
千絵はちょっとだけおどけた表情を作っていた。源吾郎は笑っていたが、図星だとも思っていた。今回使ったのとは別の、裏アカウントがまさにそんな感じだったためである。
ともあれ、今回千絵に十姉妹を預かっている事を報告するのに源吾郎はまずツブッターを使用したのだ。電話番号は知っていたのだが、直接やり取りするのは色々と問題があるだろうと配慮した結果である。
最終的には電話でのやり取りになり、千絵が指定した日時に源吾郎がホップと共にやって来たという流れとなった。もっともその時も、千絵の言葉の節々には違和感はあったのだが。
「とりあえず中に入りましょ。込み入った話になるかもしれないから」
そう言うと、千絵は源吾郎に入るように促してくれた。含みのある物言いであるが源吾郎は従うほかなかった。キャリーケースの中にいるホップを慮った為でもある。
千絵の一室には相変わらず銀色の鳥籠が鎮座していた。ホップのルームメイトであるトップとモップは十姉妹らしく互いにくっついて相手の羽繕いなどをしている。それはそれで愛らしい光景には違いない。しかし違和感を源吾郎は覚えた。かつて見た時よりも、トップもモップも小さく貧相になっているような気がしてならないのだ。
源吾郎はキャリーケースを紙袋から出してゆっくりと床に置いた。ホップはキャリーケースの真ん中で鎮座している。近くで見ているからというのもあるが、ホップの方が今では他の二羽よりも身体つきもしっかりして、堂々としているように見えた。
千絵の視線は源吾郎からホップに向けられている。食い入るように見つめていると言っても過言ではない。しかし目つきがおかしい。いなくなったはずの小鳥と再会して、喜んでいるような雰囲気は彼女には無かったのだ。むしろ――源吾郎はそんな事を思っている間に、千絵が口を開いた。
「その、ホップが家にいた間、何か変な事は無かった?」
「いや、特に何もなかったけれど」
愛鳥との再会にはそぐわぬ問いかけに疑問を抱きつつ、源吾郎は応じた。
「まぁ、外暮らしが長かったせいで廣川部長があげてたペレットをほとんど食べなくなったくらいかな。俺もどうしようかなとかって思ったんだけど、皮付き餌がすっかり気に入ったみたいでペレットにはもう見向きもしないんだ。ああそれと、やっぱり一羽で寂しかったのか、すっごく俺に懐いてくれてたんだ。
変わった事と言ったらそれくらいかな。結構元気だなって思ったくらいで」
「これから私が話す事、全部信じてくれるかしら」
源吾郎の話をじっと聞いていた千絵は、静かな口調で切り出した。戸惑いつつも源吾郎は頷き、千絵の発言を待つ。
「……実はね、逃げ出す少し前からホップの様子がおかしかったの」
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