夏の日差し、思わぬ再会
月曜日。いつもと変わらぬ時間帯に研究センターに入った源吾郎は、自分のデスクの上に、折り畳まれた白衣が置かれてあるのを発見した。袋詰めになっているそれは、明らかに新品だった。
「もう七月だし、夏用の白衣を用意したの」
新品の白衣をまじまじと眺めている源吾郎に声がかけられる。デスクの向こう側にはいつの間にやら紅藤が来ていた。相変わらず足音はほとんど聞こえなかった。大妖怪になると、足音を立てずに歩く事も出来るのかもしれない。源吾郎はぼんやりとそんな事を思った。
ありがとうございます。源吾郎の言葉に紅藤はふわりと微笑む。ありがたい事だと源吾郎は素直に思っていた。白衣に夏用とか冬用があるのかまでは知らなかったが、今までの白衣だと多少の暑さを感じ始めていたのも事実である。別に研究センターが冷房をケチっているとかそういう話ではない。妖狐の血が多い源吾郎は、普通の人間より暑さが苦手なだけである。
夏用だという白衣を抱え、源吾郎はカバンを置いて更衣室に向かう。紅藤も夏用の白衣を着ているのだろう。軽やかに揺れる彼女の白衣の裾を見ながら源吾郎はぼんやりと思った。
※
三十分弱のミーティングが終わると、源吾郎は建物を出て青草の生える敷地を歩いていた。先程支給されたばかりの白衣は脱いでおり、夏物のワイシャツとチノパン姿である。右手には小動物を入れるための帆布でできた袋を提げている。例によって紅藤から蟲などの小動物の捕獲を命じられていたためだ。集めた物は薬品の原料になるほか、紅藤が美味しくいただいている場合もあるにはある。その辺りは深く考えないようにして源吾郎はやり過ごしていた。
さて源吾郎は夏の日差しに照らされつつも任務を遂行しようと動いていた。まだ十時前だというのに日差しは強い。中休みのチャイムが鳴る前にさっさと集めて事務所に戻ろうと密かに思っていた。工場と研究センターの合間にあるこの空間でうごめく源吾郎を見ている者はいないようだ。工場勤務の面々も、工場の中で暑さと闘いながら働いている最中である為だ。
イネ科の青草が大きく揺れるのが視界に映った。源吾郎は一瞬訝ったが、すぐにそちらに視線を向けて様子を窺う事にした。比較的大きな何かが暴れているのだろうと目端を付けたのだ。源吾郎も何だかんだ言って二か月強はこうして何がしかの生物を捕獲する任務を負っていた。今までにない動きである事は、一瞥しただけですぐに判ったのである。
「なっ……」
未だに揺れる青草の間を斜め上から覗き込んだ源吾郎は、思いがけぬ光景に息を呑み目を瞠った。青草と地面の間で暴れていたのは一羽の小鳥である。弱ったり傷ついたりしている訳ではないのは、小さいながらも雄々しく両の翼を広げ、猛禽よろしくふんぞり返っている所からも明らかだ。その小鳥は雀でも目白でも燕でもなかった。屋外で見かける小鳥よりも小さく、白地に茶褐色のまだら模様があった。十姉妹、それも千絵の家で見た十姉妹の一羽だ。源吾郎はすぐにそう悟った。理屈や理性ではなく、本能でその事を知った。
千絵が飼っていた十姉妹がここにいる事そのものも異様なのだが、当の十姉妹の行動に源吾郎は目をむいた。伊達や酔狂で十姉妹ははばたいたりふんぞり返ったりしていたのではない。何と彼は、おのれの全長と変わらぬ大きさの
「一体何なんだ、これは……」
ずた袋を取り落としたのも構わずに、源吾郎は呟いた。おのれの理解の範疇を飛び越えるような光景を月曜の朝から目撃し、軽い混乱状態に陥ってしまったのだ。何がどうなっているのかを知りたかったが、その思いのきっかけとなった光景への驚きの念が、源吾郎の理性的な部分を押し流してしまっていたのだ。
先の呟きはもちろん源吾郎の独り言だ。しかし、この異様な事態を動かすきっかけともなった。蜥蜴の襲撃に勤しんでいた十姉妹が動きを止めたのだ。広げていた翼をたたみ、頭部の汚れを落とすように鋭く身震いする。それから――首をねじって源吾郎の顔を見た。
「えっ、ちょっ……」
ピュイ。十姉妹は喉を膨らませて一声啼くと、何を思ったか源吾郎の太もものあたりに飛びかかってきたのだ。いかな源吾郎と言えども小鳥に飛びかかられたくらいでダメージを受ける程やわではない。しかし異様な光景の後の急展開だったので源吾郎は驚いて目を丸くするほかなかった。飛びかかった十姉妹はずり落ちる事もなく、そのまま器用に源吾郎のチノパンにくっついた。
源吾郎は背を曲げ左手を伸ばし、十姉妹をすくい上げる形でおのれの手に止まらせた。十姉妹は源吾郎の手を拒まず、ごくごく自然にその手に移った。用心深い小鳥としては珍しい現象かもしれない。しかし源吾郎は、十姉妹と目が合ったその時から彼は逃げないだろうという奇妙な確信を抱いていた。
十姉妹が手指にしっかり止まっているのを確認し、ゆっくりと手を動かして小鳥の様子を確認する。案の定黄色い足環が通っている。
※
「た、大変です紅藤様」
十姉妹のホップを手に乗せたまま、源吾郎はあわただしく研究センターの事務所に舞い戻った。タイミングよく紅藤は自分のデスクに向き合い、何かデスクワークの最中だった。
「どうしたの、島崎君……」
日頃より落ち着いている紅藤であるが、今回ばかりはその面に微かな驚きの色が見え隠れしていた。日課の小動物探索を行っていたら、蜥蜴を捕食している十姉妹を発見した。その十姉妹は自分の知り合いが飼育している十姉妹だったから保護した……語るべき事は一応源吾郎の脳内に収まってはいた。しかしそれを言語として口に出せるかどうかは別問題である。
「ええと、その、友達の十姉妹を、保護したんです」
そう言って源吾郎は紅藤にずいと左手を突き出した。その上にはホップが、割合リラックスした様子で羽繕いをしている。握らず手に乗せているだけなのに、全く逃げずにそこにいた事は非常に珍しい事であろう。ましてや、源吾郎はあの後大慌てでここまで向かってきていたのだから。
「可愛らしい十姉妹の男の子ね。だけど十姉妹ちゃんはか弱いから、島崎君に見つけて貰ってラッキーだったと思うわ」
「ピュイ、ピュ、プッ!」
今まで大人しかったホップが急に啼きだした。紅藤の言葉に反応したように源吾郎には見えた。
「紅藤様、こいつが、ホップがか弱いかどうかは僕にも解らないんですよ」
優しげな視線を向ける紅藤に対して、源吾郎は意見を述べた。紅藤とホップ。この二名の鳥類のやり取りを見ているうちに、源吾郎は落ち着きを取り戻していたのだ。
「僕がこいつを見つけた時、こいつは自分よりも大きな蜥蜴に飛びかかって、喰い殺そうとしていたんですよ? 十姉妹って、蜥蜴を喰い殺したりするような小鳥でしたっけ? それに、飼い主の家からここまでは三、四十キロも離れていますし」
「ピッ、ピィッ」
あら、そうだったの……紅藤は感慨深そうに呟いた。その視線は源吾郎ではなく、未だ手のひらの上に陣取るホップに向けられている。彼は鳥歴六百年の大先輩を前にして、全く臆した様子はない。鳥が変わったかのような落ち着きぶりだ。
「それじゃあ、ホップちゃんはか弱くないかもしれないわね。長旅ですっかりたくましくなったんでしょうね」
「たくましいとかそういうレベルじゃあないと思うんですがね……」
源吾郎はゆっくりと深く息を吐いた。
「ひとまずは飼い主に連絡しますね。ホップの餌は昼休憩の時に買いに行きますが……」
「それまでの繋ぎとして、私のバードケーキをホップちゃんに分けてあげるわね。本当はちょっと脂身が多いからあんまり食べさせたらいけないけれど、こんな小鳥だったら食べすぎよりも食べない方が大変だから……」
紅藤はいつになく親身な表情を浮かべ、引き出しを引いた。小さな饅頭サイズの淡い褐色の塊を、紅藤は源吾郎に手渡してくれた。右手に握ったバードケーキは、左手に止まるホップよりもはるかに質量のある存在だった。
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