再生の代償(7)
それから三日ほど経った。
もはや日常生活には支障がなくなり、リハビリは終了となった。各種の精密検査を受け、その結果待ちである。
つまり、予定が何もない。まさしく暇である。
グローバルネットワークに自由に接続できる環境もない。そもそも
(このままでは暇が死因になってしまう……せめて散歩しよう)
歩けるエリアは限られていたが、部屋に閉じこもっているよりはマシだ。
そうして退屈しのぎに朝からあてどなく散歩していたところ、トレーニングルームに行き当たる。
いっそ軽く汗でも流すかと中に入った。
意外な先客がいた。
ミサキが鏡に向かってシャドーボクシングをしている最中だった。相変わらず、タンクトップにハーフタイツの薄着仕様だ。
ミサキの隣には等身大トレーナーのホログラフが立っていて、正しいフォームを実演したり、改善点を指摘したりしている。
「声もかけずに人のトレーニングを眺めているのは、良い趣味とは言えないと思うけど?」
整然としたフォームから繰り出されるコンビネーションに魅入っていると、ミサキが動きを止めないまま声をかけてきた。
「あ、すみません。悪気はなくて。きれいだったので、つい」
なぜかミサキの体勢がガクッと崩れた。即座にトレーナーが叱責する。
『集中力が落ちてるぞ! はいもう一度!』
「———うるっさい! あー、もうやめやめ」
ミサキはトレーナーホロの側頭部にバネの利いた理想的なハイキックを直撃させると、トレーニングを終了させた。ホロなので蹴ってもすり抜けるだけなのだが。
「で、なんの用?」
うっすら頬が紅潮しているように見えるが、運動直後だからだろうか。
「用とかじゃなくて、やることがないから散歩をしていたら、浅野さんを見かけたというか」
ミサキは嘆息混じりに言う。
「わかった。少しだけ暇つぶしに付き合ってあげる。
といっても、トレーニングのコーチくらいしかできることはないけど」
「いいんですか?」
面倒見が良いタイプには見えなかったので、やや意外な反応だ。
「……なにか失礼なことを考えているような予感がするけど、気のせいね」
「ハイ」
鋭い。
「その前に確認だけど、あなた、高等部二年よね? 十七歳?」
「あ、はい。そうですけど」
「なら、私のことはミサキでいいわよ。同い年だから。今さらだけど」
———間。
「はいぃぃぃ!? あ、いえ、たいへん大人びていらしたのでてっきり年上かと思っていた次第で他意はございません。殴らないでいただけますか?」
「……そう」
補足があと一秒遅かったら、腰の入った右ストレートをもらっていた可能性が高い。
この女、もしかして口より先に手が出るタイプなのでは。
「じゃあ、俺はハルキでいいよ。まさか同い年とは思わなかった」
リゼといいミサキといい、同じ学校に通っていてもおかしくない年齢の人間がまったく違う世界に生きている事実を、うまく飲み込めない。
あの公園に迷いこまなければこの出会いはなかったのだと思うと、人の縁の奇妙さを感じる。
「なあ。改めての挨拶ついでに聞くけどさ。
リゼ、なんで追いかけられてたんだ? あんな風にジャケットに追いかけられるって普通じゃないだろ?」
さきほど付き合うと言った手前なのか、ミサキは逃げ出すこともなく考えるそぶりを見せてから答えた。
「……企業秘密よ」
「企業って、黒峰さんが警備会社って言ってたヤツか? いくらなんでも信じてないぞ。
それとも、最近の民間警備会社にはミサキみたいな超人がうようよしてるのか? 無理があるだろ。さすがに聞いたことないって」
「……ま、信じてないわよね。あなた、そこまで鈍そうじゃないもの」
「あれ? もしかして、俺、意外に高評価されてる?」
ミサキはにやりと意味ありげに笑みを浮かべた。
「そうね。高評価ついでに、スパーリングで私に勝てたら、私の所属を教えてあげる」
「おっと、この手の話で譲歩してもらえたのは初めてだな。いいのか?」
「ダメね。命令違反」
命令違反とつぶやいたミサキの表情は、これからいたずらをしようとしている子どものそれだった。実に楽しそうだ。生真面目そうに見えるが、きっとこちらの方が地なのだろう。
「要するに、絶対に負けることはないって意味だよなぁ、それ」
「あら、逃げ腰? 素人相手にハンデもあげないほど落ちぶれていないわよ。
一発でも入れられたら勝ち、でどうぞ。かすりもしないと思うけど」
「おいおい。そこまで言われてやらなかったら、明日から表を歩けないじゃないか。
やるよ。吠え面かくなよ!」
「吠え面かくなよ、って本当に言う人を初めて見たわよ」
素人なのでルールは単純。グローブを装着。パンチのみ。顔面狙いはなし。
ミサキに一発でも有効打を与えられればそこで勝ち。ヒットしたかどうかはグローブが自動的に判定する。ミサキは回避のみで攻撃はしない。リングはないので、フィットネススペースの一角を使う。壁際に追い込むのはなし。
相手を倒すつもりでやるわけではないので、模擬戦のスパーリングよりは寸止めや軽い打ち込み主体のマスボクシングに近い。ミサキには本気で打ち込んで良いと言われたので微妙なところだが。
一ラウンドあたり二分。ラウンド数は、どちらかがギブアップするまで。
「たぶん、二ラウンド目が終わるまで体力が保たないと思うけど?」
ミサキはそんな風に言ったが、たかだか二分のスパーリングを二回こなした程度でへばるわけがない。
ないのだが。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁぁぁぁぁ…」
ないはずだったのだが。
「きついでしょ? 慣れてないとそんなものよ」
二ラウンド目を終わって、一分間のインターバル。呼吸を整えるのに精一杯で、会話をする余裕がない。
「い、いや、やれる、まだやれるぞ」
「そう。私はこの分だと十ラウンドでも大丈夫そうだけど」
三ラウンド目が始まる。
酸欠で視界が明滅している。
このラウンドで当てられなければ、体力が尽きる。
良く考えれば当たり前の話だった。ワンツーを二分間その場でやり続けるだけでもそれなりに疲れるのに、動きながら相手に当てるつもりで打ちこめば、あっという間に体力を持って行かれる。それを二ラウンドもやれば、どうなるかはわかりきっていた。
次は二分も保たない。
それでも、この勝負にはどうしても勝ちたかった。
このもやもやした状況を、わずかでも変えられる可能性があるのだ。やれることはすべてやりきりたい。
なにか秘策を考えなければ。ミサキの裏をかいて、ガードしている腕以外のどこかに命中させる秘策を。酸欠の頭で、必死に考える。
(どうにかしてミサキに隙を作るしかない。何かないか)
ミサキは壁に寄りかかって休んでいた。
無駄のない引き締まったライン。鍛えすぎて筋骨隆々というわけでもなく、女性らしい丸みも残っている。それでも、扇情的な印象より爽やかさを強く感じる。
素直にきれいだな、と思う。
———そして、天啓が舞い降りる。
(……閃いた! なりふり構っていられるか!)
インターバルの時間が終わり、ミサキがセットしたタイマーがゴング代わりに鳴った。
ミサキがガードを上げ、こちらにゆっくりと歩いてくる。
勝負だ。
まずは、慌てず騒がずにワンツーを繰り返す。素人考えのフェイントも入れない。どうせ無駄だからだ。
「ふっ、はっ、ふっ、はっ」
ミサキはウェービングで上体を左右に動かして避ける。距離を取って当たらないようにすることもできるのに、あえて必ず当たる距離に立ってくれる。これもハンデのつもりなのだろう。
やはりかする気配すらない。ここまでは二ラウンド目までの繰り返しだ。
このあとの数秒に勝負を賭ける。
「ふっ、はっ、ふっ、ミサキ、って、さっ」
「はい? おしゃべりする余裕なんてあるの?」
余裕などない。ないが。勝つためには必要なのだ。
「———きれい、だよなっ!」
「!」
ミサキの姿勢が崩れてホロトレーナーに指摘されていた場面を思い出していた。
「あ、すみません。悪気はなくて。『きれい』だったので、つい」
『集中力が落ちてるぞ! はいもう一度!』
「———うるっさい! あー、もうやめやめ」
隙を作るには、話しかけるくらいしか方法がなかった。どうせ話しかけるのであれば、動揺しそうな内容を選び取る。ミサキはおそらく褒められるのに弱い———
ほんの一瞬、ミサキのウェービングの切り返しが遅れる。
その隙を逃すものか。
「フォームがきれいだよなぁぁぁぁぁ!」
ゲスの極みというそしりはあえて受けよう。
全員から質問をはぐらかされ続けた憤りを込めて、渾身の右ストレートを放つ。もう足腰に力が入っていないので勢いもないが、使える筋肉をすべて総動員して拳に魂を注ぎ込む。
ミサキの両腕のガードが、ほんの少しだけ甘く開いていた。
(その隙間から、ねじこむっ!!!)
しまった、という表情をミサキがするころには、決着がついていた。
ふよん。
「あ、やわらか」
グローブ越しにふわふわした感触が伝わってきた。いったいどこに当たったのか。
顔を真っ赤にしたミサキを見た気がしたが、次の瞬間には意識を失った。
何があったのかは覚えていない。
『———
エラー。リカバリモードへ移行。モード、ラピッド』
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