再生の代償(6)



 次の課目はジョギングだ。トマスの日課に付き合う形で、施設内の小さめのグラウンドをぐるぐると走りつづける。

 ただし、意味がよくわからない歌詞の歌を口ずさみながら走っている。ジョギングのテンポと歌のリズムが合っていて、妙に走りやすい。

 トマスが歌ったあと、続けて同じパートをリピートして歌う。

「~♪ ~♪」

 ひたすら謎の歌を歌いながらのんびりと走り続け、三キロメートルほど走ったところでお開きになった。

「あの。さっきの歌って、どういう意味なんですか?」

 トマスは年上なので、敬語で話しかけた。

「ん? 英語なんだから、だいたいわかるだろ? 君にとっては第二公用語のはずだよな」

 たしかに、まったくわからないわけでもなかったが。

「何となくめちゃくちゃ汚い言葉だろうなってことはわかるけど、スラングとか専門用語が混じってて、端末リンクレット無しだと文脈が理解できないですよ。取り上げられてるままだし。

 なんで唐突にホーチミンが出てくるんです? ベッドで寝返り打ったりとか、どういうこと?」

 トマスが吹き出して、でも正解は教えてもらえなかった。

「ま、ベトナム戦争なんて、よほどの古典映画好きか近代史専攻でもないとわからないよな。ただの僕の趣味だから気にすんな。退院後の楽しみに取っておくといい」

「はぁ」

 覚えていられる自信はないが、もし思い出したら調べよう。

「あと、僕に敬語を使う必要はないぞ。日本の敬語はどうもむずがゆいんで、タメ口でオッケーだ。さん付けもいらない。ミサキもそうしてるだろ?」

「そう? じゃ、タメ口で。

 もうひとつ聞くけど、ミサキってなんであんなに強いんだ? ジャケットを生身でぶっ壊してただろ」

 唐突だとは思ったが、トマスはこういう質問をしても許してくれそうに思えた。

「ぶわははは!」

 軽口を叩くのも叩かれるのも好きなのだろう。トマスは豪快に笑うと、少しだけ申し訳なさそうに答えた。

「あー、すまんすまん。そいつは悪いけど僕からは話せないんだ。ホノカを酔わせればうっかりゲロったりするかもしれんがなあ……オススメはしないな」

 トマスはブーツの紐を結び直してから立ち上がると、ひとりだけ再び走り始めた。

「僕はまだ走るんで、ハルキは部屋に戻りな。

 あとくれぐれもアーニャに手は出すなよ! 所内にファンが多いから今度こそ死ぬぞー」

 そんなことを言い残して去っていった。一緒に走っていたときとは段違いに早いペースで、すぐに姿が遠くなってしまう。

 走っている間、いくつかわかったことがあった。

 まず、走っていたエリアは高い壁と建物に囲まれていて外の様子を知ることはできない。壁の上部には内側に向けてネズミ返しが付いている。中から外への逃走を抑止しなければならないような事情があるということだ。そして、敷地の出口らしきものは見えなかった。

 建物の中にはちらほらと人影が見えた。白衣や作業着を身につけている人間が多い。すべて施設の職員なのだろう。病棟側で見かけないということは、リゼが言っていたラボの職員か。

(そして、アーニャさんの笑顔にころりとだまされた連中もあの中に……?)

 あのアンドロイド、あまりに業が深い。



 最後は、ボクササイズだ。

 ミサキが先生になり、ホノカが特に何をするわけでもなく脇から見ている。

 普段から動きやすそうな服装をしているミサキだったが、今日はぴっちりしたタンクトップにハーフタイツと、輪を掛けて薄着だ。ヨガのコーチだったアーニャよりも露出が多いくらいに。

 健全な男子学生には少々刺激が強いのではありませんか。

「うん? どうかした?」

 ミサキは視線に気付いて不思議そうな顔をしたが、触れない方が良い気がした。

「いえ、ナンデモゴザイマセン」

 ホノカが気持ち悪い笑みを浮かべているが、それも無視する。ぐふふ、とかそういう擬音が似合いそうだ。本当に残念である。

「リハビリ目的だから運動量は落とすわよ。まずはワンツーから、私の真似をして」

 と、リズミカルに拳を打ち出すミサキのフォームは美しかった。キレがあり、静と動の緩急がはっきりしている。ポニーテールが動きにつられてなびくさまが美しい。

 ジャケットを粉砕したときの豪快な印象とは違って、素人目にも繊細で技巧に優れた身のこなしのように感じられた。

「こう、かな? ほっ、ほっ」

 真似をして左、右、左、右と拳を出してみるが、鏡に映った姿は思ったほどサマにならない。

 ミサキはワンツーを続けたまま指摘する。彼女の呼吸はまったく乱れていない。

「腕の力でやると上手く行かないわよ。下半身から肩を通って腕に力を回すイメージで」

「なる、ほど? こう、いう、こと?」

「あら。意外にコツをつかむのが早いじゃない」

 意外に、と言われたのは心外だったが、これまでにいいところを何一つ見せていないのだから当然かもしれない。

 からだの重心位置を腰の真ん中だと思って、下半身と腰からの回転運動の延長で拳を突き出す。

「そうそう。理想とはちょっと違うけど、イメージは悪くないから今日はそのやり方でいきましょう」

 そのあとは、回避動作のウェービング、ワンツーとウェービングのコンビネーションと進んでいった。

 休憩をはさみつつ三十分くらい経っただろうか。納得した顔をしたミサキが動きを止めた。

「うん、今日はこのくらいにしましょう。それだけ動けるなら、日常生活には何も問題ないんじゃない? 私が判断することではないけど」

「ぜぇ、はぁ、ぜぇ、はぁ」

 立てない。床に転がったまま天井を見上げる。

「さて、と。私はこのまま自分のトレーニングに移るから、あとはお願いね、ホノカ」

「いいわよー。齋藤くんが生き返ったら責任をもって病室に送り届けとくー」

「……余計なことしたらぶっ飛ばすわよ」

「ぎくっ。しないわヨー?」

 ほんの少し汗ばんだ肌をタオルで拭ったミサキは、トレーニングマシーンが置いてある一角にさっさと行ってしまった。

 呼吸が整うのに時間がかかったが、ホノカが持ってきてくれたスポーツドリンクを飲み干してようやく一息つく。

「黒峰さん、ひとつ聞いてもいいですか」

 確かめておかねばならないことがある。

 ホノカが頷いたのを確かめてから、覚悟を決めて質問する。

「黒峰さんって、本当に浅野さんとトマスの上司ですか?」

 長い沈黙が続いて、その間にホノカの表情はめまぐるしく移り変わった。難しそうな顔をしたと思ったら、笑って、泣きそうになって、真顔に戻って、最後は、

「……てへっ」

 誤魔化すことを選んでいた。聞いた方が申し訳ない気持ちになった。

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