【第十三話】優しすぎるあなたへのレクイエム(前編)
前期祭まで残り二日。
「あれ、沙織ちゃんじゃん。こんなとこでなにしてんの?」
「‥‥‥幸輝さん。えっと、友人に休めって言われて少し外の空気を吸いに。幸輝さんも?」
授業後の体育館裏で一人体育座りで空を見上げていた沙織に横の扉から出てきた幸輝が声をかける。幸輝は肩にタオルをかけ左手に持っていたドリンクを口につけ一気に飲むと、「まぁ、そんなところ」とだけ答えて沙織の隣に腰を下ろす。
「一組は準備進んでる?」
汗をタオルで拭いながら横目に尋ねてくる幸輝に沙織は相変わらず地面を眺めながら無気力に口を開く。
「そうですね。準備は皆さんの努力の甲斐あってもうすぐ終わりそうです。幸輝さんのクラスはどうですか?」
「うちは今やってる立て看板作りが終われば終わりかな。あ、中に孝裕いるけど呼んでこようか?」
「いえ、大丈夫です。今お呼びしても迷惑をかけるだけなので」
「‥‥そう」
幸輝は沙織の熱のない返事に軽く返し今一度飲み物を喉に流し込む。冷えた水が気管キンキンに痛めつける感覚は、不思議と嫌なものではない。
飲み干した幸輝はその間も黙り地を見る沙織の様子に頬を掻き、しばし迷いながらもその空気感に耐えきれずため息を吐き、意を決して「えっと」と言葉を発する。
「最近、孝裕となんかあった?」
「‥‥‥」
「‥‥‥」
しくじった。それが幸輝が初めに思ったことだった。
ここ一週間の孝裕の様子と隣にいる沙織の様子、それから二人の逢瀬がなくなったことを考えれば確実になにかあったのだと想像はできていた。そう安易と踏み入れていいものかと悩んだが、あまりにも今の二人の姿は見るに耐えず、考えた末「ここは孝裕の一番の親友として俺がなんとかしなければ」と一見余計なお世話かもしれない覚悟を心に定めてみたものの敢えなく失敗。
沙織は無言のまま地面とにらめっこをしたまま動かない。
「悪い、変なこと聞いた。忘れてくれ」
無反応を貫く沙織の姿勢にこれが余計なお世話だったと判断した幸輝は軽く謝罪し、その場から逃げるように離れようとすると、微かに声が聞こえた。
足を止め、一度そちらの方へと耳を向けてみると意識しなければ聞こえないくらいの声音で、
「‥孝裕君は‥‥元気‥ですか‥‥?」
薄く涙を浮かべながら幸輝に声をかける。
なんとか聞き取れた幸輝は「あぁ、元気は元気」と答えるとまたも薄くだが沙織は微笑んだように見えた。
「調子狂うな」と頭を掻き、戻ろうと上がっていた階段にしゃがみ込むみ、
「よかったら話聞かせてくんない?これでも俺、孝裕については詳しいんだ」
と、今度は沙織の意識を自分に向けさせることに成功したのだった。
→→→→→☆←←←←←
体育館裏で出会った二人は場所を変え、人の少ない屋上へとつながる階段を登り、扉の手前に座る。
「‥‥」
「ひゃっ!?」
突如頬に当てられた冷たい感覚に思わず変な声を出してしまう沙織を見て幸輝が笑いながら、
「ずっとぼーっとしてたからつい」
と、軽い調子で謝ってくる。しかし沙織の驚かされた心はまだ治まっておらず、プイッとそっぽを向いて可愛らしく反抗の姿勢を見せる。
「‥‥すみません」
流石に会話に誘った身としてと、友人の想い人に失礼を働いたことに罪悪感を覚え素直に謝ると沙織は幸輝の方をちらっと見て「ふふっ」と笑ってみせた。
「仕方ないので許してあげます。次やったら怒りますよ?」
「やんないよ。お詫びにこれあげる」
沙織のことを驚かせた冷たいものの正体、自販機で程よく冷やされたお茶のボトルを沙織に渡す。「ありがとうございます」と受け取った沙織は蓋を開け、ゆっくり水分を補給すると穏やかに目を細め、
「その、ありがとうございます。‥‥‥さっきは元気付けようとしてくれたんですよね」
「!?!?え、いや、そ、そんなつもりは」
察しのいい沙織はもちろん気づいた。今のは幸輝なりの気遣いなのだと。あからさまな幸輝の反応からもそれが正解だということは容易に理解できた。
「ふふふっ、幸輝さんって凄くわかりやすい方ですね。ーーありがとうございます」
「‥お、おう」
照れ隠しなのか、顔を背けた幸輝は買ったばかりの水を一気に飲み干す。常々わかりやすい反応を見せてくれる幸輝の存在に沙織の緊張も徐々に解けていくのを実感する。
初めにあんな失礼な態度を向けてしまったのにも関わらず、沙織の様子を加味した立ち回りをして、元気付けようとしてくれている。沙織が孝裕の想い人だからなのか単に幸輝がそう言う性格の持ち主なだけなのかは、正直関わりの少ない沙織にはわからなかった。しかしその答えがどうであれ、今の幸輝の振る舞いに救われている事実は変わらない。
そのことを念頭に感謝を抱く沙織。彼女のリラックスし始めている様子を察した幸輝は、空いたペットボトルを側に置くと「それで」と話の本筋へとレールに乗せる。
「孝裕と何があった?」
「どうして、そう思うんですか?」
「本気で言ってる?」
「いえ、すみません。様式美です」
念の為、それを確認して沙織は一度大きく息を吸い込む。
「えっと、なにからお話したらいいですかね?」
「初めから最後まで頼む」
「じゃあ私と孝裕君の出会いからお話しますね」
「いや、ごめん、それは大丈夫。最近の話を初めから最後まで聞かせて」
目をキラキラ輝かせて昔話に花を咲かせようとする沙織を勢いよく手で制止し、なんとかそれを避けることに成功する。気持ち的に寛ぎ始めた沙織は強敵で、二人きりで会話をするのが初めてな幸輝は気がつけば、会話の操舵手が幸輝から沙織に奪われていた。
会話の端々でふと相手の虚を衝くのが沙織の常套手段。悪気があるわけではないのだが、相手の驚いた反応や照れた顔、慌てた表情を見るのが好きな沙織はついついそういった振る舞いをしてしまう。
無事にその犠牲者となった幸輝は話の流れを本筋に戻し、姿勢を沙織の方へと向ける。
「遡れば一週間ほど前のお話になります。ーーーーー、」
→→→→→☆←←←←←
「なるほどな」
島崎という生徒の実行委員作業の引き受け、自らの疲弊を無視した人助け、そして孝裕の信念を知らずに責めてしまったこと。
それら話のあらましを聞いた幸輝は悩まし気にわかりやすく顎に手を当てる。
小窓から漏れる夕陽の輝きが二人をじっくりと照らし、影をより色濃く鮮明に映し出していく。
「孝裕のやつ、沙織ちゃんに話してなかったのか」
呆れたように呟く幸輝は額に手を当てる。
「孝裕君に非はありません。休んでくれないことに少しは怒ってますけど、私が孝裕君の気持ちに寄り添えなかったのが悪いんです」
あくまでも自分のせいだと主張する沙織はまた悲しそうな表情に戻り、情緒が整っていないことが沙織を本気で悩ませていることを物語る。
小麦色のお茶を眺め、悔しげに顔を顰めた沙織はなんとか踏ん張ってはいるも、気を抜いた途端泣いてしまう脆さがあるのは幸輝から見ても歴然だった。
どう言葉をかけたらいいものか、誘った張本人である幸輝は頭を悩ませた。話を聞く限り、沙織のとった行動は間違ったことではない。ただ、孝裕の生い立ちを知り、何もできなかった、してこれなかった自分が孝裕を否定することは断じて許せなかった。だからといって気安い同情の言葉を投げかけることなど毛頭できない。
「私、これから孝裕君とどう接したらいいのかわかりません。孝裕君のことはもちろん好きです、優しいところも一生懸命なところも全部」
黙る幸輝の返答を待たずして膝を抱え、遠くを見るような虚な眼差しで沙織は我慢していた気持ちを吐露し始める。
「だから今まで応援してきました。けど、日が経つことに増える仕事量と疲れを無視した孝裕君を見ていると心が苦しくなってしまい、つい勢い余ってあんな行動に出てしまって」
沙織は悔やんでいることを膝を抱く腕の締め付けを強くすることによって体現する。
「もっといい方法があったんじゃないかって。あの日からどうしたら孝裕君のためになるのか、孝裕君が休める環境を作ることができるのか毎日考えてます。でもどれも孝裕君の迷惑になるだけで、意味がない」
「意味がないってのは?」
「手伝うことと代わりに請け負うことです」
「‥‥それじゃ駄目なのか?」
「駄目というか、恐らく不可能です」
訳がわからないといった表情をする幸輝に頷きかけた沙織は「だって」と言葉を続けると、
「孝裕君は手伝いは必要としてくれません。それに孝裕君の仕事を代わりにやったとして、その時の数は減らせても多分空いた体力と時間分の仕事を他から引き受けてくるのが孝裕君でしょう?」
知ってるでしょと言わんばかりのすまし顔で質問を投げ返してくる沙織に息を呑み幸輝は驚きに目を大きく開く。
「すげぇな。一ヶ月とかそこらの関係でよくそんなこと気づいたな」
「幸輝さんに比べたら私なんてまだまだ知らないことだらけですよ。一緒に過ごす時間が長かったから気づくことができただけです!」
謙遜、ではなく本当に沙織はそう思っているのだろう。口元に手を当て緩く微笑んで見せた彼女には一切の曇りがなかった。
「ーー俺は、それができなかった」
「?」
今度は沙織が幸輝の発言に無理解を示す。幸輝は何拍の間を置き、動揺で荒れかけていた心を沈めると、
「昔の話になるんだけどさーーーーー。」
深く記憶に残る過去を言葉に変え語り始める。
←←←←←☆→→→→→
『大丈夫?どこかわからないの?』
『‥‥‥全部』
『わかった、大丈夫だよ。任せて』
それが幸輝と孝裕の最初の会話だった。
幸輝は小学生の頃、驚くほど勉強ができなかった。両親からも叱られ、自らも自分のできなさに嫌になっていた時、孝裕が声をかけてくれたのがきっかけで二人は知り合った。それからというもの、二人は授業後教室に毎日残り、孝裕が先生役となって幸輝は勉強を教えてもらうようになった。
しかし年月が経つにつれ完成していく人格により芽生えた何も返せない申し訳なさから、勉強を教わる時間以外でも、場所なんて気にせず必死に勉強に立ち向かい、足掻いて踠いて努力を続けた幸輝は、なんと学年でも上位に名を連ねるほどの実力を兼ねそろえるようになっていた。
それ故に孝裕にはしてもしきれないほどの感謝を抱いていた。勉強ができるようになったのも、必死に努力をする大切さを学べたのも全て孝裕がいたからこそであり、孝裕のおかげで今の自分があるとすら感じていた。
当然、恩返しをすることは考える。
しかし不出来な自分ではどのようなことをすればいいのか、何を返したら孝裕のためになるのか悩んだ。
まず最初に浮かんだのは、孝裕のしていることを手伝うことだった。孝裕は常にと言っていいほど何かを引き受け、人のために尽くしている。時には一人では厳しいようなものまで頑張っている姿を見ていた幸輝は、それの手伝いをすれば少しは孝裕のためになると思い、早速行動に移った。
『なにやってるの』
『先生に頼まれた千羽鶴作ってるんだ』
『俺もやる』
『え、いいよいいよ!すぐ終わるし』
『でも大変』
『そんなことないよ!意外と楽しいし、もうすぐ終わるから幸輝は宿題でもして待ってて!ごめんね!』
そう呆気なく跳ね返されてしまった。あまりにも明るい孝裕の表情と真剣さを言葉通りに受け取った幸輝はこの日は何もできずに『わかった』と返して終わってしまう。
だが次の日も、次の日も、また次の日も、同じ返答が続いて一向に幸輝の目標は成されることはなかった。一度、無理にでも手伝おうと試みたものの、作業量の減った分早く終わった孝裕は、不器用でまだ終わっていなかった幸輝の分を『手伝うよ』と幸輝にやり方のコツを教えながら進めていった。
夕方になりようやく作業を終えた二人は帰ろうとするが途中で先生に出会い、孝裕に話しかけてくる。
『おぉ安達、クラスの掲示物の張り替え作業やってくれた?』
問いかけた教師は孝裕に任せていたらしい仕事の確認をする。しかし孝裕の反応は芳しいものではなく、困ったように、
『すみません、忘れてました!すぐにやってきます!』
と、手を合わせ謝罪のジェスチャーを示す。教師は怒ったり呆れたりせず、微笑を浮かべ腰に手を当てる。
『珍しいな、安達が忘れるなんて』
『すみません』
『いいよいいよ、それじゃ、任せたぞ』
『はい!』
話を終えた孝裕は今度は幸輝に『ごめんね』と謝ると、訳を話して教室へと戻ろうとする。その間『俺も手伝う』と言ってみるものの、
『いいよ!大丈夫!幸輝が手伝ってくれたおかげで疲れてないし、もう暗いから幸輝は先に帰ってて!また明日!』
そう言って颯爽と教室の方へと戻っていった。その背を見送る際頭に突然数十分前の記憶が過ぎる。
『そういえば、孝裕の机の横にたくさんプリントが』
頭の出来が良くないと自負している幸輝ですら確信を持てるほどの答えが思考で固まる。
『俺が余計なことしなきゃ、孝裕は先生に謝ることも一人残ることもなかった』
自分が出来の悪い人間だなんてとうの昔から知っていただろう。それなのに何故自分は出来の良い孝裕のように人の手伝いをできると自惚れていたのだろうか。
考えればわかることだった。
孝裕は幸輝に勉強を教えている時も他の子を助けたり、気遣ったりしていた。さっきだって孝裕の仕事を無理やり手伝った結果、教えるという余計な工程を煩わせてしまていた。
自分は孝裕のように困っている人に手を差し伸べることも、それに気づいてあげることさえできない。無能もここまでこれば上出来だなと自傷する。だが、受けた恩の大きさを考え、それに報いることを諦めたくないと決意した幸輝は脳みそを今まで以上に振り絞り、フル活用する。孝裕のようにできない、孝裕のようになれないのであれば自分はどうしたら返せるのか。その日の残りの時間を使って最終的に幸輝が行き着いたのは素直に尋ねてみることだった。「なにか手伝えることはないか?」と。
愚直にも思いついた翌日に尋ねてみると孝裕は笑顔で『大丈夫だよ!ありがとう』と返してきた。
確かに今は忙しそうにも見えないし、その時は本人の言う通り大丈夫だと思った。だから『そっか』と返事をし、恩返しは次の機会にすることに。
それから幸輝は孝裕が何かを抱えていると感じた時、必ずそれを聞くことに決めた。孝裕が大変そうにしている時、孝裕が多くを引き受けている時にそうすると、不出来だとわかっていながらもどんな些細ことでも良い、手伝えることがあるならどんなことでも手を貸そうと誓ったのだ。
しかし、その機会は訪れてはくれなかった。
正確には、聞く機会は何度もあった。だが、孝裕はいつも悠然と「大丈夫だよ」「ありがとう」と言って幸輝からその機会を遠ざけていった。
孝裕も悪気があってのことではない、純粋な気持ちで言っていることくらいは幸輝もわかっている。
ただ単純に、人の頼ることをしないだけなのだ。
思い返してみればわかること、孝裕が誰かのために努力することはあっても、誰かを必要としてる姿は見たことがなかった。幸輝が無理やり手伝った時でも仕事を奪う前まで『大丈夫だよ!』と言っていた。
馬鹿だと自己評価する幸輝ですら理解できた。
孝裕は元来備わっている優しい性格から人に迷惑をかけないように自分の力だけで解決しようと考える。そしてそれを解決できる力が孝裕には備わっている。故に能動的に人を頼る機会が孝裕には一向に訪れず、頼られるという受け身でしか頼るという形を知らないのだ。
自身を頼ってくれる人の気持ちは理解できても、自身が人を頼る気持ちは知らない。それが孝裕の歩んできた道、人生なのだ。
だがしかし、それがわかったところで幸輝はこの方法以外の策は思いつけなかった。
そのまま何も変わらず、悩み続けるだけの日々が時と共に過ぎていきーーー、
→→→→→♡←←←←←
「今に至る」
「そうだったんですね」
幸輝と孝裕の出会った頃の話を一通り聞き終えた二人は奇遇にも一緒のタイミングで飲みものに手をつける。一方は空でなにも補給できなかったのはさておき、沙織はお茶を飲み終えると薄く口角を上げて、なんだか幸せそうな表情へと変化した。
そのことに疑問符を浮かべた幸輝はわかりやすく顔を横に傾け「どうした?」と言を投げかけると、沙織は動物を愛しむような柔らかい笑みを浮かべて「いえ」と口元に手を当てて、
「ただ、孝裕君はずっと孝裕君なんだなって。安心しただけです」
「そうだな、あいつはずっとああいう感じだ」
予想外の反応と返答だったが内容的には幸輝も納得いくもので自然と笑みが溢れる。
上手く話せるか心配していた幸輝は沙織の反応を見てホッと安心する。
「そんなあいつに俺はなんにもできなかったし、今もできないままだ。それどころか迷惑ばっかかけてる」
自嘲気味に、溜め込んでいたものが自然と口から出ていくことに内心驚きながらも、それを止めることはできなくなっていた。
「こんだけ長く一緒にいるのに孝裕に人を、俺を頼らせることができなかった。ほんと、情けねぇ」
「幸輝さんは、諦めてるんですか?」
「‥‥いや、諦めちゃいない。どんなに極小でも、俺は、孝裕の力になりたい」
幸輝は力一杯に拳を硬く握り締め、意志の強さを示す。
「孝裕が、俺や沙織ちゃん、それ以外の人でもいい。気軽に手伝ってくれって言えるように支えていきたい。あいつが俺を導いてくれたように、今度は俺があいつを導いてやる、そのためにも諦めない」
これまでにない強固な意志を示した幸輝に安心した沙織はこくりと頷くと、
「私も諦めません。彼の優しい姿に憧れて、彼の逞しい精神に元気付けられて、彼の眩しい笑顔に救われた」
立ち上がり、小窓から差す微かな光を浴び、過去に想いを巡らせて、
「あれから時が経った今も変わらずにいて、優しくしてくれた。だから、私は彼の支えになりたい、いえ、なります」
今に至っても変わらずいてくれた想い人へ向けて、決意する。
幸輝は驚く。
一週間悩み続け、小一時間ほど前まで光を失い泣きそうな顔を見せていた少女は何処へやら、今、隣に立つ沙織の表情はあまりにも先の面影を感じさせない堂々とした面構えになっていた。
孝裕から常々沙織の話は聞いていたとはいえ、実際にこうして長いこと話したのは初めてだった幸輝は沙織の見せた唐突な心持ちの変化に、こうも人間は立ち上がり、成長するものなのかと感心せざるを得なかった。
そんな幸輝の反応に気づかないまま沙織はくるっと隣に座る幸輝に向き直り、
「ありがとうございます。幸輝さんのおかげで、やらなきゃいけないことが見つかりました」
そうニコッと笑いかけるその仕草を見て我に返った幸輝は、自分が話しかけた本分を果たせたのだと安心し、会話に終わりが見えてきたところで最後に一つの質問を投げかけることにする。
「沙織ちゃんはさ、どうしてそこまで孝裕を?」
幸輝の急な質問に一瞬驚くがすぐに「ふふっ」と笑うと、
「愚問ですね。そんなの、決まってるじゃないですか」
元気と勇気を取り戻した沙織は敵なしと言った自信満々の声音でこれが当然のように、
「孝裕君が、私の初恋だからですよ」
と、答えるのであった。
知っていた、わかっていた。だからこそ改めて聞きたかったのかもしれない。
沙織の当然の返答に幸輝も当然納得し、軽く笑うと「頑張れよ」と別れの挨拶がわりに言葉を送る。
それをきっかけにこの相談時間も終わりを迎えるのだと察した沙織は立ち上がり去ろうとしていた幸輝を呼び止める。
「ん?なに?」
階段を降り始めた幸輝は見上げる形で沙織の方に振り向くと、これまた今までとは違う穏やかな微笑を浮かべた沙織がこちらを見つめていた。
「私からも一つ、ーーー自分のことを理解しておくことも大事ですけど、どうか、ご自愛してください」
「え」
「幸輝さんは無能なんかじゃありません、努力家なんです。でなければ自主的に勉強したり、孝裕君のためになにかしようと何年も試行錯誤することなんてできませんから」
階段を降り、幸輝と同じくらいの目線になったところで立ち止まる。
「だからそんなに卑下しないでくださいね。一緒に、孝裕君のためにできることを頑張りましょう」
そう言い残して沙織は先に階段を降っていき、下の階に着くと一度軽く一礼し、廊下の角を曲がっていった。
遅れて階段を降り終えた幸輝は遠くの方で歩く沙織の姿を確認し、頭を掻き、
「孝裕のやつ。あんないい子を泣かせるとか許さねぇからな、まったく」
と、吐き捨てるように言って空になっているペットボトルに再び口をつけるのであった。
優しすぎるあなたへのレクイエム 猫長 @seseragi_130
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