【第十二話】いつも通り





「孝裕君さぁ、疲れないの?」


 廊下を歩いていると突如横から声がかけられる。

 視線を動かしてみると、ピンで前髪を止めた同級生の島崎海斗がそこにはいた。

 島崎は熱を帯びない冷めた目つきで孝裕の答えを待っている。だが、孝裕はなんの話をしているのか検討がつかず、少しの間考え込むと、


「いや、いいわ」


 返答を待つのに痺れを切らしたのか、興味を孝裕から削ぎその場から離れていく。


「疲れないの‥か」


 問われたことを頭の中で反芻し考えてみる。しかしよくわからない。何に対してのことなのか、何を思っての言葉なのか孝裕にはわからなかった。




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 前期祭まで残り二週間の授業後。

 学校全体で熱気が高まり、来たる大イベントに向けての準備が各クラスで始まっていた。それは孝裕のクラス、三組も同様で着々と出し物の構想をまとめ、実現に向けて動き出していた。

 孝裕のクラスではクイズ喫茶を開くことになっており、客席や調理場の配置、衣装や提供メニューの考案、そしてこの喫茶の目玉となるクイズが分けられた各班によって進められている。教室では各班で机が固められており、気になることがあれば各々班に尋ねてくださいスタイルのシステムを採用している。

 孝裕は机の合間を通り、最奥窓際に配置されていたクイズ班のところへと赴く。


「三月君、こんなのはどうかな?」


「ふむふむ、採用!」


 サッとまとめた資料をロッカーの上に鎮座していた班長に渡した孝裕は自分の探してきたものを採用されたことに安堵する。


「いや〜助かるよ、おかげで進捗具合最ッ強!」


「あはは、それならよかったよ!」


「あ、でも一応後何問か候補あげてもらえるとありがたい!」


「わかった!明日までにでいいかな?」


「音速!爆速!すごいな!よろしく頼むよ!」


 クイズ班班長・三月に追加で注文された孝裕はポケットから手帳を取り出し、やること一覧と書かれた欄にクイズ探しと記すと今度はメニュー班のところへと向かう。

 人の移動が少なくない狭い教室の中でぶつからないように気をつけながら右前に陣取るメニュー班のところに到着。

 早速そこの中心に座るペンを耳にかけた生徒に話しかける。


「おやおや、安達君。もしかしてもうできたのかい?」


「うん。昨日考えてきた‥これ、見てほしいんだけど‥」


「ほほぅ」


 孝裕に渡された数枚の資料にじっくりと目を通す。それから一度視線を外し宙を見て熟考すると「なるほど」と呟くと、


「いいね。こんな案は今までに我が班でも出ることのなかった新しい思考だ。よくぞ持ってきてくれたね、感謝する」


「使えそうならよかった!」


「悪いね、君も忙しいのにこんなことを頼んでしまって」


「気にしないで!‥他にすることはない?」


 孝裕の提出した案に賛同を示したメニュー班班長・城崎は首を横に振ると、


「いや、大丈夫だ。君には既に大いに助けられている。これ以上は望まないよ」


 長い黒髪をふわっと揺らし豊かな胸をもちげるように腕を組み、微笑みを見せる。

 普段は凛とした印象を持つ人物だったこともあり、初めてみる姿に孝裕の中での彼女の印象が少し変化する。


「本当に助かったよ、ありがとう」


「いえいえ、これくらいお安い御用さ!それじゃあ」


 孝裕はひらひらと手を振るとそそくさと教室から出ていき実行委員の活動場所ーー視聴覚室へと向かっていくのだった。




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 前期祭まで残り一週間。


「孝裕、この枠組み運んでもらってもいい?」

「孝裕、こっちも頼む」

「安達君!これってどうしたらいいかな」

「孝裕、色塗り手伝って!」

「そこの少年、これ運ぶのお願い」

「孝裕君、俺の分もお願いね」

「孝裕、松風先生呼んできて」

「孝裕ーー」

「孝裕君ーー」

「孝裕ーー」

「安達君ーー」




「ーーおい孝裕、大丈夫か?」


「え」


 肩を叩かれ、上の空のなっていた孝裕は前の席に座った幸輝の存在に気が付く。

 ふっと睡眠から意識が覚醒するような感覚に困惑する孝裕は一度唾を飲み込むと、


「どうしたの?」


 孝裕はいつも通りの笑顔を作りを親友にいつも通り返事をする。


「どうした、じゃなくて大丈夫かって聞いてるんだよ」


「?‥大丈夫だけど」


「‥‥お前、最近変だぞ」


「変って、酷いな」


 「あはは」と空笑いをする孝裕に幸輝はため息をつくと机に頬杖をつき、


「いくらなんでも働きすぎじゃないのか?」


「そんなことないと思うよ。いつも通り、そう、いつも通りだよ。幸輝ならわかるでしょ」


 どこか無理のある、側から見れば普通の笑顔を向けられた幸輝は、胸に刃を突きつけられるような痛みを覚える。それを堪えるように唾液を飲み込んで息を吸うと、


「けど、お前のこと便利屋って呼ぶ連中もいるくらいなんだぞ」


「あはは、あながち間違いじゃないかもね」


「お前はそれでいいのかよ」


「大丈夫、大丈夫。しばらくしたら元に戻るんじゃないかな」


「ッッッ!!お前は!」


 他人事のように振る舞う孝裕の姿勢に耐えきれなくなり、勢いよく椅子から立ち上がった幸輝は息荒気に孝裕に言葉をぶつけようとしたところで気づく。

 その酷く困惑している顔に。まるでそれが当たり前、いつも通りだとでも言いたげな表情で幸輝を見ていることに。


 さらに遅れて気が付く。

 そうだった、それは今に始まったことではなかった。孝裕がこういう性格なのはとっくの昔から幸輝は知っていた。

 小中高と一緒の時を過ごしてきて、その長い時間の中で親交を深めてきたはずではないか。だから知っている、孝裕はこうしてーーーー。


 一瞬頭に過った古い記憶に心を締め付けられ、それが起因となり冷静さを取り戻す。

 勢いに任せて放とうとしていた言葉を喉元で堰き止め、粉々に砕くと、一度瞑目して椅子に座り、


「いや‥‥ごめん。なにか俺に手伝えることはあるか?」


 いつも通り、孝裕に問いかける。そうすると孝裕の答えも幸輝の知っている声音で、表情で、全てが予想通りのまま、


「大丈夫だよ!ありがとう」


 と、いつも通りに返してくれる。

 

「そっか、頑張れ。もし困ったことがあったら頼ってくれよ」


 そしてこれもいつも通り、幸輝は孝裕の努力を応援し、そっと見守ることに徹するように見せる。

 幸輝は己の無力さを孝裕にバレないように必死に噛み殺し、買ってきていたコーヒーを渡す。

 差し出されたそれを「ありがとう」と言って受け取った孝裕の表情はなんだか少し虚ろげな影を宿していた。それが酷く幸輝の印象に残り、心を絞り締め、不甲斐なさと申し訳なさを感じさせるのであった。




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「おっし!完成!誰かこれコピーしてきて!」


 話し合いの末、メイド喫茶に決まった一組の出し物を宣伝するために掲示板や校舎に貼り付けるためのポスターを製作していた


「今手離せない!!」

「「私も」」「「俺も」」


「だよね〜、でも私も次の作業やらなきゃだし‥」


「あの、楠さん。よかったら私行きますよ?」


 絶賛クラス企画の準備に取り掛かる一年一組。クラス委員長兼企画班班長を務める楠楓はにわかに声を張り上げクラスに駐在する不特定多数の人員に呼びかけるが、その多くの者も楓同様忙しくしており、楠のヘルプには応えることはできなかった。

 そんな中、挙手をし、いち早く名乗り出たのは沙織だった。

 クラスの視線が一定数が沙織の方へと集まり、少しだけ動揺しながらもすぐ平時通りの笑顔を浮かべ、


「ちょうどやること終わりましたので」


 自分の仕事が片付いたことをついでに報告するのだった。

 しかしその発言こそ衆人環視の興味を引きつけ、見ていなかった人たちの視線も集めることになる。


「マジで!?さおちゃん早くない!?」


 オーバーリアクション気味に驚く楓に笑いかけ、沙織はゆらゆらと首を横に振ると、


「そんなことないですよ、皆さんのお仕事より私のやつがたまたま簡単なものだっただけです」


 とは言うものの、チラシ代わりのポストカード製作、装飾作りと沙織の背負っていた仕事量を鑑みれば早々終わるものでもなかった。

 しかしそこが沙織の秀でていることのうちの一つだった。

 器用、というには一概には違うかもしれないが、沙織はとにかく細かい作業が得意だった。ポストカードは多少の色塗りと規定のサイズに切る、装飾は今回の場合は折り紙での鶴と手裏剣、そして鬱金香を数十個ほど作ることだった。他の人に比べると単純作業で、家でも制作することができたため、沙織は他の作業を行うメンバーより少し早く仕事を終えることができたのだ。


 予想外の仕事の早さに小さく拍手をした楓はそのまま右手で指を鳴らし、伸びた人差し指を沙織に突きつける。


「流石優等生!まぁそれは置いといて、頼んでもいいかな」


「はい!任せてください!」


「助かる!」


 楓からプリントを受け取った沙織は作業中のクラスメートを避け、教室を出ていく。


 慣れた足取りで職員室に辿り着き、複写機を借りて楓から預かったプリントを複製、大量生産。来る時より重くなった荷物を胸に抱え、再び教室に戻ろうと沙織は歩みを進める。


「孝裕君、確認したいんだけどさ」


 廊下の曲がり角に差し掛かる直前にふと、その先から聞いたことのある名前と聞いたことのない声が聞こえてきた。

 ゆっくり覗き込むように確かめると、そこにいたのは名前を呼ばれていた初恋の相手と知らない金髪の生徒だった。お取り込み中と窺えた沙織は話しかけたい欲を必死に堪え、別の道から行こうと、


「俺の代わりの仕事、ちゃんとやってくれてる?」


 したところで気になる言葉が聞こえ足が止まる。

 一歩戻り、気づかれないように悪いと思いながらもバレないようにこっそりと二人の会話に聴覚を集中させる。


「大丈夫、全部やってるよ!」


「そ、ならいいや。会長、なんか言ってた?」


「島崎君、会議に出ないから出席率が悪いとは言ってたけどそれ以外は特にだったよ」


「ん。サンキュ。聞きたことはそれだけだから」


「あのさ、島崎君。やっぱり君も実行委員、しっかり参加してみない?意外と楽しいよ!」


「楽しいとかどうでもいい。ーー引き続き、俺の代行作業、頼んだよ。孝裕君」


「あ、う‥ん。任せて」


 最後の方、孝裕の声から急に元気がなくなり、微かにしか聞こえなくなる。それ自体沙織にとっては緊急事態甚だしい状況であり、気がつけば沙織は平常心を失いかけていた。

 刹那、会話の内容と毎日忙しそうな孝裕、そして最近の孝裕の様子、その全てが一筆に繋がり沙織の中で一つの回答が完成する。


 沙織は、金髪の生徒が離れていくのを確かめるとすぐさま孝裕の元へ駆けていき、グイッと腕を引っ張ると、


「今の話はなんですか」


 勢いのまま言葉に脈絡のない質問を投げかける。だがこのタイミングでそれをされた孝裕は、「あはは、聞かれちゃってたか」と事態を察する。


「大したことじゃないよ、実行委員仲間の手伝いの話だよ」


「嘘です」


 孝裕は見るからにいつも通りの笑みを作り出し、沙織に振る舞うが、そんなの沙織が気づかないはずがない。今の孝裕はどう見てもーー。


 既に察しているとわかっているにも関わらず、繕った言い訳を述べる孝裕に思わず語気が強くなる。普段なら謝り反省するところだが、今の沙織はそれができなかった。

 話を聞いていた以上今の孝裕の発言が嘘だというのは誰でもわかる、問題はそこにない。嘘をつかれたのも悲しいことだが、沙織はもっと別のことに気を向けていた。


「孝裕君、私との約束、覚えていますか?」


「え」


「この間した休むって約束です」


「覚えてる覚えてる!ちゃんと休んでるよ!ほら、今日も元気!」


「誤魔化さないでください」


「‥ごめん。でもそんなつもりじゃ」


「手伝いじゃないですよね。全てのことを引き受けてる。それに休んでると言っても決して多いわけではないように思います」


 孝裕との会話はいつもなら幸せな感情になり気分が高まっていくのに、今は沙織の心をずっとズキズキと痛めつけ苦しい気分にさせる。

 今も明るく元気な様子を装っている孝裕に一歩大きく詰め寄ると、意外と逞しい孝裕の胸に顔を見られないようコツンと沈める。


「孝裕君、前よりずっと顔色がよくないです」


「‥‥」


「すごく無理してます」


「無理なんて‥」


「してます。孝裕君は優しい人です、だから無理をしてでも人のためになるなら自らを犠牲にして人の分も頑張ることを私は知っています」


「そんな、犠牲だなんて」


「だったら、今の孝裕君の行動はなんて言ったらいいんですか。他の人の分の仕事も引き受けて、自分の仕事もこなして、係の仕事や困ってる人を助ける。あまりにも良い人すぎます、‥‥あまりにもーー自分を捨てています」


「‥‥捨てる?」


 理解できず問いかける孝裕の声に胸の中に顔を埋めたままコクリと頷き、自分の胸に抱えているプリントを感情のままぎゅっと強く握り締める。


「そうです。孝裕君は他の方のことばかり考えて自分のことを蔑ろにしています。‥私は孝裕君の優しい性格を美点だと思ってますし、尊敬もしています。孝裕君の持つ温かい親切心は今後も大切にすべき長所だと思います。ーーでも、だからと言って、孝裕君が自分を犠牲にして良い理由にはならない」


「‥‥沙織ちゃん‥」


「人を思いやり、慮ることはとても大事なことです。そう簡単にできることではありません。ですが、その中にほんのちょっぴりでも自分のことを含めてあげることはできませんか?」


「‥‥‥」


「他人を思うように、孝裕君自身のことも思いやってあげることはできませんか?」


 懇願するように、縋るように感情を言葉に変え、声を震わせながらも訴えかける。

 辛く苦しい原因は嘘をつかれたことでも、約束を守っていないからでもない。ただ純粋にーー無理をしないで頼ってほしかった。ただそれだけのことなのだ。


 約束なんて大仰な言い方をしていたが、要するにただ休んでほしいという願いに他ならない。それを届けられる立場にありながら、あれだけ一緒に過ごした時間がありながら、何もできなかったことへの自分に対する憤りと、ブレーキを作ってあげれなかった後悔を沙織は感じていた。


 だからこそ、沙織は孝裕に怒りも感じていた。

 孝裕の自己犠牲の精神はこの一ヶ月と少しで多少なりともわかってはいる。だから沙織は手伝えることは手伝うと、孝裕の負担を軽くするために自分を活用してくれと伝えていた。にも関わらず、孝裕は誰の手も借りようとせず、全て抱え込み、どう見ても疲れ切っている様相なのに平然と振る舞い、隠そうとする姿勢が沙織には許せなかった。


「どうして、頼ってくれなかったんですか」


「それは‥」


「どうして全部一人で抱えようとしちゃうんですか!」


 沙織は孝裕から半歩下りさらに強く持ち物を抱き締めて止めることのできない感情の波を孝裕へと向ける。

 これが自分勝手だって、わがままだってことは沙織が一番わかっている。頼ってほしいなどとあくまで受け身姿勢で自発的な行動を取らなかったのは沙織だ。それでも、聞かずにはいられない、聞かずにはこの先へは進めなかった。


 思考に渦めく様々な感情。心配、不安、後悔、怒り、それらが堪えられなくなり沙織の瞳から溢れ落ちる。

 顔を上げ言い放った沙織は睨むように孝裕を見る。その視線を受け孝裕は目を伏せた。


 遠くでは前期祭に向けた活気のある準備の音が聞こえる中、二人の間ではしばしの静寂が空間を支配し、時間の経過とともにその場の居心地を悪化させていった。


 やがて孝裕は瞑目していた瞳をゆっくり開くと、普段絶対に見せることのないであろう暗い面持ちのまま沙織と視線を合わせる。


「僕は、今の方法でずっと生きてきた。だから無理してるとかじゃなくて、いつも通り、今まで通りにやってるだけだよ」


「‥‥」


「僕を信じて任せてくれる人がいる。僕はその信頼に応える義務がある」


 孝裕は顔を強張らせ、緊張で乾きかけている口を必死に動かして話す。

 正直に自分の気持ちを語るのはそれなりの覚悟を持たねばならない。それが今まで隠していたことならば尚更だ。

 孝裕は秘めた自分の思いを心を落ち着かせながら慎重に伝えていく。


「どれだけ大変でもいい、僕は優しい人間で在りたい。だからみんなが笑ってくれるなら、僕を必要としてくれるなら、いくらでも力になる。ずっとそうしてきた。自分のためにも、ーー母さんのためにも」


「‥‥」


「だから無理じゃないんだ、これが僕の生き方。だからこのくらい大丈夫だよ!心配してくれてありがとう!」


 最後、いつも通りの明るい笑顔を作り、沙織の不安と涙を吹き飛ばそうと気丈に振る舞うも反応は好印象なものでなく、むしろその顔色を悪化させていた。


 なにも孝裕の笑顔や明るい態度が気に入らなかったわけではない。沙織は孝裕の答えを聞いて自分の行動を怨んでいた。

 そもそもの認識が間違っていた。孝裕は我慢していたわけでも、一人で抱え込もうとしていたわけでもなく、ただーー頼ることの意味を知らないのだ。


 それに気づいてしまったことで沙織は自分の過ちを反省し、後悔する。

 沙織は震えた手で頬を伝った涙を拭き取ると、


「‥‥すみません。私、勝手なことばかり。本当に。ごめんなさい」


 それだけ言葉を言い残し踵を返して孝裕から早足に離れていく。

 孝裕は最後の沙織の表情に衝撃を受け、身動きが取れず、ただただその背中をじっと見送ることしか叶わなかった。


 そしてこれが前期祭前最後の会話になってしまうのだった。

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