【第七話】たわいもない会話をするために





「うぅ‥‥やっぱり緊張します」


「頑張れ!あとちょっと勇気を振り絞るだけだよ」


 情けない声を出し、立ち止まっている横で落ち着いた声音で励まし、先に進む勇気を与えようとしているのは、昨日喫茶『香天楼』で悩みを打ち明け「明日こそは」と意気込んだ沙織と、その相談相手の美智留だ。

 二人はあの後、たわいもない会話を続けることでより仲を深めることは叶い、互いの信頼感も前日と比べ強くなっていた。しかし、沙織の意気込みはやはりといって差し支えのないほどあっさりと砂のように飛び去っていき、想い人の属する教室の扉の横でワナワナと緊張で体を固め、逃げたそうな瞳で励ます友人を見る今に至る。


 時は四限終わりの昼食タイム。購買や食堂があること、前の授業が体育だったりした場合に教室に孝裕がいない可能性も考えて一度室内を覗いてみたところしっかり教室にいたので訪問中止はなくなり、逃げれるかもと微かに期待していた沙織は尚更緊張していく。

 ただ話すことのためにどれだけ時間を使い、それを無駄にしているのかは沙織自身重々承知しているつもりではあるが、いざ相対するといろいろ思い出してしまうので仕方がない、と心に言い訳をしてきた。


「でも、そんな日々も今日で終わりにします。いい加減ちゃんと話せるようになって、彼を、孝裕君をもっと知りたい」


「そうだね、その意気だよ」


「美智留さん、ありがとうございます。私、行きます!」


「うん、頑張って!」


 孝裕と仲良くなるため、その存在のことを深く知るため、そして相談に乗ってくれた大切な友人の期待に応えるためにも沙織はここで足を止めるわけにはいかなかった。

 扉の前で一呼吸。吸って吐いて、また吸って吐く。

 周りの音を遮断するように精神を整える。

 大丈夫だ、きっと、今日こそは話せる。


 整えた息のままゆっくりと引き戸に手を掛ける。

 そっと扉を開けると中は賑やかで、声を張っても届くかどうかわからなかった。職員室でもあるまい、人一人を呼ぶために大声で人を呼ぶのも迷惑になってしまうだろう。かといって先ほど確認した限り、孝裕の席は位置が遠く、他クラスの身からすると恥ずかしい。

 沙織は苦扉を開けたすぐ前に座っている生徒に近づき、


「すみません。一組の宮園沙織です。安達孝裕さんを呼んでいただけないでしょうか」


「安達?おう、わかった」


「ありがとうございます。廊下で待ってますね」


 沙織から頼まれた生徒は飲んでいたコーヒーを机に置き、のそのそと奥に座り友人と談笑をしている孝裕のもとへ向かってく。


「安達、宮園沙織って子がお前を呼んでたぞ」


「!?!?!?沙織ちゃんが!?」


「ん?沙織‥前言ってた初恋の子か?」


「そうだけど、それを教室で言わないで!」


「お、おう。悪い」


 友人のうっかり発言にしっかり注意した孝裕は、嬉々として教室後方の出入り口へと足速に向かう。

 廊下に出て左右を確認し、目的の人物を見つけると、一目散にそこに引き寄せられる。


「こんにちは‥孝裕君」


「沙織ちゃん、こんにちは!」


「すみません、突然お呼び立てして」


「ううん、気にしないで。むしろすごく嬉しいくらいだし!ところでどうしたの?沙織ちゃんもなにか頼み事?沙織ちゃんの頼みならなんだってお構いなしだよ!」


「??、いいえ、頼み事とかでは‥」


 いつも通り、否、いつも以上に明るく話してくれる孝裕の怒涛勢いに飲まれながらも、沙織はここへ来た目的を伝えようと必死に地面を見ていた。そう、地面を。

 「無理です。死んじゃいそうです」これが今の沙織の出せる限界だった。


 助けを求めるように隣をチラリと見る‥が、そこにはさっきまで一緒にいてくれた友人の姿は消えており、一瞬目の前を見れば想い人がとてつもなく眩しい笑顔を沙織に向け、話してくれている。


 心臓の鼓動がうるさい。緊張で冷や汗が体を伝うのがわかる。もう逃げ出したい、結構頑張ったのでは?昨日よりは進展した‥気がする。などと言い訳を頭に並べるが、その言い訳の先には自分の描く理想の未来、孝裕と親密な関係になっている構図が浮かばず、今となんら変わりのない形のままだ。

 そんなのではだめだ。友人に幾度も励まされ、頑張ると決めたではないか。もう逃げてはいられない。


 意味のないものだけを映す瞳に、本来映すべき話し相手の方を見てその姿を今度ははっきりと認識する。大丈夫ではないが大丈夫だ、と心を支配。刹那の沈黙の間にどれだけの思考が動いたのか沙織にもわからないがただ一つ言えるのは、とても冷静になれた。

 あの時のようなテンションの異常による冷静とは違う。気持ちはあの時と変わらずも、早計な判断を下さない冷静さ、孝裕が互いを知るために『恋人前提の友人関係』を提案してくれるまで至れなかった、本来の思考回路を持った落ち着きが沙織の中でようやく完成する。


 緊張で硬直していた表情筋が緩み、自然と穏やかで華やかな笑顔を沙織は向けることができた。その沙織の変化に突然の訪問にはしゃいでいた孝裕も呆気を取られ、強烈な魅力に釘付けになる。


「いえ、これは私のわがままなので頼み事かもしれません」


「?」


「孝裕君、お願いがあります」


「‥‥」


「私、孝裕くんともっと話したいです。なので、もしよかったら、今日、一緒に下校しませんか」


 瞬間、周りの音が全て掻き消える。昼休みも中盤に差し掛かり、廊下を歩く人出も落ち着いてきた頃合いだが騒がしいことには変わりない。

 そんな環境を覆すように孝裕の世界から沙織以外の全てが真っ白に染められる。

 純白の世界にたった一人、色を残した相手は今まで見たことのない表情を湛えている。初めにあった夏祭りの夜とも、再会した入学式の日とも違う、真新しい笑顔。いや、これが本来の彼女の姿なのだろう。


 それがわかると孝裕も自然と舞い踊っていた心が落ち着き、普段の装いを定する。


「そんなこと、お願いされなくても答えは決まってるよ」


 落ち着いた心が体を満たしていくに従い、闇夜に浮かび地上を照らす儚い輝きを放つ月のように優しい微笑ができると、


「もちろん。一緒に帰ろう。僕も沙織ちゃんと話したいことがたくさんあるんだ」


「ほ、ほんとですか!やった!」


「待ち合わせ場所は中庭でいいかな?」


「はい!そこで大丈夫です!ふふっ、とても楽しみです!」


 孝裕の返事を聞いた沙織は今にも跳ね上がりそうなほどパッと顔をさらに明るくし、はにかみを向けてくる。それを見た孝裕もつられるように同じ表情になってしまう。


「それでは、また帰りに!」


「うん、また後でね」




←←←←←☆→→→→→




 無事に約束を終えた沙織は嬉々としてその場を離れていく。振り返り様に孝裕に向けて手を振る姿がなんとも無邪気で愛おしいと孝裕は心中で悶える。


 たかだか一緒に帰る約束を取り付けるだけにかけるには一週間という期間はあまりにも長かった気がするが、いや、事実長かった。沙織は孝裕を知るため、話すため、挑戦しようと試行錯誤していた。逃げたことへの罪悪感を覚えながらも諦めたくない気持ちを優先し、友達に相談してようやくこの場に辿り着けた。


 孝裕も口にしないだけで不安に感じていた。しかし沙織のペースを、それ以前に沙織を信用して、再会の日のように自分が先走らず、相手のタイミングを待つことにしていた。永遠と続くようだったら孝裕も自分から言っていただろうが、今回はそうならず、沙織を信じ切った孝裕の判断は正しかった。そしてそれは予想以上の結果をもたらしてくれた。


 ただ話してくれるだけでよかった、話そうとしてくれるだけで幸せに感じていた。でも、沙織は一緒に帰ろうと、いつかできたらいいなと呑気に待とうとしていたことをこんなにも早く現実にしてくれた。それも逸った気持ちで言ってきていないと、そう感じさせるには十分なほど自然な明るい笑顔を向けて。


 沙織と比べて大きな手のひらで顔を覆う。落ち着いていたはずの感情は沙織が目の前からいなくなったことで解けていく。

 嬉しくて楽しみで顔がにやけてしまう。


「変わりすぎだよ、沙織ちゃん。‥‥やっぱ好きだな」


 初日以来、目もろくに合わせられず、会話もできる状態ではなかった想い人は、突然下校の約束を取り付け、緊張の解けた様子の自然な微笑みで『また』と言ってくれたのだ。本当に、孝裕からしたら今日の沙織は昨日までの沙織とは別人に感じるような変化だった。


 一分ほどその場に立ち尽くし、人がまばらに通る廊下をしばし眺める。胸の高鳴りを残したまま、孝裕も教室へと戻っていく。


「孝裕おかえり‥‥どうした?」


 開けた扉を閉めて自席へと戻っていくと、席に着く前に離れる前と変わらない位置で座っていた少し制服を着崩した男子生徒がおにぎりを頬張りながら話しかけてくる。やはり友人とは凄いものだ。この青年と孝裕の付き合いは小学校から換算して九年目になるとはいえ、ほんの一瞬で孝裕の異変に感づいた。しかしそのことに孝裕は驚く素振りすら見せず、「幸輝」と青年の名を呼ぶと、


「僕、幸せすぎて死ぬかもしれない」


「‥‥は?」


 女子に呼ばれたことを知る身としては、孝裕が惚気とも取れる発言をしたことに冷めた返ししかできなかった。が、今まで見せたことのないようなウキウキした孝裕の姿に幸輝は「はぁ」とため息をつくと素直に話を聞く体制へとシフトチェンジをする。


「なんかいいことでもあった?」


「沙織ちゃんに帰り誘われた。やばい、嬉しい、どうしよう」


「どうしようって。帰ればいいだろ、そんなの」


「何話したらいいかな?」


「好きなこと話せばいいんじゃない?」


「うまく話せるかな」


「お前なら大丈夫だよ。十年一緒にいる俺が保証してやるよ」


「ははっ、ありがとう」


「よかったな。話せて」


「うん、ほんとに、よかったよ」


 目の前で机に溶けながらいい顔をする孝裕を見ているとなんだかこっちも幸せな気持ちになってしまう、と、幸輝は頬杖をつきながらそっと笑う。

 九年という長い付き合いだからこその関係性を見せる二人は、もしこの場に沙織がいたら妬いてしまうのではないかと心配するほど仲睦まじい雰囲気で余った昼休憩の時間を共にするのだった。

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