【第三話】『憧れ』の融解と『初恋』の凝固





 ホームルームでは今後の予定を一頻り話されただけで、これといってやることもなく、すぐに解散になった。

 席の間違いにより仲良くなれた美智留に挨拶を交わし沙織は、生物担当の教員を訪ねるため、職員室へと向かっていく。


「えっと、職員室は確かここを曲がって」


 如何せん初めて向かう場所のため、ゆっくり確かめながら足を進めていく。校舎が広く若干迷ってしまいそうにもなるがそこは高校生、なんとか無事に目的地へと辿り着くことができた。数年前の自分だったら確実に迷っていたがそれはさておき、職員室の中を覗いてみると当たり前だが多くの教員が座っており、自然と背筋を正される。

 職員室前の壁をノックしてから一度大きく息を吸い、中にいる人全員に届く声量で、


「失礼します。一年一組、宮園沙織です。伊井野先生はいらっしゃいますか」


「へーい、ここだよー」


 沙織が呼びかけると奥の方からなんともやる気のない返事が聞こえてくる。その方向に向かい「失礼します」と改めて言って職員室の中に入っていく。書類や机でびっしり埋まっていてなかなか狭い環境の中、物を倒さないように慎重に進んでいき声がしたほうへと近づいていく。が、しかし、肝心の声の主の姿は見えず辺りを見回していると真横から何かにぶつかる鈍い音が鳴る。


「いったぁー」


 音の方へ視線を移してみると、机の下からごそごそと頭を抱えながらゆっくりと出てくる姿が現れ、一瞬びっくりするがそれも束の間、音と頭を抱える姿から頭をぶつけたのだと察した沙織は「大丈夫ですか!?」と慌てて駆け寄っていく。


「ごめんねー、ペン落としちゃってさぁー、いったぁーい」


 机の中から姿を表したのは白衣姿の小柄な女性だった。座っているからなのか地面に接するほど長い白髪と小柄な身長とは対照的に思えるほど豊満な胸を揺らし、ゆっくりと立ち上がる。しばらくぶつけた頭を撫でた後、疲れたように自席に深く腰を沈めた。

 一休みする伊井野にそのまま寝てしまいそうな雰囲気を感じ取った沙織は、伊井野の肩を叩き、


「あ、あの」


「ほぉ、可愛い子だね。今度お茶でもどうかな?」


「えぇ!?」


 沙織を見るや否や目をぎらつかせた伊井野の唐突な誘いに顔を赤くして少し驚く。最初はふざけているのかと思ったが、しかし、伊井野の目からはふざけている様子がこれっぽっちも感じられず、なおさら沙織を困らしていく。

 沙織がどう返そうか悩んでいると中々返ってこない返答を否定と捉えたのか、「ちぇー」と椅子を回す伊井野は、何周か回ったあたりで「気持ち悪っ」と足を地に伸ばし回転の勢いを止める。


「それで、この伊井野ちゃんになんの用事かね」


 机に頬杖をつき、沙織の訪ねてきた理由を聞いてくる伊井野に沙織は驚きを一旦仕舞い、息を整えて自分がここにきた理由を伝えることにする。


「うさぎのお世話係の掲示を見てきたんですけど」


「ああ!あれね、はいはい。それじゃあ、そっちの子ももしかしてそれできたのかい?」


「?」


 伊井野は沙織がきた理由に納得すると明後日の方向へと声を投げかけた。そのことの意図が理解できず、それを確かめるように踵を返し振り返る。沙織が声の飛んでいった方へと振り返るのとその人物が「はい、そうです」と返事を行うのが重なって二人の視線が噛み合う。お互い顔を合わせた状態になり数瞬の時が流れた後、二人の思考を衝撃が襲う。


「あ、朝の方!」

「あ、朝の」


 頭に浮かんだことをそのまま声に乗せて発してしまう沙織だったが、それは相手も同じだったらしく二人仲良く驚愕に思考を委ねる。

 朝公園で出会った青年とは同じ学校の生徒とわかっていたため、いつかはあるだろうと考えていた沙織だったが、こうも早く会うことになるとは思っておらず、まさかの再会に入学式の時の思考力は消し飛んでいた。その様子を伊井野は何が起きているのかさっぱりな顔つきでしばらく立った後、手を叩いて二人の意識を自分に集中させる。


「なにがなんだかよくわかんないけどとりあえず話を戻そう」


 伊井野の切り替えの合図に我に返った二人は「「すみません」」とこれまた一緒に謝り伊井野の調子を狂わせていく。


「改めて聞くけど、二人はうさぎの世話係に立候補してくれるってことでいいのかな?」


「はい、私はそのつもりで」


「僕も彼女と同じです」


 伊井野の確認にそうだと肯定を示した二人にいいのは少し困った顔をする。その反応に沙織と青年は顔を見合わせ、


「なにか問題でもございましたか?」


 沙織の問いかけに近くに置いてあったボールペンで自分の頬をぐにぐに押しつぶしながら、


「いやー、まさか二人も来てくれるなんて思ってなくてさ。面倒くさいし、あーあ。ちゃんと書いとけばよかったかな」


「僕らじゃなにか不都合ありましたか?」


中々答えの掴めない伊井野の返答に新たに疑問をぶつけるのは沙織の横に立つ黒髪の青年。再三の質問に伊井野はますます困った顔をして、嘆息混じりに口を開く。


「えっと、とても言いにくいんだけどさ」


「「‥‥‥」」


「適当に作ったから書いてなかったんだけど、世話係、多分だけど一人で事足りるんだよね」


 座っている椅子を一回転させ、二人を正面に捉えたところで、


「つまり!この仕事は一人で十分だ!どっちがやるか決めたまえ!!」


 と、ペンで二人をさしながらウインクして決め台詞を吐くように言い放ったのだった。


「係の活動内容としては、朝と帰りの餌やりと掃除かな。あ、できたら朝早く来れる方に頼みたい」


 簡易的に作業内容と朝早くという条件が提示される。一度青年の方に顔を見やると、青年は苦い顔をしていた。どうしたのか考えていると、ふと、朝あった時に青年は自転車に乗って登校していたことが思い出された。自転車で登下校できる範囲とはいえ、徒歩で通う沙織と比べたら遠い場所に住んでると察した沙織は軽く手を上げ、


「じゃあ私がやります。家も近いですし、朝来る時間も問題ないかと」


「!?」


「おお、それなら君に任せようかな!」


 沙織の発言に青年は驚き、伊井野は満足な表情を作った。しかし青年は何かを察したように急に慌て出し、


「いいよいいよ、気にしないで。早起きなら僕得意だし、朝も全然来れるから!僕がやるよ」


 気を遣われていることを悟った青年は、自分のことは気にしなくて良いと自分の体調管理を無視した理由を取り付けてくる。しかしそれを沙織が見逃すわけもなく、


「でも、自転車登校で毎日朝早く来るなんてこと続けてたらその内疲れて体壊れちゃいますよ」


「うぅ、確かに」


「さっきも言った通り、私は家も近いですし、私に任せてください」


「無理は駄目だよ、ここは彼女の言葉に甘えとくのが賢明な判断ってものだよ、青年!」


 と、沙織と伊井野に見破られた見栄を嗜められ、この場は大人しく引き下がる青年。自分でも無茶なことだと薄々気づいていたようで、これ以上何も言ってこないのがその証拠だろう。申し訳なさそうに目を伏せる青年を見かねた伊井野は「やれやれ」と頬を掻き、


「そういえば、花壇の手入れも誰かに任せたいと思っていたんだけど、よかったら引き受けてくれたりしないかな?」


 伊井野は正直面倒くさくてその内誰かに任せたいと考えていた花壇の手入れを青年に任せてもいいかと提案する。


「仕事内容は授業後の水やりだけ。これなら登校時間に問題ないし、帰る時間の都合がよければ、どうかな?」


「じゃあ、ありがたく引き受けさせてもらいます」


「よし!わかった!‥‥やったね、これで朝早く来なくて済む、ラッキー!」


 最後の方は声が小さすぎて何を言ってるか聞こえなかったが、伊井野の青年に対する機転に沙織はこっそり感心する。青年からも先程まで浮かべていた済まなそうな面持ちは最初と比べて薄くなっており、少し安心する。沙織も半ば強引に青年を引き下がらせた自覚はあったため伊井野の機転にありがたく感じてもいた。

 そんなこんなで無事にうさぎのお世話係は沙織。花壇の手入れは青年に決まったのであった。




→→→→→☆←←←←←




 職員室をでて二人は廊下を歩いていく。沙織はお世話係として初めての仕事をこなすために、うさぎ小屋に向かっている。青年も花の手入れのため同じ方向に位置する花壇へと向かっている最中だ。

 何がとは言い難いが、なんとなく気まずい雰囲気が二人の間を流れていく。何を話せばいいか分からない中、最初にその空気を断ち切ったのは青年の方だった。


「さっきはありがとね。自転車で通学してる僕に気を遣ってくれたんだよね」


「いえいえ、さっきも言ったでしょう?私はたまたま家が近いので私の方が早く来れると思っただけですよ。そんなに気になさらないでください」


 十分ほど前に話題になった、誰がうさぎのお世話係を担当するのか問題で沙織が青年の身を考慮し、自分が引き受けるといったことへの礼を青年はわざわざ言ってくれる。沙織としてもそのことは一切気にしていなかった。


「そんなことよりも!もっと自分の身を大切にしたらどうですか?ボランティアとか人助けをすることは非常に褒められたことですけど、自分の体を無視したやり方はいただけませんよ?」


「あはは、返す言葉もないな」


 青年の自己犠牲を材料に進む精神に沙織は少し怒っていた。出会って間もないとはいえ、あれが自然に口から出るというということは、普段からそうしたやり方をしているに違いない。人の生き方は初対面でも見れば、わかるところはわかるものだ。

 沙織の怒り混じりの注意に弱気な笑顔を見せ、語気すら弱まる青年。そんな青年の様子に嘆息しながら、


「人のために行動するのも大事なことですけど、しっかり自分のことも見てあげてくださいね」


「ははっ、りょーかい」


 青年の力ない返事にどこかやるせない気持ちになるが、そのことは吐いた息と一緒に一度その場に置いていくことにして話を別のものに変える。


「また、会いましたね」


「あ、やっぱり君だよね」


「気づいてなかったんですか?」


「気づいてた気づいてた!おかげで遅刻せずに済んだよ、ありがとう!」


 話題の変更先でも感謝を伝えてくるあたり、いい人過ぎると思いながら、「それならよかったです」と返事をし、


「あなたは優しい人ですね」


「へ!?」


 先刻まで注意されていたこともあり、唐突な褒めに驚きと照れを隠せない青年の様子に、沙織は口元を手で塞ぎ、大きい青色の瞳を喜色なものに変える。沙織の反応に青年は、「何かおかしいかな」と照れていることを必死で隠した表情へと変えていく、それがさらに沙織の心を煽っていきついつい笑みが溢れてしまう。


「何もおかしくないですよ。立派なことです。朝もあのお母さんを介抱してたんですよね。すごい優しい人じゃないですか」


「それは‥。困ってる人がいたら助けるのが当たり前だから」


 青年のその言葉に嘘偽りや、自分を飾るために作られた虚飾性といった気配は感じられず、ただ純粋にこの青年は人助け、人に優しくするということを当たり前に生きてきたのだと、彼の立ち振る舞いや言葉からそう受け取る。

 優しさをここまで当たり前に生きている人間がどれだけいるだろうか。

 自然と記憶の中からそれに該当する唯一の存在が頭の中に浮かんでくる。今まで出会ってきた多くの人たちの中でもっとも自分の心に残り、人としての在り方を示してくれて、周りが見て見ぬ振りをする暗い闇の中、自分に救いの手を差し伸べてくれた人物。彼のようになるために、見返りを求めない純粋なその姿に憧れてきた沙織は、秘かにその人を心から、


「‥‥‥‥ぁ」


「ーーどうしたの、大丈夫?」


 頭に浮かぶその正体と今まで解決せずにずっと蟠りとして残っていた疑問が自然と、突拍子もなく結びつく。その存在が自分の中で目指すべきところと定義しておきながら、そんなはずがないと無意識に除外していたその存在と、接してみて感じた青年の持つ印象がゆっくりと重なっていく。

 突然立ち止まり、声を掠れさせた沙織に心配そうな顔で優しく手を差し伸べてくれる優しい青年。その行動、その仕草がますます遠い記憶の中に姿を成すあの少年と一致していく。

 呼ばずにはいられない、確かめずにはいられない。聞かなければ、確かめなければ。確証は持てないそれに決着をつけなければ。

 何度か瞬きを繰り返し、唇を舌で湿らせてそれを確かめる、


「孝裕くん‥ですか?」


 勇気を振り絞り出した声は、うまく届いたのか。それさえも分からないまま時間は沙織を飲み込んでいきその場の時が止まる。実際には止まっていないものの、本当にそう錯覚を覚えるほど彼の返答までの時間が長く感じ、この空白の時間がなんとも焦ったく思えた。

 問いかけの答えを待つ沙織に青年は、静かに目を見開き、


「うん」


「ぁ」


「僕の名前は安達孝裕だよ。久しぶりだね」


 と、青年ーー孝裕は、惹かれるほど優しい微笑みで頷いて見せる。


 あの夏祭りから長い年月が過ぎ、背丈も声色も変わっているけど、あの時と変わらない優しい生き方は、どんどん記憶の彼と目の前にいる彼をシンクロさせていく。

 実感が湧かない。あれだけ憧れて、あれだけもう一度会いたいと願い、あれだけーー心を奪われた存在が今、目の前にいる。

 心の臓の鼓動が未だかつてないほど速くなり大きくなる。外にまで聞こえているのではないかと心配になるくらい強く、熱く鼓動するこの感覚は、あの夏祭りの日に感じたそれと似ていた。

 似ていると、そう思えるくらいにはこの感情の正体を沙織は知っている。それは沙織の心をあの夏祭りの夜からずっと蝕み続け、押し寄せてくる熱を『憧れ』に変換することで誤魔化した感情。しかし気づいたが最後、しばらくはその熱の持つ魔力に侵食されていき耐え難いほど焦がれてしまう、甘くて熱い気持ち。忘れたくても忘れられない。隠したくても隠しきれなかったこの激動。

 あの夏祭りの怖くて寂しかった瞬間、みんなが見て見ぬふりをする中で、唯一手を差し伸べ助けてくれた『憧れ』とした存在。会いたいと願いながらも、もう会えないだろうと諦めていた遠き存在。そんな沙織にとっての王子様が今、目の前であの時と同じように優しい瞳で笑いかけてくれる。

 沙織はついに『憧れ』と、




ーーーーーーー初恋の人と再会することができたのだった。




ーー解けていく。




 初恋の人に再会できたと認識するや否や徐々に顔や耳が真っ赤に染まっていき、孝裕の目を直視できなくなっていく。その反応を見られたくないと、沙織は持っていた鞄を顔の前に持ち上げ完璧に顔を隠す。

 対象の顔が見えなくなったことでほんの少しだが冷静に思考を巡らせることができるようになった。なったのだが、それのおかげでもう一つの衝撃的な事実に気がついてしまう。

 孝裕の「うん」という肯定に気を取られて考えるのを放棄していたが改めてそのことを考えるとさらに胸が熱くなっていく。


 「久しぶりだね」と彼は言っていた。それの意味するところはつまり、


「もしかして、覚えててくれたんです‥‥か?」


 沙織は鞄で顔を隠したまま、出ているのか出ていないのかはっきりしない程の声量で恐る恐る孝裕に聞いてみる。

 言葉の意味と話のタイミング的にそうだということは聞かずともわかっているのだが、先の可能性からでた疑問とは違う理由で聞かずにはいられなかった。

 そんな沙織が抱く感情を他所に、孝裕はより一層顔を明るくして、


「うん、沙織ちゃんだよね?覚えてるよ!」


 と、沙織に届かない笑顔で答えてくれる。

 求めていた以上だった。単純に覚えているかいないかを、わかっていながらも本人の口から改めて聞きたかった。ただそれだけの理由の問いかけだったものが、孝裕は、沙織の求めていたものより遥かに嬉しい回答で返してくれた。


「‥‥‥」


 心が落ち着かない。一体これからなにを話したらいいのか、その糸口を見つけられないまま沙織は鞄を徐々に顔の位置から下ろしていき、孝裕の方に鞄越しにも背けていた視線をちらりと動かす。


「ッッ!!」


 目があった。合わせるつもりはなかったはなく、少し孝裕の顔を見ようとしたところで奇しくもお互いの視線が交わる。

 ちょっとだけ落ち着いてきていた沙織の表情はまた真っ赤になり、いよいよ耐えるのにも限界になってくる。


「あの、えっと、その‥‥ごめんなさい!」


 そうして一目散にその場から物凄い勢いで離脱していくのであった。



ーー解けていく。




→→→→→♡←←←←←




ーー解けていく。



「私ったらなにを」


 廊下を走り抜け階段を猛スピードで駆け上がり、女子トイレに身を隠した沙織は静かに自分の行いに反省する。

 何度も自分勝手に質問した挙句、その人物をその場に置き去りにして颯爽と居なくなったこの愚か者を彼はどう思うだろうか。そんな心配を宿しながら水面台の鏡に映る自分の姿を見る。


 逃げ出したくなるほど嬉しかったといえば聞こえはいいが、それはあくまで自己に留まる範疇のもの。さっきまで普通に会話していたはずの子が急に、しかも逃げるように自分の前から離れていかれたら、一体その人はどう思うだろうか。


「絶対変な子って思われました」


 わかりやすく頭を抱える姿を鏡を通して視界に映す沙織。たが、そんなことはどうでもいいとばかりに無視をして、逃げ出したことに後悔を深めながら、今もなお熱く心を焦がしている熱に向き合い始める。


「でも覚えてた。私のこと、覚えててくれました」


 改めて彼が与えてくれた熱を噛み締める。ほんの一瞬の思い出。時間にしたらたかだか一時間程度の、人によっては思い出にもならない出会いを、長い年月が経った今も覚えてくれていたことに沙織は燃えるような錯覚を覚えるほど顔を熱くさせながら歓喜していた。頬に触れると確かに熱くなっており、ますますその熱を実感させられてしまう。


 自分一人の思い出だと思っていた。自分一人で完結する感情だと思っていた。もう会えることはないだろうと諦めていたから『形』を無理やり変えさせ、『憧れ』として自分の進むべき道としてきた沙織の目標である尊き存在。無理やりとはいえ掲げた目標に近づくための努力はしてきたつもりだ。そこに嘘はないし『憧れ』であることも決して嘘ではない。ただ、その奥に姿を顰め主張してくるその感情を塗りつぶせるほどの力はそれにはなかった。


「すごい嬉しい」


 ぽつりと、涙が頬をつたい流れ落ちていく。それはそのまま止まることはなく、続々と温かい気持ちとともに溢れ出してくる。


「嬉しい!」


 悲しくはない、嬉しいのだ。その証拠に沙織は笑っている。泣いているのに喜んでいる。一見すると奇妙な光景だが、これが世に言う嬉し泣き。

 誰もいない静かな空間に一人、溢れてくる涙を拭っていく。


「こんな奇跡ってあるんですか!こんな偶然って!」


 名前と優しいということ以外知らない初恋の男の子がたまたま同じ高校で、クラスも違うのに一日に二回も遭遇し、相手は沙織のことを覚えててくれた。そんな偶然の重なりがあるだろうか。あったのだからあることは確かなのだが、


「もしかして夢?まだ私寝てるんですかね!?」


 信じ切ることのできない沙織は紅潮している頬を思いっきりつねってやる。痛い、すごく痛い。


「痛ったぁ」


 痛みにより落ち着いたのか、涙は流れなくなっていたが、クリアになった視界に映る鏡の中の自分の姿を確認すると、赤くなっていた頬が別の原因によりさらに赤くなっていた。


「ふふっ、酷い顔ですね」


 思わず吹き出した沙織は蛇口を強く捻り勢いよく水を出す。時間の経過と一頻り泣いたことにより、ゆっくりだが落ち着きが戻ってきていた。

 春のまだ寒い時期だったこともあり、蛇口から流れる水は少し冷たかったが、それは逆に沙織の意識を落ち着かせることに役立った。何度か冷水を顔に掛け、ポケットに入っていたハンカチで顔を拭く。相変わらず目は泣いたせいで充血しているが、だいぶマシになったなと置いていた鞄を持ち上げる。


「もう大丈夫です、多少‥‥結構取り乱しはしましたが、もうあんな醜態晒しません!そんなことより、突然逃げたことを謝らないと」


 無理やり感があるのは否めないが、自らを鼓舞して逃げ場としていたトイレを後にする。ドアを開ける時、ちらちらと外を確認しながら、まるで怪しい人のように外に出たのは誰にも見られていなかったので良かったと安心する。


「あ、うさぎさんのところに行かなきゃ」


 ふと、さっきまでなんのために廊下を歩いていたのかを思い出し、急いで中庭方面に足を向かわせる。途中下駄箱で靴に履き替え、中庭の隣にあるうさぎ小屋に無事到着するのだが、


「‥あれ」


 モリモリと適量に盛られた餌にありつくうさぎの姿と既に綺麗に掃除された飼育小屋が沙織の目に映った。


「伊井野先生はまだ掃除してないって言ってましたし、これは‥‥」


 うさぎが沙織の存在に気がつき、ぴょんぴょん跳ねながら近づいてくる。鼻をひくつかせたその存在に沙織は驚かせないようにスカートを畳みその場にゆっくりと屈む。そっと小さく少し硬い頭を軽く撫でると、気持ちがいいのか甲高い音を鳴らしながら目を閉じる愛らしいその動物に、


「よしよし、可愛いですね」


 その、あまりに癒し要素を兼ね揃えた存在に沙織は釘付けにされる。


「やっぱり、私は動物さんと仲良くなる才能があるみたいですね」


 うさぎは警戒心が強く臆病な性格。ほとんどの兎はこのように、初対面の人間に心を開くことはないのだが、そこは沙織も不思議に思っているところ。沙織は昔からどんな動物にも最初から懐かれるという特技のようなものを持っていた。当人は動物のことは好きなのでとても喜んでいるが、妹の栞はその真逆の特徴を持つため、沙織が動物に触れているといつも怯えた視線を向けられる。


「こんなに可愛いのに。栞ももったいない性格ですね。それより」


 おそらく今も家で寝ている妹のことを頭に描きながら、視線をうさぎから小屋の方に移す。

 既に清掃を終えた状態にある小屋は、伊井野が言うには沙織がここにくるまで本当ならまだ掃除をされていない状態のはず。


「‥‥孝裕君、ですよね」


 苦い笑いを浮かべながら、恐らくこの飼育小屋を掃除してくれたであろう人物の名前を呼んでみる。この場にいない故にもちろん返答はないが、なんとなくそうなんだろうと根拠の答えが沙織を納得させた。


「あ、やっぱりそうですね」


 小屋からすぐ隣にある、そこまで広くはない花壇に目が届き、それが確信に変わる。

 太陽の明かりに照らされた花たちは、全体に付着している水滴の影響で美しく輝いていた。学校には部活に勤しむ生徒や教師以外の者は現時点でほとんど帰宅しており、伊井野の反応から沙織と孝裕以外で係に志願したものはいなかったと考える。この場に用事があったのは沙織と孝裕だけで、既にお世話を終えたうさぎ達に花壇に咲く花々。つまりそういうことなのだろう。


「あれ、沙織ちゃん」


「!?」


 なんの前触れもなく、背後から声をかけられ肩を震わせる。振り返るとそこには今の今まで沙織の思考を支配していた青年ーー孝裕が肥料を持って立っていた。いよいよ幻まで見えるようになってしまったのかと、何度か目を擦るも、ただ擦っただけに終わり、そこにいる彼が本物だと証明する。


「急にいなくなちゃたからびっくりしたよ」


 孝裕は穏やかに笑いながら沙織がいなくなったことに言及する。それでようやく我に返った沙織は、


「ご、ごめんなさい。えっと、その、びっくりしちゃって」


 歯切れは悪くも、なんとか表情を引き出し、返答をし終える。逃げ先で大丈夫だと己を鼓舞しておきながら、彼を目の前にした途端これなのだから目も当てられたものではない。


「僕もびっくりしたよ、まさかあの時の子とこんなところでまた会えるなんてさ」


「‥‥‥」


「しかも覚えててくれたなんて、僕、凄い嬉しかったよ」


「え」


 孝裕は今、なんと言った。嬉しいと言ったのか。

 沙織は既に何度目かわからないが、またもや孝裕に心を釘付けにされていた。そこに深い意味なんてないのかもしれない。ただ純粋に、たまたま覚えていた人物との再会に喜んでいるだけなのかもしれない。それでも、沙織にとってその言葉はとてつもない魔力を有していた。

 自分でも自らのことを、単純だなと感じてしまう。ただそれだけのことでこんなにも胸がドキドキしてしまうなんて、自分自身が一番驚いている。


「私も、嬉しかったです」


 正面は見れない。見ると死んでしまう。そのくらい心臓の鼓動は荒れ狂っていて、毎秒血熱を滾らせていく。

 だが、それに抗うように息を整え、チラチラと目線を送り、


「どうして、覚えててくれたんですか?」


 恐る恐る聞いたそれは、今一番気になっていること、そのままだ。

 沙織が孝裕を覚えていたのは言わずもがな。しかし、孝裕が沙織を覚えている理由がわからない。


「‥‥‥‥」


 考えうる可能性としては、孝裕の記憶力が異常なほど良かった。もしくは、沙織と同じ理由で、


「ないない」


 そこまで考えたところで、絶対にありえないと、心の中で静かに選択肢を排除する。

 未だに目を見ることは無理だと判断した沙織は、目を合わせるふりをして奥の景色に焦点を合わせる。視界の中で、孝裕は考え込むように顎に手を当て、


「ーー初恋だから、かな」


「!?!?」


「ーー!?」


 小さく告げられたそれを境に、遠くへ向けられていた視線は自然と相手に重なった。互いの視線がかち合った時、二人の意識を残したまま、世界がその動きを止める。一方は自分の発言に、一方は排除した可能性の再出現に終わらない問答を己の中で繰り広げる。

 猛烈に襲いかかる情報量に、中身は違えど両者は顔を真紅に染め始め、それぞれの反応を見せる。


「もしかして、聞こえた?」


「‥‥‥はい」


 若干冷や汗を浮かべ、何かに期待したように確かめてくる。が、その期待は沙織の返答で見事に撃ち落とされ、孝裕を羞恥の渦へと誘っていく。

 一方の沙織といえば、既に度重なる嬉しさという衝撃に、思考回路がショート寸前。再会、名前を覚えられていたこと、そしてーー孝裕の初恋が沙織。あまりに突然で、あまりに現実味のない幸福感に、困惑と歓喜で身が弾けそうになっていた。

 そのため、孝裕の質問に気の利いた誤魔化し返事を作れず、素直に答えてしまった。むしろ確認の質問をされたことにより、初恋発言が確かなものになったことで、答えの曖昧化を不可能としていた。


「‥‥‥‥‥」


「‥‥‥‥‥」


 二人の間をなんとも言い難い気まずい雰囲気を孕んだ静寂が支配する。お互いに視線を合わせることはなく、孝裕は顔を手で覆い、沙織は赤面させながら地面を見つめていた。

 だが、予想外にも早く冷静になったのは沙織の方だった。冷静というには些か治まりがないきらいはあるものの、今の孝裕と比べたらマシに見えるだろう。それは思考が停止し、崩壊したからなどというふざけた理由ではない。唯一、崩壊という点だけ合っていると言っても間違いではないことは否めないが、単に、緊張が緩まり、溜め込んでいた想いが溢れ出ていこうとしているから。それは堰き止めていた壁を崩すが如く勢いを増していき、ーー解けていく、


「孝裕君」


「‥‥‥」




「ーー私も同じです」


「!?」


「私があなたのことに気づけたのは、あなたに憧れていたから。いいえ、あなたのことが、ーー好きだったからなんです」


 沙織は言葉を紡ぐたびに、自分でも驚くほどに穏やかな気持ちなっていくのを感じた。


「最初に気づけなかったのは、まさかそんなことがあるなんて思ってもなくて」


 溢れていく、今まで堰き止めていたものが、感情が、ーー愛が溢れていく。


「でも気づけました。あの頃と変わらない、優しい存在でいてくれたから」


 解けていく。氷漬けにされていた想いが、いよいよ姿を現して、その気持ちを惜しみなく流し出していく。


「もう会えないと思ってました。一生こんな機会、訪れないと諦めていました」


「‥‥‥」


「もう伝えることなんて、できないと思ってた」


 顔を覆った手の隙間から目の前で微笑む女性を眺める。女性の笑顔は陽光の輝きに匹敵する笑顔をその整った顔貌に浮かべている。そこにはさっきまでの印象と全く違う、何かに囚われていない、否、女性が言っていたことのみに囚われた、まるで天使のような微笑みを湛えた女性が立っている。

 女性は数拍の間の後、大きく息を吸い込み、


「でも、あなたは私とまた出会ってくれた。ようやく伝えられる」




ーー解けーー




「あの夜、私を助けてくれてありがとう。私に、優しさを教えてくれてありがとう」











「孝裕君、私は、ずっとあなたのことが好きでした」

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