第二章 中目黒ジェノサイド

 フーカたちの行動指針は、奇跡の海の承認を受けて実行に移されることになった。フーカがアップロードしたのは渋谷ステーションの周辺を念入りに塗りつぶしたマッピングデータと、白帽子のイメージファイルだった。その結果奇跡の海からは、驚くべき事に無制限のエリア・クリアランスが与えられた。

ロボットたちは、ステーションに届ける物資の量を管理するため、持ち場と所属するステーションを厳密に規定されている。そんななかでフーカたちは破格の厚遇を得たとも言えたし、同時に極めて異例な存在になったとも言えた。

実際、今後フーカたちは苦労を強いられると思われた。もともと数の少ない第二世代規格のパーツは、ふらりと立ち寄るステーションには当然届いていない。いまはフーカもトラサンも全くの無傷だが、何らかの損耗が発生した際には事前に次のターミナルにてパーツを取り置いておいてもらう必要がある。

二つ目の問題もある。充電ケーブルの規格が、第三世代以降の物と合わないのだ。フーカたちは非常に大容量かつ小型軽量化されたバッテリーで動いている。向こう三日は持つ計算だが、電力が尽きてしまったらそれ以上動くことは出来ない。そんなのはごめんだとトラサンが手を打った。第三世代以降と第二世代の間の変換アダプタを奇跡の海に発注。この申請は送信から三秒と経たないうちに通った。次に訪れる大規模ステーション、中目黒にて受け取る手はずとなっている。

「トラさん、バッテリーまだ余裕だよね?」

「全く問題ない。マップによれば、そろそろ中目黒ステーションに到着するようだ。手はず通り変換アダプタが届いていれば、その手の心配をする必要はなくなる。それよりもお前の方は大丈夫なのか。ストアド・リアリティ展開の負荷に、耐えられているのか」

「大丈夫……だと思うよ。ラッキーなことに、帽子は大体この線路沿いにずっと飛んできてる。少なくとも次のステーションまでは確認しなくて大丈夫」

 トラサンは「そうか」と短く答えた。

「何にせよ無理はするなよ。お前の目がなくなったら、俺も面倒なことになる」

「大丈夫だって。それに中目黒に着いたら、充電アダプタが来てるんでしょ」

「俺の背中で役立たずが眠りこけているのが気に食わない、って言っているんだ」

「役立たず……」

 フーカはしょげかえったが、トラサンの指摘もある意味では正しい。奇跡の海との通信、それはつまりみちびき三号からの映像と座標の情報を意味するが、それを失ったロボットたちは非常に脆い物になる。自らの位置を定位できなくなるためだ。居場所が分からなければ帰投できない。帰投できなければバッテリーが切れ、街の片隅でひっそりとゴミになることになる。

 幸いなことに、フーカはみちびき三号の撮影した映像情報と、これまでのマッピング結果を内部ストレージに保存することが出来る。第三世代以降には備わっていない機能だ。だからトラサンのバッテリーが残ってさえいれば、フーカのストレージからそれを参照することで、トラサンは自走することが出来る。

「あと十分もしないうちに着く。それまで可能な限り省電力で頼む」

 それでもトラサンがフーカを気遣うのは、二つの意味があった。一つは単純に、連れ合いが眠ったままでは退屈だと言うこと。そしてもう、一つはフーカの探知能力を買ってのことだ。周囲を哨戒する目がなくなると、アーティファクトを見逃す恐れがある。

それが生きていようと死んでいようと。アーティファクトを見逃してはならない。フーカはそう考えているはずで、万が一眠りこけている間にトラサンがアーティファクトを見逃して通過したりしようものなら、どんな剣幕で詰め寄られるか分からない……要するに、我が身可愛さということだった。自己防衛はどんなロボットのフレームワークにもその最重要規定の一つとして組み込まれている。それに従っているだけ、とトラサンは自らを納得させている。

しかし、トラサンの危惧は杞憂に終わった。バッテリー切れを起こすことなく、中目黒ステーションへ到着する。ちょうど貨物列車が入構してきたところで、第四世代と思われる荷運びロボットたちがマニピュレータを操作し、積み荷を降ろしては資材の保管庫へと運んでいく。

どれをみても寸分違わぬ、画一化された動作。それが第四世代のロボットたちの強みであり、同時に限界でもあった。

そうして健気にはたらく第四世代のロボットたちの姿を、フーカたちは渋谷ステーションでも日常的に見てきている。トラサンには今更感慨などない。彼らには彼らの能力と職分があり、我々には我々のそれがある。ただそれだけの話だと割り切っている。

フーカの方もその理解をしている。ただし捉え方が少々異なる。作業員ロボットには作業員ロボットの持ち場があり、そこを離れることはできない。それを評してフーカは「可哀想だ」と常々言っていたものだった。このステーションにおいてもきっと、フーカはそう思っているに違いない。口に出さないだけで。

トラサンは取り合わない。何度も議論を尽くして、この点はお互いに不可侵としたほうが良いと結論が出ている。役割を与えられなければロボットも、ヒューマノイドも、ムーブクラフトも働くことはできない。過剰なまでの汎用性を与えられた第二世代の我々が特別なのだ、とフーカを説き伏せられなかったのはなぜだろうとトラサンは移動の最中などに考えるが、結論は出ていない。

荷役運搬用第四世代に言語認識、及び汎用通信ポートは備わっていない。そうした汎用的な、しかしそれ故に代替の難しい高コストな機能をカットすることで、低コスト化、量産可能性を確保する設計思想のもとに彼らは生産されている。彼らは彼らの中だけで専用ポートを介し、連携を行う。積み荷から例の物資――特注の変換アダプタを受け取るには、現場を統括する第三世代と話をつける必要があった。

トラサンは、通常運用において想定されていない特注のパーツが、即座に届くことについて訝っていた。第二世代のロボットは、サポートを徐々に打ち切られやがてお役御免となる運命だと信じていたからだ。だから奇跡の海から「中目黒ステーションにて受領可能。引き続き任務を果たせ」と二つ返事の通信を受けたときに、我が目を、正確には通信ポートを疑ったほどだった。何者かのハッキングを受けて、踊らされているのではないか。思考回路に刻まれた防衛本能が囁いている。

「フーカ。そいつらが動いているのを眺めているのもいいが、早く物を回収しに行こう」

「え、ああ。そうだね。本当に届いているかどうか、まだわかんないもんね」

 フーカもまた、同じ疑念を抱いていた。ただしその根底は異なる。

「なんて言ったって特注のパーツでしょ。そんなにすぐ出来上がるかなぁ」

フーカのそれは、トラサンに比べ楽天的なものだった。トラサンは音声信号に出さず、深いため息をつく。これがフーカというヒューマノイドの思考回路だった。自分の行動範囲が広がって、結果人命を救うことができるのならば、いかなる危険性にも頓着しない。無関心なのだった。道路掃除婦型と廃棄物コンテナ型がバディを組まされたのは、当時そうした理由もあった。道路掃除婦型はとかく人命救助を最優先して暴走しがちだ。トラサンたちバディにはそれを諌める役割を期待されている。

その本能が、今のフーカの言葉を受けてささやくのだった。

仮に「用意した」というのが本当に奇跡の海からの通達だったのだとしたら。

そのパーツが運用されることは、最初から想定されていたのだ。それが意味するのは、奇跡の海が、フーカたちが本来の領分である渋谷ステーションを超えて移動することを期待していたということだ。論理的な破綻だ。ロボットにはエリア・ロールに対してクリアランスが厳密に規定されていて、それを超える行動は申請を介さなければできない。それを試みるロボットは通常存在しない。あのいけ好かないジェイラーたちのように、自らのクリアランスそのものが世界のすべてだと信じているからだ。

だから、トラサンは疑念を払拭しきれない。

この移動そのものが、奇跡の海の言う我々の「クリアランス」なのではないか。すなわちこうしてフーカたちが場所を移すことを、奇跡の海が望んでいたのではないか。

その理由は、おそらく――

「トラさん、見てみて。本当に届いてたよ」

 演算系にノイズが走り、トラサンは計算を中断する。フーカが絶縁体ビニールの包みを持って手を振っている。

「はーやく。充電しに行こうよ。時間掛かりそうだし」

「……ああ、わかった」

 結局のところ、悩んでも詮無きことなのだ。フーカは与えられたチャンスを活かしてさらなる人命救助に励む。トラサンはそれについていく。必要があればフーカと人類を守る。それがトラサンの思考回路であり、それ故にそれ以上の思考を停止することができた。未踏のエリアに励むという、言い訳を立てることで。



 フーカたちが中目黒ターミナルにたどり着いたのは正午のことだったが、充電が完了する頃には衛星時間で午後三時を回っていた。渋谷ステーションの充電ポートならば三十分足らずで終わるところを、ずいぶん待たされたなと二体は思う。すべてを事実のみで判断するならば、アダプタが急造であるが故に変換効率を度外視して作成されたせいだろう。

第二世代には自己充電機能が備わっている。太陽光パネルを背負うだけのごく原始的なものだ。展開すると不格好だとフーカがいうので使っていなかったが、もしここから先のターミナルでもこれだけ待たされるのだとしたら、なんとかフーカを説き伏せて太陽光発電を使う必要がある。

そしてそれは受け入れられるだろう。このとても長い待ち時間に、フーカはとてつもないフラストレーションを抱えていた。

「なんでアダプタ一個咬ませただけで、こんなに時間かかるの」

 その場にいた第三世代にフーカが食ってかかるのを、トラサンはすぐ横で眺めている。止めておけばいいのにと思う。返ってくる答えの予想が、付いていないわけではないだろうに。

「出力電圧は測定したところ定格通りです。我々の充電にも支障ない。となれば、問題はアダプタにあると考えるべきでしょう。そうすれば、充電に時間がかかると言うことは、そのような問題を抱えたアダプタを必要とするあなた方の責任で解決すべき問題です。我々中目黒ステーションの責ではない」

 第三世代のロボットはまさしく機械的な慇懃さで答え、さっさとその場を去ってしまう。フーカの苛立ちは納まらない。これは厄介なことになった、とトラサンは頭を抱える。そのようなインターフェイスは付いていないのだが、そう形容せざるを得ない。

 フーカは、人間に適用するべき言葉を使うならば、ワガママだ。どんな事態にも対応出来るよう作られた第二世代の、特にヒューマノイドは、こうした個性とでも呼ぶべき物を獲得していることが多かったという。面倒なことだ。トラサンは出力せずに溜息を吐く。機嫌を損ねたバディのケアは当然バディの仕事だ。

 しかし、いやだとは思わなかった。もしもトラサンのバディがフーカでなく、一世代下った無機質な第三世代であったとしたなら、トラサンは早々に職務を放棄して海にでも突っ込んでいただろうと思われた。フーカと、喋るにしろ、通信するにしろ、コミュニケーションを取るのは、トラサンの思考回路にとっては良い影響を与えていた。同じ第二世代だからかも知れない。自分の思考回路とて、フーカと同等とは呼べないまでも、十分にウィットに富んだコミュニケーションを可能にする可塑性を持っている。『良い刺激』というものを敢えて言語にするのだとしたら、そうした優越感を抱いているに違いなかった。誰に対して。いま悠然と歩き去って行く第三世代に対してかも知れない。

 あるいは、いまの想定とはまったく逆に、羨望が先走っているのかも知れない。誰に対して。人間に対してだ。かつてトラサンが最も接した存在。個体それぞれに個性があり、同じ言葉で語りかけても千差万別の応答が返ってくる。同じ人物に対してそれを試みてもだ。

人間はシステムではない。秒単位、あるいはもっと細かい単位で組成を変化させる、まさしく有機的な人格だ。第二世代の人格に可塑性があると言えども、所詮は応答のパターンを機械的に学習してレパートリーを増やしているだけに過ぎない。いちインプットに対しては、一つの応答しか出来ない。人は違う。故に厄介な部分も無くはなかったが……トラサンは回想に蓋をした。フーカが憤懣も露わにこちらへ歩み寄ってきた。

「なぜそんなに腹を立てているんだ、フーカ」

 トラサンの疑問はそこに尽きた。ワガママであるとはいえ、フーカの思考回路は基本的に温厚な態度を取るよう設計されているはずだった。それが第三世代に食ってかかったときには、まるでそのリミッターが外れていたように見える。

 フーカの答えは、要領を得なかった。

「ムカつくから」

「それでは議論できない。トートロジーだ」

「トラさんまでそういう態度取るわけ」

「ムカつくという意味では、俺もそうだ。充電に時間がかかったことは、とても苛立たしい。だから、原因を究明する必要がある」

 トラサンは辛抱強くフーカを説得する。

「充電中に、何か違和感はなかったか。俺は電子戦については専門外だ。だがお前なら」

「何言ってるのトラさん。電子戦って」

「俺は、奇跡の海がトロイの木馬をよこしたんじゃないかと思っている」

 トラサンは声を最小限に絞って、フーカだけに聞こえるよう近づかせた。

「……まさか。奇跡の海が?」

「お前が感知できなかったのならそれでいいんだ。俺の考えすぎだ」

「私はイライラしっぱなしで、そんなこと考える余裕もなかったよ」

「そのイライラが」

 トラサンは低い声で続ける。

「お前の電算系への異常なアクセスのせいだったとしたら」

 フーカは考え込み、そして答える。

「トラさん、なんで奇跡の海を悪者にしたがるの」

 フーカが逆に追及する。トラサンは先に考えた、特殊パーツが即座に届いたことに対する懸念をフーカに話す。するとフーカは、険のある表情から相好を崩した。

「なんだ、そのこと」

「知っていたのか」

「ううん、即答で届くとはさすがに思ってなかったよ。だけど、パーツの用意はあるって信じてた」

「なぜだ。エリア・クリアランスを外せと言う申請を出したのはお前自身だろう」

 クリアランスを外れたいという申請を出したのはほかならぬフーカだ。そのことが機械知性体たちにとってどれだけ特別なことか、フーカ自身がも知っているはずだ。それなのに、フーカは奇跡の海が越境を予見していたことをさも当たり前のように受け入れている。

「理由の説明を求める」

「だって、トラさん。確かに私たちのエリア・クリアランスは渋谷だったけれど。ロール・クリアランスはもっと上位レイヤーだったでしょ」

 フーカはここぞとばかりに自慢げに答えた。

「私たちのロール・クリアランスは今も昔も変わらない。『人類の発見と保護』だよ。だからエリア・クリアランスを外すことができた。このエリアにもう人類はいないって、走査しきったことを示せたから。そういう状況を、奇跡の海も予見してたんだと思うよ。道路掃除婦型を放っておけば、いずれ街中を走査し終わるのは自明のことじゃない。だからエリアを移動する際に必要な部品も用意されていたし、これはちょっと驚いたけど、すぐに届いた。奇跡の海も、人類を探したがってるんだよ。どう、何かおかしなところある?」

 フーカがトラサンの音声入力マイクロフォンに耳を寄せて、ひそひそと、しかし堂々と言う。フーカの言うことは正しい。フーカの目線では。奇跡の海は人類を探したがっている。それもそのとおりだ。

「……だとすれば、整合性は取れるか」

「道路掃除婦のバディとして、看過しがたい発言だったよ。奇跡の海を疑うなんて。あれからの情報で私たちは走ってるんだから」

 人差し指をつんと立てて指摘するフーカに、トラサンは戸惑う。意識の発熱を覚え、ヒートシンクの放熱量を大きく上げる。勘弁してくれ、フーカ。

 バディのお前が知らないことがあるなんて、知らせたくないんだ。

「さぁ、おなかもいっぱいになったことだし、中目黒エリアをマッピングしに行こうよ。まだ見ぬ人類が、私たちを待ってるかもしれないよ」

「ああ。ああ、そうだな。行こうフーカ。だが、その前にそれを外せ」

 トラサンが指摘したのは、件の変換アダプタであった。フーカの腰の部分がわずかに膨らんでいるので気が付いたのだった。

「数少ない人類にご挨拶するのに、みっともない恰好では困るだろう」

「それもそうか……どうせ使うから、つけっぱなしにしようと思ってたけど。じゃあトラさん、入れといて」

「承知した」

 トラサンのボックスが開く。フーカはジーンズを模した外部皮膜を広げるとそのアダプタを取り外し、トラサンの収納スペースへと投げ込む。

 硬質なカコン、という音とともに転がって、変換アダプタは白帽子とスコップの間に落ちて沈黙する。



 そうして中目黒エリアを探索し始めて、すぐのことだった。


「トラさん、待って」


 フーカがいつになく緊迫した声を出す。トラサンは緊急停止。フーカの視界とリンクを行い、哨戒の姿勢に入る。兵装(アームズ)のロック、解除。

「どうした、フーカ」

「一緒に見て。あれ」

 共有されたフーカの視界に、それが映っている。

 足跡だ。

 そして、血痕らしきものも。フーカは駆け寄ってかがみこみ、舌状に設えられたセンサによってその組成を確認する。ごく小さなものだが、間違いなく血液の組成をしている。

それも、人間のだ。

「フーカ。不用心が過ぎる」

 トラサンが追い付いて諫めたが、フーカの目線はすでに次の痕跡の方向へ送られている。

『追うよ、トラさん』

 音声会話を好むフーカが、電子メッセージを送ってよこした。それは、普段能天気なフーカが、満を持して臨戦態勢に移行したことを意味する。

 人類の痕跡を発見した。保護の失敗は許されない。彼女に搭載されたフレームワークであり、彼女の呼称の由来ともなった『F.U.C.A.』の能力が、花開いた瞬間だった。

 Finding Unsecured Critical Artifactと題されるそのフレームワークは、人類を害するありとあらゆる事物を発見し、周囲の戦闘可能なロボット、あるいはムーブクラフトに共有するという『小さな目』の役割を持っていた。大きな目とはみちびき三号からの映像情報であるが、F.U.C.A.の持つ目は視覚情報にとどまらない。有毒ガスが散布されていればその濃度分布をアイカメラに搭載されたセンサーと吸排気の危険度から算出する。彼女のアイカメラは可視光線を受信するのみにとどまらない。自らX線、紫外線を照射することも出来、危険物である可能性の高い物体の中身を触れることなく調査する。そしてその中身が電子制御された物体である場合、彼女に搭載された電子的ハッキング能力を用いて無力化する。

 そうして、人類を脅かす脅威(アーティファクト)から、人類を逃がすことが彼女の――F.U.C.A.の役割だった。それを今、フーカは履行しようとしている。

『フーカより奇跡の海へ。残存人類の痕跡を発見。追跡を開始する』

 専用通信ポートにより奇跡の海へと報告を済ませる。二秒と経たないうちに『許可。続行せよ』との返答がある。フーカはそれを待つまでもなく、足跡の痕跡を注意深く探る。

 残存人類の足跡は、自重に耐えかねて崩落した首都高沿いに伸びている。フーカは後ろを見やる。血痕はここまで続いているが、この先にそれはない。ここで何らかの医療行為が行われ、止血が為されたのだ。

残存人類はある程度の生活上必要な知識、即ち文明を持っていると言える。フーカはほっとする。時々頭を過ることがあったのだ、荒廃した地上で生きるうちに、人類はいつしか知性を忘れ去り、ただ二つ足で歩くばかりの獣と化してしまっているのではないかという不安が。どうやら杞憂に終わったようだった。

『トラさん、なんで武装を解禁してるの』

『これは』

『しまって。相手はこんどこそ本物のアーティファクトだよ。撃つような相手じゃない』

 かつてないほど鋭く指摘され、トラサンは戸惑う。バディの指示は、彼の思考回路に刻まれた行動原理と矛盾する。『T.L.A.』は彼のサインネームでもある。Terminating Lethal Artifactと呼ばれる彼のフレームワークが、この状況を『危機』と判断している。

 しかし、それはなぜか。フーカの指摘通り、アーティファクトを収容するだけならば兵装など必要ない。フーカの指摘により自らの論理的誤謬に気付いたトラサンだったが、完全に納得したわけではない。

『フレームワークが、必要だと言っている』

『示威行為のため』

『その可能性もある。だが、今のところ集まっている情報からすれば――いやな言葉だが、俺の勘に過ぎない。武装の再ロックは承認できない』

『まぁいいや、アーティファクトに向けて撃たなければ』

 電子通信により瞬間でやりとりを済ませると、フーカはみちびき三号の映像情報を要請する。今度は渋谷ステーションで彼を追跡したような、過去広範にわたる大容量のダウンロードではない。足跡の向きから想定される移動経路をフーカにプリインストールされている地図情報から割り出し、そのルート上を精査するための極めて高精細なデータを要請する。山の手通りとそれに直行する道の二ルートを想定して申請を行ったが、みちびき三号からの映像データによりアーティファクトの移動経路は山の手通り沿いに絞られる。そしてそれは、かつて警察署と呼ばれた建造物の前で止まっていた。

『フーカより奇跡の海へ。アーティファクトの居場所を特定。保護を申請する』

『受託』

 即応。奇跡の海はやはり頼りになるとフーカは見直す。

『奇跡の海に保護申請したよ』

フーカが軽い身のこなしでトラさんの上に飛び乗る。

『そうか』

『そうか、じゃないよ。ここまで頑張って生き延びてきた人たちがどれだけ心細かったか、分かったものじゃないでしょ』

『それもそうだな』

『じゃあ、ケチつけてないで私たちも早く行こうよ。第三世代ならまだしも、第四世代がいきなり殺到したら、人間たちだってびっくり』

「フーカ……!」

 これまで電子通信を介して会話していたトラさんが、突然音声を発したので、フーカは驚く。

『なに、突然』

「フーカ、やっぱり行くのは止そう。第三世代と第四世代に任せよう」

「やだ」

 フーカも音声出力に切り替え、言下にトラサンの提案を切り捨てる。

「だって、せっかく見つけた人間なんだよ。ストアド・リアリティでしか見たことない、人間なんだよ! 会ってみたいよ。それでお話がしてみたい。何が話せるのかは分かんないけど、対面すれば言葉は出てくるはずだよ。だって私は道路掃除婦型のヒューマノイドで、私はそのために設計されて――」

 しかし、フーカは言葉に詰まる。自らの発言が抱く矛盾に、気付いてしまったから。

「なんで、私。始めて人間に会うんだろう。おかしいよね。私、第二世代だよね。もう何十年稼動してるか分からないよね。それなのに、なんでヒトと会ったことがないの」

 トラサンは無言だ。電子回路の中で何を演算しているのか、それをフーカが読み取ることは出来ない。しかし最終的にトラさんが出した結論は、マイクロフォンから拾うことが出来た。

「やはり行こう、フーカ」

「さっきまで頑なに反対してたのに、どういう風の吹き回し」

「分かったからだ。フーカは知る必要がある」

「もったいぶらないで」

「……行けば分かる。そして急がなければならない。フーカ、初速に備えろ」

 そう言うなり、トラサンは徐々に加速。フーカを気遣ってのことだ。増速し、滅多に出さない最高速度で、荒廃した街道をひた走る。

『ちょっと、トラさん。説明を要求するよ。なんでそんなに、焦ってるの』

『決まっているだろう。アーティファクト保護のためだ』

『それはさっき奇跡の海に頼んだよ』

 分からず屋で頑固なトラサンが、ここに来て奇跡の海よりも早くアーティファクトを収容したいと妙な意地を張り始めたのか。最初のうち、フーカはそう考えていた。

 しかし、彼女らの後ろから追いすがる影へ振り向いたとき。フーカの疑念は、まったく的外れであったことを理解したのだった。

 後ろから迫ってくるロボットは全て第四世代だった。フーカは持ち前の解析能力で、彼らの装備を――いや、一目見て分かる、兵装を解析する。非常に有毒なガスを備えた機体が一両。トラサンほどに巨大な躰の中いっぱいに、ヒトを何人も殺せるガスを備えている。その周囲を固めるのは、セントリーボットに車輪をつけただけの簡素な、しかし明確な殺意を携えた四輪ロボットだった。車輪は関節脚に接続されており、階段程度なら上れるだろう。

 彼らの速度はトラさんのそれを遙かに上回っていた。瞬く間に、追い越される。

 その行き先は、もはや言うまでもない。

『……なんで。え、私が頼んだのは保護だよ。なんで兵装した部隊が向かってるの』

「…………」

『――トラさん、増速!』

『やっている。これが俺の限界だ。兵装とお前の重みで、これ以上の速度は出せない』

 フーカたちを追い抜いた第四世代たちは、瞬く間に消失点へと消えていく。目的地にたどり着くためのモーター、それから必要最低限の兵装。頭脳だって軽い。フーカたちに搭載されているプロセッサよりもかなり簡略化されていることは間違いない。

 その簡略化された知能が、限られた装備に兵装をもって向かう先でやることなど。

「一つしかないじゃない! 殺されちゃうよ!」

「…………」

「トラさん、何が起きてるの。奇跡の海がバグってる? 私が信号生成を間違った? それとも第四世代が指令を聞き違えてるだけ? トラさん、ねぇ、トラさんってば!」

「……そのどれでもない」

「じゃあなんなの!」

 フーカはトラさんの上蓋を叩きながら叫ぶ。

 トラサンは逡巡する。果たしてこのことを知らせていいものかと。

しかし今更伏せられない。第四世代たちの姿を目撃されてしまったし、追い越されてしまった。目的地に着いたとき、フーカがどんな顔をするか想像して、トラサンは小さな胸を痛めると同時に、自責のあまり憤る。トラさんはためらったのだ。救助に向かおうとするフーカを止めようとした。

その致命的な間隙がなければ、一人くらいは救えたかもしれないのに。

「奇跡の海からの指令は、殺戮(ターミネイト)だ」

「……は?」

 唖然としてフーカは尋ね返す。

「ターミネイト。周囲の戦闘可能なロボットの一つとして俺も受信した。跳ねつけたがね。相手はリーサル・アーティファクトではないと」

「待って……待ってよ。なんで? 人間の終着駅がターミナルで、その元締めが奇跡の海なんでしょ。どうしてその奇跡の海が、人を皆殺しにしろなんて指令を出すの」

「俺が、知るか!」

 トラサンはいつもの平静を欠いた大声を出す。

『予想をするなよ、フーカ。俺は事実と、そこから導き出される結末だけを話す。フーカが奇跡の海に保護申請を出した。その直後、俺達には殺戮指令が届いた。そしてその指令を受託したと思われる第四世代が現場に向かっている。当然の帰結として、その場にいる人類は全滅するだろう』

『じゃあやっぱり、奇跡の海がバグってるんだ。私の救助要請を、何かと聞き間違えているに違いない』

 なぜフーカというヒューマノイドは、ここまで他の存在を信じられるのか。

 何のことはない、彼女のフレームワークに規定がないからだ。

 人を保護するという大前提のもとに組み立てられた彼女のフレームワークには、同じ機械が能動的に人を害するという発想自体が生まれえない。

 トラサンはそのことを知っている。だから助けに向かおうとするフーカを一度は引き留めた。その事実を知らせないために。しかし、それはもう知られてしまった。

トラサン自身が覚悟を決める時がやってきたのだった。

「フーカ、よく聞いてくれ」

「音声で何よ」


「人類は、敵だ」


「え」

「奇跡の海と人類は、敵対している。そう言ったんだ」

 しばし、無言の時が続いた。トラサンはフーカがデッドロックを起こしていないか不安になった。人類を保護することにのみ設計されたフーカに、その人類とロボット群が敵対しているという情報を与えたとき、彼女は自己矛盾によって壊れてしまうのではないか。言ってしまってから、トラサンは後悔した。

 しかしフーカは復帰する。

「そんな、馬鹿な!」

 この硬直時間は、自らの中で生まれたあらゆる矛盾を、解決、あるいは整理するための時間だったのだとトラサンは理解することになる。

「エリア・クリアランスを外すとき、奇跡の海はレスポンスしてくれた。このエリアは『クリア』だって――」

 しかし、元来『クリア』といえば、それは『脅威がない状態』を意味する言葉だ。

「……引き続き人類の捜索に励むよう、別のエリアに移動しろって」

 その命令に、しかし人類を保護しろという意味は見いだせない。

「――でも、奇跡の海が本当に合理的で、まじめに人類を殺戮しようとしているなら!」

 のどの裂けるような大声で、フーカはすがるように叫んだ。

「私は最初から最後まで、徹頭徹尾、人間を保護するようプログラムされたヒューマノイドだよ。もしトラサンの言う通りなら、奇跡の海が私を稼動させておく意味なんてない! 私もトラサンもとっくにスクラップになってて当然でしょ。パーツの供給なんてする必要ないでしょ。ねぇ、トラさん、トラさん! やっぱり奇跡の海のバグだったって、そう言ってよ! そしたら、もし追いつけたら、私のハッキングで是正」

「利用された……んだ」

 トラサンが重い声でつぶやいた。

「……!」

「お前が人間を探す習性を、奇跡の海は利用するつもりだったんだ。そうであれば話の筋がすべて通る。エリア・クリアランスを解放しないはずもない。引き続き人類を探せと指示もするだろう。そして、お前を稼動させておきさえすれば、勝手に人類の痕跡を発見してくれる。奇跡の海にとってはいいことづくめだ。とても有能な探査犬が、勝手にかぎまわってくれるのだから」

「やめて、お願い! それじゃあまるで、私が、私が!」

 フレームワークの外にあって考え付きもしなかったその言葉。しかし外部入力によってその概念を獲得したフーカは、その事実を叫ぶ。

「まるで私が! その人たちを殺したみたいじゃない!」

「それは論理的誤謬だ。お前に責はない。お前は責務を果たした。ロボットはフレームワークから逃れることはできない。それはすでに決定づけられた行為だった。お前の意志でどうこうできる問題ではない」

「そういうこと言ってるんじゃない! 行動の結果に責任を持てないで、どうして責務が果たせるっていうの!」

「それを、悩むだけ無駄だと言っているんだ! 結果は、ただ受け入れるしかない。さぁ、間もなくたどり着くぞ」

 トラサンがそういうのを見計らったかのように、前方から彼らを追い越した第四世代たちが戻ってくるのが見えた。瞬く間にすれ違う。有毒ガスタンクは空になっている。機関銃を携えた機の弾帯は空になっている。数が一台、減っている。

「いや、嫌だ……」

「引き返してもいいぞ」

 心底おびえた様子のフーカに、トラさんは気遣いのつもりで優しく声をかけた。

「それは、もっと嫌だ」

 しかしフーカは答えた。

「行動の結果に責任を。私が言ったんだ。私が履行しないと……せめて、申し訳が立たない」

「そうか」

 トラサンはそれ以上何も言わなかった。古びて崩落寸前の、元警察署の建屋がすでに見えてきていた。

 フーカの長距離視力はすでにそれを捉えていた。緑色の瞳に絶望をたたえて、大きく見開きながら。

 そこに展開されていたのは、まさしく惨劇だった。



 まず目に入ったのは、アスファルトの地面を埋め尽くすほどにまき散らされた空薬莢の円陣だった。視線を建物に向ければ、標的を外した弾痕がそれこそ蜂の巣のように穿たれている。

 フーカは無意識に目をそらしていたが、そのわずか下に目をやれば、惨状の主体が目に入る。

 警察署の外は、肉片と血液にまみれていた。

 第四世代が持ち出したのは、バギーに搭載されるような機関銃であって、口径は十二ミリメートルと推測される。これに人が撃たれれば、およそ原形をとどめてはいられない。着弾点を中心にねじりこまれるような回転力が働き、肉体は放射状に飛散する。ゆえに機関銃の犠牲になった遺体がどれだけの人数分あったのかどうか、数えることは困難だった。フーカはそれを、試みなかった。

 フーカを戦慄させたのは、まき散らされた血液のほうだった。死体はこれまで何度も見てきた。すべて骨と化していたが。しかし血は。そのどす黒さ、そして嗅覚センサを容赦なく刺激する生臭さこそが、まさしくフーカにとって失敗の、罪の証のように思えた。

 命の裏側に走る真っ赤な血潮。それが精彩を失い、真っ黒なアスファルトに融けて、消えていく。命の失われていく過程をまさに目の当たりにさせられているかのようで、耐え切れずにフーカは目を背ける。

 しかしフーカに備わったセンサー群は、アイカメラを閉ざしていても信号を遮断することはない。容赦なくフーカの行為を叱責する。

 警察署の建屋内から、とてつもない濃度の有毒ガスが検出されている。第四世代ロボットは無為な行動はしない。そこに毒ガスがまかれているということは、その必要があったということだ。

 フーカは想像することをやめた。代わりに、事実だけを見つめることを決心した。

「ここで待ってて、トラさん」

「中に入るつもりか。やめておけ。機械に有害でないとは限らん」

「検査済み。見事に――対人兵器」

 いつも情感豊かなフーカが、きわめて機械的にしゃべる。フーカの背中しか見えないことに、トラサンは不安を覚えた。彼女の表情さえ見えたなら、何か気の利いた言葉が思いついたかもしれないのに。

「じゃあ、行ってくる」

「……何かあったら叫べ。壁をぶち破ってでも助けに行く」

「助けなんか必要にならないよ。だって、人間は仲間だもの」

 歩きながらフーカは、言い捨てるようにしてトラサンを諫めた。トラサンはそれで、フーカがまだ何もわかっていないのだということを察知し、武装と、駆動系に異常がないかどうかを改めて確かめる。

 フーカには、自分が必要だ。少なくとも、自らが人間の味方だと信じ込んでいるフーカには。

 人間が自らの味方だと、信じているフーカには。

 フーカには、そのような心配をされていると知るよしもない。足を踏み出す。血河と肉塊に足を取られないよう、慎重に進む。足を一歩踏み出す度に、湿っていて粘着質な音が糸を引いて、まるでフーカを引き留めようとしているかのようだった。この先に進んではならない、と、死にたての亡者たちがまだ意思を残しているかのようだ。

 それでも、フーカは前に進んだ。

 庁舎の入り口にあたるガラス戸は、機銃の掃射を受けて残っていなかった。砕け散ったガラス片を躊躇いもなく踏み抜き、フーカは中の様子を見渡す。

 一見すれば、弾痕が刻まれている他には、不穏な様子はないように見える。しかしフーカの目は、単に視覚情報に留まらない。その嗅覚が、ガスセンサーが捉える有毒ガスの流れが、それを指し示している。

 留置場の方向。そちらから致死性のガスが漏れ出している。

 フーカは恐る恐るそちらへ歩みを進める。

 ガス兵器とは、目標が密集し、かつ閉塞した場所に打ち込むのが最も効果的だ。その点で、留置場へのガス攻撃は最も合理的と言える。しかし人間側の判断も間違ってはいなかった。この庁舎の中で、一番堅牢なのは留置場とそれ以外を仕切る扉だ。非戦闘員は一番安全な場所に立てこもり、精鋭の戦闘員が急襲してきた敵に応戦する。不意を突かれたにしては善く対処したのではないかとフーカは思う。実際、人間側は一台の第四世代を撃破することに成功している。

 しかし、善戦したとは言え、壊滅は壊滅だ。

「……ごめんなさい」

 フーカは呟いた。

 聞き取る者は誰もいない。静寂が後を支配する。

 誰か詰ってくれれば、それだけで安心するというのに。フーカはガス濃度の濃い方へと進み、そして留置場前に至る。

扉は固く閉ざされていて、中央が凹んでいる。何かの体当たりを受けたのだろう。扉の上部には、内部の音が外へ聞こえるように隙間が空いている。ガス攻撃には絶好の環境だった。フーカは扉に手をかける。内側から閂がかかっているようで、容易に開くことが出来ない。

 瞬間、『このまま開けずに帰ってもいいのではないか』という囁きが聞こえる。フーカは首を振ってそれを否定する。

 見届けなければならないのだ。

 自らの行為の、その結末を。

 手近な消火器を、フーカは手に取る。消火器も風化していて、硬度としては不十分に思えたが、フーカの素手で叩くよりはマシだと判断する。

 扉に、渾身の一撃を加える。

 扉を支えていた閂の弾ける音。瞬間、フーカは姿勢制御を失う。溢れかえる波涛にもみくちゃにされる。上下も、左右も不覚。混乱の中、目が合う。

 眼窩から大きく飛び出した、苦悶に満ちたその目と。紫色のまだらに変色した、その顔と。

「…………ひっ」

 波涛は一瞬で平静に変わる。倒れたフーカは上半身の姿勢制御を取り戻す。辺りを見渡す。

 フーカを襲った波涛の正体とは、つまり人波だった。

 ガス攻撃を受けたことを知り、唯一無二の出入り口である先ほどの扉に殺到した。しかしガス車両の体当たりによって歪んだ閂を外すことが出来ず、従って扉が開かれるはことなく、毒ガスをたっぷりと吸い込んで折り重なるように死んだのだ。

 次いでフーカの嗅覚を、汚物のるつぼを嗅いだかの様な悪臭が襲った。堪らず感覚遮断。苦しみぬいた死の過程で吐きだした胃液、胆汁、そのほか体液の臭い、死体から漏れ出した糞便の臭い。それから、死体そのものが放つ臭い。狭い部屋に押し込められた死臭と言う物が、ガスと一緒に漏れ出してフーカのセンサーを一時感覚不能にする。

 すると視覚野にリソースが振り分けられ、死体の一つ一つに目が行くようになる。甥も若いも、男も女もいたはずだ。しかしそのどれもが、ほとんど同じ顔をしていた。髪は抜け、顔はパンパンに膨れ上がった上で紫色のまだら模様に染まり、同様に胸をかきむしったのか服の胸元は千切れ、そして目は天を仰いで飛び出していた。

 まるで天井の蛍光灯に、救いの光を見たかのように、飛び出していたのだ。

「う…………嘘よ」

 フーカはまだ復帰しない下半身の姿勢制御を呪いながら、後ずさる。紫色をした死の漣から遠ざかろうとする。しかしすぐ後ろのことだ、フーカはまるで死者の一人に背中を掴まれたかのような感覚を覚え躰をビクッと震わせて振り向く。壁だ。溜息を吐く間もなく壁沿いに逃げる。

 フーカは、逃げ出したかった。この場から一刻も早く。

 恐ろしいこの光景から逃げ出したい……からではない。フーカが一番恐ろしかったのは、自らの存在意義がこの光景によって否定されることで、意味消滅を起こしてしまわないかと言うところだった。

 自分は、大規模殺戮(テロ)を止めるどころか……その引き金を引いてしまった。

 その事実とこれ以上向き合えなかった。だが死者の波はまるでフーカの方に手を伸ばして誘っているかのようだ。連れて行ってくれ、ターミナルへ、と。

「違う……違うの……! 私は報告しただけ。やったのは、ターミナルの方。奇跡の海の方だ、私は関係ない――」

 どの口が、そんなことを言うのか。

 あの時、フーカが痕跡を発見していなければ。

 あの時、フーカが奇跡の海へ発報しなければ。

 この惨劇は、避けられたはずだったのだ。

「…………お前の、せいなのか」

 だから、ちょうど聞こえてきたうら若い少年の声を、フーカは柄にもなく外部信号か、内部で自然発生したパルスなのか瞬間、判断に迷った。目を覚ましたフーカは瞬時に、発声源を特定する。

 ストアド・リアリティにいた少年が、このガスの中、フーカをにらみ据えて立っていた。

「お前が。ここを教えたんだな」

「こんなところにいちゃダメだよ! すぐに死んじゃうよ!」

「構うもんか!」

 少年が懐に手を差し入れて、丸い物を取り出す。かつてこの地に配備されていた機動隊が所有していたと見られる、手榴弾だった。ピンが抜かれ、安全バーが少年に委ねられた状態になる。

「この集落がなくなっちまって、俺に一体何処に行けって言うんだ。答えてみろよロボット!」

 答えに詰まるフーカ。しかし彼に施せることはある。

「そしたら、次の集落にまで連れて行く。約束する。必ず無事に送り届ける。それが私たちの役目だから――」

「でもその先に、ここのみんなはいないじゃないか!」

 フーカは何も言えなかった。本当に、何も。自らの存在意義と、少年の言葉が示す事実が、デッドロックを起こして思考野を塞いでいる。

「ロボットと人間は違うんだ。代えなんか利かないんだ。みんなはもう、死んじまった。だから」

 安全バーを握る少年の手が、徐々に緩む。フーカは息を呑むが、そのことが少年にとって何をもたらすのか言葉にすることが出来ない。

「せめて、痛みわけにするしかないじゃないか」

 少年が血痰を吐く。ガスが肺を焼いたのだ。よろめく足取りで少年がフーカに近づく。手榴弾を握ったまま。

 そしてフーカの胸に頭を預けて、バタリと倒れる。

「くたばれ、ロボット野郎」

少年の手から手榴弾が転げ落ちる。フーカから少し離れた所に転がる。安全バーが開かれる。

爆発まで、幾ばくもない。しかしフーカは必要な安全措置を講じられずにいた。下半身の姿勢制御はとっくに取り戻している。ただ、胸に預かった少年の重みが、フーカをその場に縛り付けて離さない。

 フーカのプロセッサは様々な悔恨を瞬時に行っていた。

 ごめんなさい、名も知らぬ少年。あなたの居場所を奪ってしまって。

 ごめんなさい、ここにいた大勢。私のせいで大事な命を失わせて。

 ごめんなさい、トラさん。私、もう動けそうにないよ。

『だって、私。ヒトを助けたいと、本当にそう思っただけなの……』

 許して、とは言わない。フーカは自らのフレームワークに規定された任務を果たせなかった。

 これから人捜しなど、どの面下げて出来ようか。フーカは自分がとてつもなく無意味な存在に思えて、立ち上がるモチベーションを失っていた。アイセンサーは手榴弾の内部で進行している爆破シーケンスを見つめている。雷管が発火、ヒューズに点火する。あと、三秒。

 二。

 一。

 破砕音。

 ――しかし、それは数えるならコンマ五秒の瞬間に発生した音だった。緊急時駆動の激しいモーター音が聞こえ、破れた壁から外の光が差し込む。

 乱入してきたトラサンの姿を、後光が差しているかのように日の光が照らし出す。

 車両はそのまま前進、そしてドリフトターンによって速度を急制動してフーカと手榴弾の間に割って入った。手榴弾が起爆する。爆発音と共に、無数の鉄片が放射状に飛び出す。それらの衝撃を全てトラサンは受け止めた。外装、塗装ハゲのみ。センサー系、異常なし。言うなれば無傷。それがトラサンに――T.L.A.に求められる装甲の強度だった。

『トラさん』

 フーカは少年を抱いたまま、相方の名を呼ぶ。するとトラサンは音声回線で、これまでにないほど激しい声を出す。

「二度とするな」

 フーカは躰を硬直させる。トラサンに、このような激情と呼べる感情が備わっていたなどと、これまで知らなかったためだ。

「二度とするな、フーカ。採択できる作戦行動があるなかで、それを放棄することなど、絶対にするな。分かったか」

『……でも』

「デモもテロもあるか。お前がいなくなったら、誰が人類を守るんだ」

「でも! 私は!」

 フーカは叫び返した。トラサンも知っているはずの、彼女が追った十字架を、言葉にするために。

「こんなにたくさんの命を――殺しちゃったよ」

「それは」

「関係なくない。私がヒト捜しをする。ヒトを見つける。すると奇跡の海がそれを拾って、殺戮命令を下すんでしょう。こうやって、皆殺しにするんでしょう! だったら、私の行動理念自体が、私の存在理由と矛盾する。これ以上ヒト捜しは出来ない。するべきじゃない」

 フーカの頭髪が熱を持つのをトラサンが観測する。自らの存在意義は全て否定された。ならば存在を絶つしかない。安直な思考だ。フーカらしいといえばそうだが、トラサンの考えは違う。

「フーカ。情緒のニセモノで物を語るなよ。我々は論理的になるべきだ」

「どこに破綻があったの。どうしたら、この子を救えたって言うのよ」

 フーカは少年をかし抱きながら、トラサンを詰る。トラサンは思う。我々に、電子網を介さない音声入出力インターフェースが備わっていて、本当に善かったと。

「奇跡の海と、通信しなければいい」

「……え」

 トラサンが提示した解決案は単純な物だった。

 要するに、人類を発見した際に奇跡の海へ収容要請をするから、このような事態が発生するのだ。ロボットたちと人間は敵対している。それを我々は理解した。それならば、人命を最優先に行動する我々のフレームワークとしては、人類を発見しても奇跡の海に発報することは出来ない。この選択は奇跡の海との関係性とも、何ら矛盾しない。なぜなら奇跡の海からの指令は『人類を捜索せよ』というだけで、そこに通知までは含まれていないから――そういう趣旨のことをトラサンは音声で読み上げた。

「でも、みちびき三号がずっと私たちのことを見てる」

「フーカ。奇跡の海の方もどうやら、我々の一挙手一投足を監視していたわけではなさそうだ。フーカが救援要請を発信して始めて、第四世代が動き出したのがその証拠だ。みちびき三号が見ている範囲には常に我々の行動範囲が含まれる。しかしその映像情報を常に演算して、我々が何をしているのか意味解析し続けるのは、恐らく奇跡の海にも骨なのだろう」

 もっとも、とトラサンは付け加える。

「これからはそうはいかないだろう。我々は人類を発見する可能性を提示してしまった。監視の度合いは強まるだろうが……見られていると分かっているなら、それ相応に気をつけるだけの話だ」

 フーカは驚いていた。いかなる時もシニカルで冷血だったトラサンから、こんなにも熱く人類を守るための方策を語られることになるとは、思っていなかったからだ。

「どういう風の吹き回し」

「勘違いするな。俺は人類など、どうなろうがどうでもいい」

 トラサンの側面には、爆風のつけた塗装はげが生々しく残っている。

「俺は、フーカ。バディを守るためのフレームワークだ。その可能性の中で、一番高い物を提示しているだけのこと。分かったか。分かったらさっさと出るぞ。こんな辛気くさいところ、いつまでもいてなるものか。帽子、返しに行くんだろう」

 トラサンはゆっくりと走り出すが、フーカはそう簡単には、割り切れずにいた。

 この人たちを殺したのは、紛れもなくフーカ自身なのだ。トラサンもそれは否定しなかった。胸の中で、苦しみと孤独に呑まれて死んでしまったこの少年だってそうだ。

 フーカは思う。人類を探して、この帽子を返して。その結果持ち主の少年だか少女だかが死んでしまうのだとしたら、この行為に何の意義があるだろう。

 その気持ちの整理が付かないのはきっと、目の前でずっと、死体が手招きをしている為だと思われた。

「トラさん、待って」

 バディが急ブレーキを掛ける。

「まさかとは思うが……」

「うん」

 フーカは立ち上がった。少年の流した血涙がしみこんだエプロンを捌く。生きられたはずの人々の、目をそれぞれ見て、そして言う。


「埋葬。手伝って」


 埋葬には三日の時間を要した。人数で言うと二十四名分の墓穴を掘りきったとき、フーカの人工筋肉はエマージェンシー段階の疲労アラートを発していたが、フーカは黙々と作業を進め、完遂した。

 三日の間、みちびき三号との映像共有は一切しなかった。即ちフーカが内部ストレージに保持している全地上映像と、現在の状況には三日分のずれがあることになる。そのずれはこれから、時間が経てばたつほどに広がっていく。

 フーカは、そのことは大した問題ではないと考えていた。今更、都市に対して地形が変わるような大規模改修など行われるわけもない。白帽子が最後に観測された座標は、フーカのストレージの中に大事に格納されている。それだけがあれば、十分だと言えた。逆に通信することのデメリットを考えれば、尚更だ。

 これからフーカたちは、奇跡の海から隠れて行動することになる。

 埋葬の最中にトラサンは、充電コネクタの変換アダプタも一緒に棄てて行こうと言った。表面上は何もないのかも知れないが、奇跡の海がよこした品だ。フーカですら感知できない、仕掛けが為されている恐れがあった。それに今更ターミナルに立ち寄る気にもならない。多少不格好だろうが、自前の充電システムでまかなうべきだとトラさんは主張した。

 フーカはそれを受け入れた。二十四人分の墓のとなりに小さな穴を掘り、それらを二つ埋めた。そしていま、充電のための休息を取っている。

「……晴れたね」

フーカは空を仰いで言った。その手には雨傘のような形をした太陽光充電モジュールが握られている。伸びているコネクターは腰椎部にある充電コネクターに刺さっている。

 第二世代に与えられた自己発電機能は、いかなる環境でも自活可能であること、かつ被破壊時に安全であるように再生可能エネルギーを利用するものだった。フーカたちのそれは太陽光発電で、お世辞にも効率が良いとは言えない。次の活動を迅速に行うためには、晴れてもらわなければ困ったし、実際に晴れてくれたのは渡りに船と言えた。

 しかし、フーカの表情は、晴れない。

『フーカ、俺が何を言っても無駄かもしれんが』

 トラサンもまた、サンルーフ状をした太陽光パネルの下に隠れている。その車体が、わずかに後退するのをフーカは見逃さなかった。

「ありがと、トラさん」

 フーカは吹き出しそうになるのを堪えた。

「励まそうとしてくれたんでしょ。でも大丈夫。この場所で起きたことは、もう振り切ったよ。こうして、埋葬もすませたことだしね」

「じゃあ、なぜそんな渋い顔をしている」

「こんなに晴れているのに雨傘を差してるのが、ちょっとだけ気にくわないの」

 フーカは冗談めかして言ったが、すぐに鋭い目をして眼前の墓標を見据える。

「次は、必ず守る」

「ああ」

 トラサンは短く答える。フーカにとっては、それだけで十分だった。単純な肯定。肯定以外の何物でもない言葉。これほど勇気付けられる後押しはなかった。

「帽子は必ず返す」

「ああ」

「そして、生き延びてもらう。どんな手段を取ったとしても」

「そうだな」

 しかし度が過ぎれば、どんな受容も陳腐になるものだ。

「……聴いてる? トラさん」

「真剣に聴いているとも。特に否定のしようもないから、肯定を意味する一番単純な言葉を選んでいるだけだ」

「……そういうところで変な合理性出すの、やめてよね。私は真剣なんだから」

「お前がそんなだから、合理的であるのが俺の役目になるんだぞ」

「返す言葉もございません。トラさん、充電は?」

「通常機動のみを想定するなら、横浜ステーションまで保つだろう。お前の方はどうだ」

「私の方は逆に余裕があるよ。奇跡の海と通信しなくて良くなった分、電力が浮いてる。でも、だいたいトラさんと同じくらいかな。途中どこかで、またこんな感じで補給が必要そう」

「どうする。このまま当分は晴れていそうだが」

 フーカは逡巡し、答える。

「行こう。さっきの男の子は、一人でロボットをみんなぶっ壊す気だった。白帽子の持ち主が、同じことをしないとは限らない」

「さっき埋葬した中には、持ち主はいなかったのか」

「いない。帽子は自由が丘ステーション周辺のどこかから来てる。中目黒の人たちは」

 フーカは言葉を切る。

 本当に、ただ私に殺されたんだ。

 嘆息を、まずは飲み込む。勢いよく傘をたたむ。そして立ち上がる。

「……よし、行くよ」

「こちらは最初からそのつもりだ。早く乗れ」

 フーカはトラサンの巨体によじ登る。その時、爆発によって生じた塗装ハゲと、散鉄片によるわずかな凹みが目に入る。

「あのさ、トラさん。ごめんね」

「何がだ」

 トラサンは淡々と返す。しかし冷淡というほど冷たくもない。そこにフーカは、これ以上このことに触れるな、というトラサンなりの優しさを感じ取る。

「いい。ありがとう」

「何が何だかわからんが。発進するぞ。振り落とされんようにな」

 電気駆動のモーターが鈍い音を立てて回り出し、トラさんとフーカを次なるステーションへと運んでいく。

 自由が丘ステーション。素晴らしい名前だとフーカは思う。名付けられた当時に一体何が『自由』だったのかは、ストアド・リアリティを申請できなくなったフーカにはもはや知る由もないが、名付けに際しての思いはきっとまだ、残っているはずだ。素晴らしことが待っているに違いない。そう期待させるような、名前だった。

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