ピエタ第一話 廃墟の街道

大谷歩

第1話廃墟の街道

シャロムから神聖帝国へ向かう方法はいくつかある。一つは王都マナスから玉石街道を南下して陸路でセルシラ公国の都ライエルへと向かい、そこから船に乗り替えて青竜江を行くのが最も一般的な方法だろう。または始発のライエルからダルハント王国を通過して終着の聖都へ向かう東国鉄道に乗ってのんびり車窓の景色を楽しむのもよい。

 しかし、ピエタたちが選んだ道は荒野と砂漠を縦断するという最も過酷な経路だった。

 エグザ城をからくも脱出した一行は、そのあと、戦乱によって荒れ放題と化した赤沙街道を東へと進み、廃墟の街ばかりを目にするという気の重くなる旅を続けていた。

 今宵は月明かりも星明かりもなく、いつもにも増して闇もどんよりしているように感じられた。燃え落ちた家々や破壊された建物が周囲をぐるりと囲み、そんななかでピエタたちはひっそり身を隠すように夜営していた。焚き火の炎が煌々とし、赤ちゃんグリフォンのセフィリアを抱いて眠るピエタの体を照らしている。

 ルカは、そんなピエタの寝顔を見つめながら物思いに耽っていた。毎度のごとく炎を見ると、あの夜の惨劇が思い出されてしまう。

 ルカはピエタの顔を目に焼き付けながら静かに目を閉じ、あの十五年前の記憶を心の奥底へしまい込もうと努力した。

 ・・その同じ頃。

 遠く離れたセルシラの都ライエルの王宮にあってハサンもまたピエタたちの無事を願いながら、あの夜のことを思いだしていた。

 十五年前のあの夜も確か今宵と同じような夜だった。

 ハサンは上着のポケットから小さなフレームに入った肖像画を取りだしてみた。宮殿内にあるその部屋の窓はすべて開け放たれていた。ハサンは肖像画を部屋の隅にある机の上に置いてみた。そこには、あどけない顔をした少女の姿が描かれている。

「ミラナ・・」

 ハサンは呟くように呼びかけながら、じっと肖像画をいつまでも眺めているのだった。

        ♪♪

 それは月明かりも星明かりもない殷々とした闇の濃い新月の夜だった。

 ここはロラン王国の北端。タルキス王国との国境にあるなんとも形容のしがたい森だった。

 森はその地面のいたる所から木の根が突出していて歩き難く、しかも、それらの根はまるで得体の知れない生物のように蠢き、さらに妖獣の不気味な唸り声が微かに聞こえていた。

 男は決して臆病ではなかったが、さすがに、この森の中にいる事実を考えれば、そこはやはり暗澹とせざるを得なかった。

 その男の名はハサンといった。

 ハサンは思った。行方不明の友を探すのでもなければ真夜中にこんないわくつきの森へ分け入る事などなかっただろう。しかも月明かりもない朔の夜にだ。こんな夜は人を襲う低級妖魔の類に出くわしてもおかしくない。

 復讐の森。・・報復の森・・。

 いつの頃からか人はこの森の事をそう呼ぶようになっていた。

「まったく、なんて森だ。誰も近づきたがらないのも肯ける。これは相当やばい呪いの森だ。先の大戦における激戦地だったという噂は本当だな。こりゃぁ累々たる死体が埋まっているに違いない。木の根も、まあ見事に動いてるしな。運よく魔剣を携えてきて正解だった。俺は昔からこういう類が苦手なんだよ・・」

 ハサンは不機嫌そうに武者震いした。

 それに、ここは低級妖魔の巣窟にもなってると言うじゃねえか。それにしてもルカのやつ遅いな。まさか妖魔に食われちまったんじゃねぇだろうな?ハサンは周囲を見回しながら頭をボリボリと掻きむしった。心が騒がしくなると、いつも出てしまう癖だ。波打つように伸びた赤い髪を手で掻きあげると、そこに貴公子然とした白皙の顔が顕わになる。鬱蒼と茂る森の木がさらに闇を深くしていた。その闇の中から微かな声が聞こえてきた。

「たいへん、お待たせしました・・」

 待ち望んでいた声だ。振り返ると、ほっそりした少年が立っていた。深々と九十度のお辞儀をしてから顔を上げた。少女とも見紛う可憐な顔がそこにある。褐色の肌に細長い目。少し尖った耳に銀色の長い髪。東方人特有の容姿をしている。少年の名はルカといった。歳のころはまだ十で、ハサンの忠実な従者である。着ている半袖上着の袖口から見える右上腕には刺青が彫られていた。鷲と有翼の狼が月を挟んで対峙する構図になっている。鷲はロラン王国の象徴で、月は夜天使ミリスの加護を表し、有翼の狼は夜の守護天使フェンリールの姿を表しているという。

「森を抜けた所に小屋がございました。セイレン族の者が火を放とうとしておりました。もう一刻の猶予もございません」

 少年は年の割に慇懃な言葉遣いをした。

「でかした。俺のほうは駄目だった。森を抜けたところか。タルキスの目と鼻の先だな。そんな所に隠れ住んでいたとは・・。とにかく急ごう。アダムの命が危ないらしい・・」

 ハサンは言いながら背負っている剣を抜いて走りだした。真っ赤な刀身に獅子の浮き彫りを施した見事な長剣だ。その刀身からはチロチロと炎が飛び散っている。その剣で行く手を遮る枝葉を切り落としながら全速でルカを追いかけた。飛び散る炎のせいで時折、枯葉が燃え、ルカの尻に飛び火しそうになった。ルカは子犬のような俊敏さで逃げるように駆けていく。

 まもなく燃え盛る小屋が現れた。迷わず中へと侵入する。中は手狭なりにもベッドや家具などが置かれて人が住めるようになっていた。ベッドには女が横たわっていた。火の手はまだそこまで回っていない。恐らく外から火を放ったのだろう。煙がモウモウと燻っていた。その向こうに人影が見える。妖人が二人。セイレン族に間違いない。セイレン族は人類の亜種である妖族の一種族である。尖った耳に、ことさら個性的でない端正な顔立ちをし、普通の真人には絶対にありえない鮮やかな七色の髪をしている。それが炎に照らされて殺伐と輝いていた。ハサンはまず心を落ち着かせ、事の次第を問うてみることにした。

「妖族の中でも見識に優れるセイレン族が何故に、わが友を襲う。しかも、その妻もまたセイレン族の者だ。なぜ同族の者まで襲う・・」

 ところが答えは返ってこなかった。かわりに横から攻撃を受けた。セイレンの者が居合い抜きに剣を走らせ、斬りかかってきたのである。咄嗟の事で避けきれずに頬が切れた。かなりの手練れだ。さらに剣撃が飛んできた。また頬が切れて十文字に血が滲んだ。本気で相手しなければ命が危ない。ハサンはさらなる一撃を薙ぎはらい、返す剣でその者を貫いた。

 しまった!

 舌打ちしたが、もう遅い。襲ってきた者はすでに事切れている。いかに頑健さと長寿を誇る妖人でも魔剣で胸を貫かれては生きてはいられない。ハサンの横でルカが顔を青くさせた。「セイレンが襲ってくるには何か深い理由があるのです。この国の理性と知識を司る一族の者を殺したとなれば、どんな理由があろうとも、ただ事では済みません!」

 ルカは頭がクラクラするのを憶えた。

 立ち眩みがし、あまりの事にこれまでの苦労が走馬燈のように蘇った。

 ただでさえムスリムの王宮を無断で抜け出し、許可なくお尋ね者の神聖医アダムの行方を追っていたのだ。敬愛するご主人さまは事実をお認めにならなかったが、アダムは国家に仇なす実験をしていたという罪により神聖帝国から手配される身分となっていたのである。

 なのに、ご主人さまは直接アダムに問い質すと家出も同然に飛びだされてしまったのだ。

 思えば悲惨な旅だった。

 村に立ち寄る度に、ご主人さまは大量の酒をお召しになり、その勢いで女性に手を出しては村人に追いかけ回されること数十回。村を襲う盗賊を懲らしめると言って村を壊滅させたこと数回。畑仕事を手伝ってやると言って地面にクレーターを掘ったのは一度だけだったけれど、いまじゃ誰もがご主人さまの名を聞いただけで震えあがってしまう。

 どの村にも『ハサン禁止』の文字とともに、ご主人さまの似顔絵が貼られ、どこへ行っても野良犬のように追い払われた。

 おかげで・・ずっと浮浪者生活だ。

 これでも、ご主人さまはロランのお世継である。およそ繊細さや優雅さといった言葉には無縁の人かもしれないけれど、なにより、その武勇は近隣諸国に鳴り響いている。

 そのようなお方がなんともお労しい。

 そんな苦労の末に、やっと妖しげな魔術師の噂を聞きつけ、この復讐の森へと分け入ったのである。・・その結末がこれだ。

 このラビアナには幾つかの大国が存在している。一つは北の軍事大国タルキスである。タルキスの王だけが自らを大王と名乗り、その王のもと長年にわたる富国強兵政策が取られてきた。おかげで魔術工業が発展し、魔術兵器や魔術武具の生産が盛んである。二つ目の大国は西の貿易国サラスンである。この国も魔術工業が盛んで大陸を貫く賢石列車なるものを開発中だとか。そんな噂をロランの片田舎でも耳にする。さらに西南のトリエラント法国が大国の一つに数えられ、その次に南の楽園ジャナが挙げられる。ただしジャナの噂はほとんど聞かない。ただ、その楽園へ一度でも足を踏み入れると、もう帰りたくなくなるらしく、ジャナへ行った者は二度と戻ってこないのだそうな。そして、それらの国々をも遥かに凌ぐ最強国と言われるのが、『神聖シノワ妖精帝国』である。

 その名のとおり妖族の中でも最強の武勇と魔力を誇るエルフの民が治める随一の大帝国だ。ロラン王家はその聖帝家の一つフィンネリア家の遠い血縁にあたる。だから帝国とは固い同盟で結ばれている。それは帰属していると言ってもいいくらいだ。そのせいか、いまではめっきり数を減らしている妖人をロランではとても優遇している。妖人の者からパンを盗んだだけで市中引き回しのうえ無期懲役になるという、とてもバランスのよい刑法がまかり通っているくらいだ。つまり一般の国民でさえ、そのような目に遭うのに世継ぎの王子が妖人に害をなしたとなれば、どのような刑が下されるのか考えただけでも怖ろしい。

「殺すつもりじゃなかった。つい体が動いてしまったのだ。見なかった事にしてくれ・・」

 さすがのハサンも取り乱した。

 そんなわけにいくか・・とルカは項垂れた。

 だが、そんな仲間の悲劇になど目もくれず、もう一人のセイレンはベッドに横たわる女に向かって剣を突き立てようとしているのだ。

 だが、その時だった。

 煙の中から何かが飛びだしてきたのである。その者は剣を振り下ろさんとしているセイレンを押し倒し、みるまに引き裂いてしまったではないか。目も覆うような惨劇にハサンは不覚にも退き、ルカは可憐な声で悲鳴をあげた。

「ひぃっ、こいつは悪魔ですわ。ついに、ご主人さまを地獄の番犬にでもスカウトしようと現れたに違いありません!」

 そこに立っていたのはもちろん人ではなかった。妖人でもない。いや妖魔の類でさえなかった。こんな不気味な怪物はいままで見たことがない。されどハサンは怪物に驚くよりもまずルカの辛辣な悲鳴に憤りを感じてならなかった。

 たしか・・地獄の番犬といえばガルムとかいう犬どものことだ。奴らはいつも腹を空かせて涎をダラダラ垂らしているという。

「ばか野郎!なんて狼狽のしかただ!」

 失礼にもほどがあるとハサンはルカの頭を拳骨で殴った。ルカはきゃんっと鳴き声をあげて目にいっぱい涙を溜めた。

「いままでの悪事は、たまたま運が悪かっただけだ・・」

 ハサンが言った。

 ルカは頭をなでながら首を捻った。

「何を仰ってるんです?」

「懺悔してるんだよ。これこそ天罰に違いない」

「ひぃっ・・・」 

 今度こそルカは真面目に悲壮を漂わせた。そんな呆れた狼狽ぶりに化け物は一瞬怯みを見せたが、なんとか勇気を持ち直したらしく、か細いながらも口を開いて言葉を発した。

「妻は病気だったのです。私は妻の病気を治そうとしていただけなのです・・」

 なんと化け物はそう訴えかけてくるのだった。だが、しかし・・そこでハサンは耳を疑った。

 この声は!

 驚きのあまり手から剣が落ちそうになった。

「まさかアダム!そうなのだな。いったい、どうして、そのような姿に・・」

 絶句しそうになった。

「神聖医であり宮廷医でもあるおまえが、なぜ手配されて追われなければならない・・」

「そう、私はかつて、あなたの友人であった神聖医のアダムです。秘薬実験のせいで、このような姿になってしまった・・」

 怪物は恨みの籠もった目をセイレンの亡骸へと向けていた。

「だが、その努力も虚しくエミリアは死んだ。エミリアは人工的に懐妊したのち、ある魔術儀式に臨み、そのせいで呪病になったのです。私は魔術医師会から薬剤を盗み、病を治そうと自分の体で実験をしました。それで、このような姿に・・。そこへ追っ手が現れ、それを殺してしまった。もはや正気ではありませぬ。しかも、あなたさままでが罪を犯してしまった。さっき逃げていく物音が外から聞こえました。まもなく新たに追っ手が差し向けられましょう。いかに王太子とはいえ妖人殺しをしたのです。厳しい罰を受けます。ですが事はそれだけではありませぬ。早く、この地からお逃げください。もはや、あなたの命も危いかもしれません・・」

「どういうことだ?」

「ここにある秘密は誰にも知られてはいけません。セイレン人は秘密を守るために私を殺しにきたのです。ですが、ほかにもその秘密を奪いにくる者たちがいるやもしれませぬ・・」

「その者たちとは?」

 ハサンは悲痛な声をあげた。すでに側まで火の手が迫っている。だが、かつての友は質問には答えずに話を進めた。

「私は妻子を助けるために呪われた血を自分の体に取り込んで秘薬を造ろうとしました。禁止薬剤も試しました。おかげでこの有様です。なんとか生まれてくる子は助ける事ができましたが、もはや私は人ではない。人の心も失いかけております。・・どうか殺してください・・」

 友でもある怪物はそう言うのだ。

 だが見た目は怪物であっても声は間違いなく友のものだ。近くにあるベッドの上には女が横になっている。これだけの事が起きているのに動かない。ほんとうに、あの美しかったエミリアが死んだというのか。信じられない。艶やかな七色の髪も以前のまま、まだ生き生きと美しいじゃないか。横たわる胸に小さな赤ん坊を抱いている。赤ん坊は静かに眠っている。炎の明かりで母子の姿がぼうっと浮かびあがった。それが不気味なのか神秘的なのかは理解できなかったが、ハサンは心底からの畏怖を憶えた。

 そういえばアダムとエミリアには子をなす意志はなかったはずだ。それでも身籠もったというのか?人工的な懐妊とはどういうことだ?真人と妖人とのあいだに子が誕生する確率はとても低い。二人が王都から消えて一年、その前後にいったい何があったというのか?それに真妖のあいだに生まれてくる子といえば。

「俺に友は殺せない。それに、おまえが死ねば、その子はどうなる・・」

 ハサンは髪を掻きむしり、そして祈った。

 だが、現実が変わることはない。

「どうか、その子を頼みます。察しのとおり、その子は半妖精。・・成長すればフローレス級をも凌ぐ聖帝級の半妖精になりましょう。そのむかし・・国によっては不吉の象徴とされてきた半妖精。いまでは偏見も薄れましたが、それでも忌み嫌う者はまだ大勢います。その反面、絶大な権力と富を与えると重宝され、その力を我がものにせんと企む者もあとを立たない。いまや多くの国で真妖の混血が禁じられているなか、すべての半妖精がどのような運命を辿るかも承知の上でした。それでも、こうなる運命だったのです。その子を奪いにくる者たちからどうか守ってやってください。そしてシャロムにいる我が師のもとへ届けてください。師ならばきっと立派に育ててくれましょう」

 かつての面影さえなくした友はそう言うと妻の胸に抱かせていた赤ん坊を持ち上げ、ハサンの手に渡した。赤ん坊は首に青く輝く水晶のペンダントをぶら下げていた。なんとも肝の据わった赤子である。うんともすんとも泣きわめかない。そのうえ、生まれたばかりというのに、なんとも図々しいばかりの威厳と太々しいほどの神々しさに満ち溢れていた。

 ・・とはいえ。

 聖帝級半妖精の誕生などありえる話ではない。そのような者がもし生まれるとすれば、それは聖帝家にのみのはず。おまけに三百年に一度しか誕生しないという言い伝えもあるし、なにしろ神の力を具現する賢石を持って生まれくるという。・・もはや伝説でしかない。

 いま、この時代で最も有名な半妖精は絶世の美貌を誇るサラスンの第三王子妃パーラメントである。その彼女でさえフローレス級の称号を与えられているに止まっている。その彼女をも凌ぐ聖帝級半妖精だなんて。

 いや待てよ。そういやエミリアはただのセイレン人ではなかった。ハサンは、彼女が混血の巫女であった事を思いだしたのである。

 エミリアには聖帝家の血が流れていたはすだ。それに、なにより赤ん坊の首にぶら下がっている・・その不思議な光を放つ賢者の石らしき物体が気になってしょうがない。

「私とエミリアの子で名はピエタと言います。その子は首から下げている神石を持って生まれてきた具現者なのです・・」

その言葉の意味にハサンは愕然とした。それが嘘でなければ、それは実に穏やかならぬ不吉の予兆となろう。その誕生が世に知れれば大騒ぎどころではない。戦が起きる可能性だってある。いや、すでに、その存在自体が戦乱の兆しそのものなのだ。

 さらに友は続けた。

「温情あるシャロム王ならきっと密かに助けてくださるでしょう。あなたの父上でさえ信用なさってはいけません。あとは我が師がなんとかしてくれましょう」

 そして、そう言うが早いか魔術を使ってハサンの剣先を変えると、そこへ向かって飛びこみ、止める間もなく自分の胸をその刃で貫いた。

「ああぁっ!・・・」

 血相を変えてハサンは友の側へ駆けよったが、もう遅かった。友の胸からは血が噴きだし、周囲を赤く染めていく。

 姿は変わっても、その赤い血は人のものとまったく変わらないじゃないか!

 ハサンはそう信じたかった。

 友はよろめき、すでに横たわっている妻の上に重なった。

「いったい何が起きているんだ・・」

 すると友は少しだけハサンのほうを向いて苦しげに呻いた。

「闇より混沌の賢者が蘇り、再び世を二分する光と闇の戦いが始まるのです・・」

 友はそう言うと愛おしく妻を抱くように目を閉じ、動かなくなった。ハサンはすべてを目に焼き付けながら立ち尽くしていた。

 火が激しさを増していく。

 ルカは慌てた。このままではご主人さまも赤ん坊も焼け死んでしまう。腕に力を込めてハサンを扉の外へ押しやった。瞬間、炎が小屋の中を包み込んだ。危ないところだった。

 いっぽうハサンはまだ信じられない顔で燃え盛る小屋を見つめている。

 まあ無理もない。殿下はたったいますべてを失われたのだ。国も友も地位も、そして何より幼子と妻を捨てなければならない。でなければ家族にまでどのような害が及ぶか知れたものではない。そして、これからは罪人としての流浪の旅が始まるのだ。ルカは悲しみにくれた深い溜息を洩らすしかなかった。

 そこでハサンがぼそりと言った。

「まずはシノワへ赴き、聖帝陛下に罪を報告し、王太子の地位を返上する。その上で審判を仰ぎたい・・」

 炎に照らされているのにその表情は青白く凍り付いているようだった。

「ことによっては死罪になるだろう。だが、このまま逃げては我が家名に傷がつく。俺は地位も名誉もいらないが、まだ幼い我が子ミラナにだけは害を及ぼしたくない。こんな俺だが、まだ付いてきてくれるか・・」

 ハサンはよろめくように膝を折り、無感情な笑いを洩らした。

「具現者の誕生だと。人は愚かにも時として半妖精の力を利用せんと忌まわしい事をする。これはもはやロラン一国のみで成し得るような計画ではない・・」

 そして悲しくも愛おしい者を見るような目をしてみせるのだった。

 赤獅子の騎士の異名を持つハサンのこのような弱気な姿をいままでルカは見たことがなかった。慌てて膝を折り、ことさら大袈裟な仕草で臣下の礼を取った。

「私はハサンさまの従者として育てられました。生涯お仕えすることこそ使命。それは、これからも変わりません。私を育ててくださったハサンさまのお母さまに誓っても・・」

 ルカは言いながら、そっと右腕の刺青に手をあてがい、無言のままこうも呟いていた。

『やはり運命からは逃れられないのですね。ぼくはハサンさまと、その運命の子を護る者として誕生させられし者。願わくは、その子が平穏に暮らせますように・・』

 だが、当然のごとくルカは知らなかった。いま燃えている小屋の中でいったい何が起きているのかなど・・。そう、まったく想像だにしていなかったのである。 

         ♪♪

 ラビアナ大陸の真ん中には大きな湖がある。その名を碧玉湖という。大抵の者はそれを『中の海』と呼んでいる。エメラルド色に澄んだ湖で北西の山々から流れくる雪解け水を南東の海へと送り続けている。湖はラビアナの隅々と繋がっており、そのため湖の周辺では交易が盛んで、そのせいもあって、いくつもの街が繁栄している。そんな街の一つがセルシラ公国の首都ライエルである。湖の東へ流れ込む隼川の河口域に広がる大きな港町だ。

 そのセルシラ公国は碧玉湖から東の乾燥地帯にかけて領土を持ち、北にシャロム。北東に砂漠の国エルハント。東に同じ交易国のダルハント。そして南に青龍江を挟んで自由都市国家のモランなどと接している。領土はそれほど広くはないが水運と交易が盛んで国力は大国に匹敵する。首都ライエルは交易の中心として栄え、街の美しさはシャロムの都マナスにも引けを取らない。人々はライエルのことを湖の輝ける青真珠と謳っている。

 そんなライエルの街を湖面のほうから落ちつかない様子で眺める男がいた。旅装に身を包んだギルである。空が湖の青さを反映して、白壁と青煉瓦の美しい街並みを青玉のような輝きの中へと落とし込んでいたが、ギルの心にそんな街の情景などはまったく響いていなかった。湖面に浮かぶノルン水上宮の正門前でかれこれ一時間近くも待たされ、門前をうろうろしながら緊張を解そうと必死になっていた。

「えっと、まずはミラナさまの無事を知らせること。それから一行はエルハントを縦断し、さらに竜王街道を突破してシノワの聖都ヒストリアンへ至る旅に出られたとお伝えすること。えっと、それから、なんだっけ・・」

 ギルは伝えるべきことを思い出そうと脳をフル回転させた。

 そこで最近の記憶を辿ってみることにした。

 まずは街道沿いのヌラスという宿場町でのことだ・・。

 みなの反対を押し切って町一番の宿に飛び込んだミラナさまは、それだけでは飽きたらず、さらに、みんな(ピエタ以外)の全財産を強引に巻き上げたかと思うと、さっそくピエタさまを伴い、街へショッピングに出かけられたのであった。そこで・・たしか・・ミラナさまはランジェリーショップなる所へピエタさまをお連れしたのだそうな。ミラナさまがピエタさまに妙な事を吹き込みやしないかと、それはもうルカさまは心配しておられた。そして、その宿で一泊し、次の日の朝になって大事な使命を仰せつかったのだ。

 今度は、その日の朝を思い出してみた。

 たしか、朝食のあとルカさまが市場へお出かけになり、馬を買ってこられた。でも、お金が全然足りなくて、痩せこけた馬二頭と、やたら元気なロバ一頭しか買えなかった。

 それでミラナさまがたいそう不機嫌におなりあそばした。

『馬を見る目が最悪ね!』

 と、そんなミラナさまの悪態には、

 さすがのルカさまもカチンとこられ、

『優秀な馬は乗り手を選びません。それと同じで優秀な騎士も馬を選ばないものです。そもそも、あなたさまの無駄遣いのおかげで、こんな馬しか買えなかったのですよ!』

 とやり返した。

 危うくミラナさまは剣を抜くところだった。

ピエタさまが宥めるのにえらく苦労なされた。そして、そのあとにこう言われたのだった。

『あまり気は進みませんが仕方ありません。この戦乱のおかげで経済もパニックに陥っているようです。帝国銀行ですら預金の引き出しを一時中止しているのですからやむを得ません。恐らくハサンさまは水上宮におられましょう。ちょいとライエルまでひとっ飛びして旅費を工面してきてもらえませんか』

 そしてピエタさまは二通の書簡を手渡してくださったのである。

 一通は通行手形のようなものだった。

『神聖医はどこへ行くのもフリーパス。私には、この十曜星形の神聖医ペンダントがあれば、こと足ります。ルカとミラナさまは助手ということにします。問題はあなたです。この私のサインを認めた通行書を持って行ってください。これを見せればエルハントへの入国は可能です』

 そして、もう一通はエグザ城の出来事を知らせる手紙だった。

『この手紙をハサンさまを通して大公に渡してください。そして再び三十万を超すタルキス軍が南下を始めたと伝えてください』

 さらにピエタさまはこうつけ足した。

『ハサンさまの陣営にアニスという女の子がいます。その女の子に私の無事を伝えてください』

 そこでミラナさまがとても怖い顔をした。

 ピエタさまは構わずお続けになられた。

『アニスという少女が私の診察道具を持っています。面倒をおかけしますが、それも取ってきてもらえませんか』

 ピエタさまは、こんなあっしにでも丁寧に頼み事をなされる。

 それに引きかえ、あのミラナさまときたら。

『ちゃんとパパから大金をせしめてくるのよ!』

 と、きたもんだ。こういう時だけパパと呼ぶのはいかなものか。とにかくピエタさまはそれを無視してこう結ばれた。

『大変ですが、よろしくお願いします。空を飛べるギルだからこその役目です。ギルが往復して戻って来る頃にはカンタビラへ到着していることでしょう。その関所の役人に滞在先を報せておきますので、そこで再び落ち合いましょう』

 これですべてを思い出した。早く任務を終わらせて、またひとっ飛びして次の目的地へ向かおう。カンタビラの街。人はそこを歓喜の都、吟遊詩人の都と呼んでいる。美味い酒に綺麗どころの酌娘。色んな出店に見せ物小屋・・。

「それにはまず軍資金だ!」

「なにが軍資金だって?」

 ギルは飛び上がりそうになった。それは紛れもなくハサンの声だった。報せを聞いて、わざわざ出向いてくれたのである。慌てて片膝をつき、そちらのほうへ体を向けた。

「立ったままでいいぜ。しかし王宮はどこも同じだな。何かと事務処理に時間がかかる。使者を正門まで迎えに行く手続きをするのに半時もかかりやがった」   

 ぶつぶつ言いながらハサンが立ち止まった。左にカルネロが立ち、右にでっぷりと肥えた壮年の男が立っていた。

 こいつは知らない男だぞ。

「まことに無事でなによりだ」

 ハサンはギルの体を持ちあげて立たせてくれた。ギルは足をじたばたさせた。そんなに嬉しがられちゃぁ・・照れるじゃねえか。

 カルネロも詰め寄った。

「それでミラナさまは?」

「もちろん無事です」

 なんてこった。若き宰相が人目も憚らずに大粒の涙をこぼし始めた。涙に咽せながら手を強く握り返してくる。ミラナさまも捨てたものじゃないんだな。家臣にこれほど愛されているんだから。

 そのカルネロが急にバランスを崩して片膝をついた。ズボンの裾を捲り、踵あたりにある金属のつまみを調節している。なんと義足だ。ギルは目を見張った。

「私も魔障病に掛かりました。国を滅ぼした宰相としては当然の報いですが、両足ともこれでは不便でなりません。どうもロラン製の賢石義足は調子が悪くて・・」

 そこでギルの知らない男がポンと大きくお腹を叩いた。

「閣下。わが商会はシノワ製の魔術医具を各種取り揃えております。なかには義足もございます。よろしければ閣下に合うものをお探し致しましょうか?」

「そうしてくれると助かる」

 カルネロは立ち上がった。

「それで・・タルキス軍が南下を?」

「数はおよそ三十五万。魔障兵団、死神兵団、機械化兵団すべてを動員した大軍団です」

「なんてことです!」

 知らない男がまた声をあげた。

 いったい、こいつは誰なんだ?

 ギルは歯がウズウズするのを感じた。思わずハーピー族の悪い癖が出そうになる。肉づきのいい真人を見ると無性に血を吸いたくなるのだ。おっと涎まで出てきやがった。

 そのうち男もギルの熱視線に気がついた。

「これは失礼。申し遅れました。私はセルシラの商人でアブドラといいます」

 男は自分のことをハサンの資金調達係だと説明した。そこで再びハサンが口を開いた。

「ピエタの手紙は読んだ。いまノルン宮には各国の代表が集まっている。タルキスに抵抗する策を練っているが、まあ無駄だろう。逃げることしか頭にない。まあ俺は最初の目的どおり帝国へ行く。ピエタにそう伝えてくれ。南へ針路をとって龍の口を目指す。シノワを横断する魅惑の大河、青龍江を下る。優雅な船旅だ」

ハサンが自慢げに言うのを聞きながらギルは恨みがましく肩を落とした。まったく、こっちは砂漠越えが待っているというのに羨ましい。

「ピエタのことを頼んだぞ・・」

 そう言ってハサンははにかむような顔をした。「それからミラナは元気にしているか・・」   言いながらハサンは、そっと小さな肖像画を内ポケットから取り出し、そこへ目を向けた。一瞬であったが、そこに少女の頃と思われるミラナの姿が描かれているのが見えてギルは思わず笑みを浮かべそうになった。

「ええ、まあ、元気です・・」

 ギルはそう言って誤魔化した。正直なところ、なんと言っていいのか困った。いまのミラナさまはとても苛々しているようなのだ。それに、しばしば無口になられる。とくに戦乱で廃墟と化した街や村を見る度に肩を落とし、ひどく自分を責めておられるようなのだ。いまに思えばヌラスの街に入った時のミナラさまの喜びようは尋常ではなかったように思える。

 それをそのまま伝えて良いものやら。

 だが、ギルはある確信を持っていた。

「心配いりやせん。ピエタさまがお側に付いておりやす。ミラナさまは幸せになるでしょう。なんたって世に一つしかない最高の宝を手に入れる旅に出られたのですから」

「世に一つ・・の宝?何ですか・・それは?」

 カルネロが怪訝に首を捻った。

「それはですね。真の愛ですよ・・」

 ギルは完爾と笑うのだった。

         ♪♪ 

 エグザ城を脱出してから十日あまりが過ぎようとしていた。この十日間のうちで、ちゃんとした寝床に入れたのはヌラスという町に泊まった一夜だけのことだった。あとの九日はずっと野宿である。赤沙街道はシャロムとエルハントを結ぶ交通の要だ。ほんらいなら、どこの宿場も旅人で賑わっているはずだ。それが、この戦乱のおかげで、どこもかしこも壊滅的な被害を受けてヌラス以外はすべて廃墟と化していた。

「あと二日のうちに、まともな町に・・えいっ!・・入らねば食料が底をついてしまいます・・」

 乾燥肉を薄くナイフで切り、それを噛み切りながらルカが愚痴をこぼした。ピエタは眉を顰めたが行儀の悪さには目を瞑ることにした。ルカの夕食はその薄っぺらな肉だけである。ピエタも乾燥チーズの夕食を終わらせたばかりだった。そのピエタのマントがもぞもぞと動いてグリフォンのセフィリアが襟もとから顔を覗かせた。もらったチーズの欠片を前足で抱え、口を開けたり閉じたりしている。食べようかどうか迷っているらしい。ルカもやっと肉を飲みこんだ。

「今夜は月が出ています。こんな夜は久しぶりですね・・」

 やがてルカは簡素な食事を終わらせると焚き火に薪をくべながら夜天を仰いだ。うっすらとした雲の合間から弓なりに反った月が顔を出していたが、星はまったく見えない。

「東へ行くほど晴れてきてはいるようですが・・」

 焚き火の明かりに揺れる廃墟の影を見つめながらピエタが言った。廃墟の町は身を隠すのにはうってつけである。三日前から昼夜を問わずに低級妖魔が出没しては襲ってくるようになっていた。とにかく用心しなければならない。

「この異様な・・瘴気の曇り空も妖魔の出没となにか関係があるのでしょうか?」

「エグザ城を中心に急速に邪気が高まっています。このままではシャロムはおろか、ほかの国々までがこの瘴気の雲のなかに閉ざされてしまうでしょう。大地の力は衰え、タルキス軍はより強力になるはずです。ほんらい妖魔がすすんで人を襲うことなどありえません。どこか近くに妖魔使いがいるはずです。その者も、この瘴気によって力を強めていることでしょう」

「つまりエグザ城にはタルキス軍を強化する仕掛けがあって、私たちの近くには妖魔使いが潜んでいると・・」

「恐らく、エグザ城の仕掛けとは強力な結界の一種と思います。結界は邪悪なものを閉じこめながら同時に怨霊の発する瘴気を振りまく機能を果たすのでしょう。さらに邪気に誘きよせられた怨霊を取り込んで際限なく増殖し続けるのだと思います。最終的にそれがタルキス軍を強化するはず。いっぽう帝国の都市はどれも強力な魔法陣になっており、帝国全土に結界を張り巡らせています。混沌の力を借りたタルキス軍がそのまま侵攻しても力を発揮する事はできません。ですからラビアナ北東部を瘴気で包み込む必要があるのだと推測いたします」

「この戦は、とてつもなく怪奇なものへと発展しそうですね。そういや、ほかにも奇っ怪なことと言えば・・あのヌラスの宿場町です」

 ルカは言いながら立ちあがり、廃墟の壁から顔を出して荒野のほうを除き見た。岩と砂しか見えなくても時々は見張る必要がある。妖魔がいつ襲ってくるか解らないからだ。

 なにも近づく気配がなかったのでルカはまた崩れ落ちた煉瓦の上に腰をおろした。

「ほかの宿場がすべて破壊されているのに、あの町だけが無事というのは不自然です」

 ピエタも肯いた。そして廃墟の庭に一本だけ残されているハルニレの木を指さした。マントの襟もとからセフィリアも顔を出し、じっとそちらを見つめている。

「ほかに妙なことと言えば、あのロバもそうですね。なにやら妖しい力を感じてなりませんが、それが、何故かははっきりしません。・・まさかとは思いますが・・」

 二頭の痩せ馬とロバはハルニレの木の幹に手綱を括り付けている。びくびくと落ちつかない馬の横でロバは大胆に眠り込んでいた。

「ロバに妖しい力?そういや今日の昼です。あのロバめ、妖魔を後ろ足で蹴とばしていましたよ。しかも凶暴で有名な大猿のモンクを追い払ったんです」

 そこで、ちょこっと首を傾げた。

「じつは・・二頭の馬より、あのロバ一頭のほうが値段も高かったのです・・」

「じゃあ、どうして買ったりしたんですか?」

 ピエタは目をパチクリさせた。

「さて?あの時はどうしてもロバを買わなきゃいけないように思えてならなかったのです。いまに思えば、とんと不思議でなりません」

 ルカも自分の取った行動の奇妙さに今更気づいて驚いた。いくら首を捻ったところで、その理由を説明する事ができない。暫くしてルカは立ちあがり、辺りをキョロキョロ見回した。崩れかけの壁を一枚挟んだ向こうにミラナが眠っているはずだ。だが、ふと気がついた。どうも様子がおかしい。さっき確認した時と同じ体勢のままミラナは動いていない。いくらなんでも寝返りくらいは打つだろう。

「ピエタさま・・様子が変です・・」

 すぐに二人は駆けつけた。悪い予感は的中した。毛布の中はすべて瓦礫にすり代わっている。

「どこへ行ったのでしょう?」

「とにかく探しましょう・・」

 二人は手分けして街中を探し回ることにした。

 街は広かった。それもそのはず、ここは街道沿いで最も有名な宿場だった。詰め物をした鳥の汁物や豚の煮込み料理が評判だった。通りに並ぶ居酒屋や旅籠はさぞ活気に満ちていただろう。だが、いまは破壊の痕も生々しく、どの壁にもびっしりと矢が突き刺さっていた。その通りをピエタはルカと別れて反対の方に向かって駆け出して行く。徐々に月光が薄まり、雲が夜空を包み込もうとしていた。急がねばまたぞろ妖魔が出没しそうな気配である。大猿モンク。妖鳥ケブル。大毒蜘蛛のベノムなどの魔獣ならミラナ一人でも退治できるだろうが魔人ゴブリンや巨大ナメクジのドルドル。一つ目巨人のサイクロプスに半牛人のミノタウラスなどの集団にでも出くわしたら、それこそ一溜まりもあるまい。知らず知らずのうちにピエタの足の動きは早まっていた。街中は臭気に満ちていた。至るところに殺戮の痕がある。旅籠には旅人の亡骸があり、居酒屋には客や亭主の無惨な姿があった。ピエタはそれらを直視できなくとも哀れみながら街のなかを彷徨った。

「どこにおられるのです!ミラナさま!」

 ピエタは何度も呼びかけた。妖魔を誘きよせないよう囁くように呼びかけた。でも返事はない。諦めて引き返そうとしたその時だった。路地裏の方から、すすり泣く声が聞こえてきたのである。ピエタは半妖精なので、ギルほどではなくても遠くの音を聞き分けることができる。それに遠視の術を使うこともできる。ぼんやりと瞼裏に人影が見えてきた。足を急がせた。つんのめりながら路地裏へ出る。その石畳の向こうに修道院があった。全能神ヤルーと星海母神ガイオを祀った修道院だ。迷わず中へ入った。正面にヤルー像が立ち、跪くガイオ像があって頭上には神を祝福する聖霊たちを描いた天井画が広がっていた。見事な宗教芸術だ。ピエタは感心しながら立礼し、それから拝堂を進んだ。堂の右手奥にある庭へ足を向けた。すすり泣く声はそこから聞こえてくる。嗚咽がはっきりしてきた。誰かが踞っている。腰に剣を帯びていた。赤く燃えるような長い髪が月光に照らされて美しい輪郭を浮かび上がらせている。その頬に涙が光っていた。ピエタは安堵の息を吐いた。ミラナが庭に踞って何かを抱きしめている。月明かりがその姿をはっきり照らし出した。その瞬間ピエタの顔が曇った。なんとミラナが抱いていたのはとても小さな髑髏だった。その周囲には白骨化した遺体が幾つも散乱している。そのすべてが実に小さい。ミラナは死臭が体にまとわりつくのも気にせず、はらはらと涙をこぼしながら、その、まだあどけない大きさの頭蓋骨に頬をすり寄せていたのである。 ピエタは愕然とした。この修道院は子供たちの学校でもあったのだ。

「ごめんなさい。ごめんなさい・・」

 ミラナは狂おしく泣きながら何度も謝っていた。ピエタの心は張り裂けそうになった。ミラナは街の被害を確かめようと寝床を離れ、さらに神に懺悔しようと思い、この修道院を訪れ、この凄惨な現場を見つけてしまったのだ。見て見ぬ振りなどできなかったのだ。ぴかりと何かが光った。ミラナが短剣を引き抜いたのである。戦士が短剣を所持しているのは長剣が使えなくなった場合に備えてと・・もう一つは、自害をするためにである。

「なりませぬ!」

 ピエタは猛然と駆けだしてミラナの手を押さえた。短剣の切っ先はもう少しで咽を貫くところだった。ピエタとミラナの手が重なり、ブルブルと震えた。ミラナの目がつり上がった。

「どうしてここにいる。そうか、あとを着けてきたな。ええい、放せ!」

 ミラナの腕に力が籠もった。ピエタも絶対に手を放すまいぞと両腕に力を込めた。ピエタの指が刃に食い込み、みるみる血が滴り落ちた。

「おまえには解らぬ。醜いわたしの心など。姿だけではない、心まで汚れている。戦場で多くの命を奪い、身も心も腐りきった。生きている価値もない。見よ、この子たちを。朽ち果てていても、わたしよりも遙かに美しい。この子たちを死へ追いやったのは、このわたくしだ!」

 そう言ってミラナは泣きじゃくった。ピエタの心は悲しみに沈んだ。彼女のこれまでの苦難はその姿を見ただけで想像がつく。祖国を守るために他国を犠牲にしなければならなかった残酷な選択が、姿ばかりか彼女の心をも蝕んできたのである。深い傷を心に負い、死を選ぼうとしたのはなにも今回ばかりではないだろう。

「・・解りませぬ。ただ、あなたさまがお亡くなりになれば多くの者が悲しみます。その事だけは・・はっきりと解ります・・」

 ピエタの涙がミラナの手を濡らした。

「もし死になりたいなら・・もう止めませぬ。ですが、あなたさまだけを地獄へ行かせるわけにはまいりません。私もお供します。そして、なんとしても神のもとへお連れするつもりでございます」

 ミラナの目に動揺が走った。

「その前にもう一度、この子たちを見てください。この子たちは、どんなに願おうと、もはや生きられないのです。でも、あなたは生きている。なのに生きる事から逃げようとなさる。一つしかない命を捨てようとなさる。魔障病で命を落とした人はみな闇へと墜ちていきました。犠牲となった方々はみな言うでしょう。何があっても生きてるほうがましだと。亡くなった人のためにも生きねばなりません。それが、どんなに辛くても、それが生きる者の責務です。あなたに罪があるなら私にも罪はありましょう。罪を償うには、ただ生きることです。私はあなたとともに生き、ともに罪を償いたい・・」

 ピエタは必死に訴えた。なんとしても生きる希望を持って欲しかった。これらの不幸は決して彼女のせいではない。彼女自身もまた救いがたい犠牲者の一人ではないか。それでも彼女は自分以外の犠牲者のために心を痛め続け、他者の死をずっと哀れんで血涙を流してきたのである。ピエタは、ほのかな感動を憶えるのと同時に彼女を失ってはならないと心から思った。 ミラナは涙を流し続けている。

 また狂おしく亡骸を抱きしめた。

「お友だちと一緒に、もっと遊びたかったよね。もっと勉強したかったよね。でも、もうできないんだね。ごめんね。お姉ちゃんのせいだ」

 綺麗な涙だとピエタは思った。顔の半分とともに失った右目からはもう涙は出ないのだろうけれど、きらきらと輝く左目からは右目の分までと痛々しく涙を流している。

「ミラナさま・・」

 ピエタは愛おしげにその名を呼んだ。ミラナは一瞬びくっとしてピエタを見あげた。その胸に向かって顔を押しつけ、わっと泣き叫んだ。

「苦しかった。でも、この子たちはもっと苦しかったに違いない。こんなに小さいんだもの。どうして、こんな事になるの!こんな小さな命まで奪う必要がどこにあるのよ!」

 ピエタはミラナを抱きしめ、そして、ゆっくりと立たせてあげた。

「確かに苦しかったことでしょう。子供たちは泣いています。自分たちの死を悲しみ、親と離ればなれになった事を悲しんで、そしてミラナさまの痛ましい心が可哀想だと泣いています」

 ピエタは目を瞑りながらそう言った。目には見えない何かを見ながら立っているのだ。

「子供たちの命を奪ったのは呪いによって心を破壊された不幸な不死兵たちです・・」

 力を使って見通したことを、そのまま正直に口にした。ミラナは唇をわなわなと震わせた。

「あなたは・・いったいなにを・・」

 ピエタは両手を広げる格好で立っている。

 その周囲を青い光が取り巻き始めた。

「子供たちは魔障病に罹る前に命を落としました。ですから魂に呪いは掛かっておりません。まだ、この場に止まっています。それに親たちの霊も子供たちを探して街の中を彷徨っています。ちゃんと会わせてあげなくては・・」

 目を瞑りながら眉間に皺を刻み、苦しげな顔をした。かなりの霊力と魔力を消耗するのだろう。そのくらいの事はミラナにも理解できた。やがて遺体がぽっと輝き、そこから透明な光が立ち上がって、それが子供たちの姿へと変化していった。両手をかざすような姿で立ち続けるピエタはさらに苦しそうにしている。ミラナはすっかり言葉を無くした。気がつくと周囲を子供たちが囲んでいた。手を引っ張り、一緒に遊ぼうと言っているように見える。いや、実際にそう聞こえるのだ。子供たちの声が聞こえる!子供たちはもう泣いていなかった。みんな笑っている。自分を囲んで笑っている。その笑い声が聞こえてくるんだもの。

「お姉ちゃん。どうして泣いてるの?泣いてなんかいないで一緒にお人形さんと遊びましょ」

 幼い女の子がお強請りするように甘えてきた。

「姉ちゃんのせいじゃないよ。だから泣いたりなんかすんなよ!」

 やんちゃそうな男の子が口を尖らせていた。

「お姉ちゃん・・すごく綺麗だね・・」

 目のくりくりした可愛らしい男の子だった。 目がピエタにそっくりだとミラナは勝手に思い込んだ。

「でも辛かった。でも、それも今日までだよ」

 ミラナは涙を流しながら、うんうんと肯くばかりだった。膝を落として目を閉じ、少しでも子供たちを感じられるようにと腕を広げた。

「あっ、母さんだ!」

 おさげの女の子が叫んだ。

 ほかのみんなも一斉にはしゃぎはじめた。

「先生たちもやってきた!」

 見れば白い法衣を着た修道女たちがいつのまにか傍ら立ち、ぺこりと頭を下げていた。そればかりではない。ほかにも沢山の霊が集まってきている。やがてピエタはリュートを構え、指で弦を弾きながら、ゆっくりと静かに、澄んだ声で歌うように、呪文を唱えはじめた。

「月翳り、いと寂しき夜なれど主の御心は届きたもう。我が魂は涙に暮れど、愛はどこにも消え失せぬ。死を司る悲しみの熾天使アズライル。そなたの目はあらゆる者を導き、手はあらゆる魂を救いたもう。願わくは、ここに集いし善良なる魂を神のもとへと誘わん・・」

 すると頭上に大きな光の球が出現し、それが少しずつ眩しさを和らげていくとともに、そこに存在する者の姿をはっきりと浮かび上がらせていった。その者は大きな孔雀のような翼を持っていた。翼には数え切れないほどの目が付いている。なんと羽の一枚一枚に目が付いているのだ。それらの目がピエタの唱える歌のような呪文にあわせて順に開いていく。

 腕も数え切れないほどあって、その手の一つ一つに花を持っていた。それもまたピエタの呪文とともに開花していく。さらに額にも目があって、その長い髪はまとめて翠玉色の冠の中にしまってあった。薄い絹衣のようなものを身に纏い、燦然と輝きながら宙に浮いている。

 ミラナは口の上下が接着されたかと思うほど絶句した。まさに、それは聖霊も聖霊。上級聖霊の頂点に君臨する熾天使(セラフィム)にほかならない。告死天使と恐れられるアズライルと言えば、まさに天使のなかの大天使だ。

 だが、いくらなんでも目を疑う。もっとも神に近しい存在がいとも簡単に姿を見せるなど有り得ることではない。

 とはいえロランはシャロムよりも信仰の厚い国だ。魔術の類にも造詣が深い。昔は妖人も大勢住んでいた。ちょっとした魔導師などゴロゴロいた。なかにはピエタのように神通の力を駆使する者もいた。とくに神官や魔術医に魔術看護士などはたいてい特定の天使と契約を結んでいるものだ。だが召還できたとしてもそれは下級三隊と呼ばれる小天使(エンジェル)や織天使(アークエンジェル)どまりがほとんどで、下級聖霊を統べる権天使(プリンシパリティー)を召還できる者でさえ数えるほどしかいなかった。ましてや聖霊の頂点に君臨する熾天使のような存在を召還してしまう術者などは見たことがない。

 見ればピエタの立っている所にいつのまにやら複雑な魔法陣が輝いて浮かび上がっていた。 いまやピエタの口から唱えられる呪文はリュートの奏でる天曲(ヘブン)の旋律と一体化し、もはや人が作りだす音曲とは思えぬほどの荘厳さを帯びている。

 これが噂に聞く神聖医の力なのか。

 このように幻想的な魔術はいままで目にしたことがない。

 やがてミラナは茫然自失へとおちいり、

 大聖霊アズライルの厳かな霊言を耳にした。 凄まじい力に体が自然と平伏してしまう。

『我を呼んだはそなたか?太陽の子よ。ここにいる善良な魂を導くことがそなたの望みだな』

「・・はい・・」ピエタは短く答えた。

 天使もそっけなくそれに答えてくれた。

『だが残念なことに、いまは駄目である』

 ピエタは目を皿のようにした。まさか天使が意地悪をするなんてありえない。

『いや意地悪で言っているのではない。ただ来るべき時に備えて、ここにいる者たちをみな水晶門の向こう側へと封印せねばならん』

 ピエタは怪訝な顔をしている。

『時がくれば解る。みな、おまえの力になることを承知してくれた。さあ、ルアッハの力によって治められし楽園へと続く門よ開け!』

 天使がそう言うと、にわかに大きな光の門が現れた。煌々とした光が周囲に満ち溢れ、魂を包み、それらの輝きがピエタの幻想旋律魔術(ファンタジア)の歌声にのって、まるで蛍の群れのように一斉に舞いあがった。この世のものとも思えぬ美しさだ。ミラナは全身の力が抜けるのを感じ、へなへなと腰を抜かした。そこにいるピエタはもはや常日頃の姿をしていない。いつもより凛々しく男らしく、その真っ直ぐな絹糸のような髪はいまや虹色に輝いて得も言われぬ神々しさに溢れている。いつもの可愛らしさの欠片もない。リュートを奏でながら立っている姿はまさしく聖霊の御使いだ。ミラナの心は一瞬にして甘い陶酔感に満たされ、さらに強い決意を秘めた慈愛にも似た勇気に満たされていった。やがて輝く門の中から愛らしい小天使たちが現れ、こぞって彷徨える魂を門の中へと誘っていった。あっというまにすべての霊が輝く水晶門の中へと吸いこまれていく。すでにアズライルも姿を消していた。あとに残されていたのは、より闇を濃くした廃墟の風景と、よれよれと膝をつくピエタの疲れ切った姿だけだった。

 すでにピエタはいつもの姿に戻っていた。

「単独で天使を召還するのはきついですね・・」

「そりゃそうでしょう!そんな恐れ多い力を行使する魔術なんて初めて見たわよ」

 ミラナは目を白黒させながら、そう言うのがやっとだった。湧き起こったばかりの歓喜がいまもなお止まることなく動悸を激しくしている。恐る恐るピエタの肩に手を回し、そっと立たせてあげた。同時に体に熱い血の奔流のようなものが流れた。けれど、そんなミラナの感情の揺れを知ってか知らずかピエタは呼吸を整えるように呟きを漏らすだけだった。

「過去に外法医たちは幾度となく魔界の眷属を召還してみせたそうです。彼らほど恐れ多くはありませんよ。それより注意してください。なにやら邪気が濃くなってきています」

「解ってるわ。さっきから低級妖魔の臭いがぷんぷんだもの・・」

 ミラナはピエタを支えながら修道院の外へ出た。すでに、あちこちから低く唸る獣の声が聞こえてくる。ミラナは覚悟を決めた。もう自分の運命に悲嘆なんかしない。先へ進むことに逡巡したりしない。もう迷わない。自分から命を捨てようなどとは決して思わない。命をかけて守りたい者と出逢ってしまったのだ。その思いを貫くことをこそ再び生きると誓った自分の道としよう。ミラナは剣を抜いて大通りへ出た。

 そこへルカが息せき切ってやってきた。

「ごぶじでしたか?・・」

 ルカはすぐにピエタの疲れ切った姿に目を向けて少々狼狽した。

「いったい何が起きたのです?突然、町じゅうに霊が溢れ、一カ所に向かって移動していきました。それを追いかけてきてみれば、今度は低級妖魔の気配がどんどんと高まり・・」

 と、そこで何かが飛んできた。ルカとミラナは身を捻って剣を構えた。それは鋭く尖った爪だった。見れば大猿のモンクが二十匹以上もいて、すでに周囲を囲んでいた。

 さらにヌメヌメした肌の巨大生物もやってきた。その巨大妖魔はチカチカと体を発光させている。獲物を前にして興奮しているのだろう。三人は戦慄した。巨大ナメクジのドルドルだ。それこそ最も相手にしたくない魔獣の一匹だが、やってきたのはそればかりではない。ガラガラと建物を崩して現れたのは一つ目巨人のサイクロプスだ。しかも厄介なことに巨人は三人組だ。ほかにも大毒蜘蛛のベノムがいた。周囲の壁にびっしり張りついている。数え切れないほどの大群だ。漆黒の闇と思っていた影はすべて大きな蜘蛛だったのだ。どの妖魔にも混沌術の契約を示す魔法陣が記されている。闇が深みを増す。すでに月はその影すらも見えない。その闇を切り裂くように突然に声が響いた。高い掠れた声だったが間違いなく男の声だった。

「やっと街へ入れたぞ。街への侵入を拒んでいた

浮遊霊どもを消してくれたことには礼をいう」

「何者だ!」ルカが闇に向かって誰何した。

 また、どこからともなく声がした。

「我が輩は蛇身大司教さまに仕える外法医で妖魔使いのイミルと申す。おまえたちを監視しながらピエタの覚醒を促せと命じられた者であるが、しかし目の前にこれほどの逸材が揃っておるのだ。もはや、これ以上は我慢できぬよ」

 妖魔使いは闇の中から小癪な笑いを響かせた。逸材と言われたところでミラナが素直に矜持を見せたが、ルカはちっと舌打ちした。

 やはり妖魔使いが潜んでいた。

 しかも、かなりの使い手のようだ。

 いくらなんでも、この妖魔の数は多すぎる。

 ピエタの胸のあたりが落ち尽きなくモゾモゾと動いた。やはりセフィリアは妖魔使いが苦手らしい。人で言えばまだ二、三歳くらいの幼児なのだから仕方がない。

 そこで案の定、ミラナがお得意の強がりを炸裂させた。

「ふんだ!わたしたちを襲ったって魔獣一匹分の餌にも満たないわよ!とんだ無駄骨だわね」

「我々を奪いあって仲違いをしてくれるとありがたいのですが」

 ルカも強がりに付き合った。いっぽうピエタは必死に回復呪文を唱えていたが、そうしているうちにもドルドルが口から粘液を溢れさせていた。粘液は強い酸性でできている。体に触れたら大事だ。ピエタとミラナは懸命にそれを避けた。やがて、それを合図に大毒蜘蛛のベノムが一斉に動きだした。ドルドルの無差別攻撃にかかってベノムが数匹餌食になり、ミラナの疾風の剣が大猿のモンクを数匹ほど屠った。だが、まったく数は減少しない。やっとのことでルカがドルドルを倒すことに成功したが今度はそこへ巨人の拳が飛んできた。エイジスの盾を構えて防御したもののルカとピエタは仲よく吹っ飛ばされて地面に転がった。その衝撃でピエタのリュートが粉々に砕け散ってしまう。

「あぁぁ・・!」

 絶叫したのはピエタではなくミラナだった。

「あんの巨人めよくも!」

 ミラナはカンカンだ。ピエタの音楽貝殻の一ファンとしてピエタの楽器が破壊されるようなことは我慢できることではない。ピエタも壊れたリュートの残骸を手にし、沈鬱な表情を浮かべた。それほど高価なものではないが長年愛用してきた楽器である。大切な思い出も詰まっている。こうもあっけなく壊されてしまうと、とても寂しく、怒りもメラメラしてくるが、いかんせん、まだ魔力も妖力も体力も回復していない。足音を響かせて巨人が迫ってきた。はやく起きあがらねばと焦るほど体が動かない。巨人が拳を構えた。万事休すだ。ところが、そこで巨人が動きを止めたのである。恐る恐る目を開けてみると、トコトコとこんな所へやってくる動物が目に映った。なんとあのロバだ。おかげで巨人も戸惑っている。わざわざ餌のほうから近づいてくるのだから。しかもロバは弱者の分際で、まっ向から巨人に挑もうとしているのだ。こんな肝っ玉の据わったロバは見たことがない。

「何をしようとしているのです?あのロバは!」

 ピエタは悲鳴をあげた。ここまでの道中ずっと荷を運んでくれたロバである。時にはその背に体を乗せてくれた。ちょっと謎の多いロバだけど大切な旅の仲間だ。そのロバ目掛けて拳が振り下ろされた。ロバはあっというまにペッシャンコと思われた。ところが、しぶとく生きていた。ひょいと拳をかわし、さらに鼻息荒く嘶いた。なんと、その嘶きで巨人が吹っ飛んだ。あまりの光景に三人は唖然とした。妖魔たちでさえ動きを止めた。だが、それは一瞬のこと。今度は大猿モンクが一斉にロバ目掛けて飛び掛かっていった。今度こそ終わったと誰もが思った。でも違った。突如として大きな旋風が巻き起こり、モンクたちは吹き飛ばされてしまったのである。モンクたちは刃のような風で体を切り刻まれて一目散に退却した。やがて風が止んで土埃が収まると、そこに一人の老人が立っていた。大きな剣のような魔杖を手にしている。もの凄く長い銀髪に銀色の長い顎髭を蓄えた背の低い老人だ。その弱々しさといったら、先ほどのロバといい勝負だ。そこへ今度は大蜘蛛のベノムが襲い掛かってきた。また信じられないことが起きた。老人の姿がみるみる変化し、あのロバがそこに出現した。ロバはピョンと跳ねて戯れているように攻撃をかわし、蜘蛛たちを翻弄した。すると、また再び老人となって手にしている魔杖を振り下ろす。その杖から無数の剣が現れると同時に衝撃が走り、ベノムの大群が一瞬にして細切れにされた。それだけでは飽きたらず、少し離れた所にある建物まで粉砕した。その瓦礫の中から魔術師風の男がむくりと起きあがった。

「痛たた!危うく、もう一度、死ぬところだ。畜生、なんで我が輩の居場所が解った?ええい、くそ、今夜はこれまでだ!」

 男はフードで顔を隠したまま腹立たしさをぶちまけ、するどく口笛を吹いた。すぐにバサバサと音がして大きな鳥が現れた。暗くてよく見えないが妖鳥のケブルに違いない。妖鳥は男を摘み上げると、あっというまに闇の空へと消えいった。ピエタたちは呆然としながら一部始終を見ているしかなかった。やがて老人が顎髭をしごきながらふり向いた。背の高さはピエタの肩の辺くらいまでしかない。光の螺旋十字と白薔薇と聖杯の紋章を刺繍した白い貫頭衣に身を包んでいる。月明かりが戻ってきた。老人がヒョヒョと笑って歯を見せた。顔がどことなくあのロバに似ている。ルカがぺたんと腰を落として口をパクパクさせた。何を言っているのか解らないので代わりにピエタが挨拶をした。

「ヤーンさま。お久しぶりでございます。やはりロバは老師さまでしたか。でも、どうして、そんな面倒なことを?・・」

 ピエタが深々とお辞儀をすると、

 老人は眉間をぴくりとさせた。

「・・ほんの余興じゃよ。じゃが、さすがは天曲の神聖医どのよのう。おおよそは見抜いておったか。そのわりには、この老骨に荷を運ばせたり、その背に跨ったりと、ちと扱いが厳しかったと思うがのう・・」

「そこは・・何も気づかぬ振りをして、使えるものは使ったほうが便利ではありませぬか」

 ピエタはぬけぬけと言ってのけた。

 いっぽう老師は、ほうっと慧眼を細め、どこか感心している風である。

 そう・・何を隠そう、

 この御人こそ帝国にその人ありと言われた大魔導師にして最強の魔術剣士たるヤーン・サングリエル老師その人であった。

 

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ピエタ第一話 廃墟の街道 大谷歩 @41394oayumu

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