1-7.泣いちゃいました

「俺だって非常識なことくらいわかってますよ、でもチャンスを逃がしたくないんです。このままじゃ今夜も眠れないに決まってる。でも、この子の腕! 求めていた感触なんです、今までさんざん探し回って見付からなかったのに、いやだって、まさか女の子の腕がこんなに気持ちいいなんて」


「セクハラ……」

 食堂から戻ってきた藤井さんが背後でつぶやいたが、須崎に向かって熱弁する戸倉は気づきもしない。


「絶妙な肉付きなんです。柔らかすぎず固すぎず、かつしっかり厚みがあって」

「つまり……」

 聞こえていないようで実は話をしっかり聞いていたすみれが、このときようやく震える声を絞り出した。


「わたしはデブでのろまで仕事ができない役立たずで、そんな無駄に太い腕は枕の代わりにするしかないだろうと……」

「そんなことは言ってない!」

 ぎょっと振り返った戸倉の前で、すみれは「ふええぇん」と泣きだしてしまった。





 怒った藤井さんがものすごい形相で戸倉を追い払い、慰められて気持ちを落ち着け、すみれはどうにかその後の業務を終えた。

 ごたついた分、時間内に終わらなくて少しだけ居残りしたのだが。


 藤井さんは手伝うと言ってくれたけど、残業をしない主義なのを知っているので丁寧に断った。

 そもそもあんなふうに泣いてしまった自分が悪いのだし、職場で大泣きするなんて社会人として恥ずかしい。


 おおいに反省したすみれだったが、ひとりで残業を終えバス通りを駅へと歩いているとき、花壇の間のベンチに諸悪の根源の姿を見かけ、とっさに回れ右しそうになった。


 今朝出会ったばかりの相手なのに、好感度は上へ下へと行ったり来たり、すみれにとって訳のわからない人物である戸倉は、街路灯の下でレジ袋をがさごそしている。


 バス通りの幅の広い歩道に点在している寄せ植えのコンテナは、すみれたちの会社が自治体に寄贈したものだ。環境美化活動ですみれも植え替えを手伝ったことがある。

 そのあいだあいだにおしゃれなベンチも合わせて置いてあり、通りがかりの歩行者が花を眺めながら一休みできるようになっている。


 そのベンチのひとつに座って、戸倉が袋の中から取り出したのは缶ビール。すみれの姉がよく飲んでいる銘柄と同じで見慣れているので間違いない。

 すみれの脳裏に今朝の段ボール置き場の光景が鮮やかに蘇る。こうやってあの場面へとつながるわけか……。

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