第110話 ジョン王子の危惧

【1】

内示の後私たちはジョン王子の離宮に呼ばれた。

ジョン王子の離宮と言っても実際は王妃殿下の別邸と化している。

王妃殿下の離宮は今や王都の診療所の分院となってしまっているのだ。

あの事件以来王宮貴族や王宮の官吏は王宮聖堂の治癒術士を信用しなくなってしまった。


王妃殿下は王宮官吏や宮廷貴族らの要望に押される形で診療所より幾人かの治癒術士を招き治癒に当たらせている。

一般診療と軽度の治癒治療だけだがそれでも多数の患者が詰めかけている。

高度医療が必要な患者には王都の診療所への紹介状を書いてそちらにまわす事で無理なく回しているのだ。


そして王妃殿下の離宮で幅をきかしているのがもう一人。

ファナ・ロックフォール侯爵令嬢である。

離宮の四分の一を占拠して健康諸食品の販売と食事療法の指導。

そして調理方法の指導や実食できる食堂まで備えている。そしてグレンフォード大聖堂の治癒院から食事療法の研究者を集めてデータの収集も始めている。


私が思いついてフィリポで始めたのに完全にグレンフォードに抜かれてしまったのは悔しい限りだが、美食家ロックフォール侯爵家の威光は大きいのだ。

私達が提唱した壊血病の解消方法、カブや玉ねぎの酢漬けは馬の餌と言われて見向きもされなかったのに、ロックフォール侯爵家が売り出すと飛ぶように売れている。


まあ健康以前に下級官吏や貧乏貴族がカブや燕麦を買う口実を作っている事も大きいのだけれど、それで食への偏見が薄れてみんなが健康になるならそれはそれでいいかも知れない。


そして何よりのの大量の人の流れは隣の王太后殿下の離宮への目くらましと攪乱も兼ねている。

人の出入りが激しくてあちらは王妃殿下の動向が掴めない上に、王太后殿下の離宮は衆人環視の中に晒されているのも同然なのだ。


最近はその王太后殿下も無聊を託っている様で、毎日上級貴族の婦人や令嬢を呼んでお茶会を開いている様だ。

呼ばれたご婦人方から聞こえてくる噂話ではもう目はほとんど見えず、耳もよく聞こえない様で、車いすから立つ事も出来ない程肥え太っているという。


折角食事療法を施して少しは回復したのに過剰に糖分や脂分を摂取している様で、聞く限りでは秋までもたないのではないだろうか。


そして当の王妃殿下は殆んどそちらの離宮にはおらず、ジョン王子の離宮で執務の大半をこなしている。

それも執務書類の大半をジョン王子の離宮で決済し、それをメイドやサーヴァントに王妃殿下の離宮迄運ばせて官吏に手渡すという念の入れようだ。

ジョン王子と王妃殿下の動向を正確につかめる者は今の王宮には先ず居ないだろう。


【2】

そして今私たちはそのジョン王子の離宮王妃殿下の別邸に集まっていた。

ジョン王子主催の仲間内の祝賀と言う名目で。


参加者はハウザー王国の留学生四人とヴェロニク。

そしてラスカル王国側はジョン王子とヨアンナ、そして私とジャンヌ。上座に王妃殿下が座っている。

王族としては本当にささやかな夕食会だ。


「エヴェレット王女殿下、エヴァン王子殿下、そしてヴェロニク辺境伯令嬢殿この度は迷惑をかけた。重ねて礼を申す」

「王妃殿下、頭を上げて下さい。これは僕も望んだこと、なにも王妃殿下に謝って頂く事では御座いません」


「それでもじゃ。その王族としての矜持に感服致したのじゃ。あのリチャード王子殿下にその十分の一でも同じ矜持が有ればこの様な事にはならなんだものを」

王妃殿下の言う通りだ。

在学中は浮名を流す事だけに熱心で、同期や下級生からの信頼も薄く、今も近衛騎士団の小隊長で燻ぶっている。

同期のウィキンズは近衛騎士団の中隊長補佐、ウォーレン・ランソン元王都騎士は平民の身で今や海軍将校じゃないか。


アントワネットに踊らされた上挽回のチャンスを全て自らフイにしているような男に、エヴェレット王女は勿体ない。

婚姻が成立しリチャードが王太子になったならメアリー・エポワス伯爵令嬢が言う通りエヴェレット王女の天下になるのだろうが、そのまま白い結婚で生涯を終えるのはあまりに気の毒だとも思う。


「我が国は…ラスカル王国はこの婚姻が成立すれば憂いなく安泰になると思う。ハウザー王国もエヴァン王子が立太子に向けて大きくリード出来ることになると思う。ただ…ただ、いや俺が言っても詮無き事だ。エヴェレット王女殿下この度は婚約おめでとう」

ジョン王子はそう言うとシールドの入ったグラスを掲げて乾杯を促した。


「ジョン、思いが有るならばハッキリと言えば良いかしら。貴方の中では乾杯には程遠いのでしょう」

「そんな事は無い」

「有るでしょう、貴方の考えなどお見通しかしら。いつからの付き合いだと思っているのかしら。私は聖年式以降ずっと誰の婚約者だったのかしら」


ジョン王子はヨアンナの言葉にため息をつくと掲げたグラスを一気に飲み下した。

「エレノアの事を慮っているのかしら? そうでしょう」

「ああ、そうだ。誰にも目をかけられず、構われず、捨て置かれた様な妹だ。それが始めて注目を浴びれば王家の人身御供だ。異母妹ではあるが不憫でな」


「そうだ。エレノア殿と兄上の縁談を国王陛下は呑むつもりでおられるのか? 我が妹の縁談に気を取られて余は失念しておりました」

「エヴェレット王女との婚約が決まったのじゃ。呑もうが呑まずまいが結果は変わらぬが…あの国王陛下の事じゃ。憂いが無いなら躊躇なくエレノア王女を切って捨てるであろう」


エヴェレット王女もエヴァン王子も王妃殿下のその言葉に顔色を亡くした。

ジョン王子は渋い顔で頭を抱えて俯いた。


「何か良い方法は無いのかしら。ラスカル王国としてはエレノア王女の婚約が成立してもしなくても問題ないかしら。でもエレノア王女をバーターで差し出した事でハウザーの第一王子の名声を上げて、エヴェレット王女の決断を薄れさせてしまうのはとても不愉快かしら」


「我が親父殿の話ではエレノア王女殿下一行はほぼ王都内に拘束されている状態だそうだ。いや、婚約の話では無くルクレッア殿が農奴に洗礼を施したことが原因らしい。ルクレッア殿は農奴を連れ帰るつもりのようだがそれに南部の農奴容認派貴族が反発している様なのだ」

「サンペドロ辺境伯様のお力でも難しいのですか?」

「ああ、ジャンヌ殿は親父殿の力を買い被り過ぎだ。国王陛下は我らに近しいが、王都は南部貴族と中部貴族の勢力圏内。農奴の脱走を嫌う奴らは北部に至る要所に常に警戒た姿勢を引いている。我らだけではエレノア王女様に接触をはかるのも難しい」

ヴェロニクの言葉にジョン王子は更に溜息をついた。


「父上には、国王陛下には苦言を呈してみるが、ハウザー王国はこちらがウンと言うまでエレノアを返すつもりは無いのだろうな」

「それならジョン王子、苦言を呈して引き延ばしてちょうだい。その間にエレノア王女たちをハウザー王国のサンペドロ州かラスカル王国のブリー州に脱出させ方法を考えてみるわ」

そうは言ったものの方法が有る訳では無い。それでも時間の許す限り足搔いてみるべきだろう。


「良いだろうか? 余がラスカル王国に留学した経緯を話せば一助になるかも知れん。…なあ皆、もう良いだろう明かしても」

「ええ、ここに居られるのは信の置ける方々だけですから」

「そうですね、明かしたところでもう問題も御座いませんし」

エヴァン王子と二人の留学生が口を開いた。


「余ら三人が南部貴族から疎まれて命の危険があった事は御存じだろう。その疎まれた原因が農奴に関する事だ」


どうもこの三人は極秘に南部から北部への農奴の脱出ルートを構築していたという。

そんな話は私も以前聞いた事があったが、精々数十人程度の事だと思っていた。

しかし違ったのだ。


河船の引き船作業員に偽装させて千人以上を脱走させていたのだ。

更にハウザー王国内の色々なルートを使って百人単位で、発覚するまでの三年の間に二千人以上を南部に送り込んでいたという。

折しも北部は綿紡績で活況を呈し受け入れる素地も十分に整っていた。

しかしその結果南部の中小貴族の中には領地経営が成り立たぬ者もあらわれ多大な怨みを買ったのだ。


「そういう事です。今はルートも組織も壊滅状態ですがなんとかつては有るでしょう。微力ながらお手伝いさせてください」

エヴァン王子の言葉にジョン王子は席を立つとエヴァン王子に歩み寄り両肩を抱きしめた。

「重ね重ね申し訳ない。我がラスカル王家内紛の為に迷惑をかけるが是非お致す。その代わり俺が命に代えてもエヴァン王子の立太子の後押しをする。いや殿下を国王にして見せる」

そう言ってあのジョン王子が泣いた。

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