第112話 静脈瘤と腫瘍
【1】
ポワトー枢機卿は一時流動食ばかりだったが、春の治療を済ませてからは柔らかい物なら固形物も取れるようになった。
よく煮込んだ野菜や肉の入ったスープを三食摂取している。
栄養も摂取出来ている。…食は細いようだが食欲がない訳では無く毎食ごとに味の替わるスープを楽しみにしているのは良い傾向だ。
絶望もしておらず、生きようとする意志を失っていないのだから…もう少しはもつだろう。
…もう少しは。
喉や胃やらの転移はあらかた片付いた。
あのジャンヌの闇の力による治療を耐え抜いたのだから。
そうジャンヌは癌細胞を殺す事が出来る。
前世で言う所の抗がん剤治療のようなものだ。癌細胞も殺すが周辺の正常な細胞も殺し、その為副作用が発生するのだ。
味覚障害、吐き気、眩暈、頭痛…数え上げればきりがないが、ポワトー枢機卿のカロリーヌとレオン君の為に一日でも命を永らえようという執念がそれを耐えさせたのだろう。
それで衰弱した体力もやっと回復したのだ。
【2】
「それではポワトー枢機卿様。これから胃や腸に残った腫瘍の治療を行います。そうなればもう少し食べられるものも増やせますよ」
「おおそれは有難い。その為に頑張って体力もつ戻してきたつもりじゃ。神子殿頼みますぞ」
治癒治療の為とその方法を学ぶために治癒術士が全員集まっている。
広い処置室も手狭に感じるほどの人数が集まっていた。
風属性と火属性の治癒術士がペアで、再度全員の熱風消毒を行っている。
診療台まわりは治癒術士がひしめくので、やはり数属性の者が常に風を送っている・
昨日の検診の結果は治癒術士全員に周知はされている。
その検診に参加できなかった者は、今私と一緒に再度確認の為の検診を行い状態の再認識を行っている。
私と共に検診を行った治癒術士は後ろに下がってこの結果をカルテにまとめ始めている。
「胃壁も腸壁も食道もボロボロですね」
「良くここまで耐えて頑張られておられると感服致しますよ」
「やはりセイラ様の聖魔法を通して診るとハッキリと鮮やかに解りますね」
「血液の流れの滞りだけでなく、セイラ様に見て頂くと静脈瘤も有りましたね」
「今日の治癒対象は、胃と腸の腫瘍が三つと二つの静脈瘤ですか?」
「あちらの方は…」
「それは治癒自体が難しいかと…」
状況と経過を小声で話し合っている。
治癒術士たちの見立てに間違いはない。
「今日は予定通り胃壁の少し大きめの一つ、そして腸壁に二つの腫瘍を処置します。でもその前に食道の静脈瘤を二つ先に行います。もしも腫瘍除去の最中に破裂すれば大変な事になりますから」
腫瘍処置中に静脈瘤が破裂すれば大量出血で枢機卿の命は持たないだろう。
午前中、鐘一つの時間をかけて静脈瘤を焼き切った。
これだけは血管の修復を行いながら焼き切らねばいけないので私にしか出来ない。
枢機卿様も治癒手術に耐えて疲れたのだろう。
寝息を立てている。
私たちは軽食をとると直ぐに腫瘍の処置に入る。
この三か所に対しては三日ほど前から腫瘍のまわりを土属性の者が縛り上げている。
縛り上げて内壁が破れないようにしてから火魔法で焼き切るのだ。
聖魔法で修復が出来ない治癒院の術士たちが考え出した方法で、かなりの確率で成功している。
今回の焼き切りは治癒術士たちに任せて、私は聖魔術による細胞壁の修復に専念できた。
お陰でお茶の頃合いには終了する事が出来たのだ。
【3】
眠っている枢機卿様は、病室に戻されて補液による栄養補給と呼吸と心拍の管理の為の治癒術士がついて容態を見ている。
私たちは処置室の隣りの休憩室で冷えたコーヒーを飲みながら今後の処置を話し合っていた。
「セイラ様、今回の処置で暫くは持ち直すと思うのですがあの一カ所が」
「難しいわね。あれは私では処置が出来ないのよ」
「難しい事は理解しています。でも腫瘍の内側から焼くとかの方法は取れないのでしょうか?」
「ダメよ! それをやれば熱でその周りの細胞も死んでしまう。そして何より問題は肝臓は再生が出来ないという事よ」
「セイラ様のお力でも?」
「ええ、腸も胃も破れたり痛めても再生する事が出来るの。でも肝臓は壊れた箇所は二度と戻らないの。そして肝臓の代わりを成す臓器も無い。何より肝臓の機能が衰えれば腎臓や脾臓、それこそ内臓全体に不調が起こって癌以外の合併症で死ぬ可能性が飛躍的に上がる」
「そうなればジャンヌ様の…」
「それも難しいのよ。結局ジャンヌさんの力でも癌の周辺の肝臓の細胞は破壊される。それでも私が焼くよりは確実性は高いけれど。合併症は予想が出来ないわ。その上副作用も有るから苦痛を長引かせる事になる」
「それじゃあ打つ手は?」
「明日、免疫力を高めてる治癒を行うわ。これで腫瘍が大きくならなければ良いのだけれど」
「枢機卿様にはこの結果は?」
「私の勝手な意見だけれども枢機卿様には率直にお話したいと思ってる。無駄に隠して気力が衰える位なら、余命を認識して石に齧りついてでも生きる気力を持って頂いた方が長生きできる。今の枢機卿様ならそちらを選ぶと思うの」
「私どもはセイラ様に従います」
「ジャンヌ様も申しておられましたが、孫たちの為ならどんな苦痛も耐えて見せると仰っていたようです」
「なら決まりね。明日はゆっくり食事をとって頂いて午後一番に診療結果の説明と方針をお話しするわ。枢機卿様次第で余命は延ばせるという事を」
少々気が重いがこれはケジメだ。
前世で亡くした妻の絵里奈もそれを望み、最後まで生き切った。
冬海の為に残した大量のお菓子のレシピがその生きた証だ。
そのレシピの一つ、セイラカフェのスコーンを齧りながらまた泣きそうになってしまった。
来週は夏至祭。
どうにか後二カ月、九月までは枢機卿様の命を永らえさせてあげたい。
【4】
翌朝は遅くまで寝入っていた様だ。昨夜は疲れも有るのに少々眠れなかったせいだろう。
アドルフィーネが洗面道具を持ってやって来る。
「セイラ様、又昨日の夜に泣かれたのでしょう」
どうもメイド達にはお見通しのようだ。
「ポワトー枢機卿様もレスターク伯爵夫人のように安らかな状態で逝けたら宜しいのですが」
「ダメよ、それは。辛いけれどこれはケジメよ。あの人はなにも正義の使徒では無いし、これまでやって来た事も褒められた事ばかりではないわ。何よりも聖女ジョアンナ様を死に追いやった責任の一端はあの人にも有る。本人にその気がなかったとしてもケイン様やテレーズ様の不幸の原因を作ったのもあの人よ。ジャンヌさんは許したけれどだからと言ってつ罪が消えたわけでは無いの。だからあの方には最後まで抗って生き続けて頂かなければならないのよ」
晩年に悔い改めたと言っても、死んでいった人が救われる訳では無い。
ならばそれで不幸になった者たちを救うための礎になって貰う。
酷な話だが妥協するつもりもない。
遅めの朝食、ブランチをとると私はポワトー枢機卿様の病室に向かった。
告げねばなら無い事を告げるために。
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