第96話 アルハズ州炎上(1)
【1】
マンステールを離れた農民たちは当初、要求が通ったことに歓喜し、自らの正当性とその結果の勝利を吹聴しながら州都を離れた。
しかし城門前で全員で分けた麦は二日も持たず、当然通る村々も収穫前で飢えていた。
彼ら脱走農民たちに食料など渡してくれる村など無かったのだ。
街道の近くで野草や木の実くらいと思って彼らは気付いた。
要求に掲げていた森での採取や薪の確保すらおぼつかないのだ。
そもそも開放要求書の項目の一つたりとも叶っていないじゃないか。
本来の目的は州都で開放要求書を読み上げてマンステール伯爵家に訴えかけを行う事ではなかったのか。
しかし彼らは、城壁に掲げられた生首を見てしまった。
あれを見てしまってはもう恐ろしくてあの州都に戻る気持ちにはなれない。戻れば次に晒されるのは自分の首なのだから。
もうあれ程の覚悟と気概を持って指導的立場に立てる者はいなくなっていた。
そうなれば、彼らの出来る事など知れていた。
字も読めないため、うろ覚えの開放要求のセリフを連呼しつつ、”教皇猊下とアントワネット様の後ろ盾があるのは我々だ”と村々で喜捨を求めて歩くだけだった。
しかし、この時期に余分な食べ物など無い。
ましてや、途中の村々は反アントワネット派として争っていた村々が大半であった。
彼らに好意を示す者は殆どいない状態であった。
初めの頃は野草や木の根を齧り、無断で領主の森に入って木の実やキノコを採っていたが、そんな事がいつまでも続くわけは無く領主の私兵や周辺の村人に追われ逃げ隠れする状態に陥った。
『聖教会は、教皇猊下は、ペスカトーレ大司祭様は、アントワネット様の行動を認められた! その体現者たる我々を迫害する者は異端ではないのか!』
どこからともなくそんな声が上がり始めた。
収穫前の麦畑を横目に街道を進む飢えた群衆は、そのもっともらしい勝手な理屈で行く先の麦畑を襲い始めたのだ。
襲われる農民も一年手塩にかけた畑が襲われるのだ。
黙って見過ごすわけも無く、州内のあちこちで略奪と抗争が繰り広げられ始めた。
領主側も税収にかかわる一大事に黙って見過ごすはずも無く私兵を用いて鎮圧にかかるとともに州都騎士団に出動を求めた。
州兵に追い払われた農民が次に向かったのは各村々の聖教会が私有する麦畑であった。
『教皇猊下がお認めになられたのだからその配下である聖教会が異を唱えるのはおかしい。この畑の麦はすべて我らの麦だ』
その理屈を掲げ、群衆は聖教会に襲い掛かった。
その聖教会に在籍する教導騎士は、州兵のように甘くはなかった。
追い払って深追いも捕縛もしなかった州兵とは異なり、容赦なく斬りつけて征圧にかかってくる。
教導騎士団にとって殲滅が目的だったので、群衆を逃がすつもりはなく、追いかけて襲い掛かってくる。
そのため、追い詰められた群衆は決死の反撃に出た。
教導騎士にとって、農民とはせいぜいが犬やネズミ程度の認識でしかなかった。
駆除対象である離散農民が、まさか逆襲に転じてくるとは予想もしていなかったのだ。
しかし、追い込まれて死兵化した農民は反撃に出た結果、その数で教導騎士を圧倒してしまった。
【2】
マンステール大聖堂は、たびたび州都騎士団に対して団長の召喚を要請していたが一向に来る気配がない。
忙しいの一点張りで、"用があるならば書面にて申請せよ"という一方的な解答だけが毎回帰ってくるだけだった。
業を煮やしたマンスール大司祭が州庁舎に向かうと州都騎士団長は事務室で世間話に講じながら優雅にお茶を飲んでいた。
「いったいこの状況のどこが多忙なのだ! わしが火急の用があると再三呼びかけていたのになぜ出頭しない」
「本当に火急の呼び出しで御座いましたか。使いを寄越して呼び出されるほどの余裕が有るようで御座いましたのでそこ迄の事とは思いませんでしたよ。大司祭様がわざわざいらっしゃるなら、先ぶれの一つも立てていただければ席などご用意いたしましたものを…。おい、別室に席を整えてそちらにお通りして頂け。この様な男くさい執務室では大司祭様に失礼であろう」
「うむ、そうして頂こう。良い茶でも入れておいてくれ。良いワインがあればそれも」
「それでは、こちらも相応しい恰好に着替えて参りましょう。ごゆるりとお寛ぎください。」
騎士団長はそう言うと側近と部屋を出て大司祭は貴賓室へ通された。
「団長殿、この後は如何致しましょう? あの大司祭の事ですからこのままでは好き勝手な要求を申し始めますぞ」
「まあ、話は聞いてやろう。何よりマンスール大司祭は領主様の弟なのだから。自分と同じ子爵であるのだからそれなりの敬意は払わねばなるまいよ。…という事で恥ずかしくない礼装に着替えよう。夏の礼装はどこに仕舞ったものやら…仕方ない私邸に取りに行かせるか。少々時間はかかるが非礼が有っては忍びないからね」
結局、鐘一つと半分を待たされたマンスール大司祭は、州都騎士団長に罵詈雑言を浴びせて勝手な要求を突き付けて帰って行った。
「まあ冷静でない大司祭様とは細かい相談事はできないな。その旨書面にしたためて大聖堂に送っておきたまえ。ああ、ほら、先日作成した回答書があっただろう。今から早馬で飛ばせば大司祭様よりも先に書面を届けられるだろう」
「早急に向かわせましょう。先にあちらの司祭様たちに周知しておいてもよろしいでしょうか?」
「それは君たちの判断に任せるよ。今日の大司祭様の頑張りを下の者に伝えてあげるのは騎士団の親切心だと思うんだよね」
夜遅くに聖堂に帰還した大司祭の下には州都騎士団からの書簡と、大司祭本人だけが知らないその回答が大聖堂で待っていた。
翌朝早くに大聖堂からの怒り狂ったマンスール大司祭が州都騎士団に向かった頃のには騎士団長は騎士を率いて出立した後であった。
アルハズ州では各地で聖教会に対する襲撃が発生し教導騎士団と離散農民たちの血で血を洗う殺戮の抗争が顕在化し始めた。
この頃になってようやく支援の要請を受けた州兵が動き始めた。
そもそも抗争が始まった初期から聖教会は州兵に出動を要請していたのだが、州都騎士団はまるで動こうとせず州兵も待機を命じたままであった。
建前上州兵は州内の農村の警護のため待機。
聖教会の畑は私有地であるため州兵の警備対象には該当しない為不介入。
これが回答であった。
その州兵がやっと重い腰を上げた。
大量の州兵を率いた州都騎士団の部隊がマンステール大聖堂の私有一つの村に来ると、暴動農民を捕縛しつつ追い払いお始めた。
大量の兵力で包み込み暴動農民の半分ほどを捕縛して後は追い払う、これに二日ほどかけて行い次の村に移る。
六日以上かけて大聖堂の直轄地を回り終えた頃には、当たりの麦畑は刈り尽くされて麦の半分以上は流民に持ちされいた。
その上周辺の地域の暴動民は綺麗に姿を消し、他領に移動してしまっていた。
おまけに捕縛農民を処刑しようとした教導騎士団はそれすら州都騎士団に妨害されたのだ。
「貴様! 我々はそいつらに同胞騎士を何人も殺されておるのだぞ! さっさとそいつらを全員引き渡せ! 全員村の門に吊るしてやるのだからな」
「すみませんがそれは無理ですな。そもそもその様なご依頼を大司祭様から受けておりませんのでな」
「そんな事は関係ない! 教導騎士団の意向は大司祭様の意向と同じだ。たかが州都騎士団の分際で我らに盾突くと言うのか!」
「重ねて申すが、大司祭よりその様な御命令は受けておりません。そのご意向を通したいのであれば大司祭様から書簡なり鑑札なりしかるべきものをお示しいただかねば」
「黙れ、卑しい州都騎士団風情が我ら教導騎士団に盾突くとは生意気だ。マンスール伯爵閣下のお耳に入れば、貴様はただでは済まないぞ!」
「何度も言うな! 我ら州都騎士団は大司祭の命令で、農地を襲う離散農民を征圧し、追い払っている。その中に農民の処刑は含まれてはおらん。貴様こそが何か勘違いをしているようだ。私は現役の子爵だ。騎子爵風情が、今ここで私に無礼を働くとどうなるか、想像もつかんのだろうがな。マンスール大司祭の子爵位は一代限りだが、私は代々続く近衛騎士団の家系だ。軍事権限については、領地貴族の伯爵風情よりもはるかに大きいものを有しているのだ!」
教導騎士団長は、州都騎士団長の迫力に顔色を変えた。
「大司祭様の顔を見る事があるなら言ってやれ。大聖堂の直轄地は一番初めに掃除してやったことくらい、感謝されるべきだと州都騎士団長が言っていたとな。恨むなら、中途半端な指示しか出せない大司祭様の無能を恨むがいい。我々は、この捕囚どもを追い払う。さっさと道をあけよ!」
州兵に連行された暴動農民は、州境に連れて行かれ、ダッレーヴォ州へと追放された。州都騎士団は、その任務を淡々と遂行した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます