第95話 マンステールの内情
【1】
ジャンヌの手は怒りで震えていた。
今朝一番の河船でペスカトーレ教皇がアジアーゴに入ったことが、そして昼にはアジアーゴからの早馬が教皇の演説内容の詳細を運んできた。
いつものように上級貴族寮のヨアンナの部屋に集まった五人の情報共有会である。
上級貴族三人に私とジャンヌのいつものメンバーだ。
「お母様を教皇の人気取りの道具に…。私はジョアンナ・ボードレールなどという女性の子ではない! お母様にはジョアンナ・スティルトンという立派な名前があるのです! お母様が亡くなった今でさえ道具に使おうなどと。許せない。お母様の墓に参じたこともどこにあるかさえ知らぬくせによく恥かしげもなく顕彰などと言えたものです」
「落ち着いてくださいジャンヌさん。それでもこれで暫くは小康状態が保てる可能性が出てまいりました。それまでに北部中央を落ち着かせて農村を解放する下準備も可能になります」
カロリーヌの言葉にジャンヌは泣きながらも深く頷いた。
「分かっているんです。いえ、分かっているつもりなんですが、悔しくて腹立たしくて…」
「我慢しなくても、全部吐き出せばいいよ。私たちはあなたの想いを全部受け止められる。みんな同じ気持ちだから落ち込まないで」
『冬海』は早くに母を亡くし、ジャンヌになっても生まれてすぐに母を亡くしている。だからこそ母親に対する思いが大きいのはよく理解している。
「いつかこの屈辱は晴らしてやる! 奴らをグレンフォードの墓地に引き摺って行ってジョアンナ・スティルトンと彫られた墓石の前で謝罪させてやるからな! 『冬海』の前で土下座させてやる!」
ファナが小声でアドルフィーネに何か言っている。
「最近セイラはジャンヌのことになると少し興奮しすぎるのだわ」
「暴走さえしなければ構わないかしら。特に聞く気もないのだけれど、時々セイラが口にする『冬海』って何なのかしら?」
「それは…どうもセイラ様とジャンヌ様のお互いの秘密の愛称のようですわ。ジャンヌ様が『冬海』で、セイラ様が『父さん』というようです」
「…そうなの。フユミ…。以前セイラが気にしていた名前のような気がするかしら」
【2】
その夜、州都マンステールを取り囲んでいた
翌朝早くジョアンナ
「みんな! 今重大な連絡が入った! 教皇猊下が聖女ジョアンナ様を名誉枢機卿に任命あそばされた! 我らの顕彰を求める行動が創造主様を通して教皇猊下に届いたのだ!」
「おお! 山が動いたぞ!」
「我らの想いが届いたのだ!」
「慌てるな! これは未だとば口だ。気を抜くな!」
「それでも、嬉しいものは嬉しい!」
「今日だけでも祝わせろ! これは慶事じゃないか!」
州都まわりでは集まった群衆が歓声を上げて舞い上がっている。
州都の城門からかなり離れているはずの領主城の中でさえその声が地鳴りのように響いている。
「アントワネット様、聞いてはおりましたがさすがにこの声は不快この上ないのですが」
ユリシア・マンスール伯爵令嬢は忌々し気にそう言う。
「でもこの州でも余計な農民共はこの城都まわりに集まっているでしょう。農民が捨てた農地は領主家が接収して全て牧羊地にしてしまえば良いのだから。来年の春には刈り取った羊毛を清貧派のバカどもが買い取って行くわ。そしてその代金は領主の直轄地の収入になるのよ」
「でも州都のまわりに陣取った農民共は如何すればよいのでしょう?」
「あの下郎たちも手持ちの麦を食べ尽くせば生きる手立ても無くなるのよ。求めるなら捕縛して州都に入れて強制労働につかせても良いし首を刎ねても良い」
「ならば州都の警護のために騎士団も展開せねばなりませんね。ただ州兵や州都騎士団の動きが鈍いのですよ。州境に派遣している教導騎士団を招集せねばなりませんわね」
【3】
「教皇猊下の発言で
マルヌ州都騎士団長は副官の苦言を聞きながら思案していた。
さすがに教皇のこの名誉枢機卿任命という手段は思い至らなかった。
教皇庁も死人相手に称号だけを与えるとは思い切った手を使ったものだが、名だけ与えて実の全くない上手いやり方をよくぞ考え付いたものだ。
しかし副官の言う通りで動員している農民たちに無駄飯を与え続けるわけにもゆかない。
かといってアルハズ州に介入して州兵を動かすと州騎士団が悪者になってしまう。
なによりも農村出身の州兵が農民側に同調して離反されると今後の構想に支障をきたすことにもなる。
「仕方がないな。アルハズ州の
「好きにさせろ? でありますか?」
「律儀に返事をせんでよい。このままでは秋口まで事態は動かん。秋撒きのライ麦の収穫が始まればしばらくは食いつなげるからな。収穫前のこの時期にイナゴを解き放て。あとは成り行きに任せておけばよい」
「それで先導させているあの農民たちは?」
「州都を出るならば好きにさせろ。失せぬなら州都騎士団に要請して全員捕縛して首にして貰え。首謀者たちは一人残らず城壁に首を掲げさせるように向こうの騎士団長に連絡を入れておけ」
「はっ!」
副官はどこまで俺の言ったことを理解しているだろうか。
首謀者たちは殆んどの者が当然のように首を差し出すだろう。
それも大半の者が事情も分からずに使命感で喜んで死ぬことを望むのだろうが、手駒が増えるのは歓迎すべきことだ。
この辺りまでのことはあの副官も理解しているだろうが…、さてこの先はどこまで読んでいるのか。
アルハズ州においては他州と事情が違っているのだ。刈り入れ前のこの時期に脱走農民たちが散会となっても帰るべき村はもうないのだから。
その結果どうなるか。
「アルハズ州はアントワネット派の農村は領主家に接収されておりますが帰参するはずの農民はどうなるのでしょうか?」
「知らん! 好きにさせておけ。他州のことだしな」
「しかし…」
「さっきも言っただろう。収穫前にイナゴの大群が来ればどうなるか」
「ならばすぐにでも領主家に…、そうでありますな。他州の領主が困惑しようが我らに関係ないことでありました。ただあちらの州都騎士団には一言入れても構わんですか?」
「まあ許可しよう。俺ならこういう状況になれば頃合いを見て反乱農民を捕縛の上州外に追放するがな。己の出身地の人間を殺すのは州兵にとっても辛いであろうからな」
四日後には州都城門に顕彰
全員の捕縛を試みようとした教導騎士団を牽制しつつ州都騎士団が首謀者の一団を捕縛して引き上げた。
そして集まった農民たちも州都を離れて帰路につき始めていた。
アルハズ州マンステールの街はかなり悲惨な状態であった。
市民はいらぬ騒乱を招かずに事を治めた州都騎士団を歓迎した。
そしてその翌日には州都正門の城壁の上に槍に突き立てられた男たちの首が名乗り出た人数分並んでいた。
顔を判らないが亡くなった村から徴用されていた農民たちは城壁の下で手を合わせて涙を流していた。
しかしアルハズ州の騒乱はこれで収まるわけではなかった。
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