第94話 教皇の演説
【1】
朝早くから街中は教皇猊下が戻られたとのうわさで沸き立っていた。
王都より王都大聖堂のジョバンニ・ペスカトーレ大司祭が帰領されて、重大な声明を発せられた。
教皇猊下はそれを叱責に来られたのではないか?
いや、それなら先にペスカトーレ枢機卿猊下が来るはずではないのか?
ジョバンニ様とアントワネット様は新しい風を起こすためにアジアーゴに籠られて旧弊な枢機卿様たちや大司祭様の妨害を排除したのだろう。
しかしペスカトーレ枢機卿もアントワネット様やジョバンニ様の考えには好意的ではなかったのか?
それで強硬手段で教皇猊下が見えられたのではないか?
市民はどちらかと言うとネガティブな不安感を口にしていた。
若いジョバンニとアントワネットに閉塞感を打ち破る新風を期待していたのが、旧勢力の首魁と言うべき教皇が帰還したのである。
「アントワネットよ。町の噂では儂はあまり歓迎されておらぬように思えるのだがな」
教皇ペスカトーレ・クラウディウス一世は特に感情の籠らない声でそうアントワネットに問いかけた。
「恐れ多いことです。今北部の諸州は荒れておりまして。世情不安から領民も怯えておるのです」
「領民が怯えるようなものが何かあると申すのか?」
「はい、北部諸州で聖女ジョアンナの顕彰を求める
「なぜ教導派の者が聖女ジョアンナの顕彰を求める? 娘のジャンヌも実家のボードレール伯爵家も清貧派であろう」
「これは治癒治療にも関わることなのですが、教皇猊下がお命じになった聖女ジョアンナの治癒を逆手に取った清貧派が治癒治療の喜捨に難癖をつけてきたのです。聖女ジョアンナの治癒は教皇猊下の御威光があってこその治癒治療。それを一介の治癒術士と同等と言い張ったのでございます」
「フム、其方の申す通りだな。聖教会の治癒は我ら高位聖職者の威光があっての御業。一介の治癒修道士が行うものと訳が違う」
「ですので、ラスカル王国の聖教会は教皇猊下の御威光を体現した聖女ジョアンナの治癒は特別であったと声明を発したのですが…」
「それで調子に乗った農民たちが聖女ジョアンナの顕彰を求めたということなのだな。それなら裏で清貧派が動いておるであろう」
「その疑いは御もっともなのですが、今回に関してはその様子が見えないのでございます。清貧派を取り込んでいる教導派の、それも上位貴族以上のものが関わっておると愚考いたします」
「ゴルゴンゾーラやロックフォールではないということなのか?」
「それも定かではございませんが、今のところゴルゴンゾーラとロックフォール、そして聖女ジャンヌはセイラ・カンボゾーラの掌の上。そのセイラが困惑していると聞いておりますのでそれ以外の存在があると考えております」
「セイラ・カンボゾーラ? なに奴じゃ。聞かん名であるな」
「このラスカル王国で言うところの光の神子でございます。教皇猊下のお望みの光属性保持者です」
「含みのある申し方じゃな」
「含みのあるのはセイラ・カンボゾーラの方でございますよ。非常に教導派と教皇猊下を憎んでおるようで、教導派教義の破壊を望んでおります」
「なんとな。光と闇の聖女が二人とも清貧派とはな。そうなると協力させるには強硬手段をとらねばならぬのか。少々時間がかかりそうだな」
「ただセイラ・カンボゾーラは聖女ジャンヌを信奉しておりますから、方法によっては教皇猊下の治癒に関してなら助けになる可能性もございます」
【2】
翌日の早朝に大聖堂からの先ぶれがアジアーゴの街を駆け巡った。
教皇猊下とジョバンニ大司祭の両者が並んで演台に立つというのだ。
午後には大聖堂前の広場は大群衆でごった返していた。
まずいつものように現れたジョバンニが群衆に話し始める。これまで通りの主張通りの聖女ジョアンナへの賛辞と顕彰
群衆の間には安堵感が漂った。
少なくとも教皇猊下はジョバンニ大司祭の考えに対して否定はしていないということが理解できたからだ。
『さらに、本日は老齢のお身体を押して教皇猊下から皆に挨拶を戴けることとなった。皆の者教皇猊下のお言葉である。心して敬意をもってお受けするように』
その言葉で警備の教導騎士たちが広場に集う群衆全員を跪かせた。
うっかりとそのまま立っている者には容赦なく警棒での殴打が与えられた。
全員が跪いたのを確認し、ジョバンニが合図すると立派な輿に座したクラウディウス一世が現れた。
痩せた腕でメガホンを掴むとにこやかな笑みを浮かべて第一声を発した。
『皆の者頭を上げることを許す』
そう言って微笑みながらあたりを睥睨すると信徒の間から聖句の呟きが起こり、地鳴りの如く広場に木霊した。
『今日はよくぞ集まってくれた。礼を述べよう。先程我が孫であるジョバンニ・ペスカトーレ大司祭が申したことは聞いてくれたであろうか。聖女ジョアンナのことについては儂の不手際であったと若き大司祭から具申され猛省しておる』
「おお教皇猊下が…」
「勿体ないお言葉だ」
「ジョバンニ様の言動をお認めになった」
「やはりジョバンニ様が正しかったのだ」
市民たちの呟きがあちこちで聞こえる。
「えーい! 静まれ! 教皇猊下のお言葉の最中であるぞ!」
『良い良い、そう格式張ることも有るまい』
怒鳴った教導騎士は教皇に対して深く一礼して警備に立ち戻る。
「なんと慈悲深い」
「さすがは教皇猊下だ」
教皇への賛辞が口々に囁かれた。
『間違いは正さねばならぬ。それが遅きに失してしまったとしても見逃せば禍根を残す。何より気づいたならそのまま放置することは尚更罪であろう』
群衆は一瞬驚いたように壇上を見上げた。
ジョバンニではなく教皇から発せられた言葉は明らかに己が非を認める言葉だったからだ。
『皆、心して聞いて欲しい。聖女ジョアンナ・ボードレールに対して名誉枢機卿の称号を与えることとする。生前の彼女の功績をたたえるとともにその功績を枢機卿の地位を持って顕彰することに致す。これは決定である。教皇自らの言葉を持ってその証左と致す』
一瞬会場を包んだ静寂のち直後に大歓声が沸き上がった。
『教導騎士団よ。野暮は致すな』
群衆を静めようとする教導騎士を制して教皇を乗せた輿は教皇のその言葉を最後に立ち上がると大聖堂に帰って行った。
そして大聖堂前の広場は朝まで騒ぐ群衆が絶えることはなかった。
「けっ、死人に枢機卿の地位を与えて農民や市民の要求は何一つ耳を貸していないじゃねえか」
「船長、これも奴らのおためごかしとか言う奴なんですかね」
「ああ、まあこれで顕彰
そう吐き捨てて帰って行く船乗りの一団以外は。
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