第91話 アジアーゴの声明
【1】
ドミンゴ司祭が受け取った返信の書簡には、特に重要な内容は書かれていなかった。
ただ、狼狽と焦りが色濃く表れていた。
書状の大半は、これからの情報収集とペスカトーレ侯爵家からの連絡方法を確立することについてだった。
驚いたことに、これまでの書簡はバトリー大司祭からの一方通行だったのだ。それほどまでにハウザー王国を侮り、情報収集をおろそかにしていたのだ。
しかし、そのおかげで教皇派閥のハウザールートの情報は初手からすべて押さえられるようになった。
奴らの拠点も把握でき、駐在するメンバーもメリージャのライトスミス商会を通して人選をしてもらおう。
そんな手筈を進めていると、新しい情報が入ってきた。
アジアーゴの大聖堂にジョバンニ・ペスカトーレ大司祭が向かったというのだ。
何のためにアジアーゴに?
アントワネットに何か目的があるのか?
北部の教皇派諸領は今、火薬庫のようだ。オーブラック州やアルハズ州はもちろん、モン・ドール侯爵家のお膝元であるペルラン州まで混乱状態なのだ。
それは私たちが押さえきれていない過激な清貧派教徒たちの存在がさらに混乱に拍車をかけている。
アントワネットの息がかかっているとも思えないが、かといって私たちの身内にも心当たりがない。
農村開放要求書と市民開放要求書も教導派聖教会の首元に匕首を突きつけるような鋭さがある。
ただ、この両方の要求書が多分違う人物によって書かれているという事実だ。もしも同じ組織なら頭が二つあることになる。
多分関連はあるのだろうが、別の組織だと考えられる。
農村開放要求書に便乗した者がいるのだ。
特に今行われている聖女ジョアンナの顕彰
おまけに豊富な資金源も持っているようだ。
ただ反抗を煽っていた農村開放要求のメンバーとはバックが格段に違うのだ。
多分ジョバンニの目的はこの聖女ジョアンナの顕彰
すると案の定、アジアーゴ大聖堂でジョバンニの声明が発せられたという。
そのためにアントワネットが招聘したのだろう。
その情報が来た翌日には、発表された声明の詳細が王都の私たちの元にもたらされ、その内容に驚愕することになった。
【2】
アジアーゴの大聖堂にペスカトーレ大司祭が入って四日後、翌日の正午に大司祭より声明が述べられると布告があった。
そして五日目の午後の始まりの鐘が鳴ると同時に、聖堂前に出てきたペスカトーレ大司祭がメガホンに向かって話し始めた。
『お集まりの信者諸氏よ。よくぞ集ってくれた。ここに集うものは敬虔な教導派信者であろう。しかしこの聖堂を守る教導騎士や教導派司祭達聖職者もいる。同じ信者であっても貴族や準貴族もいれば、商人や農民もいる。中には清貧派の信徒が聞き耳を立てているかもしれぬ。あのゴルゴンゾーラ公爵家の手の者が混じっているかもしれぬなぁ。それでも集まってくれたからには敬意を払うので傾聴してくれたまえ』
大音量で流れた言葉に会場中から笑いが漏れた。
『聞いて欲しい。北部領内では同じ教導派同士の諍いが起こっている。私は王都大聖堂の大司祭としてこれまで聖女ジョアンナ・ボードレールに対して敬意を払ってきた。それは諸君らも知っているはずだ』
聴衆からは肯定の声があちこちから上がる。
『おや、ジョアンナ様の尊称に異を唱える声が無いということは、ここにはあの乱暴者の子爵令嬢はおらんようだな』
会場からは笑い声と清貧派を揶揄する声が次々と上がった。
その群衆の中に数人の船乗りが手板を持って一心に鉛筆を走らせていることに気づく者はいない。
『諸氏よ、これだけは断じておく。私は聖女ジョアンナ・ボードレールに対しての尊崇の思いは変わらない。ジョアンナ・ボードレールに対して私が成してきたことを思い出してもらえれば、それはご理解いただけると思う』
そう言って群衆を見渡すと、ジョバンニは言葉を続けた。
『だから、聖女ジョアンナ・ボードレールの顕彰を求めて行われている
ジョバンニはしばらくその様子を見ながら、少し間をおいて次の言葉を発した。
『話は変わるが続けて聞いて欲しい。我が妹のことについてだ』
少し大きな声で発せられたその言葉に群衆は押し黙ったが、理解が追いつかない表情である。
『我が妹は今、ハウザー王国の神学校に留学している。福音派の信徒たちを導くため、教導派信徒の誇りをもってハウザー王国の王都に滞在している』
群衆から驚きの声が上がる。
そんなことは初耳であり、今までペスカトーレ枢機卿に娘がいたことすら知られていなかったのだから。
『諸氏もご存じのように、ハウザー王国は獣人属と福音派が支配する野蛮な国だ。そしてあろうことかラスカル王国では禁止されている農奴を公然と容認しているのだ! 聖女ジョアンナ・ボードレールは農民や貧民であろうとも分け隔てなく治癒してきた。しかしハウザー王国の獣人属たちは農奴を容認し、あろうことか人としてすら認めていない。洗礼はおろか名前すら与えないのだ!』
群衆からも怒りの声が上がる。
『我が妹は我ら聖教会の教義と聖女の慈悲の心に従い、怪我を負った農奴の子供に治癒を施した。そしてその農奴に名前を付けてやり、洗礼を施してやった。今それが福音派で問題になっている。福音派の獣人属どもが言うには、農奴を人属扱いしたことが問題なのだそうだ』
獣人属である農奴を人属扱いと言い換える事でジョバンニはミスリードを誘っている。
『お集まりの諸氏よ!我が妹の行為に間違いはあるのだろうか? 農奴を人として扱うことは許されないことなのだろうか? 聖女ジョアンナ・ボードレールの行いと照らして考えてみて欲しい。ハウザー王国の獣人どもは我が妹の行為を非難しているが、どこに間違いはあるのだろうか? 農奴を人として扱う事は許されない事なのだろうか? 聖女ジョアンナ・ボードレールの行いと照らして考えてみて欲しい。ハウザー王国の獣人どもは正しいのか?』
群衆からは賛同とハウザー王国と獣人に対する怒号の声が上がった。
その声に対して手板を持った船員がいきり立って何か口を開こうとするのを肩を持って抑える人影があった。
船乗りの様で腰のサッシュにサーベルを突き刺した中年女性だ。
「今はやめときな。この群衆じゃあ声も届かねえ。それに回りと喧嘩になれば袋叩きだぜ」
「でもようロロネー船長。あの大司祭は市民を煽って獣人属に憎悪を向けさせるつもりだぜ」
「そのようだねえ。ならやる事は一字一句しっかり記録して、あの嬢ちゃんに手を打ってもらう事さね。だからしっかり記録しな」
銀シャチのロロネー船長もこの演説には危険な雰囲気を読み取っていた。
ジョアンナを持ち上げつつ貴族出身を強調し、農奴に対する行為は上から目線の物言いである。
ハウザー王国=福音派=獣人属、と言う誘導で憎悪の方向を身分差別から獣人属は悪と言う論調に誘導しているようだ。
『あの獣人どもは平等を口にしながら農奴を踏み躙っている。農奴が人でないなら奴らはなんなんだ。我が妹は女性の身で獣人どもと戦っている。かつて聖女ジョアンナ・ボードレールが目指したことを獣人属どもは踏み躙ろうとしているのだ! 正しき人属が獣人に踏みにじられ様としているのだ。私はここに宣言しよう。聖女ジョアンナ・ボードレールの目指したことを引き継いであの獣人属の国の、獣人属の宗派の行為に農奴制度に対して異を唱えることを!』
会場は一瞬にして獣人属への怒号と非難の声に包まれてしまった。
ジョバンニの今日の演説でペスカトーレ家は住民の庇護者の仮面を被り、ジョアンナとルクレッアをダシに使って獣人属を悪に仕立て上げて不満のはけ口を誘導してしまったのだ。
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