第90話 ペスカトーレ家の思惑

【1】

 ハウザー王国のメリージャからラスカル王都にもたらされた知らせに、ペスカトーレ枢機卿は激怒していた。

 自分の娘であるルクレッアが獣人属の農奴に洗礼を施したというのだ。それも聖教会で名前まで与えてだ。


 ケダモノに聖教会で洗礼を施すなど教導派の教義に抵触する。そして農奴に名を与え洗礼するのは福音派の教義にさえ反するのだ。

 教導派においても福音派においても人でない者を人と認めて洗礼を施したのであるから背徳行為であるとのそしりは免れない。


 ただ福音派においては聖教会で獣人属に洗礼を施すことに問題はなく、反対に教導派においてはラスカル国法で定められているため農奴に名を与えることも洗礼を施すことも正当な行為となる。


 そしてあの娘は清貧派として聖別を受けている。

 ラスカル王国の清貧派においては何一つ問題視する行為は発生していない。

「ふざけた事を! 誰が入れ知恵を…」

 そう言うと手紙を握り潰すと床に叩き付けた。


「父上、一体何が…」

 先程顔繫ぎの為にジョバンニを伴なって街中での礼拝をおこなったのだ。

 そこで回された喜捨の献金籠の中に汚れたコーヒー豆の袋が入っていた。その袋はメリージャのダリア・バトリー福音派大司祭よりの極秘状が入っる事を表している。

 王都大聖堂の三階の窓から見える安宿の決まった部屋に一晩中灯りが灯されておれば書状が届いた印である。


 そしてその日回収した書状を王都大聖堂で開封して目を通すと思いもよらぬ事が書いてあった。

 送り出して以来すっかり忘れ果てていた娘のルクレッアがとんでもない事を仕出かしていたのだ。


 ハウザー王国入に際して借り聖別をメリージャのバトリー大司祭の息のかかった清貧派司祭に行わせたのが裏目に出てしまった。

 同じ聖別を施すならもっと南部の農奴容認派の領地の清貧派の教義に近い聖教会で行わせるべきだった。

 サンペドロ州も周辺の州も農奴制を認めない清貧派領主の支配域である。


 ルクレッアのこの行為は許せるわけでは無い。

 だからと言ってこちらから農奴を手放すように言ったところで、行った行為は消えないのだ。

 なによりハウザー王都では市民の間で評判になっている事件だそうだ。


 この娘を帰国させる訳には行かない。かと言ってこのままハウザー王都に繋ぎ止めても教皇庁に禍根を残す存在である。

 当然福音派の王都にいる聖職者が教導派教皇の孫娘なのだから。


「ぬかったわ。まさかこのような事になるとは。一行に付けたマリナーラ伯爵家の小僧は何をしておるのだ!」

「そう申されてもあの様な小物があの元近衛騎士のケインや治癒術士のテレーズ聖導女相手では荷が重すぎると言うものですぞ」

「ケイン? テレーズ…! まさかアントワネット・シェブリが暗殺をしくじったと言うあ奴なのか」


「腕も頭もあの二人は特別です。例のウィキンズやクロエ・カマンベールに隠れておりますが実力は拮抗しているとか」

 そうか、絵を描いたのはそいつらなのだろう。

 ハウザーで評判の聖導女と言うのがテレーズならその裏でルクレッアを唆したのはケインとか言う男だろう。

 どうせ唆された留学生たちは教導派と国王陛下に恨みを募らせているに違いないのだ。


「生かしておくこと自体が害になるな」

「ジョバンニ、其方ルクレッアを処分しろ。わしの後を継ぐつもりならばどうにか己で考えてやってみろ。手段は問わん。我が家に汚点が残らなければ誰がどうなろうと構わん。後の事は握り潰してやる」

「…誰かに相談は」

「まあ全てを話しても良いのはアントワネットあたりまでだな。それ以外は目的をぼかして手駒で使えるように考えるんだな」

「わかりました」


【2】

 三日後ジョバンニ大司祭が領地のアジアーゴにやって来たと街で噂になっていた。

 このややこしい時期に王都大聖堂の大司祭がやって来たと言う事で人々の憶測を呼んでいたのだ。

 アントワネットとしても腹立たしい事ではあった。


 せめて来るならばお忍びで程度の事は考えてしかるべきなのに、わざわざ王都から馬車を仕立てて教導騎士を引き連れての来訪だ。

 本人は急ぎの様があったというがそれならば河船でくれば一日は早く到着するではないか。

 何よりも来訪の連絡を河船で送っておいてそれに気づかないとは言わせたくない。


 領城内の応接にしつらえられた豪華の食事を挟んでジョバンニの急用とやらを聞いた。

 さすがにこれはこの男の手には余る。

 しかしなぜあの老獪な枢機卿がこの男を私に押し付けたのだろうか?

 個人で賢しげに動き回れるほどの力量を枢機卿がジョバンニに見出している訳でもあるまいし、アントワネットの名を出してこの男を誘導したのは間違いが無いだろう。


 ならばこのハウザー王国に張ったネットワークをアントワネットに引き継げと言っているのだろう。

 今までは書簡のやり取りだけで、メリージャから運ばれる書簡に返信を託すだけのやり取りだったそうだが、今回枢機卿は返信にこちらから連絡ができるように通信係の常住を依頼し面会場所も作ったそうだ。


 少々行動が遅すぎる気はするが、ハウザー王国を侮っていたのだろう。第四王女が留学する際に情報要員を送り込んでしかるべきだったのに、王家も聖教会も外交に対して南方を軽視しすぎている。

 この際その南方のネットワークを握らせてもらおう。


「ジョバンニ様、おっしゃる通りあまり時間がありませんね。王女殿下の帰国予定が今年の八月、伸びても九月でございましょう。四月ももうじき終わる。あと四か月余りの期間で事を進めねば」

「ああ、帰国すればすぐにでも拘束して…」


「それは如何なものでしょうか? まず間違いなくハウザー王都を出て帰国の途に就けばサンペドロ辺境伯の庇護下に置かれてグレンフォードのボードレール枢機卿が南部にとどめ置くでしょう。そうなればさらに手出しが難しくなりますよ」

「しかし、俺にはハウザー王国や福音派とのコネは無いのだぞ。暗殺者アサシンギルドを使おうにも入国させる手段も無い」


 始めから私に頼る気だったのだろう。

 ならこちらもこの男を手駒にするだけだ。矢面に立たせるのはこの男で良いと枢機卿も告げているのだろう。


「判りました。ジョバンニ様は国王陛下に掛け合って帰国のための使節団をハウザー王都に向かうように手配をお願いします。その中にギルドの手の者を紛れ込ませましょう」

「助かる。王都大聖堂を上げて帰国の使節団を準備させよう」


 まあ彼のやる事は最終手段だ。すべての策が潰えた時に発動させる最後の一手である。これをやってしまうとラスカル王国の面子は丸潰れになり今後の収拾も大変になってしまうが泥はジョバンニに被ってもらおう。


 それよりも新しくできたこのルートを使ってハウザー王国側に暗殺を実行させる手段を考える方が良いだろう。

 幸いにもハウザー側もルクレッアの農奴に関しては疎ましく思っているようだ。

 それならば方法はいくつかありそうに思う。

 この際ジョバンニも枢機卿も出来るなら教皇庁もしっかりと踊ってもらいたいものだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る