閑話24 福音派からの逃走(2)

 ☆☆☆☆

 ペスカトーレ枢機卿からルクレッアに書簡が送られてきた。

 ラスカル王国からの書簡などテレーズやケインへ王都の近況や政情を知らせる清貧派からの書簡くらいだった。


 政情の詳細や教皇庁の動向を知らせるセイラからの書簡、ハウザー王都の政情調査を依頼するファナからの書簡、テレーズとケインの安否を気遣うジャンヌヵらの書簡。

 意外な事に一番多いのが留学生や安否や健康状態を気遣っているヨアンナからの書簡だった。


 そして留学生たち本人にはジョン王子がエレノアに定期的に送って来る書簡以外は無かった。

 それ程までにラスカル王都の教皇派閥の貴族はこの子供たちに関心が無かったのだ。

「ここ迄書簡を届けるならばすっごいお金がかかるっす。私の実家じゃそんなお金出せねえっすよ」

 シモネッタはあっけらかんと言うが、それでも寂しげなのは隠しようが無かった。

 だから少女たちはヨアンナの書簡を何よりも楽しみにしていたのだ。


 ルクレッアは生まれて初めて実の父から送られてきた書簡を忌々しそうに睨みつけた。なにが書かれているかなど考えなくても見当がつく。

 獣人属の農奴を買ったことに対する不満。

 そして農奴に名付けを行った上洗礼を施した事に対する叱責。


 そう覚悟して全員で書簡を開いた。

 文書の初めからもう既に叱責の言葉であった。

 ハウザー王国の国情もここが福音派の神学校である事すら考慮する事無く、ただただ教導派の都合だけを書き並べてあった。


 エレノア王女やアマトリーチェ・アラビアータ枢機卿令嬢は憤っていたが、とうのルクレッアは達観したように溜息をついた。

「バカバカしい。あの方は多分私の顔すら覚えていないと思いますわ。皆様はあの男が何人庶子がいるとお思いですか」


「それでも初めての書簡がこれでは…」

「顔を合わせた事もろくに無く、遠目でしか話した事しかない男に何を言われても気にもなりませんわ。何を言われるかも見当が付いていましたし。反対に労いの言葉の一つでもあればその方が心が折れていましたもの」

 それはそうなのだろう。

 この文章を読んで従順に従おうという気持ちには微塵もならない。


 庶子とは言え実の娘であり、その母も子爵家の令嬢なのだ。

 それを考えればこんな言葉など普通は出ないだろうとテレーズは思う。

 ただルクレッアの事を思えば、この父親だからこそ迷いや悩みに苛まれる事が無いというのは幸いなのかもしれない。


 そう思いながら見ていると読み進めるルクレッアの顔色が急に変わった。

「あの…あの外道」

 侯爵家の枢機卿の娘とは思われない言葉が口をついた。

 握り潰された手紙を見つめてアマトリーチェが驚いたように声をかけた。


「いったい何が…ルクレッア様、いったい何が書いてあったのでしょう」

「あの男は…あの男は、折角私が助けた二人を、あろう事か殺せと。聖職者でありながら、それも枢機卿でありながら、もう人の道に外れた外道と言うしか有りません」


「でも、一体どうするっす。お父上の命令じゃないっすか」

「命令も何も私が聞く謂れが何処にあるというのですか? あの男が私に何をしてくれました? 私の留学のお金は王国の公庫から出ているのであって聖教会からは何一つ払われていませんもの」

 ルクレッアの言う通りで彼女が躊躇する事は何一つない。

 しかしそれもこのハウザー王国の王都にいる間だけであり、それは夏が終わるまでの短期間だけだ。


 望めば彼女はこの先もこの王都で福音派の庇護の下で暮らして行く事は可能だろうが、ヘブンヒル侯爵家の手が有るこの地でルイージとカンナの命の保証はない。

 ここ迄詳細な情報をペスカトーレ枢機卿が把握したとなると、身近にかれらの手の者がここに居るはずだ。


 ルクレッアの行動は直ぐに報告されるであろう。

 彼女の不服従は直ぐに報告されて場合によってはルクレッアの拉致、強制帰国、或いはルイージとカンナの殺害を命じる事になるだろう。


 早急に手を講じて彼女の帰国を考えなくてはいけない。

 州境を越えてハウザー国内でもサンペドロ辺境伯の庇護に縋ってメリージャに滞在するか、ゴッダードやグレンフォードで清貧派の治癒修道女として暮らす事は可能だ。


 聖女ジャンヌとボードレース枢機卿の庇護の下なら三人で幸せに暮らす事は可能だし、ルイージもカンナも聖教会教室で教育を受けこの先新しい未来を拓く事も可能だ。

 南部と事を構えてまでルクレッアを狙う様な事はしないだろう。

 そんな事をすれば我が娘を手に掛けたペスカトーレ侯爵家は聖職者である事が出来なくなるのだから。


 ☆☆☆☆☆

 何よりも問題はエレノア姫とルクレッアたち留学生がルイージとカンナを連れて国境を、いや北部の農奴解放領への州境を越える事が出来れば良いのだ。

 そう州境を越えるだけの事なのだが、それこそが最大にして最後の関門であろう。


 そしてその方法が皆目見当がつかないのだ。

 ハウザー王都に勢力を持つ貴族たちの第一王子派も第三王子派も彼女達をこの地に留め置く事を望んでいる。

 そして頼みの第二王子派はこれまでも農奴を多数受け入れて来た事からた派閥から警戒されて身動きが取れない。

 何より担ぐべき王子はラスカル王都である。


 第一王子派はその第二王子が帰国する前の決着を望んでいる。

 それまでにこのハウザー王都を脱出しなければならないのだ。

 今はケインが第三王子派を相手に時間稼ぎをしているが、こちらだって交渉が抉れればいつまでも紳士的に振舞って来る事は無いだろう。

 いつ力業で強権を発動するかもわからないし、非合法にルイージたちの命を狙う事さえありうるのだ。


 テレーズは考える。

 留学生を含めた全員を安全に脱出させる手段を。

 要は次期の王太子指名に有利に働く条件がどちらの派閥も欲しいだけだ。

 第一王子派はエレノア姫との婚姻によるラスカル王国の後ろ盾が、第三王子はヘブンヒル家のスキャンダルによる勢力低下の防止が目的なのだ。

 ならば引き換えに出来る手段はある。


 最後の最後は自分自身を売る事でルイージとカンナを含めた全員のメンバーを帰国させる方策が。

 治癒術士の能力と女子神学校への影響力そして市民の人気、これと引き換えにすればルイージとカンナを含めた留学生の一行よりも第一王子派にとっても第三王子派にとっても価値のある対価になるのではないだろうか。


 そう、第三王子派が福音派聖教会でその勢力を伸ばすつもりなら大きな力になる。

 交渉相手はヘブンヒル侯爵家だけではない。第三王子派は南部貴族の連合なのだ。

 当然ここの賭場を仕切るバトリー子爵家もその一員だが、この派閥の筆頭は第三王子の生母の実家であるオーバーホルト公爵家なのだ。

 そして外務や司法の官僚を排出しているコルデー伯爵家もある。

 交渉窓口は一つだけでは無いのだ。


 最悪の場合エレノア王女一行の無事と引き換えにテンプルトン総主教やプラッドヴァレー公爵のもとに逃げ込む事も可能だろう。

 身を捨てる気が有ればどうにかなる。

 ケインを無事に逃がす為ならばこの身を捨てても構わない。

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