三年 後期
閑話23 福音派からの逃走(1)
☆
プラットヴァレー公爵にとってはエレノア王女の確保は必須かもしれないが、テンプルトン総主教にとって成り行きでしかなかった。
第一王子派として目されているのは事実だが、三王子の中ではそれが一番ましだという程度だ。
粗野で愚かな第一王子はある意味御しやすい、第三王子は幼いため南部貴族の傀儡だ。多数の貴族がひしめき合う第三王子派は切り分けられるパイが少ないのだ。
そして第二王子は積極的な清貧派信徒で農奴廃止派だ。ここに組しても今の福音派聖教会ではただの福音派総主教でそれ以上の権限もメリットも得られない。
ハウザー王家がラスカル王国の教導派と誼を結ぼうが清貧派と手を組もうが他国の事だ。
そんな彼がこの話に乗ったのはエレノア王女よりも価値の有るものが転がり込むかもしれないからだ。
教皇の孫娘もそうだが多分エレノア王女もラスカル王国は簡単に切って捨てるだろう。そこまで価値のある者を送り付ける筈が無いのだ。
ただこの留学生たちが、特にエレノア王女がこの地に留まるという事は、当然聖導女のテレーズもこの地に残るという事である。
福音派聖教会としては彼女が何より欲しい。
あの女の持つ治癒技術とその知識を手中にしたい。
福音派の治癒施術などお粗末なもので、教導派の治癒施術よりも格段に劣っているのだ。あの聖導女の持つ技術が有れば彼の率いる福音派聖教会派の一派は貴族社会で盤石の地位を確立できるのだ。
寿命と引き換えなら幾ら金貨を積んでも良いと言うものはいくらでもいる。
治癒施術を建前に王家にでも物申せる立場になれるのだから。
場合によってはエレノア王女の帰国と引き換えにテレーズ聖導女の身柄を福音派聖教会で預かる事も視野に入れて動いても良い。
…いや、プラットヴァレー公爵には悪いが、総主教の立場としてはそちらを優先して進めて行く事にしよう。
☆☆
まあそういう事なのだろう。
バトリー子爵が言う通り王女の随員であってもただの平民二人だ。
何かあったところで相手はあの教導派信者の王族と枢機卿たちだ。歯牙にもかけないだろう。
そしてあのペスカトーレ枢機卿や教皇が獣人属の農奴を連れ帰る事など許すわけが無いのだ。
それもルクレッアが名付けた上に洗礼まで施したような農奴を平民として迎え入れるなどまず大問題になってもおかしくない。
まずはケインとの約束通り彼らとの交渉を進めて行くとして、最終手段はあのテレーズ聖導女だろう。
危機が迫った時、あのケインと言う騎士がどういう反応を示すかは火を見るより明らかだ。
本人たちは表立ってそんな様子は見せないが、丸わかりだ。
王女殿下たち留学生を引き合いに出していても、あの男が一番気にしているのはあの聖導女で、それは彼女も同様なのだろう。
もちろん訓練された聖堂騎士であり任務にも忠実なのだろうが、両方が天秤にかかった時躊躇なく留学生を守れるか? 任務の為に見捨てた聖導女を気にせず全力で留学生を守れるのか?
必ず心に迷いが生じるに決まっている。
別に侮っている訳でもバカにしている訳でもない。
お互いの想いを隠しきれないのは唯々若さゆえの経験の無さであり、個人としては微笑ましくも好ましくも思う。
もちろん任務に対する心の迷いは人として当然であり、あのケインと言う男が、又テレーズと言う聖導女がお互いに誠実で人として真っ当な人間であればあるほどにその枷からは逃げられないだろう。
そこに付け入ろうとする自分は薄汚い高位貴族である事も自覚している。
だからと言ってお互いしか守るものを持たないあの平民達のように振舞う事は出来ないのだ。
家名も有れば寄り親として下に就く貴族達への責任も一族の者への責務も有るのだから。
たかだか農奴や平民の命に代えられるべくもない貴族としての責務を全うする為には、家格や伝統や栄誉に傷をつける事は許されない、財産と権力を維持しそれを行使する者の創造主によって定められた責務なのだから。
それを理解できなかった事はあの二人の敗因となる。
ヘブンヒル侯爵家としては表の交渉をすすめ妥協点を探って行く事になる。
あの二人に手を下す手筈や段取りはバトリー子爵家に任せればいい。どうせあの一族は両手を血に染めているのだから今更天国も救済も無いだろう。
留学生の逃亡方法の算段もバトリー大司祭とあの子爵一族が何か明示してくるだろう。
そして今の事のあらましはペスカトーレ枢機卿宛てにヘブンヒル侯爵家から直接書簡を送ってすでに色々と煽っている。
どうせスキャンダルを嫌うペスカトーレ侯爵家が近いうちに何か手を出して来るだろう。
出来れば農奴のガキどもの暗殺迄手を下してくれれば何より都合が良いのだから。
動きが鈍ければ煽る手段は幾らでもある。
☆☆☆
姪のエリザベートにはかなり金をつぎ込んできた。
まあ、そのお陰でリバーシ場の利権を握る事が出来たのは幸いだが。
それでもペスカトーレ枢機卿との書簡についてはかなりの額の金を援助して来ている。
メリージャ大聖堂が国境に近いと言っても、ラスカル王都はラスカル王国の北方に、なによりペスカトーレ枢機卿の領地は最北の北海に面した地である。
それを数カ月に一度は往復させるのだ。それも高額の貢物の品を持ってである。
ここまでやっているのだからそれなりの見返りはあってしかるべきだろう。
今回は特にあちら側の娘の不手際が原因である。
これであの留学生が農奴を連れて国境を超えるなら大恥をかくのはペスカトーレ侯爵家なのだから。
ヘブンヒル家の事やこれまでの交渉内容は伏せて、ルクレッアと言う娘の行状だけを誇大に報告させておこう。
別にウソを述べる必要はない。
このままでは農奴二人が簡単に州境や国境を越えてしまいそうなニュアンスだけを匂わせておけばそれで良い。
後は勝手にあちらが動いてくれればいう事は無い。
その手の者の入国の手筈なら協力できる旨ダリア・バトリー大司祭に告げさせておけばよいのだ。
メリージャ大聖堂に話が来れば後はこちらの掌の上だ。
そうだ、バトリー子爵の書簡も併せて持たせればいい。そしてそれ以降はあちらから書簡を送らせればいい。
情報を欲する事になるのは我らバトリー子爵家では無くペスカトーレ子爵家なのだから。
これならばヘブンヒル侯爵家にもペスカトーレ侯爵家にも恩が売れる。
そしてバトリー子爵家はヘブンヒル侯爵家のスキャンダルとペスカトーレ侯爵家の不法入国と言う切り札を握る事が可能なるのだ。
そして場合によってはラスカル王国で領地と爵位を得られる事になるかも知れない。
いつまでもケダモノの王族にの下で傅いているつもりは無いのだ。
もともと公爵としての自治国家を持っていたのを潰したのはこのハウザー王国なのだから。
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