第80話 種火
【1】
愚かで権威主義の伯爵家が治める北部のアルハズ州はハイエナの様な一団に食い千切られようとしていた。
王都大聖堂の大司祭の妻として迎え入れられる予定の領主の令嬢は浮かれていたがその足元はもうシロアリに喰われた虫食いだらけの柱しか残っていない事に気づいていない。
庇護者であり先輩であった伯爵令嬢から見限られ、婚約者である大司祭から玄関マットのように踏みつけられようとしているのだ。
そして同級生で同じ派閥の者だと思って目をかけて来た伯爵令嬢は蝙蝠のように敵方にもおもねりながら噛みついて来ている。
そして彼女達も知らないところでその父親が全てを焼き払うために動いているのだ。
その権威主義者の娘である北部教皇派領のマンスール伯爵令嬢は憤っていた。
以前から贔屓にしていた商会は敵方に寝返り、その娘は以前からその出自を隠して敵に与していた。
そして全てを牛耳っている敵の下級貴族の娘は今や王立学校はおろか王都中で悪逆の限りを尽くしている。
下級とはいえ貴族令嬢でありながら平民の薄汚い商人と一緒に王都で聖教会を冒涜し秩序を無視して身分を破壊し続け、聖教会と教皇庁の権威を踏み躙り続ける背教者だ。
創造主の定めた秩序を否定しその大いなる意思に対する不服従を唆している。
傲慢にも自らの意志において正義を語り、創造主の意志を体現する教皇庁の教えを否定しようというのだ。
それに反して尊敬する先輩の伯爵令嬢は彼女たちの婚約者の領地の管理に心を砕いている。
そして教皇庁への敬意を胸に彼女の、マンスール伯爵令嬢の領地にまで慈悲の喜捨を行ってくれているのだ。
そして彼女は心を痛めている。
痛ましいことだ。
農民の窮状と貴族としての義務の狭間で悩んでいるのだろう。それもこれもあのセイラ・カンボゾーラ子爵令嬢が獣人属や貧民を焚き付けて背徳的な解放要求とやらを突きつけた為だ。
ジャンヌはまだ人としての心があるが、あの子爵令嬢はアントワネット様の行いを鼻で笑い小馬鹿にして回った。
ジャンヌにまで顰蹙を買って膨れていたが当然だろう。
僅かでも善行を行うものと大言を吐きながら強欲に儲けを求めるものの違いなど明白だ。彼女もジャンヌの言葉で目を覚まされた思いだった。
さすがにジャンヌ・スティルトンは聖女と讃えられるだけの事はある。
【2】
そのアントワネット・シェブリからユリシア・マンスール伯爵令嬢に声がかかった。
それも王宮での面会である。
呼び出された場所は王太后殿下の離宮であった。
あの王太后殿下のである。
招待されてユリシアは装いをこらし馬車を仕立てて王城にやって来た。
そう言えば、王太后殿下の離宮はあの王妃殿下の離宮の隣りではないかのか? 彼女の来訪は王妃殿下に筒抜けでは無いのだおるか。
気にはなったがアントワネット様は何か考えがあるのだろう。
王太后殿下の離宮の元には王太后殿下とユリシアとアントワネット様の三人しかいなかった。
「アントワネット様、ユリシア様が見えられましたわ」
「ありがとう、ブエナ。後のお給仕は貴方が仕切って頂戴。よく着てくれましたわねユリシアさん」
「王太后殿下、アントワネット様お招きありがとうございます」
王太后はその声を聞いて微笑んだ。
テーブルの上にはデニッシュドーナッツ、ビーフとチキンのカツレツ、生クリームをタップリと乗せてガムシロップをタップリと加えたコーヒー。
「よく見えられた、マンスール伯爵令嬢。もう動けんしよく見えんこの身で不遇を託っておった。こうして若いものが来てくれると心もはずもうと言うものじゃ」
「王太后様はこう言うお喋りとお食事が今一番の楽しみなのですよ。さあお座りになって。御一緒致しましょう」
アントワネットに促されるまま席に着いたユリシアはテーブルの向こうの窓辺に座る王太后を見た。
本人の言う通りよく目が見えていない様でユリシアに声をかけている様で視線はあらぬ方向をとらえている。
「わらわはドーナッツの加糖練乳掛けを所望じゃ。早う用意致せ」
いらだちを含んだ声で給仕の男性に命じる。
ユリシアも白パンで挟んだビーフのカツレツを口に入れた。
中から肉汁のタップリな牛肉と濃厚なチーズが口に溢れる。
「驚いたであろう。王妃の離宮に愚か者のメイドが居ってな、金を払うとレシピを教えてくれるのじゃ。チーズのはさみ揚げとか申すらしい。この加糖練乳もそ奴が持って来た物じゃ。何でもロックフォール家の食品販売から購入したとか申しておった」
甘味や揚げ物がお気に入りのようで王太后殿下はご満悦の様子であらぬ方向を見ながら話している。
「最近は王太后殿下はお耳も悪うなられた様でね。時折こうして離宮に大貴族令嬢やご婦人を読んでお茶を戴くのが楽しみのようなのです。ですから教導派の貴女が来ても目立たたないのですよ」
アントワネットがユリシアの耳元で囁く。
「という事は?」
「私がいる事は極秘です。怨敵の足元にいる方が見つからないものなのですよ」
「それではやはりアントワネット様は私に何かご用事が…」
「なまじ聖教会や屋敷に招けば警戒されますもの。あなただからご相談できる事なのですが、なかなか清貧派の背教者たちの目が厳しくて会えなかったのですよ」
「まあ、私ごときを頼って頂けて光栄ですわアントワネット様。これまでも我が州内で喜捨をしていただいて感謝の言葉も有りませんでした。何なりとお申し付けくださいな」
「まあそんな。違うのです。アルハズ州の今後の運営についてご相談しようかと。何より私は卒業した身、在学中のあの者たちの動向も掴みにくい上直接諫める事も出来ません。それにあちらにはジョン王子殿下がついているのにジョバンニ様は大司祭に就任されてお仕事が忙しく王立学校にも出る事が出来ません。不遇を託っている思うと貴女やクラウディア・ショーム伯爵令嬢がお労しくて」
「いえそれでも教皇猊下や枢機卿猊下の為、教皇庁の秩序と権威を守るためならば歯を食いしばってでも」
「それでも州の状況も厳しいでしょう。上位貴族の権威を維持するためにはそれなりの物も必要なのは理解しております。かと言って領民からの税収も見込めないと思うのです」
「いえ、領民が税を払うのは領主や聖教会の権威を維持するための義務では有りませんか。貴族の権威を守る事は創造主の意志では有りませんか。それに反する行いは何人たりとも許されません」
「それでこそ正しき教導派の鑑です。でもこの今の状況では領民の苦しみも理解できるのです」
「ああ、お優しいアントワネット様。その苦しみは理解致します」
「そこで提案なのです。私が喜捨を施した村なら他の村よりも生活の負担が少ないはずですからそこに課税をされては如何でしょうか? これならば他の村とも平等で不満も出にくいでしょう」
「ああ! それは素晴らしい事です。私どもの税収も上がり民も納得致しましょう。しかし宜しいのですかその様にアントワネット様が骨をお折りになる必要は御座いませんでしょうに」
「それもこれも同じくジョバンニ様の妻となるあなたの今後の為になる事です。同じ妻となる身としてお助けするのは当然では有りませんか。あなたの州内でこれからも何村か大きな村に喜捨を行います。あなたは領地に戻ってお父上とこの徴税の準備を致せばいいのですよ」
「ああ、アントワネット様。それならば父も、いえ近隣の領主も喜びます」
「ここまでして不満を漏らす様な領民はもう背徳者ですから課税も心置きなく行えるでしょう」
「ええ、当然でございますわ。これで不満を上げる者など背教者として捕縛して創造主の道を説き利かせて、心を改めないならば天への道は塞がれ私どもの手で地に落ちる事になりますもの」
これでアントワネットが直接手を下さずともマンスール伯爵家が州内に火をつけて回ってくれることだろう。
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